"la vraie parole"   作:イナナのナナ

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今回はなんか筆が乗りすぎて15000文字をオーバーしてしまいました。申し訳ございません。
久那瀬の執筆した本に関して、元ネタがあるのですが本編に直接的に関係は無いのであんまし気にしなくても大丈夫です。
.......5月1日に行くまでに7話も使う阿呆がいるらしいんですけど愚か過ぎませんこと?


第七幕「不連続な舞台裏の行間、あるいは観客たちの贅沢な戯れ」

 

4月中旬。入学式からわずか十日ほどが過ぎたその日、高度育成高等学校という巨大なシステムの歯車が、僕たちの要求通りに重々しい音を立てて逆回転を始めた。

 

放課後の図書室。午後の柔らかな、どこか退屈を誘うような琥珀色の木漏れ日が差し込む最奥の閲覧席。そこは、普段なら一般の生徒たちが近づくことすらしない、重厚な学術書や古典文学の背表紙が壁一面を埋め尽くす「知の死角」だった。僕たち【読書同盟】の四人は、いつものように外界の喧騒から隔絶されたこの席に、ひっそりと静かに集まっていた。

周囲に他の生徒の気配は一切ない。ただ、重厚な革表紙の本を開くかすかな紙の擦れる音と、窓外のグラウンドから響く運動部の掛け声だけが遠く微かに聞こえる。そんな静謐な空間の中で、対面に座る正義が、ブレザーのポケットから取り出した端末をトントンと神経質そうに指先で叩いた。

 

「……おい、お嬢様。マジで入ってやがるぜ」

 

いつものチャラチャラとした、周囲を油断させるための軽薄なトーンを完全に消し去った正義の声。それが、低く、しかし確かな興奮と、同時に大人の世界の闇に触れてしまったかのような微かな戦慄を孕んで、図書室の冷たい空気を震わせた。彼が手元を隠すように滑らせて見せてきた画面には、およそ入学したばかりの一年生の端末には表示されるはずのない、非現実的な数字が冷徹に刻まれていた。

 

【プライベートポイント残高:1,088,973】

 

学校という名の巨大な権力が、僕たちの突きつけた「査定データの漏洩」という刃に屈した絶対的な証拠。学校側は、高度育成高等学校が誇る『Sシステム』の整合性と、それを管理する教師陣の査定データを闇に葬るための口留め料として、僕たち三人への支払いを完全に完了させたのだ。それも、万が一にも「教師が生徒に脅し取られた」という形跡がログに残らないよう、完全に合法的な『学校運営委員会特別会計・課外奨学金』の枠組みからの振り込みとして偽装処理されている。大人としての醜いプライドと、周到な隠蔽工作。その必死な足掻きの痕跡こそが、僕の心を最高に満たしてくれる。

 

「ふふ、本当ですね。私の端末にも、今さっき全く同じ数字が届きました」

 

椎名さんが、まるで新しいお気に入りの文庫本でも手に入れたかのような、いつもと変わらないおっとりとした口調で、自分の端末の画面を僕たちに見せる。その華奢な指先に握られた画面の中で、百万という天文学的な数字が、彼女の可憐な垂れ目の奥で淡く発光していた。普通の一年生なら、この大金を前にして理性を失い狂喜乱舞するか、あるいは恐怖で震えるかのどちらかだろう。しかし、彼女の瞳にあるのは、知的好奇心を満たされたことへの純粋な満足感だけだった。

 

「素晴らしいね。真嶋先生も、頭の固い教員たちをねじ伏せるのに、随分と骨を折ってくれたみたいだ。僕たちの退学を狙う隙すら与えない代わりに、自分たちの退路も完全に断ったわけだね。大人の妥協を引き出すには、徹底的な不条理を突きつけるに限る。妥協をしなくて本当に正しかったよ」

 

僕は白磁色の杖の頭を優美に撫でながら、自分の端末に表示された「1,000,000」の数字を、まるで手塩にかけた自作の戯曲の完成稿を眺めるかのように愛おしげに見つめた。

 

そんな僕たちの狂騒を前にしても、僕のすぐ隣の席に座る綾小路くんだけは、死んだ魚のような瞳のまま、一切の情動を排して文庫本のページを静かにめくっていた。自分の端末の残高を確認しようとすらしない彼に向けて、僕は滑り込むように上体を寄せ、そっと手を差し伸べた。

