"la vraie parole"   作:イナナのナナ

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第六幕 「紺碧の檻、あるいは凡俗どもの喜劇」

春の生ぬるい風が、4階にある1年Dクラスの教室を通り抜けていく。

 

「おはよう、山内!」

 

「おはよう、池!」

 

登校すると、晴れやかな、満面の笑顔で池が山内に声をかけていた。

(……やれやれ。この二人がこんなに早くに登校することなど、珍しいこともあるものだねぇ)

彼らは入学式から1週間程、毎日のように遅刻寸前に滑り込んでくるだけの、典型的な「舞台の背景(モブ)」のはずだった。学園というシステムに阿呆のようにぶら下がっているだけの愚物。それが今日に限って、妙に早い。

 

「いやぁ、授業が楽しみ過ぎて目が冴えちゃってさー」

 

「なはは。この学校最高だよな、まさかこの時期から水泳があるなんてさ!水泳といえば女の子!女の子といえばスク水だよな!」

 

下俗な男子生徒たちが、浅薄な性欲を隠そうともせず、こちらへ下品な視線を向けてくる。僕はそんな彼らの無遠慮な視線を、席に座ったまま、まるで壊れた玩具の行進を眺めるかのような「傍観者」の目で、愛おしげに見つめていた。

男って生き物は、どうしてこうも単純で、予測通りの安い喜劇を演じてくれるんだろうねぇ。

 

僕は白磁色の杖の頭を優美に撫めまわしながら、ゆっくりと立ち上がった。僕の完璧に澄み切ったスノーホワイトのボブカットが、窓際の日差しを浴びて淡くきらめく。僕のこの不自由な右足では、水泳の授業など当然「見学」という名の安全圏だ。

 

ふと横を見ると、死んだ魚のような瞳をした綾小路くんが、男子たちの狂騒に巻き込まれにいくのか、教室の隅から滑り出そうとしていた。

彼ほどの「無機質な存在」が、あの歪な雛壇に自ら混ざりに行こうとするその動機。それ自体が僕にとっては極上のノイズだった。

 

「――おや、待っておくれ、綾小路くん」

 

僕の、鈴を転がすような、しかし明確に制止の意を含んだ声が、彼の足をピタリと止めた。

 

「君もあの下賤な輩の会話に入ろうとしているのかい?」

「あぁ、一応男子として会話に参加しない方が不自然かと思ってな。」

「ふ、それが君の『普通』だというのなら僕は止めはしないさ。」

 

(……おや、口ではそう言いながらも、随分と未練がましいじゃないか)

彼は何度も彼らの様子を窺い、会話が途切れて入り込める隙を探していた。普通の生徒なら難なく飛び込めるその輪に、彼はまるで複雑な数式を解くように慎重にタイミングを計っている。その徹底された世間知らずな不器用さが、たまらなく滑稽で愛おしい。

彼らの会話が途切れるのを見た綾小路くんは、再びガタリと音を立てて彼らの席に向けて歩を進めようとした。が、神のプロットは彼に味方しない。

 

「おーい博士ー。ちょっと来てくれよー」

「フフッ、呼んだ?」

太目な生徒が、あだ名なのか「博士」などと呼ばれてゆっくりと彼らの輪に加わった。確か名前は外村秀雄.......だったかな?

せっかく彼が脳内で組み立てたであろう「凡俗に擬態するための台本」が、新たなモブの乱入によって一瞬で書き換えられてしまったわけだ。

 

「ふふ、またタイミングを逃してしまったね。」

 

「・・・・・・あぁ、そうだな。」

 

彼は再び様子を窺う為に席へ着いたが、集まっている愚物共の方から、防音の壁すら突き破りそうなほど耳を疑うような発言が飛び交っているのが聞こえてきた。

 

「博士、女子の水着ちゃんと記録してくれよ。」

「任せてくだされ。体調不良で授業を見学する予定ンゴ」

「記録?何させるつもりだよ。」

「博士にクラスの女子のおっぱいの大きい子ランキングを作ってもらうんだよ。あわよくば携帯で画像撮影とかもなっ」

「おいおい・・・・・・、」

 

