白尾エリの召喚事故 作:スルメスメル
「ほう」
俺は一つ、呟く。
その呟きは安堵の感情から漏れ出たものではなく、とある一つの感心から漏れた言葉だった。
それは目の前で浮かぶ一つの魔法陣。
深淵を覗くまでもなく、拙く、あまりにも低次元な術式構成だ。しかし、その深淵を覗けば、それが召喚魔法だと一目で分かる術式の作りだった。
しかし、問題はそこではない。
それは俺が描いたものではなく、突如として、この場に出現した不可解なものであるということ。
そして、他にも幾つか問題があった。
一つは召喚対象を特殊な力で縛り上げ、無理やり己が世界の内側へ引っ張ってくるというもの。
もう一つは──
「……ふむ。強引なものだ」
その召喚対象が俺であるという点だ。
「特段、応じてやる義理もないが……仕方あるまい」
俺は滅びの力にて即座に拘束を滅ぼす。
そうしてやると魔法陣が明滅し、次第に術式が効力を失って消滅していくのがわかった。本来であれば、この召喚に応じてやる義理はない。
「…………」
しかし、魔法陣を通して流れ込んでくる感情が、術式を完全に滅ぼそうとした俺の行動を留める。
思えば、最近は刺激らしい刺激が皆無だった。かつての第一魔王アムル、そして正帝アイゼルとの決戦から実に千年もの時が経ったが、あの戦いで滅びた配下達が転生してくる気配は今もない。
もしくは、間に合わなかったのやもしれぬ。
そんな考えが脳裏をよぎるが、それを確かめる術はどこにも残されていない。だが、もし……
もし、彼らが戻ってくるのであれば──
「土産話の一つでも聞かせてやるのが筋というものだろう」
そう呟いた瞬間、俺──暴虐の魔王、アノス・ヴォルディゴードの身体は淡い光に包まれた。
滅ぼそうと思えば、身じろぎ一つで容易く消し飛ばせる程度の術式だ。しかし、あえてそれに身を委ねる。千年の退屈を紛らわせるには丁度良い。
そう考え、俺は徐ろに目を閉ざす。そうして視界が白く塗り潰され、次に瞼を開いた時。
そこは仄暗く、蝋燭に照らされた一室だった。
俺は軽く辺りを見渡した。だが、次の瞬間──
「…………」
根源に異物が侵入した。
いかなる魔法によるものか、それは俺の自我を根源ごと乗っ取ろうと猛威を振るっている。くはは。まさか転移早々、俺を乗っ取ろうとは。なかなかどうして、この根源は大層なことを考える。
しかし、だからといって見過ごすことはできぬ。
俺は根源の内側で魔法陣を描いた。
「<
発動したのは深層十二界、聖川世界リブラヒルムの流水魔法──<
「……!?」
効果は劇的だった。
その根源は魔法に抗おうと必死にもがくが、<
二十数年分の記憶だ。俺は再び、辺りを見渡す。
そして、やがて俺は
取り込んだ根源より流れ込んできた記憶は、随分と奇妙なものだった。それは、この身体に憑依しようとした者の記憶だ。元はどこか別の世界に生きていた、一人の若い男の二十数年分の人生。
両親に育てられ、学び舎へ通い、ありふれた幸せな日常を過ごし──そして、不慮の事故にてその生涯を終えた。そこまでは、よくある話だ。
問題は、その先である。
死した根源が辿り着いたのは何処とも知れぬ虚空であり、そこで男は一つの願いを抱いた。否、抱いていた願いを更に強くした、と言うべきか。
その願いとは、即ち──俺になりたい、か。
記憶の中で、男は俺の存在を知っていた。
暴虐の魔王アノス・ヴォルディゴードという存在を、男の世界では創作として享受していたのだ。
男は俺に憧れ、俺の如く在りたいと願い、そして死後──その願いに応じるかのように、彼は俺の根源へ憑依せんと試みた。
この召喚魔法に便乗する形で、だ。
しかし、俺の根源は理からすらも外れた滅びを内包する強大な根源だ。そこへ憑依を試みるなど、火の海に紙切れ一枚で飛び込むようなもの。
成るはずもなかった。
