"la vraie parole"   作:イナナのナナ

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そういえば非ログインでも感想を書けるようにしたのですよ。(報告)
なんでこの話数でこんな報告をしてるのかって?
無駄に長い本作をここまで読んでる方が、本作の事どう思ってるんだろうなっていう興味本位でして〜()


第十二幕 「揺らぐ仮面と、あるいは『願望器』の苦悩」

 

「須藤、お前は英語の点数が、合格ラインにわずか『一点』届いていない」

 

HRの気怠い湿気を含んだ空気を一瞬で凍りつかせる、茶柱先生の容赦のない宣告。

その言葉が、教壇の黒板に張り出された無機質な成績表の上で、冷酷な現実として結晶化した。数秒前まで教室内を満たしていた「赤点回避」の歓喜のざわめきは跡形もなく霧散し、クラス全員の呼吸がピタリと止まる。

 

須藤健は、血走った目を限界まで見開き、黒板の数字を凝視したまま石のように硬直していた。彼の大きな身体が、目に見えて小刻みに震え始める。額から流れた大粒の汗が、床に落ちて小さなシミを作った。

 

「嘘だろ……。俺、あんなに頑張ったのに……。久那瀬の、あいつの問題集だって完璧にやったはずなのに……ッ!」

 

「お前がどれだけ努力しようが、結果がすべてだ。一点でも足りなければ退学――それがこの学校の絶対的なルールだ」

 

教壇を指先でコンコンと叩く、チョークの冷たい音。それを合図に、教室内は一瞬にして蜂の巣をつつついたような騒ぎへ変貌していった。

 

「先生、そんなのってないですよ! 須藤くんだって、今回は部活も休んで死に物狂いで勉強してたんです。なんとかなりませんか!?」

 

平田洋介が椅子を蹴立てるようにして立ち上がり、教壇の茶柱先生へと食い下がる。彼の端整な顔は悲痛さに歪み、クラスの崩壊を何としてでも繋ぎ止めようとする必死さに満ちていた。だが、その言葉には具体的な打開策など何一つ含まれていない。ただの感情論に過ぎないことを、茶柱先生の冷徹な一瞥が物語っていた。

 

「そうだ、硬いこと言わずにさ、先生! 頼むよ、今回だけは……!」

「須藤くんを退学にさせるなんて、そんなの絶対におかしいよ……!」

 

クラスのあちこちから、平田くんに同調するような声が上がる。櫛田桔梗もまた、目に涙を浮かべながら周囲の生徒たちを宥め、同時に茶柱先生へ懇願するような視線を送っていた。

 

「みんな、落ち着いて……! 先生、私、須藤くんの代わりに何かできることなら何でもします。だから、お願いです、もう一度だけ、もう一度だけチャンスをあげてください……!」

 

健気で、あまりにも無力な善意の爆発。誰もが須藤の退学を拒絶し、何とかしようと声を張り上げる。しかし、その誰もが「具体的にどうすればこの状況を覆せるか」という答えを持ってはいなかった。ただ混沌としたパニックだけが、重苦しい教室の空気をひたすらに掻き回していく。

 

だが――その喧騒の最中、窓際の特等席にいた僕は、顔面に貼り付けたおっとりとした微笑みの裏で、わずかに指先を凍りつかせていた。

 

(……足りない? 須藤くんの点数が、合格ラインに……?)

 

脳裏で精密に噛み合っていたはずの脚本の歯車が、一瞬だけ不快な金属音を立てて軋んだ。

これは僕の計算にはない。僕は生徒会長・堀北学から引き出した「直前の試験範囲変更」を完璧に網羅し、須藤たちの劣悪な学力でも確実に合格ラインを越えられるよう、応用問題を徹底的に削ぎ落とした特製問題集を渡したはずだった。

 

(まさか、合格ラインはクラス全体の平均が関係していたなんて……いや、それでも安全マージンを取れるよう50点は超えるように調整はしたハズ───僕の計算を越えるほど、彼の基礎的な読解力が下回っていた……?)