そんな人として終わっている会話を繰り広げている彼らを、綾小路くんは少し羨ましそうに眺めていた。

(……ああ、なるほどね。内容は兎も角、彼はあの『友達らしい不毛な会話』そのものに、狂おしいほどの憧憬を抱いているわけだ。いいなぁ友達、オレも友達が欲しい――君のその死んだ魚の瞳の奥から、そんな安っぽいモノローグが透けて見えるようだよ)

 

「哀れね。」

 

突然、僕の声ではない凛とした声が彼の左隣から聞こえてくる。劇場の最前列に、また一人、冷徹な観客が姿を現した。

切れ上がった美しい黒髪を微かに揺らし、腕を組んで佇む少女――堀北鈴音。彼女の切れ味の鋭い瞳は、先ほどから男子たちのくだらない下ネタの輪に加われず、哀れな子犬のように視線を泳がせていた綾小路くんを、実に見事に一刀両断していた。

 

「おや、君も来ていたのか堀北さん。」

 

「数分前にね。あなたはそこで未練がましくしている彼を見ていて気づかなかったようだけれど。綾小路くん、そんなに友達が欲しければ話しかけてみたらどうかしら?」

 

「うるさいほっとけ、それが出来たら苦労せん。」

 

(ふふ。いつもは無色透明な背景を気取っているくせに、堀北さんからの真っ当すぎる正論をぶつけられると、途端に年相応の子供じみた拗ね方を見せる。僕の美しいオペラグラスは、君のその人間らしい『綻び』を決して見逃さないよ)

「おや?しかし僕や椎名さん、ジュスティと話す時はそこまでコミュ障という訳でも無かっただろう?」

 

「色々と事情があるんだよ、こっちには。未だクラスで会話できるのが久那瀬と堀北だけとは。」

 

「あら、良かったじゃない。両手に花よ。」

 

氷の笑みを浮かべる孤高の美少女と、死んだ魚の瞳をした無機質な怪物。その不釣り合いな二人の並びに、僕は白磁色の杖を優美に弄びながら、これ以上ないほどカラリとした、悪戯っぽい愛想を振りまいて言葉を重ねる。

 

「さしずめ白い薔薇と白百合といった所かな?堀北さんも中々のトークスキルをお持ちだね。」

 

「はぁ、貴女が会話に混ざると気が狂うわ。それに言っておくけれど久那瀬さん、私は貴女とは違って彼を友人とは認めていないの。」

 

「おや冷たい。見たまえこの綾小路君の表情を、あくまで無表情を貫いているがきっと心の中ではさめざめと泣いていることだろう。」

 

「別に心の中でも泣いては居ないし例え落ちぶれたとしてもオレが堀北と友人なんて言う発想には至らないから安心しろ。」

 

「そう、安心したわ。」

 

(お互いに一切の妥協なく『友人関係』を否定し合うその冷淡さ。だけどね、そうやって意固地に線を引き合っていること自体が、すでに奇妙な関係性のプロットとして成立していることに、君たちはまだ気づいていないんだろうねぇ)

「そんな、それでは僕とも友達とは思っていないということかい?それは・・・とても悲しいね。思わず椎名さんに連絡して慰めの言葉を貰いたくなってしまうよ。」

 

わざとらしく眉をひそめ、僕は悲劇のヒロインを演じるように胸元に手を当ててみせる。ひよりちゃんの名前をスパイスとして引き合いに出せば、この冷徹な怪物がどんな反応を示すか、その行間を読み解くのは実に容易い。

案の定、綾小路くんはほんの一瞬だけ、その無機質な眉の端をピクリと動かした。

 

「安心しろ、久那瀬はちゃんと友達だと思っている。」

 

「そうかい?なら安心したよ。」

(ふふ、本当に面白い男だ。『読書同盟』に対しては明確な『執着』や配慮を見せるくせに、クラスの凡俗を前にすると途端に演算が狂う。君のその歪な境界線が、僕の脳髄をどれほど刺激するか分かっていないねぇ。僕という特等席の観客をこれほど退屈させない駒は、世界中のチェス盤を探しても君くらいのものさ)

 

「おーい、綾小路」

 

こちらでそんな漫才のようなやり取りをしていると、突如、池の口から綾小路くんを呼ぶ声が飛び出してきた。彼の方を見ると笑顔で手招きしているようだ。ついに、彼の望んだチェス盤の上が彼を招き入れた。

