"la vraie parole"   作:イナナのナナ

4 / 4
第四幕 「天上の密室、あるいは査定の檻」

 

東京都高度育成高等学校。日本政府が未来を担う若者を育成するために設立した、進学率・就職率百パーセントを誇る夢の学び舎。最新鋭の設備、広大な敷地、そして何より、生徒の端末に毎月無条件で支給される「一ポイント=一円」のプライベートポイントという名の莫大な富。

新入生たちは誰もがその破格の待遇に目を眩ませ、与えられた「十万ポイント」という大金を湯水のように使い、欲望のままに自堕落な楽園を謳歌していた。

 

特に、僕が籍を置くことになった最底辺のDクラスの惨状は、見るに堪えない、いや、見方を変えればこれ以上なく滑稽で愛おしい喜劇だった。黒板に向かって背を向ける教師の視線を盗み、堂々とスマートフォンでゲームに興じる者、大いびきをかいて眠りこける者、授業中の私語を注意されて逆上する者。規律という名の鎖を自ら解き放ち、野生の獣のように堕落していく道化たち。

だが、その混沌の影で、僕とAクラスの橋本正義による「裏工作」は、誰に知られることもなく、すでに静かに幕を開けていた。

 

「失礼するよ。生徒会長」

 

コンコン、と品よく二度、静謐な廊下にノックの音を響かせてから、僕はその重厚な扉を押し開けた。

足を踏み入れたのは、厳粛な静寂と、どこか鉄の匂いがするような重苦しい空気が満ちる生徒会室だった。窓外から差し込むうららかな春の陽光さえ、この部屋の主が放つ威圧感によって、氷のように冷たく屈折しているかのように思える。

 

一年生の段階で、ましてや入学直後に「落ちこぼれ」のレッテルを貼られたDクラスの生徒が、この学校の権力の最高中枢である生徒会室に立ち入るなど、本来であればありえるはずもない。橘茜をはじめとする生徒会役員たちの冷徹な視線が、場違いな闖入者を排除しようと僕に突き刺さる。

だが、僕には外の世界で紡いできた『実績』という名の特権があった。

 

バイパスを通じ、この白磁色の杖や特注の万年筆といった創作道具をこの閉鎖空間へ持ち込む際、生徒会と直接の承認手続きを行う特別なパイプを事前に構築しておいたのだ。今回は「今後の執筆活動に伴う、学校の基本理念についてのインタビュー」という名目を表向きに掲げ、正面から堂々と潜り込んだ。

部屋の最奥、漆黒のデスクに鎮座する一人の男が、書類からゆっくりと顔を上げた。

 

氷のように冷徹な眼光が、僕の存在を真っ直ぐに射抜く。生徒会長、堀北学。

鍛え上げられた肉体と、一切の隙を見せない峻厳な佇まい。彼が放つ圧倒的なオーラは、凡百の生徒であれば、その視線に晒されただけで言葉を失い、逃げ出したくなるほどの圧迫感を持っていた。

 

正式な手続きを踏み、大義名分を持ってここに立っている以上、彼も僕を無下に追い出すことはできない。その隣で、書記の橘茜が警戒するように書類を胸元に深く抱え、油断なくこちらを凝視している。

 

「久那瀬阿憐だな。道具の持ち込み許可の書類なら、すでに決済は終わっているはずだが。……ここには何の用だ」

 

低く、地響きのように響く声音。歓迎されていないことは明白だった。だが、その拒絶の空気こそが、僕の創作意欲を激しく刺激する。

 

「挨拶代わりさ、会長。それと……少し、哀れな僕たちの『答え合わせ』に付き合ってほしくてね」

 

僕は、手元にある白磁色の杖を指先で優雅に遊ばせ、側部に組み込まれた高精細なオペラグラスをそっと撫でた。自由な創作の許可という「権利」を誇示するように、その白磁の輝きを室内の蛍光灯の光に反射させながら、机の向こうの冷徹なエリートを、退屈な標本でも眺めるような目で視線の檻に閉じ込める。

 

