五感を捨てて世界を救う。~色彩も、味も、温もりも。全部キミの明日を綴る火種にした~ 作:ねむ。
――くらい。なにも、ない。
光の届かない水の中を泳ぐような。
狭い繭の中で身動きが取れないような。
そんな、得体の知れない恐怖が、僕を包んでいる。
世界に色彩がないことには慣れた。
湯気の立つ料理の味がしないことにも、慣れた。
触れても分からないのも、視ればわかったから。
それも――慣れたと思っていた。
でもこれは。
世界の果て、『二つ月の神殿』。
唯一、異界に繋がる道が、顕れる場所。
そこを呑み込もうとした、銘剥という泥を止めてから。
この、なにも視えない、代償は。
――僕は、今。……どうなっているんだろう。
無様に倒れず、立っていられているのか。
それとも、どこかもしれない穴に、落ち続けているのか。
『視る』ことすら出来なくなった僕には。
なにも――わからない。
途端、低く重い音が響いた。
――友よ……まだ終わるときじゃない。
ハティが――僕の唯一無二の半身。
あの月明かり照らす森で、生涯の誓いを結んだ彼が。
言葉はない。
けれど、その想いが、意思が、直接届いた。
――ごめん。でも、ありがとう。
心の中でだけ、返事をする。
ハティには双糸の糸で、僕の感情がそのまま伝わってしまったのだろう。
こうして僕が壊れそうな時、そっと支えてくれる。
満足そうに、それでもどこか不満そうな響きの音が、僕の中に響いた。
これは、僕とハティの二人の中でだけ。
きっと、僕の傍に居てくれている、二人の仲間に。
いや、彼女の涙の音を――これ以上、増やさないために。
知られたくない。
不意に。
暗闇から綺麗な、でも震える音が届いた。
「……レイド、様。だ、いじょ……っ。大丈夫、です。私が手を、引いてますから。ゆっくり、ゆっくり、参りましょう」
そんな、彼女の必死な声と、微かに聞こえる石畳を歩く音。
その音で、僕はまだ自分が――器が壊れていないことを知る。
少し、ほんの少しだけ、安心する。
でも。
彼女が引いているという手。
温もりを感じることの出来ない、その手。
彼女は、どんな形で引いてくれているのだろうか。
前を行って、歳の離れた子供を引っ張っている感じなのか。
それとも。
隣に立って、ゆっくりと歩く恋人の感じなのか。
体温も、繋がっている形も、感覚さえも。
なにもわからない、視えない僕には。
想像することしか、出来ない。
記憶の中、まだ世界が色鮮やかだった、あの頃。
リュミエールの村、陽だまりの村。
穏やかな風が吹き抜け、温かな光が村人を包む村。
その中にいる、花が咲いたように笑う。
眩しいくらいの、フィオナの表情。
僕は、それがなによりも好きだから。
彼女を――泣いているフィオナを、安心させたい。
これから、僕はどうなってしまうのかは、わからないけど。
フィオナには、笑っていて欲しい。
だから、必死に。
記憶の中にある、僕の声を、引っ張り出す。
「はは。ありがとう、フィオナ。でも、キミと手を繋げるのは嬉しいけど、サイラスさんに見られるのは少し、恥ずかしいな」
やっぱり、僕は最低だ。
こんな嘘しか、吐けない。
ちゃんと、笑えていただろうか。
引き攣った、醜い顔になっていないだろうか。
耳に届いた自分の声は、穏やかであったはずだから。
それを、信じるしかない。
「……私のことは気にするな。貴殿らを見守り、護ることが、私の幸せだ」
ふと、暗闇からまたひとつ音が、届いた。
サイラスだ。
重厚な金属で出来た鎧の軋れる音が、彼も変わらずそこに居ることを、示していた。
僕たちの背中を護ってくれる、静かなる鋼。
生物の成れ果てである、銘獣に襲われた時。
失っていくものに、押しつぶされかけた時。
彼に、何度助けられたことか。
「ふふふ、そんなサイラスさんが居てくれたから、僕たちもここにたどり着けたんだろうね」
「……ぅぅッ」
フィオナの鼻を啜る音が、聞こえた。
瞬時に失敗してしまったのかと思った。
「も、もう、レイドさまは……本当にッ!」
届いたフィオナの音は、震えていたけれど。
