白尾エリの召喚事故   作:スルメスメル

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彼方の海から

 

「むむむ……!」

 

薄暗く、閉ざされた一室だった。

 

そこでは蝋燭の火が一つだけ灯っており、その部屋を薄暗く照らしている。

 

ゆらゆらと頼りなく揺れる橙色の光は、四方の壁にエリの影を歪に映し出していた。それは時折、影は獣のように伸び、また縮こまる。まるで彼女の悪戦苦闘そのものを嘲笑っているかのように。

 

その薄暗く照らされた床の上には、白いチョークで描かれた魔法陣があった。ただし、お世辞にも上手いと言えるようなものではなかった。

 

中央の五芒星は微妙に歪み、外周の円は左下のあたりがわずかに楕円形に潰れている。古代文字らしき記号も、本と見比べながら必死に書き写したのだろう。ところどころ線が震えていた。

 

「えーっと……『汝、彼方の理を超え、我が呼びかけに応えよ』……?いや、『応えたまえ』?」

 

床に座り込んだ少女──白尾エリは、膝の上に分厚い革表紙の魔導書を広げ、首を傾げていた。

 

ふわりと揺れる白い髪。猫のように好奇心で輝く瞳。その装いはワイルドハント芸術学院の制服ではなく、儀式のためにと気合いを入れて選んだのか、フード付きの黒いローブを羽織っている。

 

「うーん、本当にこれで合ってるのかな……?」

 

魔導書のページに鼻先がつくほど顔を近づけて、彼女は唸る。そもそも、事の発端は実に他愛のないことだった。数日前、街外れの古書店で、エリはこの魔導書を見つけた。

 

埃を被って棚の隅に押し込まれていた、いかにも『曰くありげ』な一冊。表紙には見たこともない紋様が刻まれ、ページを開けば古代文字めいた記述がびっしりと書き連ねられている。

 

面白そう。

 

それが、彼女の第一印象だった。

 

そして、ぱらぱらと中身を眺めているうちに、ある一節が目に留まる。『異界より超常の存在を招来する秘術』──と、ご丁寧にも現代語の注釈までついていた。それが面白いものだと確信したエリは、店主と少し値段交渉した末に魔導書を購入。

 

寮に持ち帰り、ルームメイトが出払っている隙を狙って、こうして儀式の準備に取り掛かったというわけだった。動機は至って単純。

 

──面白い魔導書が手に入ったから、そこに書かれている魔法を試してみたい。

 

ただ、それだけ。

 

それ以上でも、それ以下でもない。それは日常の延長線上にある話なだけのはずだった。

 

しかし、その魔導書との出会いが後に彼女の運命を大きく変えるものだとも知らずに──

 

「よし。多分、合ってる……かな?」

 

エリは膝立ちになり、用意しておいた小瓶の中身──近所のスーパーで買ってきた岩塩を魔法陣の頂点に少しずつ振りかけていった。

 

本来であれば『聖別された塩』を使うべきところなのだろうが、そんなものが売っているはずもなく、これで仕方なく代用することにしたのだ。

 

続けて彼女は、魔導書の指示通りに自分の指先にカッターの刃を軽く当てる。

 

「……うっ、痛い……」

 

ぷつり、と。小さな赤い珠が指先に滲んだ。

 

その血を、魔法陣の中央に一滴。

 

ぽつり、と落ちた赤は白いチョークの線をじわりと染めていく。その瞬間──

 

蝋燭の火が、揺らいだ。

 

ふっ、と一度大きく息を吹き返したように炎が伸び上がる。今までゆらゆらと頼りなかった光が、不意に色を大きく変化させた。

 

橙色から、僅かに青みを帯びた色へ。

 

「……あれ?」

 

エリは目を瞬かせる。

 

「……あ、あれっ?まさか、これ本当に発動して──」

 

冗談半分、興味本位、暇つぶし。

 

そんな軽い気持ちで始めた儀式だった。

 

なのに今、足下の魔法陣が淡く光を放ち始めている。歪んでいたはずの五芒星の輪郭が、まるで内側から導かれるように、ゆっくりと正しい形へと整っていく。古代文字の一画一画が、白く、銀色に、そして金色に──順番に煌めいていく。

 

部屋の空気が変わった。

 

肌にひりつくような、微かな静電気。

 

耳の奥で、低く、遠く、何かが共鳴するような音。床下から、もっと深いどこからか、凍えるような冷たい風が吹き上がってくる錯覚。

 

「……えっ、えっ、えっ」

 

エリは思わず後ずさった。

 

魔法陣の中央、血の一滴を落とした地点。

 

そこに、空間の歪みのようなものが生まれている。空気がねじれ、光が屈折し、向こう側の景色が陽炎のように揺らいで見える。

 

その歪みは徐々に大きくなり、やがて人ひとり通り抜けられそうな『穴』へと変じていった。

 

「うっ、嘘……これって本物──」

 

呆然と呟きながらも、エリの瞳の奥には、恐怖よりもむしろ、爛々と輝く好奇心の光があった。

 

不味い。

 

頭ではそう理解しているのに、身体は逃げ出そうとしない。それどころか無意識のうちに身を乗り出し、穴の向こうを覗き込もうとさえしている。蝋燭の炎が一際、大きく揺れた。そして、その歪みの中心から誰かが踏み出してきた。

 

足音はなかった。

 

しかし、誰かがそこに立っている。

 

見知らぬ制服だ。白を基調とした、彼女の知るどの学校のものとも違う意匠の上着。そして艶やかな黒髪に、蝋燭の火に照らされている紅い瞳。

 

年の頃は、エリとそう変わらないくらいに見えた。少年と青年のちょうど境にあるような。けれど、その立ち姿から漂う気配だけは──到底、同年代の人間のそれではなかった。

 

何か途方もないものが、そこに在った。

 

蝋燭の炎が、その者の影を壁に長く長く伸ばす。歪んでいた魔法陣の光は、もはや穏やかに収束し、彼の足下で静かに脈打っていた。

 

エリは口を開くことも、瞬きすることもできずに、その存在を静かに見上げていた。

 

その者は、ゆっくりと部屋の中を見渡した。薄暗い壁。一本の蝋燭。床に描かれた拙い魔法陣。そして、腰を抜かしかけている白髪の少女。

 

紅い瞳が、僅かに細められる。

 

そして──

 

「ふむ。随分と遠い世界に喚び出されたものだ」

 

蝋燭の火が小さく爆ぜる。それは少女の運命が確かに、大きく軌道を変えた瞬間だった。

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