「新入生たちは誰もが『夢の楽園』だと盲信して、今この瞬間もポイントをドブに捨てているけれど……少し滑稽だと思わないかい? 義務も責任も果たしていない子供に、入学初手から毎月十万円もの大金が無条件で与えられるなんて。……まるで、肥え太らせてから一気に屠殺する、家畜の飼育方法のようだね。学校側は、随分と気の長い趣味をしているらしい」

 

僕の不遜極まる言葉に、橘茜の顔が驚愕と怒りで微かに歪む。しかし、堀北学の表情は一枚の硬質なガラスのように微動だにしない。

 

「……学校が定めた規則だ。生徒がそれをどう使おうが自由であり、お前が口を挟むことではない」

 

淡々と、しかし明確に線を引くように突き放す会長。その木で鼻をくくったような対応に、僕は小さく、くすくすと喉を鳴らして笑った。声音から一切の感情を排し、ただただ冷ややかに、目の前の偉大なる道化を嘲るように。

 

「お決まりの建前だね、会長。あの入学式で、僕は各クラスの『生態』を観察させてもらったよ。規律正しいAクラス、調和の取れたBクラス、不穏なCクラス、そして完全に崩壊していた僕たちDクラス。……学校側は最初から、僕たちの『スペック』を厳格に査定してクラスに選別している。そして、今この瞬間も、授業態度や私生活の乱れ……そのすべてをリアルタイムで監視し、天秤にかけているんだろう? 」

 

「さらに言えば、僕の猟犬に上級生の席の数を確認しに行かせてみれば驚くべき結果が見えてきたんだ。そう、それこそ実力ごとにクラスを分けていなければ説明がつかない程のクラス人数の差.......この学校の『Sシステム』のSというのは『生徒』でなく『査定』や『審査』のようだね」

 

「なっ……!? どうしてそれを……っ」

 

橘茜が鋭く息を呑み、胸元に抱えていた書類をわずかに震わせた。カサリ、と頼りなく響いた紙の音が、静寂に包まれた室内で異常なほど大きく響く。

その絵に描いたような動揺だけで、僕の脳内で組み立てられた推測が、完全な『正解』であることが証明された。教室の見た目や設備には一切の差をつけず、徹底的に公平を装っているこの学校が、裏では血も涙もない減点方式の審査を行い、生徒たちの価値を容赦なく数値化しているという確信。

 

堀北学の表情は、ピクリとも動かなかった。だが、その眼鏡の奥の瞳が、僕という存在を「ただの生意気な一年生」から「排除、あるいは徹底的に警戒すべき異物」へと明確に捉え直すのが分かった。室内の温度が、一気に数度下がったかのような錯覚さえ覚えるほどの、強烈な威圧感が僕の全身を押し包む。

 

「Dクラスの人間が、入学からわずか数日でここまで見抜くか。……久那瀬、お前はこの学校で何を目的に動いている。その知性を以て、Aクラスを目指し、クラスを率いるつもりか?」

 

品定めをするような、冷徹な問いかけ。彼にとって、力を持つ者はすべて、クラスを上に引き上げるための「指導者」でなければならないのだろう。だが、それは僕の美学とは根本的に相容れない。

 

「ふふ、買い被らないでほしいな。目的?そんな大層なもの、僕にはないよ。僕はただの『傍観者』さ。この冷酷なシステムの中で、傲慢な人間たちが絶望し、足掻き、醜くも美しく変わっていく極上の戯曲を、最も近い特等席で書き留めたいだけさ。……それでは失礼するよ。良いお話をありがとう、会長。妹君のこれからの『足掻き』も、楽しみに見守らせてもらうよ」

 

最後の一言を、あえて毒針のように深く突き刺した瞬間、堀北学の完璧な仮面の奥、その眉間が僅かにピきりと跳ねた。僕はその微かな亀裂に、至上の満足感を覚えて口元を歪めながら、優雅に一礼し、冷たい沈黙が支配する生徒会室を後にした。

 

 