「……私たちは、長いこと一緒に居るんですから。これ、これくらい、良いじゃないッ」
明るい声。
でも、無理をしている時の、声。
フィオナに無理をさせるのは本心ではないけれど。
彼女はきっと、僕を安心させようと、無理をしてくれている。
それが悲しくて、それよりも嬉しくて。
どうして僕は。
こんな空っぽで、なにもなくなってしまったのか。
わかってる。
わかってはいるんだ。
これは、僕が自分で選んだ結果だ。
泥に呑まれた故郷で垣間見た、英雄と呼ばれた者たちの嘘。
各地で知った、救世主と呼ばれた者たちの記憶。
最果ての書庫で視た、収奪者たちの、真実。
誰かを犠牲にして、延命を続けた世界への、僕なりの答えなんだ。
英雄なんて、呼ばないでほしい。
救世主なんて、僕には似合わない。
収奪者なんて、死んでもごめんだ。
誰かを犠牲にするんじゃない。
延命じゃない、新しい『命』を。
擦り切れた世界の名前を、僕が、書き換える。
でも。
僕はまだ、消えたくない。
フィオナの隣に、いたいんだ。
――……怖い。
このまま、フィオナを残して逝くかもしれないのが。
本当は、今すぐにでも叫びだしたい。
全部投げ出して、残された時間を、フィオナと、ハティと、サイラスさんと。
みんなと一緒に、幸せな陽だまりの中で、過ごしたい。
この、自分の輪郭が解け、泥になって消えていくのを待つだけの、救いのない時間なんて、ほしくなかった。
僕はただ。
ただ、フィオナの生きていく明日が。
彼女が笑う明日が、ほしいだけなんだ。
それが手に入るなら――。
世界の名前を、自分のインクで書き換えると決めた。
だから、この道が続く先に。
きっと、彼女が笑ってくれている未来が待っていることを、祈っている。
「そうだ。ねぇ、フィオナ。ちょっと前髪で見にくいんだけど、ここはすごく、きれいな場所だね」
「……ッ!」
またひとつ、嘘を吐いた。
そんな景色が広がっているわけがない。
だって、酷い、本当に酷い匂いがするから。
鼻を突く、錆びついた鉄の臭気。
その奥に漂う。
雨に濡れた、古い墓所の土を掘り返したかのような、冷え切った湿り気。
神殿から繋がった道。
最果ての書庫で知った、異界『言の葉の幽明』。
ここは、僕たちの居た、美しい世界じゃない。
命の循環から切り離された場所であることを。
僕の闇を越えて、その匂いが、執拗に語りかけてくる。
そんな、醜悪な、場所なんだ。
「キミと一緒に見た、あのリュミエールの夜明けに似た景色が、ここにもあるなんてね」
「……ぅっ。ほ、本当にッ、本当にその通り、ですね。私も、こんなに美しい景色だとは、思いませんでした」
フィオナが鼻をすする音と共に。
どこか遠くで、名前を失った残骸が地面を叩く、悍ましい泥の音が響いている。
世界は、僕たちのいる場所は、残酷で醜悪な音色で、美しい場所ではないことを証明している。
だが、彼女は僕の嘘を否定しない。
まるでそれが真実であるかのように、肯定してくれる。
僕は、その優しさを、抱きしめる。
世界なんてどうなったっていい。
僕はもう、失くしてしまったけれど。
いつか、フィオナには美しい景色を。
本当の世界の夜明けを、見てほしいから。
彼女が生きていく明日の中に。
ほんの少しだけ、僕の命の欠片が、一筋の光として残ってくれれば。
それだけで、僕は満足だ。
不意に。
どこからか、湿った。
崩れた肉が蠢くような音が、鼓膜にへばりついた。
じゅるり、と。
泥に呑まれた、かつての生物。
ただ生物を襲い、自身が失った意志を求めて彷徨う、怪物の群れ。
銘獣が、僕たちの『生きたい』という意志を求めて、襲い来る。
それに呼応するように、鎧の音が、鋭く、重く響いた。
重厚な鋼が風を切る、低く鋭い、唸り。
サイラスが、戦斧を振るう音だ。
「……やはり、来たか」
岩が擦れるような。
冷徹で、静かな囁き。
けれど。
その奥には、滾るような熱い意志が宿っていた。
「留め糸の乙女よ、先へ行け」
「サイラスさん……ッ!?あの数に、おひとりでは……!」
フィオナの、悲痛な声と。