 

完璧な「傍観者」であり、盤上の喜劇を支配する「劇作家」を自負していた僕にとって、この一点の不足は、文字通りの完全な想定外だった。舞台の照明を完璧にコントロールしていたつもりが、役者が舞台裏の何もない空間で勝手に転んだようなものだ。

 

それ以上に、僕の胸をチリチリと灼いたのは、劇作家としてのプライドの毀損だけではなかった。

僕の奥底に眠る、あの救いようのない「お人好し」の残滓。他人の不幸を前にして、どうしても自動的に痛みを覚えてしまう、不器用な心臓が、ドクンと不快な音を立てて脈打ったのだ。須藤という一人の人間の人生が、僕の計算ミスという不条理によってここで断たれてしまうことへの、純然たる、そして表に出すことの許されない「苦悩」。

 

僕はいつものように、悲劇に怯える凡俗を愛でるおっとりとした笑みを浮かべ、いつも通りに白磁色の杖を握っていた。他者から見れば、僕はただのんびりと事態を眺めているだけにしか見えないだろう。

だが、その握られた指先だけが、自分でも気づかないほど極小に、一瞬だけ微かに震えた。

それだけだった。それだけの、他人が見れば見過ごすような些細な狂いが、僕の内面で暴れ狂う嵐のすべてを物語っていた。

 

だが、隣の席の怪物だけは、その一瞬の「指先の狂い」を絶対に見逃さなかった。

綾小路清隆は、クラスのパニックにも、平田くんたちの無意味な懇願にも一切同調せず、ただ死んだ魚のような瞳で、僕のその指先を静かに見つめていた。

 

握られた杖の、ごくわずかな震え。それだけを冷徹に査定した綾小路くんは、フゥ、と極小の、しかし酷く冷めたため息をこぼした。

 

「――静かにしろ、平田。櫛田も、もう騒ぐのをやめろ」

 

地を這うような綾小路くんの低い声が、騒然とする教室内を微かに打った。驚いたように平田くんたちが彼を振り返る。

 

「綾小路くん、でも須藤くんが……!」

 

「無駄だ。あいつ(・・・)がその僅かな動揺を隠しきれていない時点で、もう俺たちに残された手は絞られている。」

 

綾小路くんは視線だけで、僕の方を顎で指し示した。

その硝子玉のような瞳には、冷酷なまでの諦念と、客観的な事実への深い信頼だけが宿っていた。

 

「今回の茶柱先生の謀略を見抜き、須藤たちの学力を底上げするための最高効率の問題集を作ったのは久那瀬だ。その久那瀬阿憐が、今、いつも通りの微笑みの裏で、予測できなかった問題に狂いを覚えている。……この学校の仕組みを誰よりも理解し、先を読んでいた彼女の頭脳をもってしても予測できなかった問題だ。彼女のプロットすら超えた不条理を前にして、俺たちが感情論で喚いたところで、どうしようもあるはずがないだろう」

 

綾小路くんの淡々とした、しかし絶対的な説得力を持つ言葉が、教室の熱狂を冷徹にシャットダウンしていく。

クラスの連中は、僕を「いけ好かない傍観者」だと思っている。だから綾小路くんの言葉の真意までは理解できない。だが、彼が言っている「学園のシステムを誰よりも理解している久那瀬が、隠しきれない異変を覚えている」という事実だけは、彼らの胸に「本当に終わりなんだ」という致命的な絶望として突き刺さった。

 

「久那瀬さん、すら……?」

平田くんが力なく呟き、がくりと肩を落とす。教室内は、先ほどまでのパニックから一転して、墓場のような静寂へと沈み込んでいった。

 

影を潜めた綾小路くんの瞳が、僕の指先を微かに捉える。

(……なるほどな。お前ににとっては、これが計算外だったわけか、久那瀬)

言葉には出さないが、彼の瞳がそう語っているように思えて、僕は白磁色の杖を握り直し、内心で自嘲気味に唇を歪めた。

 

だが、その絶望に染まる喧騒の最中――斜め後ろの席から、もう一つの「鋭利な刃」のような視線が突き刺さった。

松下千秋。

彼女は手元のノートを指先が白くなるほど強く握りしめ、驚愕と、それ以上の不気味なものを探るような目で僕の横顔を睨みつけていた。

 

(……久那瀬さんの配った問題集のおかげで、須藤くんの他の教科の点数は跳ね上がってる。そこまでは、彼女の計算通りだったはず。なのに、この一点の不足……。久那瀬さんは、これも『知っていて』あえて傍観しているの……!? いや、今のあの僅かな手の震えは、演技……?)

