上記スレの終わりごろ、導入だけ置いたままになっていた短編です。
Fate/stay night Heaven's Feel 桜ルート後/呪術廻戦 渋谷事変後のクロスオーバーです。
pixiv様、ハーメルン様へ同時投稿しています。
年月は、瞬きほど。あれから何度、春を迎えただろうか。
痛みを抱えて。それでも悲しくはないと。約束が果たされるその日を信じて。また今日も、春を待っている。
すっかりお婆ちゃんになってしまった私のもとへ、通ってくる教え子。
新しい遠坂のかわいい跡継ぎさんは、独学で大した腕前もない私を先生と呼ぶ。
姉さんに似たそんないい子だからこそ、かわいがってしまうのか。
光を撒いた庭。定位置になった揺りかごで、彼女とお喋りをするひとときは私の宝物のひとつだ。
私がお喋りできることなんて、あの懐かしい日々のことくらいしかないのだけれど。その繰り返す物語は、彼女にとってはとても楽しいものらしい。
――罪そのものである私に、宝物を抱くことが許されるのか。
悔恨が脳裏をよぎる。苦しみも、悲しみも、忘れられるはずがないくらい深く深く、いまの私をかたちづくっているはずなのに。
それでも私の心は、自分が正気なのか疑うほど穏やかで。
陽射しは暖かく、時間は緩やかに、時に責め苦のように過ぎていく。
――責め苦のような人生を送っているのは私だけではなく。世界にはたくさんの人が生きていて。
傷ついている人も、たくさんいて。そのすべてを拾いきることはできなくて。だから、少年だったあのころのあのひとは。
「渋谷が壊滅……?」
「そうなの、実は調査に行ってきたんです」
世間で起きてることなど私は何も知らないから。
彼女がこうして世界の日々をときどき教えてくれる。
この跡継ぎさんは、春を待つだけの私と外の世界をつなぐ、とてもすごい魔術師さん。
「またそんな危ないことを……。姉さんは何か言ってなかった?」
「『世界がろくでもないことなんて、もう知り尽くしてるから』とかわかった風なこと言ってた」
残念ながらその点においては私も姉さん派で。この子に何を言えばいいのか迷うところなのが、もどかしいもので。
「正直、行って後悔した。控えめに言って地獄だったんだ」
「――激しい戦闘が。いいえ、戦闘にもならない蹂躙が、あったということ?」
私の言に、跡継ぎさんは目を見張って。
「せんせい、やっぱりすごいね。私が何か言う前から、ぜんぶわかってる」
「そんなことは、ないよ。なんとなく、あなたの顔を見てそう思っただけだもの」
「顔って――」
自分の顔をむにむに両手で挟む跡継ぎさん。
そんな彼女に、尋ねてみる。
「具体的に、その場処は、どんな?」
「……言っちゃなんだけど、すごい静かで穏やかだった。まあコトがすべて終わった後の現場だからね。
たとえば大勢の人が災害救助に懸命に動いてる喧噪とかさ、そういうのがそもそも存在しない、
立ち入り禁止のお知らせだけがおざなりに立てかけられてるだけの戦場跡だった。
ただ、その戦場でね、更地になってる一区画があったんだ」
「更地?」
「建物が倒壊した破壊の爪痕ではなく、完全に建物が――街が消滅したまっさらな平地」
街が消滅。それは。つまり。
「住人も全員、一斉に、消し去られた」
その空間に。もう存在しない街に漂う瘴気は直視に耐えないものだったという。
「削り取られたその場処の端から端まですべてに、魂も怨霊も、どれだけの密度でぎっしり漂ってたんだろうね」
ぎっしり、漂う。ああ、矛盾するような、それは。
理不尽に涙する、無辜の人々の絶望であり。世界中から『償え』と責める私への――
「どんなろくでもないのが暴れ回ったのやら」
肩をすくめる跡継ぎさん。たしかに、どんな人がそれを為したのか。