 

「そうそう、これは僕からのささやかな前渡金、あるいはこの歪な劇団の『入団証』さ。受け取っておくれ、ジュスティ、綾小路くん、椎名さん。」

 

僕が制服の鞄から取り出し、木製の机の上に静かに並べたのは、特注の精巧な細工が施された記念品だった。

正義と綾小路くんには、燻し銀の重厚なベースに、古びた魔導書を思わせる本の意匠が彫り込まれ、その中央に小さなカミツレの花とラベンダーの色彩が七宝焼きのようにあしらわれたネクタイピン。ひよりさんには、全く同じデザインが施された可憐な髪飾り。図書室の木漏れ日を浴びて、それは影を落としたような美しい金属の輝きの中に、二つの花を静かに息づかせていた。

 

「カミツレの花言葉は『逆境に耐える』、ラベンダーは『沈黙』。この学校という不条理な逆境の中で、僕たちの繋がりを秘匿し続けるための、完璧な言葉だと思わないかい?」

 

僕がそう解説を口にするより早く、椎名さんは「まぁ……!」と両手を頬に当て、その垂れ目をいつになく大きく見開いた。彼女の可憐な瞳が、まるで世界に一冊しか存在しない稀覯本を見つけた子供のように、きらきらとした純粋な歓喜の光で満たされていく。

 

「久那瀬さん、これ……もしかして、有川ひろ先生の『図書館戦争』のオマージュですか……!?」

 

椎名さんは、普段のおっとりとした読書少女の殻を脱ぎ捨てるかのように、いつになく弾んだ声で僕に顔を寄せた。

図書特殊部隊(ライブラリータスクフォース)のあのエンブレム……。本の背景に描かれた、カミツレの花。精度高く再現された、彼らが命を懸けて守り抜こうとした『表現の自由』と『正義』。そこにラベンダーの『沈黙』という花言葉を添えることで、検閲の嵐が吹き荒れる中で、静かに牙を研ぎながら沈黙を守って戦う『図書隊』のようでもあります。なんて素敵な、本を愛する者のための意匠なのでしょう!」

 

胸元に抱えた分厚い文学全集をぎゅっと愛おしそうに抱きしめ、白い頬を微かに紅潮させながら熱弁を振るう椎名さん。

彼女のその瑞々しい文学的感性と、僕がデザインの裏に隠した細かな「行間の意図」を完璧に読み解いてくれたという事実が、僕の脳髄を、たまらなく愛おしく、誇らしい悦びで満たしていく。ああ、やはり彼女は最高の読者だ。僕が紡ぐ物語の、最も繊細なインクの滲みにまで、彼女だけは気づいてくれる。

 

「ふふ、気づいてくれたんだね、椎名さん。流石だよ。表現の自由を奪う不条理な検閲に抗い、自らの大切な場所を守るために引き金を引いた彼らの気高さは、この閉鎖された競争社会で平穏を享受する為に集まる僕たちのスタンスに、どこか重なる部分があると思ってね。……仕掛けた伏線に、最初のページで気づいてもらえるほど、作者冥利に尽きることはないよ」

 

「はい! とても光栄です。久那瀬さんのお心遣い、本当に嬉しくて……」

椎名さんは嬉しそうに何度も何度も頷くと、その細い指先で丁寧に髪飾りを拾い上げ、壊れ物を扱うように自らの美しい髪へと飾った。薄暗い図書室の最奥で、彼女の髪に咲いたカミツレの花が、まるで僕たちの秘密を祝福するように静かに輝く。

 

正義は差し出されたタイピンを、恐怖と、しかしそれ以上に所有されたことへの悦びを隠せない歪んだ目で睨みつけ、すぐに制服のネクタイへと乱暴に固定した。

「ハッ、お嬢様からのプレゼントかよ。重てえ首輪だが、悪かねえ。有川だか図書隊だかは知らねえが、要するに俺たちが『戦う部隊』ってことだろ。……で、綾小路。お前も大人しく付けとけよ。これでお前も俺たちの『共犯者』だからな」

 