綾小路くんは少し迷うように僕の方を見てくる。

僕は満足げに手を振って、その哀れなピエロを舞台へと送り出してあげた。彼は何の迷いもなく、彼らのいる席に向かって足を進めていく。さあ、せいぜいその下手くそな擬態で、凡俗たちの泥沼に塗れるといい。

 

 

昼休みが終わりを迎え、遂に始まった水泳の授業。

高度育成高等学校が誇る、巨大な屋内プール施設。

外界の熱気を遮断した近代的な全面ガラス張りの室内には、エメラルドグリーンにぎらぎらと輝く巨大な水面が広がり、特有の塩素の匂いが白く立ち込めていた。

僕を含む、体調不良や身体的理由による「見学組」の生徒は全部で16人。

僕たちは、熱気と湿度に満ちた1階のプールサイドではなく、冷房が心地よく効いた「2階の見学席」へと案内されていた。ここは、ガラス越しにプール全体の盤面を文字通り特等席から見下ろせる、僕にとって最高級の観覧席だった。

僕は2階の最前列のベンチに腰を下ろし、杖に付けられたオペラグラスで眼下を見下ろすと、1階では案の定、池や山内を中心とした男子の群れが、多くの女子の見学に絶望しつつも、青いスクール水着に身を包んだ女子たちの肢体を前に、血眼になってひそひそと騒ぎ立てているのが、防音ガラス越しでもよく分かった。

 

彼らは紙切れを片手に、女子たちのプロポーションを品定めし、「おっぱいのカップ数当てゲーム」という下俗な賭けに興じている。本来ならば、その場に馴染むための『背景』として、あるいは断る理由を見つけられずにその悪巧みに巻き込まれるはずだった綾小路くんは、僕が教室で引き止めたおかげで、男子の輪から少し離れた位置で、所在なさげにプールサイドに佇んでいた。

 

「——本当に、男子ってどいつもこいつも馬鹿ばっかりね。よくあんなに騒げるもんだわ」

僕の隣に、同じく見学を希望していた少女がいた。

松下千秋。

よく整った容姿に、一見すると軽井沢恵のグループに所属する「今時の普通の女子高校生」。しかし、彼女の目の奥にある計算高さと、周囲を値踏みするような冷徹な視線を、僕は入学当初から見逃してはいなかった。彼女もまた、このDクラスという掃き溜目で、自らの本当の実力を隠して生きている「擬態の同志」の一人だ。

 

「ふふ、松下さん。でも、男の子たちが元気なのは良いことじゃないかい? クラスが活気づいているように見えるよ」

 

「久那瀬さんは本当にお人好しなんだから。あいつらの目、完全にエロいことしか考えてないわよ。……それより、久那瀬さんは今日も見学? 足、やっぱり調子悪いの?」

 

松下はベンチの端に腰を下ろすと、僕の右足へ、そしてその横にある杖へと、ごく自然を装った視線を向けた。その問いの裏には、僕の同情を誘うための言葉ではなく、僕という存在の「スペック」を測ろうとする実利的な意図が隠されている。

 

「あぁ、主治医の先生から、激しい運動や水圧がかかる行為は止められているんだ。みんなと一緒に泳げないのは少し寂しいけれど、こうして彼らの魅せる肉体の躍動を見られるから、僕はこれでも十分に特等席だと思っているよ」

 

「もう、久那瀬さんったら、面白いこと視点だね」

松下はクスクスと笑ったが、その瞳の奥の「温度」は全く上がっていなかった。彼女は僕の徹底されたお人好しの態度に、かすかな違和感を覚え始めている。自分の計算高い本性を隠している彼女だからこそ、僕の放つ「無害すぎる聖女の気配」が、かえって不自然に見えるのだろう。

だが、彼女の視線が本当に向けられている先は、僕ではなかった。

プールサイドのスタート台の近くで、インストラクターの指示を淡々と聞いている、あの死んだ魚の目をした少年――。

 

「ねえ、久那瀬さん。あそこにいる綾小路くんだけどさ」

松下が声を一段、低くした。周囲の騒音に紛れ込ませるような、極めて合理的なトーン。

「最近、久那瀬さんとよく一緒にいるじゃない? 図書室でも、Cクラスの椎名さんとか、Aクラスの橋本くんと一緒にいるって聞いたわよ」

 