私はそれに、興味があるのか、私が興味を持っていいのか、わからないけれど。
ただ、ひとつ思うことは。
その地獄を為したひとは、いまきっと――
――泣くことすらできない苦しみを、抱えているのではないだろうか。
おなかがすいたから。てをひろげた。
よるのなかにどろをひろげて。たくさんたべられるようにおおきくおおきく。
たくさんのいのちをひとのみするくろいどろ。
なにもかもを消し去った黒く濁った大地のまんなかで。
――私は花を育てている。
いつものように、授業と言えるのかもわからない、他愛のないお喋りのひとときを終えて。
夕暮れの玄関で跡継ぎさんを送り出す。
「じゃあせんせい、今日もありがとうございました」
「暗くなる前に、ちゃんと帰るのよ」
「せんせいのなかでわたしどんだけ子供なの」
「暗くなったら道が見づらくて危ないでしょう?」
ただそれだけの理由で発した心配は、妙に彼女を驚愕させてしまったらしい。
そんなやりとりに、お互い笑い合いながら別れようとするそのとき。
それはふよふよと。雪のひとひらのようなちいさなかけらが、彼女の身体から浮き、宙を泳ぎ、そして膨らみはじめて。
驚愕は一瞬。跡継ぎさんのまなざしは、才ある戦士のように、するどくその現象を睨みつける。
歪に膨らむ球体は明らかな異形の顔。私たちを優に丸呑みできる、歯と口腔。ほぼ、頭部だけの大きな体躯。
ぎょろりとした眼で人を捉え捕食する、禍々しいかいぶつ。
「呪霊――!」
負の感情から生まれ人々を死へと導く"有形の呪い"。それはがばりとおおきな口を広げて、わたしを。
「く……!」
事態に対応するべく、遠坂の魔術師は掌に破壊の光を。私は黒い泥を模した影の矢を指先に装填し――
――その術が撃たれる前に。どごん、と。宙にある呪霊の身体が強制的に"下方向に跳んだ"。固い地面がひび割れ潰れる振動。
上から降ってきた、黒い服の少年が、その呪霊を蹴りつけ押し潰していた。
ひしゃげた身体から出血を撒き散らす呪霊。地面に降り立った彼は、私たちと、私たちの居る玄関先をちらりと見て。
醜悪な異形をこの場から引き離すように、苦悶に喘ぐ呪霊を拳で一薙ぎ。それだけで、異形の巨体はあっさりと吹き飛んだ。
視界の先で、力尽きた呪霊の身体が消えてゆく。
少年は、何もなくなった空間からしばらく視線を逸らさなかった。戦い慣れている戦士の、残心の所作。
「あー……怪我は、なかったですか」
そうして彼は、私たちに向き直る。眉間と、くちびるの左端に傷を残す、赤毛の少年。
少女と老婆を心配するその表情に嘘はない。そして、今の現象をどう説明したものか困っていることも察せられるあどけなさ。
それに反するように、彼の目つきには未来に希望を映す宝石の輝きはなく。現実を生きる重みに凍りついたハガネのよう。
未だ十代であろうその若さで、既に戦いに慣れているその練度。それはけして幸福であるはずがなく――
「あんたは――」
「貴女はいますぐ帰りなさい?」
彼女が少年を問い詰める前に、私からかぶせた声。
ふだんの私では考えられないであろう、行動を強いる声に教え子は困惑を見せる。
「な。せんせい……!?」
「意地悪で言っているわけではないの。姉さんのところで浄化・消毒。
そのあとは自分の部屋でおとなしく隔離されること。それがあなたの今すぐ取るべき行動ですよ?」
先ほどの呪霊は跡継ぎさんの服か、もしくは身体から浮き出たものだ。
灰燼に帰した街を出入りした、そのときに彼女に"呪いが付着した"。それが先ほどの襲撃の原因だと推察できる。
「助けて頂いて、ありがとうございます。私は間桐桜。どうかお礼を。貴方のお名前を、お教え願えないでしょうか」
「あ、いや、すんません、俺、たまたま通りがかっただけで」
