星歴八七八年 一〇月
キアステンの姿は遠い道洋の国、秋津洲にあった。
世界の果てとも称されるこの国に足を運んだのは、他でもなく彼女が仰ぎ見る国王からの勅命を賜った為である。
「…」
その日、キアステンの姿は首都東亰を離れて千葉は桃子にあった。
この街は古くより醤油産業が盛んな大地であるからだ。海沿いの土地で土に塩分が溜まりやすく、土壌が悪くとも育つ大豆をよく生産したこの地では、海から採取できた海塩を用いて醤油を生産していた。
ここに訪れたのは、この国の食文化をオルクセンに持ち込むためにお勧めされた場所であったためだ。
「ここでは大豆を茹でて加工をしています」
少し緊張気味に説明をするのは現地のコボルト族柴犬種。秋津洲では珍しくないコボルト族であり、他にも幾つかの種類も居ると言う。彼はオルクセンからの外客に少しばかり緊張をしていた。
「どうして茹でるのですか?」
「発酵を促す為です。基本的に醤油は大豆・小麦・塩を原料に作られますので、時期や大豆の具合によっても手を加えます」
オルクセンの商人で、秋津洲の文化を書き留めに来たという体で醤油工場を訪れており、ここまでは人力車で数日をかけて送ってもらった。
「これが麹という物です。これを使って発酵を行います」
そして製麹作業を観察させてもらいながらキアステンは頷く。
醤油の製造工場はやはり大きく、巨大な木製の樽がいくつも倉庫に並んでいた。
「今は出麹を行い、麹と塩水を大豆と混ぜています」
そこで説明を受けると、樽に大豆や塩水、麹を大量に流し込んでいた。
ここで一年から二年ほど発酵を行い、時折攪拌を行なっていくと言う。
この国には四季があり、それぞれで違う気温や湿度となるので、微妙な調整が必要になるという。
「この麹は、幾つか分けてもらえますか?」
「良いですよ」
一通りの視察を終えたキアステンは、そこで工場長にいくばくかの謝礼を渡してその金額を前に目を丸くした後に気を良くして木枠に入った麹を丸ごと渡してくれた。流石に圓の破壊力は凄まじかった。まだここら辺は東亰に近いこともあり、秋津洲圓は十分に通用していた。清潔な布に包んで渡してくれると、キアステンはありがたく受け取ってまた来た時はよろしく言って去って行く。馬は借りた物で、この国の馬に跨った。
この馬は土着の馬で、オリエンスとは違って体格が小さい事から視線が低くなって少し違和感を覚えてしまった。
オルクセンの在外公館があるのは東亰の宮城近くの用地。
古くよりオルクセン王国はグスタフの意向もあり、彼の国とは開国初期より交流があった。今では秋尾修好通商条約を締結し、早々にオルクセンは対ロヴァルナの拠点としてこの国を見ていた。
オルクセンと同じく魔種族が暮らす国であり、海でロヴァルナと国境を接しているこの国は、仮想敵国にロヴァルナを抱えるオルクセンとしても東に圧力を与えてくれる国家として期待をしており、一部では積極的な投資を行っていた。
かくいうキアステンもこの国に期待をしており、ベレリアント半島の整理が片付いたら国外に投資を行うようにすでに指示はしていた。
すでに『怪商』アダウィアル・レマーリアンとの運輸業界の競争の火蓋は切って落とされており、ティリオンを中心に南部と北部で辻馬車や運送業者で勢力拡大合戦を行なっていた。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです。ベレリアント以来ですな」
その大使館の中でキアステンはオルクセンの軍人に挨拶をする。
彼の名はクレメンス・ビットブルク。ベレリアント戦争後にこの秋津洲に赴任した少佐である。
現在採用されているグロワール式の軍制をオルクセン式に切り替えるための指導のためにこの国に訪れており、キアステンとはベレリアント半島戦役でパルチザンとして情報交換のために接触をした過去があった。
「お元気そうで何よりです」
「いやぁ、私も苦労しておりますよ」
親しくビットブルクと話すと、二人はそこで先ほど桃子から持ち帰った麹を取り出す。
「それですか」
「ええ、できればアルミニウム缶に入れて、冷暗室に保管して運びたいのですが…」
醤油の製造工場で手に入れた麹をすぐに本国に送るために話すと、彼は事前に電信で聞いていたので頷いて了承をする。
「分かりました。発酵食品であるとお聞きしておりますので、清潔なものをお持ちしますね」
「よろしくお願いします」
誰からも敬愛されるグスタフが楽しみにしている品であることからビットブルクは用意した刻印魔法入りのアルミニウムの缶を用意して中に彼女が持ってきた麹を入れた。
「(本当に仲が良いんだな)」
そしてその様子や彼がティリオンで何度もグスタフが彼女のことを呼んでいたことは本当であったのだと理解する。
彼に妾を作るのかと話は一度も聞いていない。なにせかの国王陛下はディネルース王妃を溺愛されていることは有名であるし、一途であることもまた常識であった。
「これをグスタフ国王陛下にお渡し願います」
「分かりました。ちょうどファーレンス商会の船が出ますので、最速で本国にお届けいたしますよ」