促された綾小路くんは、表情一つ変えずにネクタイピンを手に取り、手のひらの上でその燻し銀の造形を淡々と観察していた。カミツレとラベンダー。その二つの花が象徴する意味を、彼の底知れない演算回路はどのように処理したのだろうか。

「……凝った作りだな。ありがたく使わせてもらう」

やはり、感情の起伏が一切見当たらない平坦な声。だが、彼がそれを制服の胸元へと滑り込ませ、カチリとピンが留まる音が響いた瞬間、この四人の『読書同盟』に、目に見えない強固な鋼の糸が通ったような、奇妙な高揚感が僕の脳髄を突き抜けた。

 

「僕らはこれから先、クラスという団体で戦うことになるだろう。時にはクラス同士の抗争の末に互いに牙を剥くような日だって来るはずだ。しかし、そんな時でもこの『入団証』を付けてこの神聖なる領域に足を踏入れたのなら、クラス間の如何なる事情も水に流し、共に本を読み、感想を語らおうじゃないか。」

 

僕のその傲慢なまでの絶対的な提案が、図書室の冷ややかな空気の中に溶けていく。

クラスの枠組みを無視し、高度育成高等学校という狂ったシステムそのものを斜め上から見下ろすような僕の提案。一見すれば、ただの本好きが集まったおままごと。しかしその実態は、各クラスの要人を糸で結ぶ、最悪に甘美な『不可侵条約』の締結だった。

 

「……ハッ、最高だね。お嬢様がそうやってチェス盤をひっくり返すような台本を書いてくれるなら、俺は喜んでその舞台で踊ってやるよ」

 

真っ先に反応したのは正義だった。彼はネクタイピンを指先で愛おしげに弾き、いつものチャラついた笑みを浮かべながらも、その鋭い瞳の奥には、僕が提示した不条理への対抗策に対する狂おしいほどの興奮を滲ませていた。

 

「他クラスの奴らと本気で殺し合いを演じた後でも、ここに来ればただの『読書仲間』に戻れる……。ククッ、そんな奇妙な免罪符、他じゃ絶対に手に入らねえからな。Aクラスの橋本正義としても、この特等席の権利は手放したくねえよ」

 

彼は僕の目論見を完璧に理解し、この共犯関係の価値を貪欲に値踏みしている。自らの生存確率を上げるための保険として、そして何より、僕という存在がもたらす予測不能なドラマを誰よりも特等席で観賞するために、彼は首輪を自ら締め直したのだ。そんな事をしなくても、僕が君を見捨てることなんてありえないと言うのに。

 

「はい、久那瀬さん。私も……何があっても、この場所だけは守り抜きたいです」

 

続いて、椎名さんが愛おしそうに髪飾りに触れながら、どこか祈るような、しかし芯の通った声音で言葉を紡いだ。

その垂れ目の奥にあるのは、純粋な読書への愛。しかしそれ以上に、彼女はこの『読書同盟』という歪で、けれど確かに温かい居場所に、自らのアイデンティティを見出している。

 

「クラスの勝敗やポイントの奪い合い……そういう冷たい現実から離れて、大好きな本の話ができる。これ以上の救いが、この学校にあるでしょうか。私は、阿憐さんの紡ぐその『物語』に、どこまでも付いていきます」

 

椎名さんのその清廉な忠誠心が、僕の脳髄を、たまらなく愛おしく満たしていく。やはり彼女は僕の最高の読者であり、この劇場の最も美しいヒロインだ。

そして、最後に残された、あの無色透明な怪物。

 

「……クラス間の事情を水に流す、か。この学校のルールを真っ向から否定するような提案だが、不思議と悪くない響きだな」

 

綾小路くんは、胸元のタイピンへと視線を落とし、相変わらず死んだ魚の瞳のまま、平坦な声で呟いた。

彼のその徹底された無表情の裏で、一体どのような演算が組み替えられたのだろうか。白い糸によって雁字搦めになっている彼にとって、この「損得勘定を抜きにした不可侵領域」という概念は、本来なら真っ先に排除すべきバグのはずだ。

しかし、彼はそれを拒まなかった。

 