怪物に襲われた。その現象に頓着せず感謝を述べる。そんな老婆の振る舞いに困惑する少年はしどろもどろに。
「呪術の知識はありませんが、私たちもまた別種の、人の理の裏側を知っているものです。
戦うあなたを止めるつもりはありません。けれど、どうかいまだけは家の中へ、私にお礼をさせて頂けないでしょうか。
とてもお疲れのように見えます。こちらで少し、休まれていってください」
「ちょ、頭を上げてください。俺」
遙か年上の老人から頭を下げられることなど慣れていないのか、彼は気の毒なほど、私への対応に困り果て。
「……あんた、今の私たちの話、聞いてたでしょ」
私たちのあいだで、教え子が口を開く。
「私は帰って呪霊の痕跡を洗い流さなきゃいけないの。だからせんせいはこの家で一人なの。
今みたいな危ないことがないように守ってくれる人が居たら助かるんだけど」
「……初対面の俺に言うこと?」
「そりゃただの建前だし、筋道が通ってるかなんて関係ないのよ。
ただ、あんたを詮索しないから休んでいけって言ってるの」
「…………いや、俺、やっぱり」
それでも、少年は見知らぬ私たちに関わることを拒もうしたそのとき。
盛大に、彼のお腹が鳴った。
「え」
夕暮れどき。ちょうど、世間の夕食の時間。若い男の子の、空腹を知らせる正直な音。
少年は照れたように顔をしかめ。教え子は勝ち誇って。私は微笑し。
「寄ってけば? あー私もせんせいのご飯食べたかったなー」
「ぜひ、振る舞わせてください」
「……うっす……」
暗に私のご飯を食べないのは損だよと示す教え子さんの言葉に、少年は頷いたのだった。
「うっま……!」
声は、最初のひとことだけ。その後は、食事に夢中になっている音だけがしばらく続いた。
彼にとってはいまどきめずらしいであろう日本家屋の、畳の上の食卓で。私は彼を眺めながら渋茶をすする。
その味の賞賛に。心の中でだけ、少しだけ、胸を張った。
『……む。洋食の腕は、もうすっかり追い抜かれてしまった気がする』
だって、この味は、私に料理を教えてくれたお師匠さんの、お墨付きなのだから。そこだけは、謙遜をすることが彼に失礼だから。
けれど、こんな気持ちになったのも、いつぶりだろうか。
見知らぬ誰かのために、腕を振る舞ったことも。
――かつて少女だった私と、日向のような明るい匂いの先生と、しあわせの在処を与えてくれた赤毛の少年が囲んだ食卓で。
私の料理を褒めてくれた、あの頃の少年の姿を。
ハガネのように硬質な眼差しで戦う目の前の彼と、どうしても重ねずにはいられなくて。
「ごちそうさまでした……!」
「お粗末様でした。お口に合っていたなら何よりです」
勢いよく深く、おおげさに頭を下げる彼に、お茶をすすめながら苦笑する。
「……戦いの日々のさなかのようですが、ちゃんとしたご飯を食べることができていますか?」
のどかに立ち上る湯気の向こう。私のそんな質問に、彼はすこし迷うようにうつむいて。
「自分で料理できないことはないんすけど、ここのところは全然……。コンビニとか簡単なものばっかで」
だから本当に美味しかったです。食事でこんな思いをしたのもすごい久しぶりな気がします、と彼は言った。
「そうでしたか」
と、私はそれ以上、何も言わなかった。
戦う彼の事情を気遣いたい思いはある。けれど、久しく食事を楽しめていない。その言葉の奥にあるものへこちらから手を伸ばしてしまえば。
きっとこの少年は、食卓に置かれた湯気ごと自分の身を引いてしまうのだろうと思った。
熱いものに触れたとき、人は手を引く。
痛いところに触れられたときも、同じように。
だから私は、急須を傾けるだけにする。
「お茶のおかわりは?」
「あ、いただきます」
