星暦八八八年一〇月。
秋津洲から帰国して三年が経った。
道洋の国から久方ぶりの帰国を果たした彼女は新しい憲法を迎え入れ、連邦制へと国体を変え、永世中立化を果たしてすぐのオルクセンの宮殿にて、秋津洲より仕入れた調味料の試作のためにこの場所に泊まり込んでいた。
昨年にシルヴァン運河が完成し、それを気にベレリアント半島南部で彼女が思い描くホテルグループの第一弾の完成を目前に控えており、完成の暁には連邦制に移行したことで仕事量が激減したグスタフ達も招致される予定であった。
「ほぉ…」
それを見て簡単したようにキアステンは見ていた。
「どうだ、素晴らしいとは思わんか?」
隣でグスタフが嬉しそうに聞いてきた。彼はそこで目の前に運ばれてきたものを見て嬉しそうにしていた。
宮殿の一角で秋津洲の調味料の製作が成功して喜び合った直後のことである。
「アスカニアで作られたんだ。売り込みに来たから試しに買ったんだよ」
「これ、君が乗ったら壊れやしないかね?」
キアステンは宮殿の庭で整備が行われているそれを見て顔を引き攣らせていた。
ーーベンツ・パテント・モトールヴァーゲン。
国境を接した隣国、アスカニアの技術者のカール・ベンツが発明した世界初の実用的なガソリンエンジンで動く自動車である。ぱっと見、三輪車に動力をつけた奇怪な見た目をしており、乗り心地も良いかと聞かれると疑問ではある。
「でもこれを買ったのね」
「ああ。何は国内で自動車を量産したいからな」
そこでディネルースが少し緊張気味にそれに乗って、技官たちが説明書を使って動かせられるように準備をしていた。
「準備はどうですか?」
「ああ、行けると思う」
人間族用のものをそのまま輸入したため、オーク族の中でもさらに体格の大きいグスタフが乗り込むとそれだけでディネルースは乗れなくなってしまった。
すでに市井ではグスタフが奨励をしたことで蒸気自動車が多く活躍していた。そんな中でガソリンエンジンは育つのか?と思ったが、彼はそこで面白い事を提案してきた。
「ガソリン車と蒸気自動車を使ったレースねぇ…」
「ああ、これをやったらガソリン車の優位性を知らしめることができるんじゃ無いかと思っていてね」
「それ、史実だとフランスがやってたやつじゃなかった?」
「先取ってしまおうと思ってね」
彼はそう話すと、オルクセンの競馬場を用いた自動車レースを提案していた。
そして後年、グロワールに遅れること一年。星暦八九五年にオルクセンの新しく作られることで廃止される競馬場で本格的な賞金も出されるレース、オルクセンレースが行われた。
その際、蒸気自動車やガソリン車が参加し、ステークス方式で競争が行われて、ルールが厳格・公正であったことから好評となり、後に四大自動車レースの一つに数えられることとなる。
「おぉ…!」
そしてエンジンが掛かり、ゆっくりと前進をし始めたことで乗っていたディネルースは驚いた様子を見せた。
「これはすごい」
「問題なく動いたようだ」
「まあ、そうでしょうね」
キアステンはそこでその自動車を見てふと思い出す話がある。
この車は発明者の妻が、夫がいない間に息子たちを連れて妻が勝手に車に乗って彼女の実家まで往復一九四キロメートルを走ったというちょっとぶっ飛んだ話がある。
燃料となるガソリンはシミ抜き用で少量が薬局が置いてあったため、その妻はそれを買い漁って燃料とした。これが世界初の長距離自動車旅行である。
ちなみにこの時に彼女が使った薬局、星暦一〇二〇年に入っても現存している。
そしてガソリン車に乗って楽しんでいるディネルースにキアステンも後で乗りたいな〜、なんて雰囲気を出していたらグスタフは笑って『私が先に乗らせてもらうよ』と言ってグスタフは庭園をゆっくりと一周して戻ってきたディネルースを見る。
「凄いなこれは」
「乗ってもいいかい?」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
そこでディネルースは車を降りてグスタフに譲ると、そこで彼が乗ってズッシリと傾き、車からギシギシと音が鳴って、エンジンも少しばかり踏ん張っているような様子で自動車は他の技官たちの視線を集めながら彼が庭を一周する様を見ていた。
「面白いな。これは」
「ええ、まさか買うとは思っていませんでしたが…」
ディネルースにキアステンは頷くと、その自動車を見る。王室費用を用いて購入した自動車は大変好評であった。
そしてグスタタフが庭を一周して、今度はキアステンが乗り込んで操縦用のレバーを握る。
「おぉ〜!」
キアステンはそこで右手で操舵、左手でブレーキを持ってエンジンの軽い音を全開にして走らせる。
「早い早〜い!」
そこで大興奮で庭を時速一六キロほどで走る。見ていた技官たちが速度を出す彼女に思わず驚いた様子で見てしまう。
「ちょっと!壊れますって!」
「おお怖」
「それ高いんですよ!?」
顔を青ざめさせる技官達にキアステンは慣れた様子で操舵を巧みにこなすと、庭の整備されていない道も走って二人の目の前に停車した。
「面白〜い」
満足げな彼女に、グスタフ達は少し顔を引き攣らせてキアステンを見た。