松下千秋という少女の恐ろしいところは、その高い観察眼と、自分にとって得か損かを見極める徹底した現実主義にある。彼女はDクラスの落ちこぼれぶりに見切りをつけつつも、クラスを裏で動かしている「真の実力者」が誰なのかを、じっと探っているのだ。

 

「ああ、僕らはただの本好きの集まりさ。ここの図書館は、みんなで静かに本を読むだけのとても素敵な場所でね。綾小路くんも, 本が大好きなようだから付き合ってもらってるんだよ。」

僕は話を濁すように、おだやかに微笑んだ。

 

「ふーん……本、ねえ」

松下は目を細め、プールに入ろうとしている綾小路の背中をじっと凝視した。

 

「でも、不思議よね。あの綾小路くんが、Aクラスのあの警戒心の強そうな橋本くんや、Cクラスの中心にいる椎名さんと対等に席を並べてるなんて。私、少し気になってるのよね。久那瀬さんは、彼の隣にいて何か気づかない?」

 

鋭い。実に鋭いよ、松下さん。

彼女は、綾小路が発する「あまりにも不自然な平坦さ」の行間を、独自の視点から読み解ようとしている。ひよりちゃんが「物語の読者」としての直感で彼を目で追っているのに対し、松下は「現実の生存競争」における駒としての価値を測るために、彼を観察しているのだ。

 

「どうだろう。綾小路くんはいつも大人しいし、僕の難しい話にも根気強く付き合ってくれる、とっても優しい男の子だよ。松下さんが心配するような、裏のある人には見えないけれどな」

 

「阿憐がそう言うなら、そうなのかな……。でも、私の勘だと、彼はただの無能じゃない気がするのよね」

松下はそう言って立ち上がると、水面を見つめた。

 

やがて、教師の鋭いホイッスルが屋内プールに鳴り響き、男子のタイム計測が始まった。

 

「位置について。――よーい、ドン!」

 

水しぶきが上がり、凡俗な男子たちが次々と飛び込んでいく。その中で、一際異彩を放つ一人の男が、水面を文字通り「破壊」した。

 

「ハッハッハ! 美しい私の泳ぎに、跪くがいいボーイズ&ガールズ!」

 

高円寺六助。

彼は飛び込んだ瞬間から、他の生徒たちとは次元の違う圧倒的な推進力で水を捉えていた。無駄のない、しかし野生の猛獣を思わせる豪快なストローク。そのスピードは、高校生の体育の授業という枠組みを遥かに超越した、まさに「本物の水泳選手」のそれだった。

 

彼が圧倒的なトップでタッチした瞬間、2階の見学席からも「嘘でしょ……」「何あの上半身……」と、驚きと畏怖の混ざった溜息が漏れる。高円寺はプールから上がると、濡れた金髪を豪快にかき上げ、鏡を見るまでもなく自らの肉体の美しさを誇示するように笑っていた。

 

(ふふ、見事な登場人物だねぇ、高円寺くん。君のような制御不能な猛獣が盤面にいるからこそ、物語は退屈しないのさ)

 

僕がオペラグラスのレンズ越しに彼を値踏みしていると、いよいよ綾小路くんの順番が回ってきた。

 

「位置について。――よーい、ドン!」

 

彼はスタート台に立つと、いつも通りのやる気のない表情で、脱力したまま水面へと飛び込んだ。

 

――その泳ぎは、完璧に「平均的」だった。

早すぎず、遅すぎず。フォームも特別に美しくはないが、決して崩れてもいない。クラスの平均値に寸分違わず合致させた、極めて不自然なほどの「普通」。

 

プールサイドに上がってきた彼は、大きく息を乱すこともなく、ただ淡々とタオルを頭からかぶった。

 

「……ほらね、やっぱり普通じゃない」

 

隣に戻ってきた松下が、小さく、しかし確信に満ちた声で呟いた。

 

「え?」

 

「今の泳ぎ、見た? 狙い澄ましたみたいにクラスのちょうど真ん中のタイムよ。普通、あんな風に完璧にコントロールして泳げる? 彼は意図的に、自分の実力を隠してる。……間違いないわ」

 

松下の灰色の瞳に、獲物を見つけたような鋭い光が宿る。彼女は確信したのだ。綾小路清隆という少年が、このDクラスの最深部に潜む、本物の怪物であるということを。

 

