五感を捨てて世界を救う。~色彩も、味も、温もりも。全部キミの明日を綴る火種にした~ 作:ねむ。
ハティと二人で石段を駆け上がる。
風が、時々ヒュウ、ヒュウ、と嫌な音を鳴らす。
扉の取っ手を掴んで、思いっきり押せば。
暖かい部屋の空気。
「あら、レイドにハティ。お帰りなさい、早かったのね」
笑顔の母さんが、迎えてくれて。
走って、そのまま抱きつく。
「あらあら、レイドは甘えん坊ね」
そう言いながら。
僕のことを抱きしめてくれて。
嫌な気持ちが、次第になくなっていく。
すぅっと、息を吸い込めば。
『リトスの雫』の甘い匂いと。
暖炉の煙の匂いが広がって。
「ヴェインくんは一緒じゃなかったのね?」
「……うん、本部に行くんだって」
「……そう」
母さんの手が、僕の背中を撫でて。
「そのうち来るのでしょうし、おいしいもの作っておかなくちゃね」
頭を撫でてくれた手が、首筋に。
どきっとして、離れようとしたけど。
ぎゅっと抱きしめられていて。
「……ここだけ、治らないわね」
糸の跡。
僕と、ハティの、証。
「……うん」
耳の奥が、どくどくうるさくて。
母さんの、寂しそうな声が。
「ねぇ、レイド――」
体が離れて。
僕と同じ、藍色の瞳が、真正面に。
「――あの日……」
それは、揺れてるように、見えて。
「…………ふぅ、いいえ。なんでもないわ」
目をつぶったかと思えば。
母さんは、いつもみたいに笑って。
「お母さん、疲れてるみたい。ごめんなさいね、レイド」
胸の奥が、じくじくと痛い。
母さんにはやっぱり、見られてたんだ。
たぶん、今。
母さんは――。
「……だい、じょうぶ……?」
「ええ、大丈夫よ。本当にごめんなさいね」
また、僕の頭を一撫でして。
ハティを手招きしていた。
僕の近くに伏せていた彼は。
素直に、母さんの傍に寄って行って。
大きな木桶に、めい一杯に張ってあるお湯と布。
母さんは、それを使って。
ハティの足を、ゆっくりゆっくり拭っている。
うちにハティが来てから。
自然と、母さんがやるようになったこと。
「ふふ、気持ちよさそうね」
母さんは、鼻歌を歌いながら。
ハティは、気持ちよさそうに目をつぶって。
僕は、椅子に座って、少し離れて眺める。
これが、もう。
僕たち家族の毎日に、なっている、ような。
そんな、優しさしかない、場所。
でも。
さっきの母さんの目が。
忘れられなくて。
母さんの、藍色の手。
ハティの足を、一本一本。
優しく拭ってる、手。
毎日、『淵の工区』で。
『リトスの雫』を潰して、村のみんなの服を染めてる、手。
優しくて。
冷たくて。
あたたかい。
さっき、僕を抱きしめてくれてたときに。
すこしだけ。
震えていた、手。
なんだか、そわそわして。
右に左に、体を揺らして。
また、母さんの藍色と、目が合った。
「あらあら、レイドは元気ね。お夕飯、我慢できない?」
「――が、我慢できるっ!僕だって、こどもじゃ、ないんだからっ!」
「ふふ、そうよね。レイドも、もうすぐ大人、だものね」
母さんは、そう言って。
また、ハティの足を拭うことに戻った。
じっと、見つめていると。
「…………ねぇ、レイド」
漆黒の髪、僕と同じ。
それで、目は見えないけど。
「……急いで大人になろうとしなくても……いいのよ」
「……母さん?」
母さんの手は、動いてて。
「……お母さんはね」
ハティの足の指の先まで、丁寧に。
ついた泥汚れを、取り除いて。
「あなたが、笑っていてくれるのが、一番幸せなのよ」
最後の一本を、拭き終わって。
「よし、これでいいわね。ハティ、今日もいっぱい走り回ったのね」
母さんの手が、ハティを撫でて。
ハティは、気持ちよさそうに目を細めてるけど。
ずきずき、胸の奥が。
ずっと、ずっと。
なにかに握りつぶされてるように。
「レイド、すぐお夕飯の準備しちゃうわね」
僕のほうを向いた、母さんは。
やっぱり、いつもみたいに笑ってて。
「……うん」
それを見るたび、握りつぶされて。
がちゃりと。
僕とハティが入ってきたほうじゃなくて、裏口のほう。
扉が、開いて。
「――ふぇー、つっかれたー」
「あら、ヴェインくん。おかえりなさい」
「ふへへへ、ただいま戻りました」
ヴェインが、入ってきて。
母さんと、仲良さそうで。
違う意味で、胸が痛んだけど。
不思議と、あたたかく、なって。
少しだけ、嫌だけど。
嫌、だけど。
なんだか、嬉しくて。
「おー?なんだぁ、レイド。なんかすっげぇ辛気臭ぇ顔してんなぁ」
「おりゃおりゃ」って言いながら、僕の頭を撫でてきて。
手で、思いっきり脇を突いて。
「――あでっ!?」
「僕、本読んでくるねっ!ハティ、いこっ!」
「お夕飯出来たら、呼ぶわねーっ!」
椅子から飛び降りて、そのまま。
宝箱の部屋に入れば、羊皮紙の匂いが広がってて。
大きく息を吸えば。
すごく、落ち着く。
「……ハティ、ちょっとだけ、いい?」
そう言えば。
ハティは、仕方ないやつだっていう想いを流してきつつ。
僕の近くで丸まってくれて。
その、銀色に抱き着いて。
また大きく息を吸えば。
体いっぱいに、太陽の香りが、広がって。
少しだけ、目の奥があつくなって。
銀色が濡れるけど、ハティはきっと。
許してくれるから。
すこしだけ、ほんの、すこしだけ。
今は、甘える。
「……嫌われちまったんですかねぇ……?」
ぴくりと、体が震えて。
「ふふふ、むしろ好かれてると思うわよ?」
「そんなもん……なんですかねぇ……?」
ふたりの話し声が、ハティの耳に。
僕の耳に、勝手に、届いて。
「……それにしても、なにかありました?エララさん――」
「――なにも、ないわよ?ありがとうね、ヴェインくん」
ヴェインの、少し低い声と。
母さんの。
「でもエララさん、声が――」
「本当に、なにもないわ。大丈夫よ」
「……そう、ですか……」
震えた、声。
「……俺でよければ、なんでも聞きますんで」
「ふふ、ありがとう。ヴェインくんは、優しいわね」
ぎゅっと、銀色に顔を埋めて。
母さんも、ヴェインも。
みんな、あたたかい、のに。
なんだかみんな、苦しんでるように。
ずっと、なにかに引っ張られてる、みたいに。
ぎゅぅっと、胸の奥が。
なにかに握りしめられて。
苦しくて。
痛くて。
少しでも、柔らかくなるようにと。
太陽の香りをまためいいっぱい。
体全体に、広げた。
( 'ヮ')<これは家族の心温かい話、そうに違いない。