 

松下さんの脳内で、僕の部屋の引き出しで目撃したあの緻密なプロット原稿と、堀北学の名前、そしてこの非情な試験結果という不気味なパズルが、歪な形を結ぼうと激しく火花を散らしている。

彼女は僕を「すべてを裏から操る絶対的な黒幕」だと、さらに深く誤認し始めているのだ。

 

 

HRの終わり。中間試験の正式な解散が告げられると同時に、教室内は重苦しい空気のまま散会となった。クラス中が須藤救済の手立てを見出せないまま、顔を曇らせて廊下へと消えていく。

 

僕は白磁色の杖を一本、床にコツンと響かせ、おっとりと微笑みながらゆっくりと立ち上がった。自分の計算違いによって崩れかけた舞台を、どう修復すべきか。成すべきことを成すために。

 

「少し、風に当たってくるよ。優しい隣人さん、また後でね」

 

「ああ、好きにしろ」

 

綾小路くんはいつも通りの平坦な声で応じ、席を立ち上がった。彼がこれから向かう場所がどこであるか、僕には分かった。茶柱先生を捕まえ、あの『交渉』を持ちかけるための、人気のない屋上。

 

(僕のミスを、隣の怪物がどう補正してみせるか……。ふふ、不本意だが、これはこれで極上の見世物だ)

 

僕は彼を追うように、しかしあえて足音を忍ばせ、距離を置いて、静かに廊下へと滑り出した。

 

だが、屋上へと続く階段の途中、人影のない踊り場で、僕の進路を塞ぐようにして一つの影が滑り込んできた。窓から差し込む朝日が、彼女の輪郭を不気味に赤く縁取っている。

 

「――待って、久那瀬さん」

 

呼び止めてきたのは、松下千秋だった。

彼女はいつもの軽薄な女子グループの仮面を完全に剥ぎ取り、その高い身体能力を隠しきれない鋭い踏み込みで、僕の目の前へと迫った。その瞳には、恐怖を必死に理性でねじ伏せようとする、強い覚悟の光が宿っている。

 

「やっぱりおかしいわ。あなた、今回の須藤くんの赤点、最初から分かってたんじゃないの? 生徒会長から情報を得ておきながら、あえて一点だけ足りないように問題集を調整した……。そうやって、Dクラスの全員をあなたの『手のひら』で躍らせて、絶望を楽しんでるんでしょう!?」

 

松下さんの痛烈な追及。彼女の計算能力は確かに高いが、残念ながら僕を過大評価しすぎている。

 

僕は彼女の必死な誤解を前にして、いつものように完璧な「冷酷な怪物」を演じようとした。しかし、脳裏を過るのは「なぜ須藤の点数がズレたのか」という純然たる計算エラーへの苛立ちと、一人の人間が不条理に潰されることへの、心の奥底のチクりとした痛み。

僕の唇に貼り付けた微笑みは、いつもなら完璧に周囲を威圧するはずの氷の仮面であるのに、今はどこか、弱々しく、煮え切らない影を帯びていた。

 

「ふふ……実につきあいにくい、勘のいいお嬢さんだね、松下さん。でも、どうだろうね……。僕がすべてを支配しているなんて、それは君の買い被りというものさ」

 

「え……?」

 

僕の声は冷徹さを保とうとしていたが、その語尾には、自分のプロットが汚されたことへの不快感と、須藤への微かな同情という「歯切れの悪さ」が混じっていた。

威圧するための言葉が、どこか弁解めいた響きを帯びて霧散していく。

 

松下さんは、僕のその微かな動揺、あるいは釈然としない態度を敏感に察知し、目を見開いた。彼女の怜悧な頭脳が、僕の「冷酷な黒幕」というイメージと、目の前の「苦悩しているような態度」の矛盾を瞬時に計算し始める。

 

(……違う。久那瀬さんは、楽しんでなんかいない……? まさか、この結果は彼女にとっても『思い通りにいっていない』の……!? この人、何を考えているの……?)