その日の夜。ケヤキモールの広大な敷地内にある、お洒落なオープンカフェ『パレット』のテラス席。

昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったモールには、淡いオレンジ色の街灯が灯り、ライトアップされた夜桜が春の夜風に誘われてハラハラと美しく舞い散っていた。

その幻想的な光景の中、僕たちのテーブルには、すでに二人の先客が腰を下ろしていた。

 

Aクラスの橋本正義。環境に適応する能力が異常に高い彼は、入学してまだ数日だというのに、早くも制服のネクタイを緩め、着崩した姿を自然に馴染ませている。周囲を警戒しつつも、僕が席に着くや否や、ごく自然な仕草で僕の隣の席をキープする。

 

そして、彼の正面に座るのが、Cクラスの椎名ひより。彼女は手元に置かれた古い文庫本を名残惜しそうに指先で閉じると、垂れ目の奥に深く澄んだ明晰な知性の光を宿し、僕を温かく迎え入れた。

そして、僕たちが事前に取り決めていた席へ、足音もなく、まるで背景の闇と同化するようにその男が静かに現れた。

Dクラスの同級生、綾小路清隆だ。

 

「……遅かったじゃないか、綾小路くん。僕たちの『読書同盟』が揃うまで、あと少しで桜が散ってしまうところだったよ」

 

僕は、手元にある白磁の杖のオペラグラスを向け、芝居がかった手つきで彼を空いた席へと招き入れた。彼はいつもの死んだ魚のような、一切の感情が削ぎ落とされた瞳のまま、何の感慨もなく僕の正面へとゆっくり腰を下ろした。

 

「悪い。少し寮の自販機で寄り道をしていてな」

 

平坦で、抑揚のない声音。言い訳をする風でもなく、ただ事実を淡々と述べる。

その様子を見て、橋本が「相変わらず掴みどころのない奴だな」とでも言いたげにニヤリと不敵な笑みを浮かべ、椎名さんは静かに微笑んでココアのカップにに手を添えた。

 

この四人は、入学して間もないこの数日間という極めて短い期間で、互いのあらゆる事情を詮索しない、クラスを越えた奇妙な集いである『読書同盟』を結成していた。表向きは本を愛する者たちの静かなコミュニティ。だがその実態は、互いの「利用価値」を冷徹に見定め、それでもなお平穏の一時を尊ぶ異端児たちのネットワークだった。

 

僕がこの美しい地獄を書き紡ぐ「傍観者」なら、橋本は周囲の環境に紛れ込む「蝙蝠」、椎名さんは本質を鋭く見抜く「知性の語り部」、そして綾小路は……この冷酷な世界のパワーバランスを、最も冷静に計測する「演算機」だ。

 

「――というわけさ。これが、僕が生徒会室で掴んできた、この学校の『真実(ルール)』だよ」

僕は、昼間に生徒会長の目の前で看破し、橘茜の動揺によって裏付けを得た『Sシステム』の全貌について明かした。

 

「四つのクラスがそれぞれ独立した持ち点であるクラスポイントを与えられており、日々の授業態度、私生活の乱れ、遅刻や私語といった素行によってそれがリアルタイムで増減する。そして、一ポイントにつき百円相当のプライベートポイントとして、翌月のついたちにクラス全員の端末へ容赦なく支給される」という、血も涙もないこの学校の基本構造。

 

それを聞いた椎名さんは、温かいココアのカップを両手で包み込んだまま、小さく目を見開いた。

けれど、そこに怯えや動縦の色は微塵もない。彼女はふぅ、と白い湯気の向こうへ静かに息を吐くと、どこか嬉しそうにすら見える微笑みを浮かべて語り出した。

 

「……なるほど、です。本を静かに読める静謐な学校だと思っていましたが、ここは本物の『獣の檻』……いえ、学校全体が、精巧に作られた一冊の『ディストピア小説』の舞台なのですね」

 

椎名さんは、ココアから立ち上る湯気の向こうで、僕の持つ白磁の杖へと興味深げに視線を走らせる。

 

