放送事故ではありません。 作:宇宙きのこ(ヴァーチャル)
槙野修平は、若手スタッフに呼ばれてサブモニターの前へ立った。
モニターには、片づけ中の新スタジオが映っていた。
照明は半分ほど落とされ、配信中には雰囲気を作っていた青いライトも今は壁際に薄く色を残しているだけだった。
机の上には小道具がいくつか置かれ、ケーブルを巻くスタッフの背中とカメラの電源確認をしている技術担当の姿が見える。
そして、その奥に配信者の3Dアバターが立っていた。
どうやら設定がバグっているらしく首が真横に折れている。
後は座標がバグっている。
もしくはカメラのセンサーが飛んでる虫でも拾ったのかスライドするように小刻みに動いていた。
さっきまで配信画面の中で、視聴者投稿を読み、怖がり、笑い、現実の椅子に腰かけるように見えていた電子の身体は今や全く違う顔を見せていた。
現実のスタジオ映像に重ねられることで、そこにいるように見せていたキャラクターが配信終了後の薄暗いスタジオの奥にまだ立っている。
槙野は最初それをただの終了処理ミスだと思った。
気持ち悪い動きをしているが、これも時折あるバグだ。
「モデルが落ちてないだけだろ」
彼はそう言い、近くにいた技術スタッフへ視線を向けた。
「合成レイヤー確認しろ。トラッキングも切れてるか見ろ」
「はい」
技術スタッフはすぐに操作卓へ戻った。
手つきは少し焦っていたが、まだ恐慌には至っていない。
新システムの初回配信であるのもそういうこともあるという思いを後押しした。
モデルが消えずに画面に残る、レイヤーが落ちない、トラッキングのゴーストが出る。
そういう不具合は、起きても不思議ではなかった。
若手スタッフも、そう思おうとしていた。
「残像ですかね。メモリーに残ってたとか」
「かもな」
槙野は短く返した。
モニターの中で、アバターは直角に首を傾けていた。
人では無理な頭頂部が肩にくっつくほどに。
首を傾ける角度が深すぎる。
人間なら、そこまで曲げる前に肩がついてくるはずだった。
けれど画面の中のアバターは、首だけをすっと直角に曲げ、笑顔の表情を貼り付けたまま動かない。
槙野は眉を寄せた。
見ているだけでおぞましい動きだが、アバターのバグではよくあることだ。
「表情パラメータは?」
「停止してます。フェイストラッキングも切断済みです」
「モデルは」
「ロードされてません。いや、ログ上は落ちてます。表示リストにもありません」
「じゃあ何でだ」
技術スタッフは答えられなかった。
槙野は舌打ちを飲み込んだ。
こういう時、現場で責任者が苛立ちを見せすぎると若いスタッフが余計に慌てる。
彼はモニターへ顔を近づけ、画面の中のアバターを睨んだ。
現実のスタジオには誰もいない。
本来ならそこにいる中の人をカメラが読み取り処理するはずなのに。
振り返れば、そこにあるのは壁と椅子と、片づけ途中の小道具だけだ。
アバターや演者が立っているはずの場所は、肉眼では空白だった。
青い照明が薄く壁を染め、床にはケーブルが一本伸びている。
人も、影も、何もない。
だがモニターの中では、確かに彼女が立っていた。
可愛らしい衣装。明るい髪色。配信中と同じ外見。
だが、笑顔だけが異様に固定され、目のハイライトが消えている。
腕はだらりと下がっていたが、肘の角度がほんのわずかに逆へ曲がって見えた。
そして瞬きをしていない。
槙野は、背中に冷たいものが走るのを感じた。
それでも、彼は機材トラブルとして扱おうとした。
「サブモニター切れ」
「はい」
若手スタッフがスイッチを押す。
画面は一度暗くなった。
スタジオに、かすかな安堵が流れかける。
だが、数秒後にモニターはひとりでに点灯した。
同じ映像が戻る。
現実のスタジオ。片づけ中のスタッフ。