 

松下さんの脳内で、久那瀬阿憐という存在の解像度が、上がるどころか完全にモザイクのように狂解していく。すべてをコントロールしている化け物だと思っていた存在が、一転して、未完成の不条理に直面して苛立ち、同時に誰かの不幸に本気で胸を痛めているようにも見える。その多層的な歪さに、彼女は本質的な困惑の恐怖を抱いた。

 

「なんなの、あなた……。本当に、何が目的なの……?」

 

松下さんの声が震える。それは先ほどまでの「確信を持った追及」ではなく、完全に理解の範疇を超えた異物に対する、底知れない恐怖だった。

 

僕は、そんな彼女の混乱をじっと見つめていた。そして、自分の計算違いへの苛立ちと内なる苦悩を一度リセットするように、深く、静かに息を吐き出す。

パチン、と指先で白磁色の杖の頭を叩いた。

 

「――でも、驚いたな。まさか君が、そこまで僕の背中を観察していたなんてね」

 

僕の唇に、今度は純粋な「称賛」の笑みが浮かんだ。それはクラスメイトとしての仮面でもなく、「傍観者」としての傲慢でもない、彼女の隠された『実力』に対する正当な評価だった。

 

「君、普段はクラスのギャルグループの後ろで、ただ話を合わせて笑っているだけだろう? 『普通の女子高生』の演技、本当に見事だよ、松下さん。学力も、その鋭い観察眼も、すべてを完璧に『背景』に溶け込ませている。僕が劇作家なら、君は一級品の役者だ」

 

「なっ……」

 

「これほど優秀な役者が、僕の不完全な舞台の綻びを突いてくれたんだ。怒る気にもなれないさ。……でもね、だからこそ大人しく僕の劇場の『観客』として、静かにその綺麗な瞳を開けていてほしいんだ」

 

僕は再び、陽だまりのようなおっとりとした微笑の仮面を顔面に貼り付けた。一瞬だけ見せた「苦悩する人間」の顔を、完全に闇の奥へと隠蔽して。

 

「君が僕の邪魔をしない限り、君のその美しい『凡俗の演技』は、僕が最後まで保証してあげる。……さあ、用気が済んだならお行きよ。僕には、これから始まる『極上の取引』を鑑賞するという、大仕事があるんだ」

 

松下さんはそれ以上、一言も発することができなかった。彼女は、僕が「すべてを操る黒幕」なのか、「不条理に足掻く人間」なのか、その正体が完全に分からなくなり、圧倒的なゲシュタルト崩壊を起こしたまま、逃げるように踵を返し、廊下の向こうへと去っていっと。

 

 

松下さんを排除した僕は、再び静かに白磁色の杖を突きながら、特別棟の奥へと向かった。

人気のない長い廊下、その突き当たり。夕暮れの不気味な赤光が窓から差し込み、二つの長く歪な影を床に引き伸ばしている。

 

予想通り、そこには茶柱先生と、その前に佇む綾小路清隆、あるいは彼に引きずられるように配置された堀北鈴音の姿があった。

 

「先生、須藤の英語の点数を、一点、僕たちに売ってくれませんか」

 

綾小路くんの、感情の起伏が一切削ぎ落とした平坦な声が、静寂に包まれた廊下に響き渡る。

茶柱先生はただ、冷酷な笑みをその唇に浮かべていた。

 

「面白い冗談を言うな、綾小路、試験の点数を金で買うなど、この学校の歴史において――」

 

「歴史においては、存在しますよ。茶柱先生」

 

その言葉と共に、僕は壁の影からゆっくりと現れた。白磁色の杖が、コツン、と大理石の床を冷たく叩き、その高い残響音が廊下の不条理を肯定するように響く。

 

「――久那瀬?」

 

堀北鈴音が驚いたように僕を振り返る。綾小路くんだけは、その死んだ魚のような瞳を微塵も動かさず、僕の登場を待っていたかのように、あるいは僕の持ってくる「素材」を冷徹に査定するように静かに受け入れていた。

 

「お前がここに何の用だ、久那瀬。自分の計算が狂った言い訳でもしに来たか?」

 

茶柱先生の鋭い視線が僕を射抜く。流石に彼女には、僕が須藤の赤点を予期していなかったこと、確実に内心で彼のために苦心していたことまで見透かされているようだ。だが、僕はただ、おっとりとした微笑みのまま、ポケットから一枚の古い学生パンフレットのコピーを取り出し、彼女の前へと提示した。

 

「ふふ、冷たいね、先生。自分のプロットが汚されたなら、劇作家として舞台装置を補正するのは当然さ。……先生、この学校の規約第8条、および過去の生徒会における『特例処理の記録』。プライベートポイントが『学校が認めるあらゆるものを売買できる通貨』である以上、試験の点数もまた、その例外ではない。……違いますか?」

 

その資料を見た瞬間、茶柱先生の鉄の仮面が、初めて微かに歪んだ。彼女の持つ大人の余裕が、生徒会長の手によって完全に無効化された瞬間だった。

 