差し出された湯呑みに、少し濃くなったお茶を注ぐ。
少年は両手でそれを受け取って、ありがとうございます、と小さく頭を下げた。
そういう仕草だけは、まだ年相応で。きっと、彼を育てた人はとても優しい人だったのだろうと思う。
畳の上に置かれた食器は、きれいに空になっていた。
米粒ひとつ残さない食べ方。早いのに、乱暴ではない食べ方。
お腹がすいていて。けれど誰かの作ったものを、粗末にしない食べ方。
「片付け、やります」
「いいえ。お客さまですから」
「でも、食わせてもらったし」
「それなら、またいつか手伝ってくださいな」
そう言うと、少年はほんの少しだけ目を瞬かせた。
またいつか。
ただの社交辞令として、聞き流してもいい言葉だった。
けれど彼は、そうしなかった。できなかったのかもしれない。
その言葉が置かれた場所を、ひどく眩しいものでも見るように見ていた。
「……俺、たぶん、そういうの」
そこまで言って、言葉が途切れる。
来られない、約束できない、そんな資格がない。
口にされなかったいくつもの言葉が、湯気の中でほどけていく。
私はそれを拾わずに、空になったお皿を重ねた。
「では、今だけ」
「え?」
「今日だけ、お願いします。台所まで運んでいただけますか」
少年は、少しだけ拍子抜けした顔をして。それから、はい、と返事をした。
立ち上がる動きに無駄がない。
食器を持つ手は大きく、けれど力任せではなく。割れものを、きちんと割れものとして扱う手つき。
手伝うことに、慣れている。
畳から板の間へ。板の間から台所へ。
その背中を見ながら、私はゆっくりと後を追う。
若い背中。
まだ伸びるはずの、まだ帰る場所を探していいはずの背中。
その背中に、どれほどのものが縋りついているのだろう。
どれほどの声が。どれほどの重さが。
台所の灯りのもと、古い硝子戸に私たちの姿が映る。
背の高い少年と、腰の曲がった老婆。
親子にも、祖母と孫にも見えない。通り雨が同じ軒下に入り込んだだけの、名前のない取り合わせが映っている。
「ここに置いてください」
「はい」
食器が流しに置かれる。そのまま彼は、袖を捲る。
「では、お願いします」
彼が洗い終わったものを、私が拭いていく。
……こんなふうに、洗い物を誰かとふたりで。そんな光景があったあの頃を思う。
「……せんせいって呼ばれてましたよね」
手を進めながら、ふいに、彼が尋ねる。
「ええ。あの子が、そう呼んでくれるだけですが」
「魔術、でしたっけ」
「はい」
「呪術とは違うんすね」
「違うのでしょうね。けれど、人の目に触れないところで、人を傷つけたり守ったりするという意味では、似ているのかもしれません」
虎杖さんの手が止まる。それでも細い水音だけが、台所に満ちている。
彼はその音を聞いていた。
ひどく静かにうつむきながら。まるで、それが何かを洗い流してくれるのを待っているみたいに。
「……俺、虎杖悠仁っていいます」
唐突な名乗りだった。
それでも、唐突ではないような気がした。
名前を聞かれたから答えたのではない。
この家で食事をしたから。湯呑みを持ったから。食器を洗ったから。
それらの小さなことのあとに、ようやく名を置いてもいいと思ったのだろう。
「虎杖悠仁さん」
声に出して呼ぶと、彼はわずかに肩を揺らした。
「はい」
「すてきな響きですね」
「……そう、すかね」
「ええ」
それ以上、由来は聞かなかった。
名前には、誰かの願いが込められている。
けれどその願いが、持ち主にとっていつも優しいものとは限らないから。
拭き終えた茶碗を伏せる。
かすかに残る乾ききらない小さな水の雫が、灯りを受けて光を返す。
「庭を見ていきませんか」
作業を手伝ってもらったことに感謝しつつ、私がそう言うと、虎杖さんは戸惑ったように外を見た。