その奥に立つ現実には居ないカメラの中の3Dアバター。
さっきより、ほんの少し手前にいる。
近づいている。
若手スタッフの喉から細い息が漏れた。
「槙野さん」
「騒ぐな」
槙野は、低く言った。
自分にも言い聞かせるような声だった。
「電源を落とせ。コンセントから抜け」
「了解」
技術スタッフがサブモニターの電源ケーブルを抜いた。
画面はまた暗くなる。
今度は戻らなかった。
数秒。十秒。十五秒。
誰もがその黒い画面を見ていた。
その時、スタジオ奥の別のモニターが点いた。
片づけ用の確認モニターではない。
配信中、背景用の演出確認に使っていた大型モニターだった。
今は落としてあるはずのそれが、薄く光り、同じスタジオ映像を映し出す。
そこにも彼女がいた。
アバターは画面の中で、槙野の方を向いている。
いや、違う。
槙野ではない。カメラを向いている。
現実の誰かではなく、レンズの向こう側にいる何かを見ているような視線だった。
「全モニター落とせ」
槙野の声が少しだけ硬くなった。
「主電源もだ。ネットワークも切る。合成システムの電源は」
「落としてます。落としてるはずです」
「もう一度全て確認しろ」
スタッフたちが慌ただしく動いた。
スタジオの空気が変わっていく。
配信後の緩んだ空気はもうなかった。
ケーブルを巻く手は止まり、照明の残り光が妙に白々しく見えた。
誰も笑わない。誰も冗談にしない。
機材トラブルにしては現象があまりにも悪意を持ってこちらを追っているように見えた。
それでも槙野はまだ現実の常識にしがみついていた。
電源の逆流やネットワーク遅延。
表示系統のバグかキャッシュの残留。
合成レイヤーの暴走。
後は最悪の場合は外部からのハッキングによる悪戯。
思いつく言葉はいくつもあった。
だが、どれも画面の中の壊れた笑顔を説明しきれなかった。
あの目線には生の感情が宿っていた。
決して悪戯で姿だけ出力しただけでは出せない生々しい執着の様な感情が。
「なんで消えない……!」
小さく呟く。
中身のない空っぽのガワだけが動いていて止まらない。
配信者本人のモーションではなく、そもそもの話としてモデルはロードされていない。
トラッキングは切れているしAR合成レイヤーも停止している。
配信ソフト上では、アバターは非表示になっている。
全てのステータスが「存在しない」と言っているのだ。
なのに、カメラ映像の中だけでそれは動いている。
槙野はふと自分の背後を振り返った。
アバターが立っている場所を。
肉眼では何もいない。
スタジオ奥の壁。
小道具。椅子。床を這うケーブルに落としかけたライト。
それだけだ。
しかし、モニターの中では違う。
槙野は見比べた。
現実には誰もいないのに映像にはいる。
まさにvirtualだ。
その差がひどく気持ち悪かった。
映像の中にだけ、何かが居座っていてこっちを見ている。
その発想が頭をよぎった瞬間、スタジオの照明が一つまた一つと落ちた。
叫びそうになったのを抑え込み黙々と部下に問う。
「おい、照明系は誰が触った」
「触ってません!」
非常灯が点く。
赤みのある弱い光がスタジオの輪郭を鈍く浮かび上がらせた。
空調の音が止まり、急に室内が静かになる。
さっきまでかすかに聞こえていたファンの回転音や機材の待機音が消え、代わりに人間の呼吸だけが目立った。
若手スタッフの一人が内線へ手を伸ばす。
「社長室に連絡します」
内線の受話器を取る。
だが、そこから聞こえてきたのはざらざらしたノイズだった。
音ではなく文字が擦れるような音。
紙の上を、誰かが爪でなぞっているような。
スタッフは顔を青くして受話器を戻した。
「繋がりません」
別のスタッフがスマートフォンを取り出す。
