五感を捨てて世界を救う。~色彩も、味も、温もりも。全部キミの明日を綴る火種にした~ 作:ねむ。
外の冷えた空気が、一気になだれ込んでくる。
それを感じながら。
一歩外に出て、大きく息を吸った。
身体いっぱいにおいしい空気が広がって、すごく気持ちがいい。
何度か繰り返して、大きく目を開けた。
そこには。
頭上に広がる、深い青と、まばらな白と、眩い光。
足元には、足場で少し隠れているけど。
空の彼方まで広がる、深い緑。
家の扉から出て見える、この景色は。
いつ見ても、胸がいっぱいになって。
足場の縁まで歩いて、大きく背伸びをする。
すると、空を飛んでるような気持ちになって。
――今日も、良い日になりそう。
不思議と、そんな気になってしまう。
そのまま、右を向いて。
断崖に張り付いている、岩を力任せに削っただけの石段――『囁きの刻階段』を、一段飛ばしで駆け降りる。
手すりもなくて危ないなって思うときもあるけど。
こうやって降りるほうが、気持ちがいいから。
時々、崖下から吹く風が石の隙間を通って「ヒュウ、ヒュウ」と。
誰かが泣いているような音。
それが少し苦手で、思わず耳を押さえそうになる。
「レイドー!おっそいぞー!」
少し下の石棚から、聞き慣れた元気な声が響いた。
ニコだ。
石段と一体化してる平らな岩の上に座って、自慢の宝箱――ただのボロい革袋だけど――を広げているようだ。
「ごめんごめん。おはよう、ニコ」
「おうっ!」
ニコは彼の名前のように元気に笑って。
その目の前に座る。
小さな石の牙が刺さって、もぞもぞと居心地の良いところを探す。
「いつから居たの?」
「うちすぐそこだから飯食ってからすぐ来た!ここが一番いい風が吹くからよぉ!んなことより、これ見てくれよ!」
ニコが取り出したのは、親指くらいの大きさの、朝日を受けてキラりと光る不変石の欠片だった。
「昨日、村の奥の古い採掘場で見つけたんだ。これ、今までで一番硬いと思うぜ。ほら、触ってみろよ!」
差し出された不変石の欠片を、指先でつまんでみる。
――硬い。
指で強く押し付けても、当然のことながら凹みもせず、逆に僕の皮膚を押し返してくる。
座ってる岩に打ち付けてみても、傷はひとつもつかない。逆に打ち付けられた岩の表面に傷がついて、少しだけ粉が舞った。
「本当だ、すごいね。ニコの持ってる石の中で、一番かっこいいと思う」
「だろ?これで次の『石拾い』大会は俺の優勝間違いなしだぜ!」
「ニコ、『石拾い』大会はその場で採った石じゃないとダメだからね」
「そうだった」と、肩を落とすニコを見て、僕は少し笑った。
その時、ポケットの中でまたコンパスが震える。
朝のチリっとした感じじゃなくて、ズンっと体に響く感じの震え。
取り出して見てみれば、針は壁側。
石段に少し突き出している岩に向かっていた。
そこを見れば、一部分だけ不自然に白っぽくなっていた。
少し遠くて、よく見えないけど。
表面から色がなくなって、乾ききった泥のような白さと質感。
「あん?なんだよレイド。まだそんなボロっちいコンパス持ってるのか」
「……うん。なんだかさ、捨てられなくって」
「ふーん、変なレイド。まぁいいや。そんなことよりっ!今日の約束、覚えてるよな!」
ぐっと、僕のほうに寄って来るニコ。
それが面白くて、少し笑ってしまう。
「ぷっ、も、もちろんっ。でも、母さんの手伝いしないとだから、そのあとでもいい?」
「ちぇー、仕方ねぇなぁ。そしたら負けたほうは、今度昼飯のパン半分こな!」
「え、それは嫌だよ。母さんのパンおいしいから、あげたくない!」
僕たちは顔を見合わせて笑い合った。
風が吹き抜けて、僕の漆黒と、ニコの赤混じりの茶色をぐちゃぐちゃにかき回す。
その時。
「――よっと」
空から、風と一緒に、人が降ってきた。
「うわっ!ヴェイン兄ちゃん、びっくりするだろ!?」
「ははっ、悪いなニコ!」
降りてきた男――ヴェインは、腕を広げて。
腕のあたりから腰まである、皮膜のようなものを見せる。
「『落とし羽』で飛んでたら、二人が見えてよ」
はじけるように笑って、ニコと僕の頭を撫でてくれる。
母さんとは違って、ちょっと痛いけど。
やっぱり、ちょっと嬉しい。
「お前ら、朝から元気そうだなぁ!レイド、今度エララさんに礼言っといてくれ」
「母さんに?」
「おう!エララさんが染めてくれたこの『落とし羽』、すげぇ飛びやすいからよ。礼を言いたいんだが、いかんせん忙しくてな」
ヴェインはそう言って、顎を撫でる。
僕はなんだか嬉しくて、胸がいっぱいになった。
「う、うん!このあと母さんのお仕事手伝うから、話しとくね!」
「頼んだわ。さってと、俺はこれから狩りにいかねぇとだから、早ぇけどこの辺りでな。お前ら、変なことやって怪我すんなよ?」
「えーっ!ヴェイン兄ちゃんずるい!俺も連れてってくれよ!」
「だーめだ。十五になったらな。それまでは村ん中にいとけ」
「ちぇっ」って拗ねるニコの頭を、ヴェインはもう一撫でする。
その様子を見て、僕はまた吹き出しそうになった。
「そんじゃな!」
「はい。ヴェインさんもお仕事頑張ってね」
そのまま手を振って、飛び降りていく。