もう日は落ちかけていて、庭の輪郭はすこしずつ夜に沈み始めている。
「暗くなる前に帰れって、さっき」
「あの子には言いました。虎杖さんには言っていません」
「それ、いいんすか」
「ええ。あなたは、暗い道に慣れていそうですから」
すこし、踏み込みすぎたかもしれない私の物言い。
けれど虎杖さんは怒らなかった。
ただ、目を伏せて。
「……そうっすね、いつの間にか、慣れ切っていたみたいです」
その声は、ひどく平らだった。いつ、こんな自分になったのか。
泣いているよりもずっと、さびしそうな声。
縁側へ出る。
夕暮れの庭には、まだ春の気配が残っていた。
昼間に受けた光を、土と葉がゆっくり吐き出している。風は冷たくなりきれず、どこかに花の匂いを残していた。
小さな庭。
本当の家主がいない間も、毎年少しずつ手を入れて、少しずつ育ててきた庭。
鉢植えの花々。
地面に根を張ったもの。冬を越えたもの。越えられなかったもの。
名前を忘れてしまった花も、忘れられない花もある。
「すげえ」
虎杖さんが、ぽつりと言った。
「花、いっぱいありますね」
「ええ。ひとりだと、時間だけはありますから」
「ひとりで全部?」
「ええ。ときどき、あの子も手伝ってくれますけれど」
虎杖さんは庭先にしゃがみこみ、咲きかけの花を見ていた。
戦う人のしゃがみ方だった。すぐに立てる姿勢。すぐに走れる重心。
それなのに、その目は花を踏まないように気をつけている。
「これ、何て花ですか」
「虎杖ですよ」
「へ?」
私が答えると、彼は間の抜けた声を出した。
それから、自分を指さして。
「俺?」
「いえ、植物の名前です。漢字も同じだと思います」
「これが、そうなんだ」
「ええ」
驚いた顔が、ほんの少しだけ子供に戻った。
自分の名字が植物であることはもちろん知っていたけれど、実物を見たことなんてなかったのだと。
「虎杖は、痛取。痛みを取る薬にもなったそうですね」
「痛みを」
「ええ。折れた骨や、傷や、そういうものに」
――――彼の痛みは、そんなふうに煎じて飲ませられるものではないのだろう。
土から掘り起こして、洗って、干して、薬にすることなどできない。
虎杖さんも、それをわかっている。しばらく、黙って花を見ていた。
花はまだ、開ききっていなかった。
夜の手前で、息をひそめているみたいに。
「……俺、そろそろ行きます」
唐突な言葉だった。
けれど、顔を見ればわかった。
帰りたいのではない。追い出される前に、自分から出ていこうとしている顔。
「もう少し、休まれてもいいんですよ」
「いや。駄目です」
駄目、という言葉だけが、妙にはっきりしていた。
「あんま長く、人んちにいちゃ駄目なんで」
「追われているから?」
虎杖さんは答えなかった。
その沈黙で、半分は肯定なのだとわかった。
「それとも、また先ほどのようなものが来るから?」
「……それも、あります」
「それも」
問い返すと、彼は唇を引き結んだ。
言いたくないのではなく、言ってはいけないものを口の中に押し込んでいるようだった。
庭の葉が揺れる。
夜に近づいた風が、花の匂いを少しだけ薄めていく。
「ばあちゃん」
彼は、私をそう呼んだ。
先生でも、桜さんでもなく。
あえて遠ざけるような呼び方だった。
「俺のこと、あんまり信用しない方がいい」
「そうですか」
「そうです」
「悪い人なの?」
尋ねると、虎杖さんは困ったように眉を寄せた。
悪い人です、と言えたなら、きっと楽だったのだろう。
でもこの子は、その楽な嘘をつくことすら、自分に許していない。
「わかんないです」
小さな声だった。
「でも、俺がいると、死ぬんです」
誰が、とは言わなかった。
何が、でもなかった。
ただ、死ぬ。