「外線で――」
画面に圏外表示が出ていた。
「嘘だろ」
「スタジオ内、電波弱いんですか」
「さっきまで普通に繋がってただろ」
槙野は舌を打った。
「全員、出口側に寄れ」
若手たちが振り返る。
「槙野さんは」
「俺は奥を見る。お前らはドアの近くにいろ」
「でも」
「いいから行け」
声に逆らえないものがあった。
スタッフたちは顔を見合わせ、言われた通り出口側へ寄る。
槙野は彼らを背にする形で、スタジオ奥へ少しだけ身体を向けた。
怖くないわけではなかった。むしろ、背筋は冷えている。
理解できないものが現実ではなく映像の中にだけいる。
そのことが、彼の経験則を根元から揺さぶっていた。
だが、部下を前に出す気はなかった。
現場で何か起きた時、まず責任者が立つ。
彼にとって、それは理屈以前の習慣だった。
若手スタッフの一人がドアノブを引いた。
鍵を確認するがもちろん閉めてなどいない。
施錠してないのに閉まっている。
「開きません」
「非常解錠は」
「そもそも鍵がかかってないんです! なのに開かない!!」
槙野は一瞬だけ目を閉じた。
最悪だ。
機材トラブルにしても閉じ込められるのはまずい。
しかも原因がわからない。
スタジオ奥の暗がりには何もいないはずなのに確認モニターのどこかには、今もあの壊れた笑顔が立っているのだろう。
その時、若手スタッフの一人が震える手でスマートフォンを操作していた。
「何してる」
「監視映像、社内アプリで見られるか確認を――」
「やめろ」
槙野が言うより早く、彼は画面を見てしまった。
スマートフォンの小さな画面に、スタジオの監視映像が映っている。
槙野の少し背後にアバターが立っていた。
肉眼ではやはりいない。
だが、映像の中では彼の肩越しに、そのハリボテの笑顔が覗き込んでいる。
顔は可愛らしいキャラクターのままなのに、目だけが空洞のように暗く、瞬きひとつしない。
頭が不自然に揺れ、まるで槙野の耳元へ何かを囁こうとしているようだった。
若手スタッフが悲鳴を上げかけた。
槙野は反射的にそのスマートフォンを伏せた。
「見るなっ!」
自分でも驚くほど低い声だった。
若手スタッフの肩が跳ねる。
その一言を口にした瞬間、槙野は理解していた。
これは見てはいけないものだ。
見てもいけないし見られてもいけない。
見れば画面の中のものが少しずつ近づいてくる。
そんな理屈を誰かに教えられたわけではない。
だが、現場で何かを察する人間の勘が彼にそれを告げていた。
同じ頃、別フロアでは久我誠一が監視カメラ映像を見ていた。
最初の連絡は、配信管理の異常通知だった。
新スタジオの電子錠が通常操作に応答せず、内線も不通。
照明系統にも異常が出ている。
久我は、最初それを新システム初回にありがちな複合トラブルだと思った。
電子錠の不具合や回線障害。
電源系統の誤作動か、または照明制御のバグ。
厄介ではあるが処理できる問題だ。
警備会社を呼び、管理室から強制解除して必要なら消防も視野に入れる。
社員が中にいる以上、迅速に動かなければならない。
そう考えながら監視カメラを開いた久我は、画面を見た瞬間に言葉を失った。
スタジオ内には、槙野とスタッフたちがいる。
彼らは出口側に寄り、非常灯の赤い光の中で身を固くしていた。
槙野だけが少し前に出てスタッフたちを背にしている。そこまでは理解できた。
だが、映像の奥に配信者の3Dアバターが立っていた。
配信は終わっている。
ライバー本人はとうに帰った。
モーションキャプチャは切断されている。
スタジオの中には誰もいないはずだ。
それなのにカメラの中にだけアバターがいる。
久我は、最初それを表示バグだと思おうとした。
合成システムの残留。映像レイヤーの混線。
配信画面と監視映像が重なっただけ。