「最初に莫大な富――十万ポイントという『甘い餌』を与えて、規則の鎖をわざと緩めてみせる。人間は、最初から厳しい環境に置かれれば警戒しますが、過剰な豊かさを与えられると、驚くほど簡単に思考を放棄して自堕落に溺れてしまいます。……ジョージ・オーウェルの『一九八四年』や、ウェルズの描く未来世界のように、この学校は生徒たちを『見えない監視の目』でコントロールし、その愚行を冷酷に数値化している……。すごく悪趣味で、だからこそ、物語として最高に面白い構造です」

 

僕は昼の答え合わせの結果をさらに深く共有する。四人がそれぞれの視点から、この「獣の檻」を冷徹に解剖し、分析し始める。

「最初に莫大な富を与えて、規則の鎖をわざと緩める・・・・・・人の本質を見る上ではこれ以上ない程の手段ですね。」

 

ふわり、と彼女の青みがかった銀髪が、春の夜風に揺れる。彼女の口から紡がれる言葉は、おっとりとしたお嬢様然とした声音とは裏腹に、極めて的確に学校が仕掛けた「自由という名の罠」の本質を抉り出していた。

 

「クラスごとに独立したポイント制であるなら……私たちのCクラスや、阿憐さんのDクラスがどれほど自滅しようとも、最初から規律を守れる優秀なAクラスが、勝手に巻き添えで没落することはない。……でも、だからこそ残酷です。スタートラインが同じ十万に見える今だからこそ、誰もが平等を錯覚できる。五月一日になり、その『化けの皮』が剥がされた瞬間、クラス間には埋めようのない絶対的な『格差』と『階級』が誕生してしまいます」

 

椎名さんは、僕の目をじっと見つめ、小さく小首を傾げた。その仕草はどこまでも愛らしいが、語られる内容はあまりにも冷酷だ。

 

「落ちこぼれたクラスは、上が見えなくなるほどの絶望を突きつけられ、生き残るために互いを疑い、泥をすすり合うことになる……。久那瀬さん、この学校のシステムを作った人は、きっとあなたと同じように、人間の醜い足掻きを特等席で観賞したい『最悪な劇作家』に違いありませんね」

 

「ふふ……。最高の褒め言葉として受け取っておくよ、椎名さん」

 

僕は心からの歓喜を以て、喉を鳴らして笑った。

素晴らしい。彼女はやはり僕の目に狂いなく、ただ本を消費するだけの退屈な読書家ではない。この学校が仕掛けた周到な心理トラップと、その後に訪れる「階級社会の絶望」を、文学的なアプローチから完璧に予見してみせたのだ。

椎名さんがココアをゆっくりと啜りながら、静かに、しかし残酷なほど的確に学校の真理を突く中、隣の橋本は苛立ちを隠せない様子でストローを弄んでいた。

 

「おいおいおい……。椎名ちゃん、おっとりした顔して随分とエグい分析するじゃないか。要するに、五月一日になった瞬間、四つのクラスの口座に恐ろしい格差が生まれるってことだろ」

 

橋本はストローを指先で弄ぶ手を止め、顎に手を当てて思考を巡らせる。その瞳の奥には、ジットリとした焦燥と、計算高い男特有の冷や汗が滲んでいた。

 

「Aクラスの連中は真面目だからな。そう簡単にはポイントは落ちねぇだろうが……問題は、いつまでもそこが安全圏じゃねぇってことだ。Aクラスを維持し続けなきゃ、卒業時に『行きたい進路を百パーセント叶える』っていう最大の特権を失う。……それに、Dクラスは、初手で確実にポイントをドブに捨ててるぜ。授業中にスマホ弄ってる奴や寝てる奴がゴロゴロいるんだろ?」

 

「Aクラスの座を守るために、葛城や坂柳の派閥争いをかいくぐらなきゃならねぇ……。お嬢様、あんたをDクラスから救い出すのは、想像以上に骨が折れるぜ」

 

