五感を捨てて世界を救う。~色彩も、味も、温もりも。全部キミの明日を綴る火種にした~ 作:ねむ。
第一話(1)
――パリッ!
はじけるような音が、耳に届いた。
朝いちばんの――パンの皮が焼ける音。
鼻をくすぐる、香ばしい匂いに。
僕の空っぽのお腹が、歓喜するように鳴いた。
たまらず毛布を跳ね飛ばす。
途端、窓から差し込む朝日に。
「――っ」
思わず、目蓋を閉じた。
目の奥が痛くなり、ぐりぐりと擦る。
この感覚が嫌でもあるけど、じんわりとなるのが、好き。
ゆっくりと目蓋を開け、恐る恐る窓の外を見た。
真っ青な空。
それと、直接見たら目が焼けちゃうけど。
世界を温める、しろく淡い光。
ふふっと、自然と笑みが出る。
僕は、この部屋から見る景色が、大好きだ。
いつまでも見ていられるけど。
母さんが焼いてくれてるパンが、僕を呼んでいるから。
いつものように朝いちばんの景色を目に焼き付けて、床に足を下ろした。
「――つっめたっ!」
床の黒石が、足の裏をチクチク刺してきた。
朝になると、床はすごく冷たくなる。
嫌だけど、それが好き。
ゆっくりと石を踏みしめて。
背中に氷を入れられた感覚がする。
気持ち悪いけど、気持ちいい。
「レイドー!スープ冷めちゃうわよー!」
「あっ、はーい!今行くっ!」
僕は笑いながら部屋を飛び出す。
廊下の角を曲がると、暖炉の前で忙しそうに動く母さんの背中が見えた。
薪がパチパチとはぜる音と、母さんの楽しそうな鼻歌。
ここから見える母さんの背中が、すごく安心する。
「母さん、おはよう!」
母さん――エララが、くるりと振り返った。
漆黒の髪が揺れ、僕と同じ藍色の瞳。
それと目が合って、嬉しそうに細められた。
「ええ、おはよう、レイド。良い夢は見れたかしら?」
母さんが笑いながら、ゆっくりと近づいてくる。
そのまま、ごしごしと僕の頭を撫でてくれた。
――ひやり、とした。
暖炉の前にいたはずなのに。
雪のように冷たい、てのひら。
指先から肘のあたりまで、深い藍色の染まったその手は。
まるで、綺麗な手袋をしているように見えるのに。
すごく、つめたい。
母さんの指先が触れた場所から、僕の温かさが吸い取られるような。
冬の小川に、無理やり手を突っ込まれた時のような。
説明のつかない、気持ち悪い冷気。
少し、くすぐったい。
でも嬉しい。
母さんの手は冷たいけれど、あったかいから。
僕は、少し首をすくめて。
目の前の焼きたてのパンに夢中になった。
「母さん!今日のは一段とおっきいね!」
食卓に飛びつく。
木のテーブルの上には、いつものように大きなお皿が三つ。
僕のと、母さんの。
それと、誰も座ってない、真ん中の席の。
母さんは、まるでそれが普通のことであるかのように。
空っぽの席に向かって、「熱いから気を付けてね」、なんて。
すごく優しい声で、話しかけてる。
そこには、湯気を立てているパンと。
琥珀色のスープが置かれていた。
いつもは、気にしない光景。
「ねぇ、母さん」
なぜか今日は、すごく、気になって。
「それ、誰が食べるの?」
つい、聞いてしまった。
母さんは、僕の正面に座って。
パンを千切ろうとした手を止め、じっと空席を見つめた。
母さんの目が、磨きすぎた水晶みたいに。
ぼんやりと――どこを見ているのかわからないみたいに、透き通る。
その顔を見た瞬間。
自分の口の中が、奥歯が一本まるごと落ちたあとのような。
変な感じになった。
何かがあったはずなのに。
そこを舌で触ろうとしても、なにもない。
ただ、抜け落ちたあとの、穴が開いているだけ。
血の味がするほど強烈なのに、そこにはなにもなくて。
手が届かないところが痒いような。
水を掴もうとするような。
そんな、よくわからない気持ちが、襲ってくる。
「……あら、本当ね。……なんでかしら。うちは最初から、レイドと二人きりなのに。不思議ね」
母さんはそう言って、首をかしげた。
けれど、すぐにまた明るい顔で、パンを千切って口に運ぶ。
「なぜだか、こうするのが一番落ち着くのよ。……母さんの、変な癖ね」
優しく、本当に優しく、僕に笑いかけた。
そんな母さんの藍色の目を見て。
そんなものなのかな、と思う。
僕は、パンを大きく頬張った。
口いっぱいに広がる、小麦の甘味。
飲み込むと、お腹の中がじんわりと温かくなる。
その時、いつから持ってるかはわからないけれど。
ポケットにある真鍮のコンパスが、チリっと震えた。
靴の中に、砂が一粒入り込んだかのような、そんな震え。
取り出すと、針は北じゃなくて、誰もいない椅子を指していた。
時々小さく震えるけど、針の位置は変わらない。
そこになにがあるのかは、わからないけど。
コンパスは、なにか言いたそうにしてるように見えた。
「あら。レイド、貴方まだそのコンパス持ってたのね?」
「……あっ、うん。なんだか、大事な物な気がして」
「ふふ、ちっちゃい頃からずっと大切にしているものね」
母さんは少し微笑んだけど。
すぐ、どこか遠くを見るような目をした。
「お母さんと、一緒ね」
そう言ってまた、僕を見て。
どこか困ったように眉を下げて、笑みを浮かべた。
僕は、それが寂しくて。
「……うんっ、一緒だねっ!」
もう一口、パンを頬張った。
また、甘味が口いっぱいに広がるかと思ったけど。
少し、味がしない。
喉にパンが詰まりそうになって、思わずスープを飲む。
塩気が口いっぱいに広がって、そのままパンを押し流した。
「そんなに慌てて食べなくても、誰も食べないわよ?」
「あ、慌ててないよっ!母さんの作ってくれたご飯がおいしくって!」
「もう……この子は十三にもなって……」
母さんはため息をついていたけど、口元の笑顔が隠せてなくて。
さっきまで少し、息が詰まりそうだったけど。
パンを頬ばれば、また甘くておいしい味がした。
それが嬉しくて、僕も少し笑った。
「今度は笑って……もう、いくつになっても、レイドは本当に可愛いわね」
「えっ!?……そんなこと、ないし」
母さんがくすくすと笑ってくれてるけど、すごく、くすぐったい。
「ねぇ、レイド。ご飯食べ終わったら、少しだけお母さんのお仕事手伝ってくれる?」
「もちろんっ!今日も薪を運べばいい?」
「ええ。レイドが手伝ってくれると、お母さんとても嬉しいわ」
「まかせてよ!薪運びは大得意中の大得意なんだから!」
母さんのお願いが嬉しくて。
夢中で食べていたパンが、いつの間にかなくなっていた。
もう少し食べたかったけど、僕ももう子供じゃない。我儘を言って、母さんのことを困らせたくない。
残ったスープを飲み干して、席を立った。
「かけっこの約束してるから、ニコに言ってくるね!」
「ふふ、ええ。ニコくんによろしくね。お母さんは裏口から先に行ってるわ」
「はーいっ!行ってきますっ!」
そのまま走って、母さんの言った裏口とは反対にある扉の前まで行く。
取っ手に指をかけて、思いっきり引き開けた。
( 'ヮ')<よし、何事もない平和な日常だな。あ、本日もう一話分投稿予定です。