そうであってくれ、と、経営者としてではなく一人の人間として思った。
だが、そのアバターは動いていた。
槙野たちではなくカメラを見るように。
久我の方を、見るように。
アバターの表面に文字が流れ始めた。
最初はノイズかと思った。圧縮の乱れ、テクスチャの破綻、映像の欠損。
だが違う。文字だ。配信中に読まれた投稿の一部が、皮膚の上を這うように流れている。
『ま̴̧͔̳̱̄̕̚̚だ̴͚҇̌̉͜み҈̢͎̒͡て҈͈̥͕̂̉̕͢い҈̢̛̘̙̤̋̔る̸̧̠̃́̓͞』
文字は衣装の胸元を横切り、腕へ流れ、頬のあたりで一度滲んだ。
『終̵̡̙͎͎̫̲̳̐̋͊̈̓̓͝わ҉̧͖͍̬̙̭̄͑̂̚͝っ҈̧̥̱̘͚̘̥̣̫̅̊͝て҉̛̝͖̄̽͢な҈̢̛̮̳̙̱̱̟̍́̇̀̓い̸̨͕̲̠̱̖̱̘҇͗͗̾̒』
コメント欄のような細い文字列が、アバターの周囲に巻きついていた。
画面上には存在しないはずのコメント欄。
配信は終わっているはずなのに。
『よ̽̇̋ん̙̠̣̱̰̓̊͌͐̅̅だ?̲͍͖̟͎͖̝͚̘̫̠͌̅̾̂̄́̌͛』
久我の喉が渇いた。
彼は、思わず画面へ近づいた。
近づいてはいけないと、どこかでわかっていたのに、目が離せなかった。
可愛らしいキャラクターの顔は、そのままだった。
視聴者に親しまれるようデザインされた輪郭。
明るい髪。柔らかい衣装。
だが、笑顔だけが異様に固定され、目だけが空洞のように暗い。
『こ҈҇͜っ҉̧͝ち̷҇͜を҉̢͠み҉̡̛て҈̡҇』
その文字が流れた瞬間、久我は理解した。
見ているのは、槙野ではない。
いや、槙野たちも見られている。
だが今、この画面の中のものが向いている先は、監視カメラだ。
レンズの向こう側───つまり、別室でモニターを見ている自分だ。
久我誠一を見ていた。
安全な場所にいる。
扉のこちら側にいる。
スタジオの中にはそもそもいない。
そのはずなのに見つかっている。
監視カメラ映像の上に、一行のコメントが流れた。
『く■』
久我は、その場で息を止めた。
誰もその場で彼を呼んでいない。
配信中に社長の名前が出たわけでもない。
スタジオ内に、彼はいない。
それでも画面の中のナニカは、外側で見ている彼を認識した。
その瞬間、久我の中で信じるか信じないかという問題は壊れた。
霊かどうか。怪異かどうか。機材トラブルかどうか。
そういう言葉はもう役に立たなかった。
大切なのは、槙野とスタッフたちが閉じ込められていることだった。
説明できないものが、彼らのすぐ近くにいることだった。
そしてそれが、監視している自分にまで届いているという事実だった。
社員や自分が死ぬかもしれない。
久我は初めて、そう判断した。
彼は警備会社への連絡を指示しながら別の番号を呼び出した。
鳥越怜司。
普段なら、こんな時に真っ先に呼ぶ相手ではない。
アーカイブ管理、音声確認、編集。
確かに彼は優秀だが、電子錠の不具合やスタジオ閉じ込めに対応する担当ではない。
だが、久我は彼の名前を押した。
理由は、今でもうまく説明できない。
ただ、画面の中のものを見た瞬間にこれを普通のシステム担当だけに任せてはいけないと思ったのだ。
通話は数コールで繋がった。
『鳥越です』
いつもと同じ、低く淡々とした声だった。
久我は、普段のようには話せなかった。
「鳥越君、スタジオが開かない。槙野たちが中にいる。カメラに、何か映っている」
自分でも、ひどく曖昧な説明だと思った。
だが怜司は何が映っているのかを聞かなかった。
彼は一拍置いて、静かに言った。
『今、それを見ている人数は何人ですか』
久我はその返しに背筋を冷やした。
何が映っているのか、どんな状態なのか、どのカメラなのか。
普通ならばそう聞くだろう。
だが怜司は、見ている人数を聞いた。