彼は、僕を「最底辺のDクラス」から引きずり出すために、Aクラスという安全な高みで力を蓄え、僕を守る最強の盾になろうとしていた。だが、この学校の本質が「クラス間でのポイント剥奪戦」である以上、最高峰であるAクラスの座を守り抜くこと自体が、これから血を吐くような騙し合いと裏切りの連続になることを、彼は瞬時に察したのだ。

 

その様子を、正面に座る綾小路は、コーヒーカップを両手で包み込んだまま、微動だにせず見つめていた。そして、平坦な声音のまま、静かに口を開いた。

 

「橋本、お前の焦燥はもっともだ。だが、このルールは『クラス単位』の剥奪戦だ。個人の優秀さや規律だけでは勝てない。Dクラスの現状は破滅的だが、逆に言えば、全員の行動を統制できるレバーが見つかれば、逆転の余地は十分にある」

 

綾小路の言葉は、まるで何十年もこの世界の裏側で戦ってきたかのように達観しており、極めて合理的だった。彼は、Dクラスという泥舟の惨状を誰よりも近くで見ていながら、その表情には一ミリの絶望も浮かべていない。

 

「はぁ、面倒くさいな……。一歩間違えれば、すぐに足元を掬われて引きずり落とされる」

 

橋本は、正面の椎名さんと綾小路に聞こえないほどの微音で毒づくと、テーブルの下で、僕の冷たい手をそっと握ってきた。その掌は、先ほどよりも確実に汗ばんでいる。

 

彼は、僕をDクラスという底なしの沼から救い出すという強迫観念にも似た執着のために、Aクラスの内部という凄惨な権力闘争の中で、自らの心をガリガリと磨り潰そうとしているのだ。その焦燥、その執着、その歪み。彼が見せる隠された絶望のすべてが、僕の脳髄を、蕩けるような恍惚と愉悦で満たしていく。

 

僕は、そっと白磁色の杖のオペラグラスを片手で持ち上げ、レンズの向こうで必死にポーカーフェイスを維持しようとする橋本の引きつった顔と、静かにココアを啜るひよりさん、そして隣で何も語らずに冷徹な視線を投げる綾小路を、交互に、愛おしげに見つめた。

 

「ふふ、頼りにしているよ、ジュスティ、椎名さん、綾小路くん。僕たち四人は、クラスの壁を越えた、世界で唯一の『同盟』だ。それぞれの場所で、最高の物語を紡ごうじゃないか」

 

「……分かったぜ、お嬢様。どんなに汚ぇ手段を使ってでも、俺がAクラスの座を維持して、あんたを必ず引っ張り出してやる」

 

橋本の低い、魂を切り売りするような囁きに、綾小路が小さく肩をすくめる。

「俺は、その劇が面白くなるよう、適度に調整役を務めるとしよう。……久那瀬、あまり派手に立ち回りすぎて、堀北学から目をつけられるなよ」

 

「心配無用さ。君たちが僕の最高の役者であり、唯一無二の観測者である限り、この戯曲が途絶えることはないからね」

 

僕の勝利の為にAクラスの全権を握るべく暗躍を誓う橋本正義、Cクラスの静かなる知性として牙を研ぐ椎名ひより、すべての理と因果を冷徹に演算する綾小路清隆、そしてDクラスという混沌の中心から、すべてを観賞する僕――久那瀬阿憐。

 

四つのクラスに跨る、この歪で完璧な「読書同盟」のネットワークが、入学わずか数日にして、この学校という地獄のインフラを完全に支配するための土台を完成させていた。

夜風が吹き抜け、ライトアップされた桜の花びらが一ひら、ひらひらと綾小路の持つコーヒーカップの中へ落ち、波紋を作った。

彼はそれを気にする様子もなく、冷めかけたコーヒーを最後の一口まで静かに啜り、ほっと息をついた。

 

 

張り詰めた情報戦の行間が一段落すると、椎名さんが思い出したように、自らの傍らに置いていた文庫本の表紙を愛おしげに撫でた。

 

「そういえば、皆さん。今回の『読書同盟』の課題図書だったドストエフスキーの『罪と罰』ですが、もう読み終わりましたか? 私は今日、ちょうど上巻を読み終えたところです」