徐々に近づく、無数の這いずる、泥の音。
それを掻き消すように。
「……なに。これが終わればまた、火を囲むのだ」
近くで、どこか不器用な、それでも温かい、声が。
「おいそれと、膝はつかんさ」
古い絹糸を解きほぐすような、細く優しい音が届いた。
「レイド。貴殿の選択は、いまだ十八の若者が背負うには、余りあるものだ」
それと、雪の夜の残り火に似た、掠れた囁きが聞こえる。
「私には、貴殿のような選択は出来ない。だが、その道は、我が鋼で整えて魅せよう。……さあ、行きなさい」
「……サイラス、さん」
囁きが、鎧の音が、離れていく。
代わりに、戦斧が。
水に濡れて重たくなった羊皮紙を、力任せに引き裂くような、湿って鈍い音が。
時折、鉄床を岩石で粉砕しようとする音と共に、響き続ける。
暗闇の隣から、息を呑む音と、嗚咽の音が、届く。
鋼が、遠ざかっていく。
僕の背中を護り続けてくれた、最強の『盾』が。
失われていく。
僕は、暗闇の中で、押しつぶされそうになる。
――止まるな、レイド。
だけど、ハティの意志の響きが、咆哮が、僕の中で直接はじけた。
そうだ。その通りだ。
僕は、こんなところで、止まってはいけない。
今も、僕たちの鋼が、護ってくれているのだから。
僕の身体を構成する意志の糸が、完全に溶け落ちる前に。
フィオナが、明日も笑っていられるように。
この世界の明日を。
すり減った心臓の傷を、僕の全部で、埋め尽くさなければならない。
「……行きましょう、レイド様。前へ、前へ……ッ!」
涙を堪えきれなくなった彼女の声が、震える糸のように細く。
けれど。
決して途切れることなく。
僕を、未知の終点へと、導いてくれていた。
★★★
いったい、どれほどの距離を、僕は彷徨ったのだろう。
鼻を突く、錆びた鉄の臭気は。
いつの間にか、乾いた石灰のような。
無機質な、どこか澄んだ香りに変わっていた。
不意に、石畳を歩いていた音が、止まった。
僕が頼りにしていた音のひとつが途絶え。
彼女の激しく、震える呼吸の音だけが、僕の暗闇の中に響いていた。
「……着きました、レイド様。ここが、世界の――」
「……うん、ありがとう」
その声は。
今にも千切れそうなほど細く、震えていた。
世界の心臓。
万物の名前が繋がる、原初の場所。
僕は。
記憶にある動作を、感覚を、呼び起こす。
そこにあるはずの『核』へと、手を伸ばすために。
けれど。
自分の身体がどういう状態かわからない僕は。
確信が、持てない。
どんなに記憶をなぞっても、腕が動いているのか、わからない。
それでも。
きっと、僕の手は、『核』を掴んでいると信じて。
言霊を――。
「――レイド待って!」
絹を引き裂くような、フィオナの言葉に止められた。
どうやら僕は。
『核』に触れることが出来ていなかったらしい。
滑稽に手を彷徨わせていたのだろうか。
それとも。
なにか別のものを掴もうとしていたのか。
「まだ、まだだから……ッ!」
泣きじゃくる、彼女の声。
その涙を、止める術が、今の僕には、わからない。
――ああ、嫌いだ……。
フィオナを泣かせる世界が。
フィオナを泣かせる、僕が。
なにより。
フィオナの涙を、止められない、僕が。
それでも。
「……フィオナ。フィオナ・リュミエール」
声を届けることは、できる。
「大丈夫。いつもと、一緒だ」
喉の鳴る音が、聞こえる。
「僕が世界を止めて、キミが僕を留める。……これが終わったら、またみんなで――また、みんな、で――」
「ぅん……ッ、うんッ!またみんなでッ!四人で、過ごしましょうッ!」
ああ、失敗した。
言葉が、最後まで続かなくて。
彼女を安心させようと、思ったのに。
ああ、やっぱり、僕は、僕が嫌いだ。
「ここに、白い……『原初の銘核』が……ありますッ」
指先の感覚は、なにひとつない。
けれど。
僕の奥底から。
自分を編んでいた『命の糸』が、引き抜かれていくような。
そんな。
魂を搔き毟るような響きが、僕を支配した。
触れたのだ。
世界の命運を握る、白磁の心臓へ。
途端。