その言葉だけが、庭の土に落ちた。
「俺がいなかったら、死ななかった人がいて。俺が生きてたから、死んだ人がいて。
だから、こういうとこにいちゃ駄目なんだ。なんで俺、飯食って、花見て、普通に喋って」
彼はそこで、自分の手を見た。さっきまで茶碗を持っていた手。食器を運んだ手。
花を折らないように、膝の上で固く握られている手。
「俺は、そういうことを、していい人間じゃない」
私は何も言わなかった。
言っても、どんな言葉も彼に通らず散っていくから。
そんなことはないと言うには、彼の背負っているものを知らなすぎる。
そうですねと言うには、彼の手はあまりに優しすぎる。
だから私は、ただ待った。
虎杖さんはしばらく黙っていた。
けれど沈黙は、彼を守ってはくれなかったらしい。
「俺のせいで、どれだけのひとが」
風が止まったような気がした。
けれど本当は、止まってなどいなかったのだと思う。
庭の葉は揺れていたし、遠くで車の音もしていた。
どこかの家から、夕餉の匂いも流れてきていた。
世界は、誰かの告白ひとつで止まってくれるほど優しくない。
「俺が、殺したわけじゃないって言う人もいる」
虎杖さんの声は震えていなかった。
震えることも許していない声だった。
「でも、俺が殺した」
その結果を譲る気はない。それが彼の意志なのだと言うように。
自分は死ぬべきだ、と。
生きてちゃいけない、と。
あるいは、もっと単純に、許されない、と。
その思いを抱えて、それでも生きていくことが、泣くことすら出来ない哀しみを抱えた、彼に課せられた呪いなのだろう。
私は、庭の土を見ていた。深く濁った、古い土。
何を混ぜても、何を埋めても、春になれば花の芽を押し上げる土。
「そうですか」
私は言った。それだけを言った。
虎杖さんは、こちらを見なかった。
否定されると思っていたのかもしれない。
慰められると思っていたのかもしれない。
責められると思っていたのかもしれない。
私には、どれもできない。
彼を裁けるほど清らかではない。彼に許しを与える、神様でもない。
彼の罪を軽くしてあげられるほど、何も知らないふりもできない。
ただ、私も知っているだけだ。
たくさんころして。それでも、いきている。
そういう同類が、今もこの世にいるということを。
「私も」
言葉は、思っていたよりも簡単に口から落ちた。
「私も、たくさんの人を死なせました」
虎杖さんが、はじめてこちらを見た。
驚き。
疑い。
それから、そんなことを言わせてしまったことへの後悔。
優しい子だと思う。
自分の痛みでいっぱいのはずなのに、他人の傷口を見れば、そこから血が流れていることに気づいてしまう。
「昔のことです。とても、昔のこと」
私は庭先に腰を下ろした。
膝が少し痛んだ。年を取ると、地面に近づくことにも手間がかかる。
「私の場合は、自分の手で、というより。私の中にあったものが。私自身が。
……ううん。そんなふうに言うのは、言い訳ですね」
夜が少しずつ降りてくる。
花の色が、輪郭だけになっていく。
「あなたが渋谷の――――街の人たちをたくさんころしたというのであれば」
渋谷という言葉に、彼は目を見開いて。
「私は――――冬木の街の人たちを、たくさんたべました」
その意味を彼は、きっと理解できないまま、私の言葉を待つ。
何十年も前のことなのに。
言葉にすれば、まだ喉の奥が焼ける。
償え、償え、償えと、いまも世界は私を責め続ける。
けれど涙は出なかった。
もう泣き方も、忘れてしまったのかもしれない。
「……どうやって」
虎杖さんの声が、かすれた。
「どうやって、生きてきたんですか」
どうやって。
そんなもの。
私がいちばん、誰かに聞きたかった。
先生に、姉さんに、あの人に。