その時点で久我は悟った。
鳥越怜司はこれを機材トラブルとして見ていない。
「……私と、管理室の二人だ」
『減らしてください。社長だけに』
「何?」
『見ている人数を減らしてください。録画保存も止めてください。
監視カメラは一つだけ残して、他は切ってください』
久我は一瞬、言葉を失った。
しかし、画面の中でアバターの顔が近づいてくるのを見て判断した。
「監視は一系統だけ残す。他は切れ。録画保存を止めろ。今すぐだ」
管理室のスタッフが戸惑う。
「ですが、記録が」
「止めろ」
久我の声は、経営者のものに戻っていた。
スタッフは従った。
複数の監視画面が落ちる。
録画インジケーターが消える。
残ったのは一つのカメラだけだった。
画面の中で、アバターの輪郭がわずかに揺らいだ。
怜司の声が続く。
『コメントログの自動保存を切ってください。
アーカイブの追加保存も止めてください。スタジオ内の音声出力を物理的に落としてください』
「鳥越君、これは何だ」
『今は説明できません。誰も画面に向かって声を出さないでください。
中の人間にも、可能なら映像を見せないでください。見れば寄ってきます』
見れば寄ってくる。
その言葉に久我は監視画面を見た。
アバターは、さっきよりカメラに近づいていた。
この監視カメラは3メートル以上の高所にあるというのに。
歩いているというより、映像の奥から手前へ滑ってくるようだった。
だって足は動いていないのだから。
肉眼では存在しないはずの3Dモデルが、画面上だけでスタジオの空間を無視して近づいてくる。
『私はそちらへ向かいます。それまで、見ている人数を増やさないでください』
通話が切れた。
怜司はアーカイブ管理室で、すでに動き始めていた。
彼のモニターには、配信終了後のログが表示されている。
おかしいことになっていた。
終了済みのはずの配信枠に、追加ログが増えている。
コメント保存領域に、存在しない投稿が残っている。
合成システムには、ロードされていないはずのモデル表示記録が断続的に刻まれている。
そしてスタジオ内マイクは切れているのは間違いない。
それなのに、終了後の音声入力が波形として増え続けている。
音声ファイルにはなっていない。聞こえる音として保存されているわけではない。
ただ、波形だけをマイクは掴んでいた。
誰も何も喋っていないのに、何かが「入力」として残ろうとしている。
怜司は、それを見て小さく息を吐いた。
ここまで来たら普通の編集担当でいる意味はない。
彼はコメントログの自動保存を停止し、該当箇所を隔離した。
アーカイブの追加保存を止める。配信枠のステータスを確認する。
終了済み。だが、内部的にはなぜかアクティブな参照が残っている。
怜司は権限を使い、該当配信枠を強制的に再設定した。
画面にノイズが走るが気にしない。
指でトンと叩いてやればそれは消えた。
『終了済み』
それだけでは足りない。
合成レイヤーの管理画面を開く。
停止済ではあった。
だが、ログには表示記録がある。
表示されていないはずのモデルが、表示されている。
ロードされていないはずの器が、映像上に存在している。
怜司はモデル読み込み経路を切断した。トラッキング入力を遮断する。キャッシュも破棄。
表示レイヤーも完全停止。通常なら、これで何も映らないはずだった。
だが、久我の残した最後の監視カメラには、まだ映っている。
壊れた笑顔のアバターが、カメラの前に近づいていた。
顔の表面を、文字が流れている。
『ま҉̢͇̝̥̱̣̮͓҇̔͛だ҉̢̫͎̦̱̍̈́̀̚͡ͅ』
コメントのように。
『ま҉̢͇̝̥̱̣̮͓҇̔͛だ҉̢̫͎̦̱̍̈́̀̚͡ͅ』
皮膚のように。
『ま҉̢͇̝̥̱̣̮͓҇̔͛だ҉̢̫͎̦̱̍̈́̀̚͡ͅ』
