霞む世界の先に見えるもの 作:雪白
(間に合え…間に合え…っ!間に合えっ!!)
秋嵐は息を切らしながら、転がり落ちるようにして斜面を駆け降りる。
泥まみれに、傷だらけになりながら、常人離れした脚力と身体能力をもって道なき道を無理矢理走破する。
痛みも疲れも最早何も感じず、あるのは敵軍が村を見つけていないことと家族が無事であることへの祈りだけだった。
「!?」
すると、前方の藪からふらりと影が転がり落ちてきた。
(秦兵……?)
転がり落ちてきたのは鎧姿の秦国兵だった。
「おい!あんた大丈夫か!?」
兵士の体には何本もの矢が刺さっており、口からは血の泡を吐いていた。
兵士は虚ろな目ではくはくと口を動かすが、やがてがくりと力を失った。
「駄目か……」
秋嵐は兵士の目を閉じさせると、悼むように目を伏せる。
(こんなところまで逃げてきたなんて、敵はかなり迫っているに違いない……)
秋嵐は一層表情を引き締め、地面を強く蹴った。
この時、極度の疲労と焦燥の中にいた彼は致命的な見落としをしていた。
……兵士の身体に刺さっていたのが村の猟師たちが使う特徴的な矢であったことに。
岩場を飛び越えると、そこはもう村の裏手に通じる崖の上だった。
……だが、山に慣れ親しんだ秋嵐はすぐさま異変に気づく。
(……霧がない?)
思い返せば、登れば登るほどひんやりとするはずの空気が冷たくない。
…むしろ、生温い風が肌を撫でる。
同時に彼の鋭敏な五感が、焦げ付くような匂いを捉えた。
(まさかっ……!!?)
彼はすぐさま崖の下を覗き込む。
カランッ・・・・・・
乾いた音を立てて、手から滑り落ちた弓が岩肌を転がっていく。
「嘘だ……。嘘だ……嘘だ……」
何百年、何千年もの間谷底を覆い隠し、隠れ里を守り続けてきた純白の霧。
だが、その盾は今、猛火によって紅く染め上げられていた。
「あ…ああああ……!」
秋嵐は弾かれたように崖の外へと身を躍らせる。
己の命がここで終わっても構わなかった。
温かくて愛おしい、世界でたった一つの“家族”さえ無事であれば、それで良かった。
「父様、母様、霞ぁぁぁぁぁ!!」
だが、村へ降り立った秋嵐は眼前の光景に凍りつく。
『足しになりそうなものは全部持ってけ!』
『どうせ戸籍もない連中さ。構わん』
「は………?」
村を蹂躙し、焼き尽くす兵士たち。
……その横ではためいていたのは、ボロボロになった“秦”の軍旗だった……。
*
村はむせ返るような血の匂いと、阿鼻叫喚の嵐で、まさに地獄絵図そのものだった。
秋嵐は足を止めそうになるのを必死で堪えて、家の方角へ駆け抜ける。
「きゃあああ!」
「邪魔だ!」
行手を塞ぐようにしていた巨漢の兵士は、鍛え上げられた強靭な脚力により木の葉のように吹っ飛んでいく。
だが、秋嵐は一瞥すらすることなく、ひたすらに家の方へと駆け抜ける。
土煙が舞うその後ろでむくりと起き上がる小さな影があった。
男によって、今まさに組み伏せられようとしていた少女、燕だった。
「しゅう……らん……」
燕は涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔を歪ませながら、遠ざかる背中を見つめてポツリと呟いた。
(一体、何がどうなっているんだ……!?)
秋嵐は混乱する意識の中、必死に思考を巡らす。
秦国は河外で負けた……。
合従軍は今函谷関に向かっている。
……なら、敗走した兵たちは?
「あ…」
秋嵐の脳裏に道中で息絶えた兵士の姿がフラッシュバックする。
あの兵士に刺さっていたのは、村の猟師達が使う、高山に住む猛禽の羽を使用した通称“山鷹の矢”と呼ばれる矢羽根だった。
(ッまさか……!?)
背筋に冷たいものが走る。
敗残兵。
食料も、補給もない。
軍律もない。
そして、この村は………誰の庇護も受けない無国籍地帯。
飢えで極限状態になった兵士達にとっては、まさに格好の餌食だった。
(爺様……!どうか、皆をお守りください!)