縁から顔を出して下を見ると、緑の中に一点だけの藍色。
その藍色がだんだんと緑に紛れ込んで、少しすると見えなくなった。
「大人ってずりぃよなぁ。俺も『迷いの森』に行ってみたいぜ」
「もう、だめだよニコ。ヴェインさんも言ってたでしょ」
「わかってるけどさぁ。はぁ、俺も早く大人になりたいなぁ」
ニコは、広げた宝物の中から小さな不変石を手に取って、いじっていた。
「僕もそろそろ行かなくちゃ。母さんが心配しちゃう」
「おうっ!またあとでなぁ!」
ニコに手を振って。
駆けだす前に、もう一度白くなった岩を見つめて。
「そうだニコ。あんまり、端っこに行っちゃだめだからね。風に飛ばされたら、帰ってこれないよ」
「わかってるって!レイドは心配しすぎなんだよ!」
駆けだして階段を下りれば、ニコの元気な笑い声が風に吹かれて遠くなっていく。
気にしないようにしてたけど。
ひとりになると、どうしても考えてしまう。
あの、白くなった岩。
それと、朝とは違ったコンパスの震え。
やっぱり、普段なら気にしないことだけど。
なんだか、あの岩だけ刺繍から糸が一本ずつ抜かれてるような。
最後には、ボロボロの綿くずになっていそうな。
そんな、違和感がして。
先週、『迷いの森』で狩りをしてた狩猟隊の人が。
村に帰ってくる途中で、泥になって消えた。
ニコと一緒に村の入口で見ていて、泥になりかけてた時に目をふさがれたけれど。
ちらりと見えたのは、なんの色も無くなって。
泥になる前の、狩猟隊の人の姿。
その姿と、さっきの岩が重なって。
少し、胸の奥がざわついた。
泥になったら、元には戻れなくて。
でも、こうして僕も、ニコも、それこそ村の人たちも。
みんな、覚えてる。
それなのに。
母さんの、いつも焼いてるあの、三つ目のパン。
泥になって消えたのなら。
名前を、憶えてるはずなのに。
記憶に残る、はずなのに。
あの、母さんが優しく話しかけてた、席には。
誰がいたのか、どうしても、思い出せなくて。
それが、どうしようもなくて。
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
一段飛ばしで降りていた石段も、なんだか足が重くて、一段ずつ降りる。
よくわからないけど、気持ちわるい。
その時、下のほうから声が聞こえた。
「――レイドか。なんだ、今日は元気がなさそうだな」
村長のグウィン様だ。
大きな不変石がついた杖を持って、石段の縁に立っている。
「……あ、グウィン様。お、おはようございます」
「うむ、良い朝であるな」
僕は、この人が苦手だ。
村の規律がどうとか。
忘却がどうとか。
でも、一番苦手なのは。
「なにがあったかは知らんが」
その、色褪せた石板のような、藍色の瞳を見ていると。
「名は、血脈の誇り。我らが村、ヴェラ・コルの名に恥じるような真似は、するでないぞ」
「……はい」
なんだか、自分の身体まで石になってしまいそうで。
できれば、話したくない。
村長の家は村の中間にあって、会わなければいいなって思ってたけど。
ニコと話過ぎたから、しょうがない。
「エララにも言ったが、お前の家にある書庫の本。あれらの外から入ってきたものを、鵜呑みにせんことだ」
僕は、俯くことしかできなくて。
泥のこともあるけど、雨の日みたいに、すごくじめっとした気持ちになる。
「なにか用があるのだろう。そんなところで立ち尽くしていていいのかね?」
鋭い瞳に見られると、びくっと体が反応して。
頭を下げてから、急いで石段を降りる。
グウィン様は時々、僕たちのことを、『人』じゃなくて。
村という大きな『布』を直すための、『糸』みたいに見てる気がする。
誰かが泥になったとしても、なんにも気にしないんじゃないかって。
だって、この前の狩猟隊の人を見るグウィン様の目は。
すごく、すごく、さめていて。
思い出すだけで、僕は奥歯がガチガチ鳴るくらいの寒気を感じた。
耳の奥で、自分の心臓の音が、ドクドクとうるさい。
グウィン様の姿が見えなくなって、僕は大きく息を吐いた。
石段の縁まで行って、下を見下ろす。
緑の中に、青臭い藍色の蒸気が広がっている。
母さんは、壁の内側を通って、もう作業場に着いているみたいだ。
大きな釜を煮て、草から絞った青い汁で、みんなの服を染めるお仕事。
母さんの指の温かさは、青い汁を絞れば絞るだけ、吸い込まれているんじゃないか。
そんな、気がして。
――はやく、行かなきゃ。
お仕事の手伝いもあるけど。
母さんの作業場の奥。
大きな釜の裏側にある、暗い『隙間』に、ずっと呼ばれてる気がする。
母さんが焼いてるパンの理由も。
僕の中に広がってる、よくわからない感覚も。
あそこの『隙間』に、隠れているんじゃないか。
なんとなく、目を逸らしてきたけど。
今日は、いろんなことが、すごく気になる。
自分の中の、『空白』を、埋めたい。
僕は、見るのをやめて、また石段を降りる。
母さんのお手伝いと。
あの、くらい『隙間』と。
藍色の蒸気が漂い始めた中を、一段飛ばしに。
地下に広がる、光のない場所に。
身体を滑り込ませていった。
( 'ヮ')<隙間になにがあるんだろうなぁ。