そこへ残ろうとしている。
怜司は画面を閉じ、机の引き出しから小さな布包みを取り出した。
中には白紙と、小さな鈴が入っている。
大仰な道具ではない。
仕事道具として見れば、あまりにも地味だった。
間に合わせの、それっぽいものだ。
彼は走らなかった。
だが、足は速かった。
廊下を抜け、新スタジオの前へ向かう。
途中、スタッフに声をかけられたが、最低限の返事だけで通り過ぎる。
スタジオの前には管理室の人間が数人集まりかけていたが、怜司は手で制した。
「見ないでください。人を増やさないで」
その声があまりにも平坦だったため、逆に誰も逆らえなかった。
スタジオの扉は閉じている。
電子錠のランプは点滅していないのに内側からも外側からも開かない。
中には槙野とスタッフたちがいる。
扉の向こうから、音はほとんど聞こえない。
だが、どこかで文字が擦れるような薄いノイズだけが続いていた。
あと妙に生臭い、水が腐った腐臭がした。
怜司は扉の前に白紙を置いた。
何かの名前を書くわけではない。
名前を与えないための白紙だった。
彼は鈴を指先に持ち、扉越しに静かに言った。
「配信は終了済みです」
その声は、祈りでも怒号でもなかった。
業務連絡に近かった。
冷たく、正確で、余白がない。
ただ当たり前の事を当たり前として宣言するだけだ。
紙が震え煙が上がる。
「視聴者はいません」
監視画面の中で、アバターの輪郭がわずかに乱れた。
「コメントは保存されません」
画面いっぱいに流れていた『まだ』の文字が、一瞬だけ滲む。
紙に墨汁が溢れ、無数の「まだ」が書き連ねられていく。
「モデルは表示されません」
壊れた笑顔の口元が、ノイズのように歪んだ。
「あなたに使える器はありません」
スタジオの中で、落ちていたはずのモニターが一斉に白く光った。
若手スタッフの一人が短く悲鳴を上げる。
槙野が「見るな」と再び低く言った。自分自身も画面を見ないよう、奥歯を噛み締めている。
怜司は最後に、扉へ向かって告げた。
「もう放送中ではありません」
鈴が勝手に鳴る。
ちりん、と。
小さな音だった。
配信スタジオの扉の前で鳴らすには、あまりにも頼りない。
非常灯の音も、機材のノイズも、閉じ込められたスタッフたちの荒い呼吸も、その小さな音を簡単に飲み込んでしまいそうだった。
けれど、その瞬間、監視画面の中のアバターの輪郭が崩れた。
笑顔がぐにゃりと歪み、目の空洞が潰れる。
皮膚の上を流れていた文字が剥がれ、コメント欄の形を保てなくなる。
頭がぼとっとまた下まで一気に落下し、身体は溶けるように崩れていった。
『ま҈─̷─̶─̴だ̴』
文字が伸びる。
『ま』
途切れる。
『』
何も残らない。
久我は、画面の前で息を止めたまま、それを見ていた。
見てはいけないという怜司の言葉は理解している。
だが最後の一台を切れば、中の様子が完全にわからなくなる。
社長として、社員の安否を見届けなければならない。
そう自分に言い聞かせながら、彼はただ、画面の中の異常が崩れていく様を見ていた。
アバターは最後の最後まで久我を見ていた。
怜司の鈴がもう一度だけ鳴る。
ちりん。
今度は少しだけ長く響いた。
その音と同時に、スタジオ内の非常灯が安定した。
赤い点滅が止まり、電子錠のランプが一黄色へ変わる。
怜司は扉の前で白紙から目を離さなかった。
真っ黒いナニカが書き込まれ続けるソレを掴み、丁寧に折りたたんでしまう。
一度も中に書いてあったものは見ない。
正体を問わない。由来を探らない。名前をつけない。
ただ、消えてもらう。
断じて深入りはしないし娯楽に昇華もさせない。
もっと俗な言い方をすれば住み分けの出来ていない存在には帰ってらもう。
それが、彼のやり方だった。