 

その言葉を聞いた瞬間、隣の橋本が目に見えてうなだれ、大きく深いため息を吐き出した。

 

「勘弁してくれよ、椎名ちゃん……。あの分厚いロシア文学を、入学早々のこのバタバタしてる時期に読まされる俺の身にもなってほしいぜ。お嬢様に言われなきゃ、最初の十ページで放り出してるところだ」

 

「ふふ、そんなに嫌がらないでおくれよ、ジュスティ。あれは人間の剥き出しのエゴと、自らが課した傲慢なルールの歪みを描いた、一級品の喜劇じゃないか。君のその苦悶に満ちた顔を見られただけでも、課題図書にした価値があったというものさ」

 

僕は白磁の杖を軽く傾け、橋本のうんざりした横顔をオペラグラス越しに覗き込んで、くすくすと喉を鳴らした。正義は頭を掻きむしりながらも、僕に少しでも良いところを見せようと、必死に脳細胞を回転させて自らの解釈を語り始める。

 

「……まぁ、読んだ限りで言わせてもらえばさ。あの主人公のラスコーリニコフって大学生、ただの自己中な誇大妄想狂だろ? 『自分はナポレオンのような選ばれた天才だから、社会の害悪である老婆を殺して金を奪っても許される』なんて本気で信じ込んでやがる。だけど結局、人を一人殺しただけの罪悪感に耐えきれなくなって、自滅していく……。要するに、自分のキャパシティを完全に見誤った、頭の固い凡人の末路ってわけだ。俺なら、もっと上手く立ち回って、証拠も罪悪感も綺麗に消し去ってみせるね」

 

どこか自信ありげに、自らの世渡りの上手さを誇示するように語る橋本。だが、その薄っぺらな「悪党の仮面」は、対面に座る静かな知性たちによって、一瞬にして容赦なく剥ぎ取られることになる。

 

「それは少し、表面的な読み方ですね、橋本くん」

 

椎名ひよりさんが、温かいココアのカップを置くと、おっとりとした垂れ目の奥にチクリと刺すような鋭い知性を光らせて首を傾げた。

 

「ラスコーリニコフが本当に苦しんだのは、『人を殺した罪』そのものではありません。彼は、自分が『非凡人』ではなく、ただの『凡人』に過ぎなかったという残酷な現実に直面したからこそ、精神的に追い詰められたのです。罪悪感に怯える自分自身への嫌悪が、彼を奈落へと突き落としました。……自分の器を測り違えたという意味では橋本くんの言う通りですが、彼は決して、あなたのように『綺麗に証拠を消して得をしよう』などという、世俗的な利益のために動いたのではないのですよ」

 

「う……。手厳しいな、椎名ちゃん……」

 

ひよりさんの物静かだが一切の妥協のない文学的突っ込みに、橋本が頬を引きつらせて絶句する。さらに追い打ちをかけるように、僕の正面でずっと沈黙を守っていた綾小路が、冷めきったコーヒーカップを見つめたまま、低く平坦な声音で言葉を重ねた。

 

「俺も椎名さんに同意見だ。橋本、お前はラスコーリニコフを『証拠の隠滅が下手な凡人』と切り捨てたが、ドストエフスキーが描いたのは、人間が脳内で組み立てた合理な理論が、いかに自身の生理的な感情や良心によって内側から瓦解していくかというプロセスだ。どんなに完璧な犯罪の筋書きを組み上げていたとしても、人間の精神は計算通りには動かない。……もしお前が、この学校のルールを完璧に利用して『裏工作』を成功させたつもりになっても、最後の最後で予期せぬ『人間の感情』に足元を掬われるかもしれない。この小説は、お前のような計算高い蝙蝠にこそ、良い警鐘を鳴らしているんじゃないか?」

 

「おいおい……。お前まで俺を袋叩きにするわけ? 同じ男だろ、綾小路」

 