「よろしくお願いします」
キアステンはビットブルクに言うと、彼女はそこで持ってきた醤油製造の命綱となる麹や仕入れた醤油製造に必要な工程を記した報告書を渡す。事前にタイプライターを借りて書いた報告書であった。
「これからはどうされるので?」
「勅命に従って、この国の食文化を学んでいくことにします」
「食文化ですか…」
ビットブルクはそこでこの国に赴任して以来提供された洋食を思い出す。
この国は貧乏であると言うのは見ての通りである、オルクセンとは比べものにならなかった。
グスタフがこの秋津洲がお気に入りであることはよく知っており、かく言う彼もグスタフが乗り気であったことからこの地に赴任していた。
「ええ、この国でできた友人にお願いして、色々と農耕を見学させてもらう予定です」
「そうですか…ふむ」
彼女の話を聞き、ビットブルクはこれからおそらく国内を回るであろう彼女に少しだけ興味が湧いた。
「どのくらいの期間を滞在予定ですか?」
「とりあえず五年ほどは」
「なるほど…」
グスタフから彼女に関する話は聞いており、実際戦争中も情報共有だけであったが、彼女とも話をしたことがあった彼は彼女の腕前を高く評価していた。
「ここで仕入れた物もオルクセンで販売を考えようかと考えているのです」
「なるほど。それは良いですな」
実際、彼女の手によって秋津洲からオルクセンに送られた物品の中には、後にオルクセンの文化を変えることとなる事業も誕生することとなる。
ビットブルクはベレリアント半島統治の話は詳しくは聞かされていないが、順調に再軍備の準備も始まっていることも耳にしていた。
戦時中からステン商会はオルクセンに協力的な企業であり、戦後は彼女達の事業拡大も占領軍は目を瞑ることが多かった。すでに半島の林業に関してはステン商会の独占状態であった。
「きっと国王陛下もお気に召されるでしょう」
「そうなられることを願っておりますわ」
キアステンはそう言うと帽子を被り直して大使館を後にした。そしてビットブルクはキアステンから渡された麹を、丁寧に舘浜に停泊中のオルクセン船籍の貨客船に乗せると、すぐに醤油の製法と共にオルクセンの国王官邸まで直送された。
そして大使館を後にして石造の堅牢な施設を後にすると、彼女はそこで次に馬に乗って東亰の街を歩く。
「…」
周りでは開国後にまだまだ発展途上の様子を見せる秋津洲の景色があり、人々は新しい時代を前に興奮に近い何かを感じていた。
まだこの国は鉄道が新橋・舘浜間を開通を迎えたばかりであり、キャメロットの技師が建設指導を行なったという。
この鉄道の大幅な利益を見て全国で敷設が始まっており、この前は京阪神の方面でも鉄道は建設されていた。
基本的に鉄道国債は儲かる。エルフィンド鉄道でもそれは証明されており、特に運輸企業であるステン商会はそのことを重々承知しており、戦時国債の残余で投入されるエルフィンド内の鉄道路線への投資の恩恵で会社はさらに拡大を見せていた。ベレリアント半島南部屈指の大企業であるため、銀行も簡単に融資をしてくれた。
そんな中、キアステンは街中を走るハイカラな乗り物に目が行った。
「駅まで」
「分かりました」
そこでは一人の女性が一人ほどが乗るのがやっとな大きさの座席に座り、二つの車輪が直接繋げられている。
「人力車だ…」
それは少し前にこの国で始まった旅客文化である。車夫と呼ばれる人物が牽引を行って乗客を目的地まで送り届けるサーヴィスで、最近はこの乗り物が流行りであった。
「…」
その人力車を見てキアステンは興味が沸き、乗っていた馬を返した後に態々人力車を探して乗せてもらう。
「えっと…お客さん、どこまで?」
乗客が外国人であることに少し戸惑いを見せていたので、少し面白くなってキアステンはあえて秋津洲語で話す。
「城の周りを一周してもらえませんか?」
「あっ、はい!分かりやした!」
いきなり目の前のコテコテの外国人が母国語を話したものだから、とても驚いた様子で頷いて彼女を人力車に乗せた。
「お客さん。随分と綺麗に話しますな。ここにきて長いんですか?」
「いえ、私この国に興味があったんです」
「へぇ、珍しい外人さんもいたもんだ」
人力車に乗り、言われた通りに城の周りを一周する車夫はキアステンに話しかける。
「この国はいい国です。財布を落としても届いているって言うのは本当なんですね」
「はははっ、そいつあ運が良いんだな」
車夫はそう言い、キアステンに話す。すると反対で青白い肌を持った鬼族青鬼種の魔種族の牡が人力車を引っ張っていたのを見た。
「あれは?」
「ん?ああ八津ですな。青鬼だから早いことで有名なんですぜ」
見るからに筋骨隆々な肉体を持っている鬼族。星欧ではオーガ族とも言われているが、最新の魔種族研究の分類で完全にオーガと鬼は分けられた所属として分類されていた。
「妖怪と人間が一緒くたになっているなんて信じられませんわ」
「お?お客さんの故郷じゃあ珍しいのかい?」
「ええ、こんな光景は初めて見ましたわ」
キアステンは車夫にそう答えて宮城の堀を見た。