それにしても、

(……あぁ、本当に。なんて、なんて醜悪で、底の浅い『擬態』なんだろうねぇ)

 

僕の脳髄の中で、冷徹な怒りの火花がパチパチと弾けた。

松下さんの言う通り、2階の見学席から見下ろす彼の泳ぎは絵に描いたような「クラスの平均値」そのものだった。速くもなく、遅くもない。時計の針が刻んだタイムは、まさに男子の平均スコアを寸分違わずトレースしたような、計算され尽くした退屈な数字。

 

しかし、2階から遮るものなく見下ろす僕の目は、誤魔化せない。

彼がプールサイドに上がった瞬間、水に濡れて露わになった、その制服の下に隠されていた『肉体の真実』。彫刻のように無駄なく削ぎ落とされることで完成した筋肉、超一流のアスリートすら凌駕する圧倒的な体幹のバランス、 繊細とは程遠い、過酷な鍛錬を経て構築されたであろう、恐るべき演算回路を内包したその骨格。

 

それほどの『神の落とし子』のような肉体を持っていながら、叩き出したタイムが「平凡な高校生の平均」だと?

(ふざけているのかい、綾小路くん。君は、観客(ボク)を完全に舐めているね)

 

 

授業が終了し、他の生徒たちが騒がしく更衣室へと引き上げていく中、僕はわざと移動を遅らせ、プールサイドの隅にある人気の無い給水所の影で待っていた。

やがて、髪から雫を滴らせ、タオルを肩にかけた綾小路くんが、いつも通りの無表情で歩いてくる。

 

「綾小路くん」

 

僕は彼を呼び止めた。その声には、先ほどまで松下に向けられていた「お人好しの美少女」の温かみは、一滴すらも含まれていなかった。

乾いた、低く、酷く冷徹な声音。

 

「……久那瀬か。何だ、まだ更衣室へ戻っていなかったのか」

 

「戻れるわけがないだろう?」

 

僕は白磁色の杖を濡れたコンクリートの床に、コツン、と硬い音を立てて突いた。その瞬間、僕の顔から全ての笑顔が剥がれ落ち、奈落の傍観者としての「本性」が剥き出しになる。僕は彼を真っ直ぐに見据え、言葉の刃を突きつけた。

 

「君の今の泳ぎ……いや、君の言う『普通』について、僕は心底、呆れ果てているんだよ」

 

「どういう意味だ。俺はクラスの平均値にきっちりとタイムを合わせたはずだが。計算に狂いはなかった」

 

綾小路くんは淡々と、非の打ち所がない合理的な回答を返してくる。まるで「正しい数式を解いたのになぜ責められるのか」とでも言いたげな、感情のない瞳。

その平然とした態度が、僕の中の「完璧な劇場」を愛する「作家」としてのプライドを、余計に逆撫した。僕は小さく息を吐き、苛立ちを隠しようともせずに声を荒らげた。

 

「そこが、君の致命的な欠陥さ、綾小路くん! 君の言う『普通』は、君のその肉体に対して、世間一般の平均では断じてない! だからこそ、逆に目立っているんだよ!」

 

「……何?」

 

初めて、綾小路くんの死んだ魚の瞳に、微かな、しかし確かな戸惑いの色が走った。

 

「君は、自分の身体の『行間』を全く読めていない。いいかい? 君のその無駄のない筋肉、完璧に統率された体幹、精度高く爆発的なしなやかさ……その、一目で『常軌を逸した訓練を積んできた』と分かる極上の肉体を晒しながら、叩き出したタイムが『クラスのちょうど真ん中』だって? 冗談じゃない!」

 

僕は一歩、彼へと詰め寄る。僕の不自由な右足が痛みを訴えたが、そんなことはどうでもよかった。

 

「あんな圧倒的なフェラーリのエンジンを積んだ肉体をしておきながら、ママチャリと同じ速度で走ってみせたら、周囲の人間がどう思うかくらい、君ほどの頭脳があれば分かりそうなものじゃないか! その不自然なまでの『帳尻合わせ』そのものが、君が何かを隠しているという最大のノイズになっているんだよ! 現に、隣にいた松下千秋は、君のその下手くそな『おままごと』の綻びを、完璧に確信していた。君のせいで、僕の防波堤の計算まで狂いそうなんだ。……本当に、呆れた男だよ、君は。なんで時折ポンコツになるんだい?」