橋本は完全に白旗を上げるように両手を挙げ、大袈裟に肩をすくめてみせた。クラスの壁を越えた二人の天才読書家から、一切の容赦もない理論的包囲網を敷かれ、ポーカーフェイスを維持できずに本気で困惑している彼の姿。これほど極上な役者のアドリブが、他にあるだろうか。

 

「ふふ、あはははは! 最高だ、最高だよ、皆……!」

 

僕はたまらず、はしたなくお腹を抱えて激しく笑い声を上げた。夜桜の舞い散るテラス席に、僕の歓喜の鈴の音が心地よく響き渡る。

 

「完璧に立ち回ろうとする僕の可愛い番犬(ジュスティ)が、本質を突いた二人の観測者によって、哀れな『凡人』の檻に閉じ込められてしまうなんて。ラスコーリニコフが自らの理論の重さに圧し潰されたように、正義、君がこれからこの学校のルールという『罪』と、僕への忠誠という『罰』の間で、どれほど美しく足掻いてくれるのか……。あぁ、本当に、この『読書同盟』は僕に最高のインスピレーションを与えてくれる!」

 

白磁色の杖のオペラグラスを覗き込めば、レンズの向こうで、恥ずかしそうに苦笑い浮かべる橋本、満足そうにココアを口に運ぶひよりさん、そして相変わらず何も考えていないかのような虚無の瞳のまま、微かに口元を緩めた綾小路の姿が、鮮明に拡大されて映し出された。

人間たちのエゴ、裏切り、執着、そして冷酷なシステム。

 

すべての歯車が、五月一日の「化けの皮が剥がれる瞬間」に向けて、カチカチと不気味な音を立てて噛み合っていく。

久那瀬阿憐は、胸のポケットにある「カミツレの栞」の微かな香りに意識を向けながら、仮面の裏でどこまでも甘やかな、傍観者の笑みを深めるのだった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(必須:5文字~500文字)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

よう実世界に超絶天才美少女にTS転生(作者:アークナイツ民1)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

超絶天才美少女にTS転生したけど、そんなに上手くは行かないようで...


総合評価:589/評価:6.33/短編:8話/更新日時:2026年05月19日(火) 00:23 小説情報

青春を求めて実力主義の教室へ(作者:リリリリら)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

裏社会にその名を轟かせる暗殺者「呉(くれ)一族」。▼その一千三百年に及ぶ品種改良の歴史において、潜在能力を100%解放する秘伝【外し】を完全に扱うことができる最高傑作の少年――呉 刃叉羅(くれ ばさら)。▼血みどろの世界に嫌気がさした彼は、外界から完全に隔離された「高度育成高等学校」に入学することに決める。▼


総合評価:3143/評価:7.71/連載:68話/更新日時:2026年05月22日(金) 20:30 小説情報

いつからここが尸魂界だと錯覚していた? (作者:yvrararara)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

「私が天に立つ(※友達たくさんできるかな。)」▼現代日本で平凡な生活を送っていたはずが、目を覚ますと『BLEACH』の絶対的ラスボス・藍染惣右介(5歳)に転生していた。▼霊力も斬魄刀もない『よう実』の世界で彼に与えられたのは、完璧な肉体と頭脳、そして普通の言葉が勝手にラスボス風ポエムに変換される理不尽な呪いだった。▼※Geminiを利用して加筆修正しています…


総合評価:13064/評価:8.43/連載:44話/更新日時:2026年05月22日(金) 09:38 小説情報

地雷系彼女(マイ・フェア・レディ)(作者:あなたへのレクイエムです)(原作:HUNTER×HUNTER)

「ねえ! あなたの目を、私にちょうだい? 綺麗な瓶に入れて、毎日眺めたいの!」▼アンドー=ルモアが出会ったのは間違いなく地雷系の女の子だった。ウワーッ!?▼ヨークシンシティのオークションまであと10年。▼ネオン=ノストラードの"破裂"する運命は変えられるのか。▼※掲示板形式主体作品の検索利便性を考慮しタグを控えていますが、幕間の末尾などに…


総合評価:45742/評価:8.96/連載:35話/更新日時:2026年05月22日(金) 20:01 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>