成るはずもなかったが、しかし、男はそれを試みた。欲に塗れた根源ではない。記憶の深淵を覗いてもなお、そこにあったのは純粋な憧憬だった。富も、力も、権勢も、何一つ望んではいない。
ただ俺──暴虐の魔王アノス・ヴォルディゴードという存在に焦がれ、その在り方に憧れ、ただそうなりたいと願った、それだけの男だ。
俺は静かに目を伏せる。
哀れな話だ、と素直にそう思った。
不適合者として生まれた俺を嗤う者は、二千年の昔より掃いて捨てるほどいた。今世とて同じだ。
だが、その逆。
遠い彼方の世界で俺に憧れ、その在り様を尊いものとして仰ぎ見た者が、それだけの理由で己が命を擲つことになろうとは。俺の根源を奪わんとした不躾な輩、として切り捨てることは容易い。
だが、この男はその不躾な輩ですらなかった。ただ、自らの憧れに手を伸ばし、その指先が届かぬ高みにあったというだけのこと。無謀の果てに自らの魂を散らした、哀れな被害者だ。
俺に憑依したことが、この男の運の尽きであった。よりにもよって、滅びの根源を持つ魔王へと滑り込んでしまったのだ。他の誰かであったならば、あるいは成功していたのやもしれぬ。
せめて安らかに眠るがいい。
取り込んだ根源の残滓へと、俺はそう手向ける。
根源はもはや散り、記憶のみが俺の内に溶け込んでいた。せめてその記憶だけは、確かに俺が引き受けてやろう。お前が憧れた魔王が、お前の二十数年を確かに覚えておく。それで贖いになるとも思わぬが、せめてもの礼儀というものだ。
さて──
俺は瞼を持ち上げる。
ようやく、現状を確かめる段に至った。
流れ込んできた記憶のおかげで、この世界についての知識もある程度は得ている。どうやら、ここはキヴォトスと呼ばれる地であるらしい。
魔眼を凝らし、世界の深淵を覗く。
すると確かに、ここは俺達のいた世界とすら異なる世界であるということがわかった。
そもそも銀水聖海ですらないのだ。
転生世界ミリティアは無論のこと、泡沫世界、浅層世界、中層世界、深層世界、深淵世界──銀水聖海に浮かぶ無数の銀泡。そのいずれとも異なっており、そもそも世界は銀泡ですらない。
俺の知る『世界』の枠組みから、根本的に外れた場所だ。秩序の在り様も、魔力の流れも、俺の知るそれとは似て非なるものなのだ。
それでいて人が住まい、文明が築かれ、世界として成立している。なかなかどうして、興味深い。
そして、そんな世界の住人が今、俺の目の前にいた。蝋燭の灯りに照らされた一室の中央、術式の名残が淡く明滅する床の上。
そこに立っているのは、一人の少女だった。
白い髪に、その頭にはウィザードハットを被っている。それを目深に被り、少女はじっとこちらを見上げている。年の頃からして、十代半ばといったところか。体躯は一般的だが、しかし身に纏う力の気配が違った。思わず口の端が緩む。
無謀を成し遂げた者が、一日の内に二人。一人は儚く散り、もう一人は俺の眼前に立っている。そして記憶を辿れば、この少女にも覚えがあった。
──白尾エリ。
ワイルドハント芸術学院に籍を置く生徒であり、そして憑依に失敗したあの男の、記憶の中の『物語』に登場する人物。その世界において創作として消費されていた、この異世界の住人の一人。
なるほど。ならば、合点もいく。
男がこの召喚に便乗できたのも、この世界の事柄を予め知悉していたからこそだ。
憧れの魔王と、知悉した世界。その二つが交わる一点に己が魂を滑り込ませようと──確かに、机上では成立し得る目論見だったのだろう。
俺は一歩、踏み出した。
蝋燭の灯りが揺れ、床に長く影が伸びる。ウィザードハットの少女は身を強張らせ、しかし逃げ出すこともなく、ただ俺を見上げ続けていた。瞳の奥に宿るのは怯えか、好奇か、それとも──
まずは、応えるとしよう。千年もの退屈を破り、遥かなる世界から俺を喚び寄せた少女の召喚に。
そして俺はゆるりと口を開き一言、口にした。
「ふむ。随分と遠い世界に喚び出されたものだ」