どうして私はまだ息をしているのか。
どうしてご飯を作れるのか。
どうして花を育てられるのか。
どうして、春を待っていられるのか。
「わかりません」
正直に言うと、虎杖さんは息を詰めた。
「わからないんです」
私は笑った。
きっと、頼りない笑顔だったと思う。
「ただ、朝が来る。お腹がすく。誰かが訪ねてくる。花に水をやらなくてはいけない。
そういうことを、ひとつずつしていたら、今日まで来てしまいました」
「それだけで」
「ええ。それだけで」
それだけで、人は生きてしまう。生きる資格があるからではなく。許されたからでもなく。死ねなかったから、だけでもなく。
ただ、次の朝が来るから。
――――春が、来るから。
「苦しくなかったんですか」
「苦しいですよ」
私は庭のほうを見たまま答えた。
「いまでも」
虎杖さんは黙った。
「けれど、苦しいことと、生きていることは、どうしてか同じ場所にあるみたいなんです。
それを切り離せたら、どれほど楽だったでしょうね」
夜の底で、花が揺れる。
「あなたが、呪いを抱いて溺死すると決めたなら」
私は、ひとつひとつ、言葉を置く。
「たくさん生きて、たくさん苦しんでください」
ひどいことを言っていると思った。とても残酷なことを。
それでも、その言葉しかなかった。
「その途中で、ご飯を食べてください。眠れるときには眠ってください。花が咲いていたら、綺麗だと思ってください。
思えなくても、見たことだけは覚えていてください」
虎杖さんは、何も言わない。
その顔は、救われた人の顔ではなかった。
あたりまえだ、こんな言葉が何になるのか。彼は少しも楽になっていない。
けれど、どこかで息を止めていたものが、ほんのわずかに、空気を吸ったような気がする。
「……俺、やっぱり行きます」
「はい」
そう言うと思っていた。
だから引き止めなかった。
縁側から立ち上がる彼に、私は台所へ戻る。
まだ温かさの残るご飯を握って、海苔を巻く。ありあわせのおかずを少し詰める。
小さな包みにして差し出すと、虎杖さんは困った顔をした。
「いや、そこまで」
「余りものです」
「でも」
「――――ごはんを、おいしいと思える生き方をしてください」
虎杖さんは、包みを見下ろしていた。
それを受け取ることが、まるで重い約束をすることみたいに。
けれど最後には、両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
玄関まで見送る。
灯りの届くところと、夜の境目に、彼は立っていた。
外へ出れば、また戦いの中へ戻っていく。
彼を見送ったら、私は家の中へ戻っていく。
すれ違う人にできることは。
安らかであれと、祈るだけ。
「虎杖さん」
呼ぶと、彼は振り返った。
「もしも、あなたが早くに死んでしまったら」
言いかけて、少しだけ笑う。
縁起でもないことを言う老婆だと思われるだろうか。
「私が、あなたを覚えています」
彼の目が揺れた。
「逆に、無事に私がこのまま先に逝ったなら、あなたが、私を覚えていてください」
「……覚えてます」
すぐに、彼は言った。
まっすぐな声だった。
そのまっすぐさが、痛ましかった。
「俺、覚えてます。今日のこと」
「ええ」
「ご飯、うまかったことも。花のことも」
「ええ」
「桜さんのことも」
その名前を、彼は丁寧に呼んだ。
間桐でも。先生でも。おばあさんでもなく。
ただ、桜と。
私は胸の奥が少しだけ痛くなって、それでも微笑んだ。
「ありがとう」
虎杖さんは深く頭を下げた。
そうして、夜のほうへ、彼の背中が遠くなっていく。
その背中は、来たときよりも軽くなったわけではない。
背負うものが消えたわけでもない。