「ヒヤヒヤさせるな」
「あまり技官達を虐めないで欲しいな」
軽く怒られてしまい、年上である二人を前に彼女は少し子供っぽく戯けて誤魔化そうとした。
「そろそろ合衆国に行くんだろう?」
その後、完成したオルクセン産の醤油や味噌を確認しながらグスタフが聞くと、彼女は頷いた。
「ええ、そろそろ自動車王が生まれると思ってね。それに、すでにあの国には色々と出資しているからご挨拶周りに行く予定よ」
「…そうか」
その返事に彼はゆっくりと頷いた。相変わらず西に東にお忙しい白エルフだ。ロザリンド会戦以降に星欧中を巡り歩き続けだだけの事はある。
すでにベレリアント半島でも優れた投資家として著名であった彼女は、併合後のオルクセンでも指折りの富豪であった。
彼女が創設をしたステン商会。表向きの商会長はフレン・クレブスだが、お目付役として彼女がまだ会社に在籍していることは戦争中の調査で分かっていた。
船舶・鉄道・馬車。現在この世に有しているすべての公共交通機関を手中に収めているステン商会は、総合的な物資輸送企業へと急成長を遂げていた。
ベレリアント半島での輸送業務の規模拡大をレマーリアンと鎬を削って最終的にレマーリアンが輸送部門からの撤退による勝利をしたのち、既に人力車業務で物流網の下地を整えていたオルクセンや海外にその手を伸ばしていた。
南部で商会が買収した製紙企業の『ベレリア製紙』は南部の潤沢な林業やシルヴァン川の豊富な水資源を生かし、さらに自社路線による優先的な材木輸送によりとても安価で大量に紙を量産していた。この時期、ようやくシルヴァン川運河が完成したことで、それまでずっと徴用されていたシルヴァン川鉄道路線が返還されたのだ。おかげでサプライチェーンは盤石なものとなった。
既に林業を半島全域でほぼ独占状態に持ち込んでいたステン商会は他社の力を借りる必要もなく、自分の持つ輸送方法で顧客に提供可能なサプライチェーンを構築し、オルクセン全土に安くて高品質な紙を届けていた。
元々、エルフィンドという国は文化を愛す種族であるために本の需要が高く、昔から製紙産業は発展していた。戦前はエルフィンドの輸出品目にも入っていたほどであった。これによって、もはや市場破壊とも言えるほどベレリア製紙の紙は国中で売れたのだ。
意外なことにオルクセンにはこの時期にはまだ多数の紙の規格があり、この統一はされていなかた。そのためこの時のベレリア製紙の寸法、1:√2の紙はオルクセンの紙の標準規格となった。標準規格となってしまうほどこの紙は爆発的に売れ、元々産業革命で自国に植林を行わなければならないほど材木が不足気味であったオルクセンが初めて旧エルフィンドの産業に負けた瞬間であった。
そしてそんな化け物のような企業を作った彼女。ステン商会は当然、法人化されていたとはいえ莫大な金額のラングを抱えた大企業に成長を遂げており、もはやティリオンの大企業すらも超えて半島では輸送分野の頂点に立とうとしていた。問題はファーレンス商会による船舶保険に関する厳しい査定であったが、これも南部の企業であることが災いをしていたのか、案外あっきりと審査を通過できた。
その会社は『ベレリア水運』と命名され、以前に傘下に収めた船舶事業は保有していた船舶を売却し、他事業で挙げていた利益を投じて世界初の本格的な石油タンカーを発注していた。
既にセンチュリースター合衆国やロヴァルナの石油事業会社などに投資を行っていたステン商会は、このタンカーを使って北星洋航路を運行する。既にキャメロットやオルクセン、グロワールなどの同業他社でひしめき合っている中での参入は厳しい。であるなら我々は
そうしてオルクセン政府の補助金の支援も受けて、エルンテモント号を参考に設計を行なった新たなタンカーを作り上げた。この船は完全に貨物船として設計をされ、客を乗せない極端な設計。それを見ていた者達を怪訝に思わせた。
そして彼女は国が別れてしまったままのセンチュリースター合衆国の企業に投資を行っていた。西部開拓が思うように進まず、新天地に来たというのにセンチュリースターから帰国してしまう者達もいる中で、彼女は合衆国の企業に投資をし続けていたことは異質でもあった。
「既に石油事業には投資を行った。おかげで
「恐ろしいな。しかし彼は既に石油事業で富豪なのではないのか?」
「なーんか国が真っ二つに分かれたままで終わったせいで色々と混乱があったから少し遅いみたいよ?」
彼女はそう言い、そこでも石油事業で莫大な富をもたらした事をグスタフは知る。
なんと言うか、時々彼女は一体どこを目指しているんだろうかと思ってしまう。科学発展著しい今日において、彼女は株の売買で莫大な利益をあげ、その金額はもはや無視できない領域にまでなろうとしている。特に戦後からの勢いは凄まじかった。
旧エルフィンド地域の白エルフ族の中では彼女の今までの功績が災いをして、それほど悪く見られていないことも彼女がここまで投資家として著名になった理由の一つだろう。
「…君はもはや世界経済を動かす経済界のドンだな」
「あら、失礼しちゃうわね」
ふんすと言う擬音でも聞こえてきそうな態度の彼女はグスタフを不満げに見ていた。