あの夏の夜を忘れたい。けれど忘れたくない。新しい町で暮らすハルに、こともから一通の手紙が届く。

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ほんの少しだけ前を向く

 

夏が終わって、わたしはあの町から引っ越しました。

 

ユイといっしょに歩いた道も、何度も迷った夜の道も、もう遠くなってしまいました。

 

新しい町に来てから、数週間が経ちました。

学校にも、少しずつ慣れてきました。

 

だけど、この町はどこか、あの町に似ています。

道の曲がり方とか、夕方になると急に静かになるところとか。

知らない場所なのに、前にも歩いたことがあるような気がして、少し怖いです。

 

わたしは今も、夜に外へ出ます。

 

その時に使う懐中電灯には、お父さんが紐をつけてくれました。

片手でも使えるように。

首からかけて歩けるように。

 

お父さんも、お母さんも、きっと聞きたいことがあるんだと思います。

 

あの日、何があったのか。

どうして、わたしが左腕をなくしたのか。

どうして、夜のことをあまり話さないのか。

 

でも、お父さんとお母さんは聞きません。

わたしが話すまで、待ってくれているのだと思います。

 

この町は、あの町に比べると、おばけたちは少ないです。

だから、片手しか使えなくても、少しだけ安心できます。

 

もう、夜に歩く必要なんてありません。

 

それなのに、わたしは今も夜を歩いています。

 

理由は、自分でもよくわかりません。

 

ユイを失ったあの夜を、忘れたいからなのか。

それとも、ユイがいたあの夏を、忘れてしまうのが怖いからなのか。

わたしには、まだわかりません。

 

そんなある日、わたし宛てに手紙が届きました。

差出人の名前を見て、少しだけ息が止まりました。

 

こともちゃん。

 

あの町の隣町で出会って、友達になった子です。

別れる時に、手紙を送るね、と約束してくれました。

 

封筒を開けると、中にはこともちゃんらしい、少し丸い字が並んでいました。

 

約束通り、手紙を送ったよ。

 

最初に、そう書いてありました。

 

それから、たぶん手紙を書いた日にあったことが、いくつか書いてありました。

学校であったこと。

帰り道で見つけたもの。

少しだけ怖かったこと。

それから、なんでもないような、でもこともちゃんにとっては大事だったのだと思うこと。

 

わたしは何度も、同じところを読み返しました。

 

手紙の最後には、

 

よかったら手紙を送ってね。

 

そう書いてありました。

 

わたしは、しばらく返事を書けませんでした。

 

書きたいことは、たくさんあるはずでした。

新しい町のこと。

学校のこと。

夜のこと。

あの町を出てからも、まだ忘れられないもののこと。

 

でも、いざ便せんを前にすると、何を書けばいいのかわからなくなりました。

 

こともちゃんの手紙を、机の上に置きます。

そして、その横に白い便せんを並べました。

 

鉛筆を持って、最初の一文字を書こうとして、手が止まります。

 

わたしは、こともちゃんに何を伝えたいんだろう。

 

元気だよ、と書けばいいのか。

大丈夫だよ、と書けばいいのか。

それとも、本当はまだ少し怖い、と書いてもいいのか。

 

窓の外は、もう暗くなり始めていました。

 

わたしは便せんから目を離して、首にかけた懐中電灯に触れました。

 

まだ、返事は書けません。

 

でも、いつか書きたいと思いました。

 

こともちゃんが約束を守ってくれたみたいに。

わたしも、ちゃんと返したいと思いました。




竜胆を添えて

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