「……堀北学から、これを引き出したか。つくづく、可愛げのない生徒たちだ」

 

茶柱先生は小さくため息をつき、髪を乱暴にかき上げた。

 

「いいだろう。1点、10万ポイントだ。今ここで支払えるなら、須藤の退学を取り消してやる」

 

10万ポイント。堀北鈴音が絶望に唇を噛み締める中、綾小路くんは淡々と自身の学生証を取り出し、端末へと手を伸ばした。

 

「俺が6万出す。残りの4万は、堀北、お前が払え」

 

「ええ……分かったわ」

 

二人の間で交わされる、冷徹な生存戦略。端末同士が触れ合い、電子音が鳴り響く。

僕はその光景を、劇場の最前列から至高の法悦と共に眺めていた。僕の計算違いという綻びを、綾小路くんは自身の力を最低限に隠蔽しつつ、堀北鈴音という駒を表に立てて完璧に修復してみせたのだ。これ以上ないほど美しい、不条理の打破。

 

「合理的だね、綾小路くん。僕のミスをこれ以上ない形で利用して、堀北さんを成長させる糧にするなんて」

 

「お前が裏で堀北学を動かし、この情報の外枠を補強していなければ、この交渉はもっと長引いていた。お前のミスを拾っただけだ、久那瀬」

 

去り際、綾小路くんが僕の耳元で、極小のボリュームでそう呟いた。

お互いの不完全さを補い合いながら、歪な共犯関係として世界を冷徹に見つめる二人だけの時間。その冷酷な視線が交錯するだけで、僕の脳髄は狂おしいほどの歓喜で満たされていく。お人好しとしての苦悩は、彼の圧倒的な手際によって、極上のエンディングへと昇華されたのだ。

 

 

夕暮れの不気味な赤光が完全に沈み、学園が深い闇に包まれる頃。

僕は自室に戻る前に、放課後の静まり返った図書室へと足を運んでいた。外界の喧騒を完全に遮断した、紙とインクの古びた匂いだけが満ちる空間。

蛍光灯のいくつかはすでに落とされ、影が長く伸びる書架の奥、いつもの特等席に、銀糸のような美しい髪を持った少女が、普段は着けている「カミツレとラベンダーの髪飾り」を外して座っていた。

 

彼女は、一冊の文庫本を壊れ物を扱うように大切そうに両手で抱え、ページを繰る指を止めてじっと待っていた。

 

「――おや、ひより。こんな時間まで、僕を待っていてくれたのかい?」

 

Cクラスの椎名ひよりは、僕の声にハッと顔を上げると、夜の闇に一輪の白い花が咲くような、本当に嬉しそうな笑みを浮かべて僕を迎え入れた。

 

「阿憐さん……! はい、中間試験の結果が出たと聞きまして……。その、阿憐さんの体調も心配でしたし、ここでまた、お話しできればと……」

 

彼女はベッドの傍らのように、僕の隣の席へとそっと滑り込んできた。カミツレの微かな香りが、自身の計算違いと内なる苦心で少し疲弊した僕の脳髄を優しく、深く宥めていく。

 

「ふふ、ありがとう、ひより。今回の試験はね、僕の傲慢をへし折るような、実に見事な『想定外の喜劇』だったよ。役者たちが一点の重みに狂い、そして僕の隣の『怪物』が、冷徹にその舞台の綻びを修復してみせたんだ」

 

僕の唇から漏れた、自嘲気味な「傍観者」としての言葉。

だが、ひよりはその可憐な垂れ目の奥に、僕の正体を知る最高の読者だけが持つ、深い慈愛の光を宿して僕を見つめた。

 

ひよりの胸の奥は、今、切ないほどの愁いで満たされていた。

彼女には、見えていた。阿憐が語るその「傍観者」としての冷徹な言葉も、歪んだ狂気を気取るポーズも、すべてはかつて自らの身を挺して救った幼馴染み――橋本正義の存在意義を繋ぎ止めるため、自ら進んで引き受けた「鎖」であることを。

 

他人の不幸をエンターテインメントとして消費する怪物。そう自称しなければ、橋本への「救世主」としての責任も、その結果として自分の右足を奪われたという血を吐くような不条理も、きっとこのか細い少女の心では処理しきれなかったのだ。その「傍観者という仮面」を被ること自体が、彼女の根底にある、歪で、あまりにも優しすぎる「願望器」としての無垢な善意の証左に他ならなかった。

 