僕を、『僕』として繋ぎ止めていた、最後の一本の糸が、解け始める。
「――言霊を紡ぐ」
乾いた音が、石灰の匂いのするこの場所に、響いた。
視界も。
重みも。
もはや自分自身の境界さえもない、深淵の中。
僕という器から。
名前が。
意思が。
積み重ねてきた、記憶が。
液体となってドロドロに融解し、世界に吸い込まれていく。
僕は。
僕でなくなっていく。
身体が、足元から消滅していくような。
底冷えのする恐怖。
逃げ出したい。
世界なんて、どうなったっていい。
僕は、彼女の。
フィオナの隣で、生きていたいだけなんだ。
その時。
すぐ近くで。
鋭く空気を裂く、あの音が響いた。
シュッ、という。
布を。
あるいは『存在』を貫く、針の音。
フィオナだ。
隣にいたいと願った彼女が、きっといつものように、僕を縫い留めようとしている。
彼女の指先が、僕から霧散しようとする、命の名残りを。
必死に、狂おしいほどに、手繰り寄せている。
縒り合された糸が。
『銘記の針』を通じて。
スカスカになった僕の輪郭を。
世界という布地に、無理やり繋ぎ止めていく。
フィオナの針が通るたび。
空気の層が、僕から抜け落ちる『命』の欠片が。
不自然に軋む音が、聞こえた。
痛みは、感じない。
その感覚は、すでに失くした。
けれど。
世界という巨大な刺繍から、僕が滑り落ちるのを。
彼女の指先だけが。
執念で、繋ぎ止めている。
「――行かせないッ!貴方のいない世界なんて……私は……ッ!」
彼女の絶叫が。
暗闇に呑まれかけた僕の魂を、激しく叩き起こした。
淀みなく鳴り続ける、悲痛な針の音。
その音が。
僕に、最後の一歩を踏み出す勇気を、与えてくれた。
僕は。
深く、深く。
残された、なけなしの『意志』のすべてを。
火種は、もうこれしか残っていない。
過去に失った色彩でも。
味でも。
温もりでもない。
『レイド・ヴェラ・コル』という。
一人の人間の、全部。
それを、一滴残らず、火種に変えて。
「忘却の淵に沈む真実を聴け」
言葉が。
言霊となって、僕の全存在を、削り取っていく。
「凍てついた夜が明ける音を」
身体が、音もなく、溶け出して逝く。
「我が存在の全てを火種とし、永劫の明日を綴らん」
ただ、彼女の明日を。
彼女に、新しい、変わることのない、夜明けを。
「この白銀こそ、再誕の焔」
瞬間。
失くしたはずの。
色彩が。
血と、涙の味が。
温もりが。
僕は、振り向く。
そこには。
輝かしい、金色の髪を乱し。
澄み渡るような碧眼に、滴をためて、
頬を縁取る、露も気にせず。
光り輝く指先に。
黄金色の針を伴って。
懸命に。必死に。切実に。
僕を繋ぎ留めようとする、美しい彼女が。
その、美しい光景が。
僕を、突き動かす。
「――其処に輝け。世界の新たな名は」
隣で、白銀となって、僕と溶け逝くハティが。
天を裂くような遠吠えを上げた。
僕の命が。
銀狼の誇りと混ざり合い、白磁の心臓を、染め上げていく。
彼女の――フィオナの明日に。
藍色の夜明けを。
「『 』!!」
僕は、叫ぶ。
僕が、僕でなくなる、最後の一瞬を、捧げて。
愛する人が。
きっと、本当の夜明けを、その目に映せるように。
意識が、爆発的な光の波に、吞み込まれていく。
僕の身体を形作っていた最後の一本の糸が、ぷつりと切れる。
重力も。
音も。
匂いも。
すべてが失くなり。
僕は、完全な『無』へと、深く沈んでいく。
――ああ……ようやく……ようやく、届いたんだね。
意識の断片が。
風にさらわれた糸が、ゆっくり漂うように。
記憶の淵へと、流れていく。
深い暗闇が。
ゆるやかに。
ゆるやかに、反転していく。
漆黒の髪を揺らし。
まだ、なにも失くしていなかった、色彩豊かな、あの日。
僕は。
自分の命と引き換えに。
何のために。
ここまで、来たのだろうか。
何を。
願おうと、していたのだろう。
鼻を掠める。
懐かしい、パンの焼ける匂い。
遠く、森の奥から。
僕を呼ぶような。
名もなき銀狼の遠吠えが、聞こえた。
( 'ヮ')<誰かの何かしらに刺されば幸い……!