これから先、彼が何を失い、何を選び、どんな結末へ歩いていくのか。私はそれを見ることはない。
それでも。私は扉の前で、彼の姿が闇に溶けるまで立っていた。
――――包みを持つ手が、空ではないことだけを見届けて。
――――そうして、春になった。
よく晴れた日の坂を彼は歩いている。
空は高く、薄い雲が少しだけ流れていた。道の両側には桜が咲いていて、風が吹くたびに花びらが一枚、また一枚と落ちてくる。
片手には、コンビニで買った鮭のおにぎり。
もう片方の腕には、花屋の紙袋をひじに下げている。
花は袋の中にあった。外からは見えない。けれど歩くたびに、包み紙がかさりとかすかに鳴った。
登りながら、包装を剥がす。昔よりずいぶん慣れた手つきだった。
何十年も同じようなものを食べてきたのだから、慣れない方がおかしい。棚に並ぶ新商品も、季節限定の味も、知らないうちに何度も入れ替わっていた。
けれど、海苔の匂いだけはあまり変わらない。
ひとくち食べる。
「……うま」
声に出してから、彼は足を止めなかった。
ただ少しだけ、歩く速さがゆるんだ。
畳の匂い。古い硝子戸に映った、背の高い少年と腰の曲がった老婆。夕暮れの庭。
夜の手前で息をひそめていた花。
その花の名は、虎杖ですよと笑った声。
――――ごはんを、おいしいと思える生き方をしてください。
そんなことを言った人の声を、覚えている。
あのときの自分は、たぶん、何もわかっていなかった。
覚えているということが、こんなに長く続くものだなんて。
先に逝った人を覚えているということが、こんなにも静かな重さになるなんて。
坂の上から、花びらが降ってくる。
おにぎりを持つ手にも、紙袋を下げた腕にも、肩にも髪にも、春が軽く触れていく。
彼は残りを食べ終えると、空になった包みを小さく畳んで、ポケットにしまった。
霊園は、街の音から少しだけ遠かった。
石畳の道にも桜の花びらが散っている。
踏まないように歩こうとして、すぐに無理だとわかった。どこに足を置いても、春の名残に触れてしまう。
どの墓の前で足を止めたのか。誰の名が刻まれていたのか。
それを知る者は、もうほとんどいない。
彼は紙袋から花を取り出した。
特別な花ではない。花屋の店先で、なんとなく目についたものだった。
白くて、小さくて、春の光を受けると少しだけ透けるような花。
名前は知らない。知らないままでいいと思った。
墓前に花を置く。手を合わせる。目を閉じる。
祈りの言葉は、出てこなかった。
謝罪も、報告も、感謝も、どれも少し違う気がした。
ただ、ひとつだけ。
「今日もうまかったです、いまの企業努力すごいっすよ」
そんな、意味のないようなことを言った。
風がそよぐ。桜の枝が揺れる。
墓地の隅で、名前も知らない草が擦れあっている。
その中に、虎杖に似た名の植物があるのかどうかは、彼には今でもわからない。
それでも、春になれば何かが芽を出すのだろう。
悪い土でも。古い土でも。
何を混ぜても、何を埋めても。
彼はしばらくそこに立っていた。
背負うものが軽くなったわけではない。消えた人たちが戻るわけでもない。
これから先も、きっと何度だって思い出す。
思い出せなくなる日を、たぶん少し怖がりながら。
それでも。
ご飯を食べて。花を見て。綺麗だと思えなくても、見たことだけは覚えていて。
そうやって今日まで来てしまった。
「……じゃあ、また」
誰にともなく、彼は言った。
晴れた空の下で、桜が散っている。
花びらは音もなく落ちて、墓石の上に、置かれた花の上に、彼の肩の上に積もっていく。
彼はもう一度だけ手を合わせて。
空になった紙袋をひじに下げたまま、ゆっくりと坂を下りていく。
人より長い時間の中で、ご飯をおいしいと思える生き方を、今日も歩んでいく。
END.