手元にある『銀河鉄道の夜』の表紙を、ひよりは痛ましそうに、しかし深く愛おしそうに指先でなぞる。

 

「阿憐さん、宮沢賢治のこの本を読んでいると、私、どうしても阿憐さんのことを考えてしまうんです」

 

「僕のことを……? ふふ、僕はそんなに高潔な登場人物じゃないさ。他人のために命を懸けるような真似もしない、ただの悪趣味な観客だよ」

 

僕はいつものように仮面の裏へ隠れようとしたが、ひよりの白く柔らかな指先が、僕の制服の袖をそっと引いた。彼女の瞳に宿る愁いの光が、僕の歪な殻を優しく溶かしていく。

 

「いいえ。阿憐さんは、他人の苦悩や足掻く姿を愛する『傍観者』でありながら……同時に、誰かの絶望をどうしても放っておけない『救世主(カムパネルラ)』でもあるのでしょう?」

 

「――っ」

 

ひよりの口から漏れたあまりにも純粋な言葉に、僕は喉の奥が詰まるような衝撃を覚えていた。

彼女の瞳には、僕を黒幕だと怯えた松下さんのような猜疑心も、僕の異常性を査定する綾小路くんのような冷徹さもなかった。ただ、どこまでも澄み切った、無垢な理解と、(セーレ)に差し向けられる深い哀憐だけがあった。

 

「今回の須藤くんの1点不足。阿憐さんは、ご自身のプロットが崩れたことに苛立つと同時に……須藤くんという一人の人間が、理不尽に潰されてしまうことに、本気で胸を痛めて、苦しんでいた。……教室で、綾小路さんだけが気づくほどに、ほんの少し、手が震えてしまうほどに。……同時に、正義くんに対しても、そうやってご自身を偽ることで、彼を生かし続けている。違いますか?」

 

「……ひより、僕は……」

 

「隠さなくていいんですよ、阿憐さん」

 

ひよりは本当に優しく、慈しむような微笑みを浮かべ、僕の白磁色の杖の頭に、自身の白い指先をそっと重ねてきた。かつて運命のかせ糸を破り、幼馴染みを救った代償として不自由になった、僕の右足の痛みを分かち合うかのように。ひよりの瞳からこぼれ落ちそうな愁いは、僕のすべてを赦す聖母のそれだった。

 

「あなたは、人間の輝きを見たいという、根本的にズレた倫理観を持った『願望器』のような人です。でも、その根底にあるのは、他人の不幸に本気で苦心し、大切な人のために怪物になることすら厭わない、あまりにも無垢で、綺麗すぎる善意(・・)なんですよ。松下さんはあなたの能力を恐れ、綾小路さんはあなたの視座を評価しましたが……私は、その両方を抱えて傷つきながらも微笑んでいる、阿憐さんのその『心』が、何よりも愛おしい。大好きなんですよ」

 

ひよりの言葉は、僕の冷酷な傍観者としての仮面を剥ぎ取るのではなく、その仮面をかぶるに至った哀しいお人好しとしての苦悩も、すべてを等しく、優しく包み込んで肯定してくれた。

僕がどれほど人外の擬態をしようとも、彼女だけは、僕の本質にある「哀切な優しさ」を正確に読み解き、慈しんでくれるのだ。

 

「……本当に、底が知れないね、君は。僕の歪んだ脳髄だけでなく、こんな醜い本質まで、そんなに愛おしそうに、愁いを帯びた目で肯定してくれるなんて」

 

「ふふ、阿憐さんの最高の読者ですから。あなたがどんなに冷酷な劇作家を気取っても、私はあなたの物語の奥にある、その優しい無垢な光を、いちばん特等席で見つめ続けますからね」

 

第一幕である中間試験は終わった。

僕の計算違いという挫折。それは松下の肉薄や綾小路の暗躍を経て、椎名ひよりという「最も純粋で、最も優しい理解者」の共鳴によって、僕の魂を救済する至高の物語へと昇華された。

 

「救世主」の呪いを抱えながら、「傍観者」として世界を愛でる「願望器」は、次なる期末試験という名の劇場の幕開けに向けて、ひよりの温もりを胸に、さらに深く、美しくそのプロットを刻み込んでいくのだった。

話数の更新時間について。

  • このままでいいよ。(12:00更新)
  • 変えて欲しい。(18:00更新)
  • 変えて欲しい。(20:00更新)
  • 変えて欲しい。(8:00更新)
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