秋嵐は無我夢中で家へと駆ける。
だが、我が家の前に辿り着いた瞬間、秋嵐の足はピタリと止まる。
視界に飛び込んできたのは、赤黒く染まった地面。
兵士たちの奥でうつ伏せで倒れている父。その傍らには族長の“剣”が落ちている。
母は、何かを庇うように背中に矢を何本も受けていた。
「あ……」
呼吸が浅くなり、ぐらりと意識が遠のきそうになる。
だが、兵士たちの下卑た笑い声が秋嵐の耳を刺す。
彼らの手には熊の毛皮や母が丹精込めて作った装飾品が握られていた。
「まさか、こんなところに村があるなんてな。住民はいくら殺しても罪にならない戸籍もねぇ山猿みたいな連中だし、かなり豊かときた」
「運が良かったぜ。これで負け戦の埋め合わせができる」
……俺達は誰にも刃を向けなかった。
誰の土地も奪わなかった。
祖国を失い、名を失い、それでも必死に生きてきた。
なのに………
なのに、そんな負け戦の腹いせと小銭稼ぎのために。
そんなことのために父は、母は、妹は、村人たちは………。
(ふざけるな……ッ!)
秋嵐の中で何かがプツリと音を立てて切れ、視界が真っ赤に染まる。
「あ?なんだお前……」
兵士の一人が秋嵐に気づいた刹那。
振り向きざまに兵士の眼球を分厚い獣の皮を貫く鏃を持った“山鷹の矢”が深々と貫通する。
「ガッ……」
「は……?」
突如として血を噴き出して倒れ込む兵士。
だが、彼らが状況を理解するよりも早く、秋嵐は兵士たちの足元へ滑り込み、族長の“剣”を拾いあげる。
そして、横薙ぎの鋭い一閃が、隣に立っていた兵士の両足を両断した。
ようやく状況を理解した兵士たちだったが、秋嵐は返す刃で喉元を掻き切っていく。
兵士たちの悲鳴に他の兵士たちも次々と現れ、その数は瞬く間に膨れ上がり、あっという間に秋嵐は取り囲まれる。
「囲め!逃すな!!」
「野犬の餌にしてやる!」
武器を構える兵士たち。
だが、秋嵐の目には最早何も映っていなかった。
瞳孔を開ききった真っ黒な瞳には、ただドス黒い憎悪の炎だけが渦巻いていた……。
*
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
ハッと気がつくとむせ返るような血の匂いが秋嵐の鼻腔をついた。
周囲は静まりかえっており、村を襲った数十人の秦兵たちの姿はなかった。
視線を落とすと自分を中心に血の海ができており、ある者は首を刎ね飛ばされ、ある者は胴を両断され、血の海に沈んでいる。
怒りで我を失い、略奪者達をたった一人で屠り尽くしていたのだ。
「あ……」
我に返った秋嵐の手から、力なく剣が滑り落ちる。
同時に、彼の視線は再び血だまりに倒れる家族たちへと向けられた。
「父様っ……!母様っ!」
秋嵐は弾かれたように、地面に倒れ伏す両親の亡骸にすがりついた。
不自由な手足で、家族を守るため最後まで戦い抜いた父。
矢を何本も背に受けて絶命している母。
そして……母の体の下から小さな手が覗いていた。
「霞!霞っ、俺だ!兄様だ!頼む、何か言ってくれ!」
妹を抱き起こし、震える声で必死に呼びかける。
だが、秋嵐の目に飛び込んできたのはあまりにも残酷な現実だった。
「ぁ……」
愛らしかった顔は目元をざっくりと斬られており、いつも無邪気に笑っていた瞳は、もう二度と開かれることはない。
小さな体は冷えきっており、すでに命の温もりはなかった。
………守りたかったものは、もう何一つ残っていない。
誰よりも早く戦況を知らせるため、限界を超えて走り抜いてきた足も。
何十人もの敵を惨殺した強靭な力も。
全てが遅かった。遅すぎたのだ。
「ああ……あああああああああっ!!」
秋嵐は天を仰ぎ、喉が裂けるほどの絶叫を上げる。
「うわあああああああああああああッ!」
理不尽に全てを奪われた少年の絶望の咆哮が、夜空に虚しく響き渡っていった。
既に猛火は消えていた。
秋嵐が十三になる数日前の出来事であった…………。
ー序章「霧の少年編」・完-