 

(――本当にね。僕が君に求めているのは、君が完璧に凡人を演じきり、周囲を欺きながら、その奈落の深淵を覗かせるつつも平穏に興じるハートフルな物語なんだ。こんな、自分のスペックの高さを見誤った『数字だけの辻褄合わせ』で追跡者に尻尾を掴まれるような、雑な不手際は僕の美しいチェス盤には必要ないのさ)

 

綾小路くんは、僕の激しい糾弾を浴びながら、しばらくの間、じっと自分の濡れた手のひらを見つめていた。

やがて、彼は小さく、本当に小さく、自嘲気味に息を漏らした。

 

「……なるほど。世間一般の平均値というデータだけを盲信し、俺自身の肉体が周囲に与える視覚的な説得力を計算に入れていなかった、か。お前の言う通りだな、久那瀬。俺の擬態は、生身の人間を観察する視点が欠落していた」

 

「気づくのが遅いよ。君のその『世間知らずな不器用さ』は、時々、喜劇を通り越してただのホラーだよ、綾小路くん」

 

僕は息を切らしながらふん、と鼻を鳴らし、再び白磁色の杖を強く握り直した。

僕の怒りを受け止め、自らの計算のミスを認めた綾小路くんは、再びいつもの無色透明な雰囲気を身にまとった。しかし、その瞳の奥には、僕の指摘によって得た新たな「人間のデータ」を咀嚼するような、深い思考の渦が見えた。

 

「だが、松下に気づかれたのは想定外だが……お前がそこまで激昂するとは思わなかったな。俺の平穏が脅かされることが、そんなに気に入らないか?」

 

「勘違いしないでくれたまえ」

 

僕は実にあっけらかんと、しかし冷ややかに言い放ち、再び顔に「お人好しの美少女」の仮面をゆっくりと貼り付け直していった。

 

「君の平穏が壊れるのは構わない。けれど、それは君が極限状態で見せる『最高の輝き』による破滅であるべきだ。こんな、松下千秋の鋭さに足をすくわれるような、安いバグであってほしくないだけさ。それに……」

 

僕は言葉を区切り、更衣室の扉の向こう、あの図書室の静寂を思い浮かべた。

「君がその下手な擬態のせいでDクラスの連中に目をつけられたら、ひよりちゃんが発起してくれたあの『読書同盟』の平穏まで壊れてしまうじゃないか。君だって、あの場所を少しは気に入っているんだろう?」

 

その言葉に、綾小路くんは一瞬だけ沈滅した。彼は手元のタオルを頭からかぶり直すと、感情のない声で、しかしどこか静かに呟いた。

 

「……ああ。確かに、あの場所は気に入っている。椎名たちの前でなら、余計な策謀を巡らせる必要もないからな。あそこを壊されるのは、俺にとっても不都合だ」

 

(――ふふ、やっぱりね。その言葉に嘘はない。まだ日が浅いというのに冷徹な怪物である彼の底には、あの静かな図書室と、椎名さんの清廉な笑顔に対する確かな『愛着』というノイズが芽生え始めている。平穏を求める怪物が、その平穏を本気で守りたいと願い始めた時、彼の行動はより強固に、より容赦のないものへと変貌していく。その足掻きこそが、僕にとって最高のスパイスなんだよ)

 

「だったら、次からはもっとマシな『おままごと』をしておくれよ、綾小路くん」

 

僕は満足げに微笑むと、杖を翻して今度こそ更衣室へと歩き出した。

水泳の授業という、一見すると凡俗どもの安い喜劇。

しかしその水面下では、松下千秋という新たな観察者が牙を研ぎ、椎名ひよりという解読者が行間を読み、 群れから離れた綾小路清隆という怪物が、自らの安寧を守るために静かにその根を張っている。

坂柳有栖の足音、龍園翔の牙、あるいは来たるべき特別試験の足音が、夏の熱気と共に、僕たちの劇場へ確実に近づいている。

 

「さあ、次の幕を開けようか、綾小路くん」

僕はスノーホワイトの髪を揺らし、夕暮れのプール施設を後にした。僕の胸の奥の観客は、これから始まるであろう極上の人間劇(エンターテインメント)に向けて、歓喜の鳥肌を全身に立たせていた。

 

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