(……ふふ、面白いねぇ、綾小路くん。君は『普通』に擬態したがるくせに、僕が差し出したこの上なく『異常』な特別席には、実に素直にその身を委ねるんだ。君のその平穏への執着、そして椎名さんたちのいるこの空間への、確かな『愛着』という名のノイズ……。君が仮面を守るために冷徹に動き出すその瞬間が、今から待ち遠しくて叶わないよ)

彼がタイピンを指先で静かに固定したその瞬間、僕たちの『四人だけの聖域』の境界線が、完全に完結したのを感じた。

 

「で、お嬢様。この大金、どうするよ? まさか貯金しとくだけじゃねえだろ。……そうだ、お嬢様。あんたのその綺麗なホワイトのボブカット、夏の日差しに当たると眩しすぎるんだよ。これからの季節、特等席の観客には相応しい日よけが必要だろ」

 

正義はニヤリと不敵に笑うと、早くも主人を引き立たせるための計算を頭の中で始め、椎名さんは嬉そうに目を細めて大切そうに抱えていた本をパタンと閉じた。

 

「ええ、行きましょう、久那瀬さん。実は、学校の購買では手に入らない、海外の未翻訳の原書を取り寄せたくて、ずっと悩んでいたんです。このポイントがあれば、送料をいくら払っても痛くも痒くもありませんね」

 

椎名さんはそう言って立ち上がると、僕の歩調に合わせるように、自然と一歩引いた位置で歩き出す。彼女のこういう細やかな気遣いは、本を愛する者特有の鋭い観察眼からくるものなのだろう。僕の足の不自由さを哀れむのではなく、ただの「舞台上の初期設定」として受け入れているかのような心地よさが、彼女にはあった。綾小路くんは「俺は少し図書室に残る」とだけ言い、僕たちは三人で放課後のケヤキモールへと繰り出すことにした。

 

 

放課後のケヤキモールは、支給されたばかりの十万ポイントで気が大きくなった一年生たちで溢れ返っていた。

お洒落なカフェテラスからは、凡俗たちが「次の休み、どこ遊びにいく?」「最新のゲーム機、ポイントで買っちゃったわ!」と、浅薄な全能感に浸りながら大声で騒ぐ声が聞こえてくる。彼らはまだ知らない。自分たちが今、湯水のように使っているそのポイントが、五月一日には完全に干からびる「最後の手切れ金」であることを。残高が数万ポイントに減っていくのを、ただの贅沢の代償だと信じ込んでいる彼らの無防備な背中を、僕は杖のオペラグラス越しに、じっと愛おしげに見つめる。

 

僕たちが向かったのは、モールの中でも一般の生徒が滅多に立ち寄らない、高級な輸入雑貨と専門書を扱う静謐なエリアだった。

 

「すみません、この特注の原稿用紙と、ゼブラ製のチタンGペン10個入り。それから、あちらの棚にあるインクをいくつか。支払いはこれで」

僕が端末をかざし、決済を顔色一つ変えずに済ませると、店員は一介の一年生が見せた金額の桁に一瞬だけ目を見開いたが、すぐにプロの笑みで頭を下げた。

 

「おい、お嬢様。これをかぶってみてくれよ」

正義が差し出してきたのは、上質な細編みの美しさが際立つ、純白のサマーハットだった。リボン部分には繊細な銀糸のステッチが施されており、シンプルながらも圧倒的な気品を放っている。

 

「いいのかい、ジュスティ?」

「当たり前だろ。お嬢様を最高に引き立たせるのが、猟犬()の仕事だからな。あんたのその白い髪に、絶対に似合うと思ってさ」

 

正義は僕に向ける視線を、恐怖を通り越した狂信の色で満たし、サラリと自分のポイントでそれを決済してみせた。幼少期に僕の身代わりになったトラウマからくる、彼の歪んだ忠誠。それが、僕の脳髄を蕩けるような恍惚で満たしていく。それと同時に僕の脳髄には無情にも熱を奪う重い泥のような罪悪感が満たしていく。

 

「お前が俺の身代わりになったあの日から、俺たちの主従は決まってんだよ。あんたが最高の劇を創るなら、俺はそのための最高の道具を用意する。それだけだ」

正義が耳元でそう囁く。彼は僕を恐れながらも、僕がもたらす「非日常の果実」に完全に魅了されているのだ。猟犬は、主人の命令を待つスリルそのものを楽しんでいる。ように見えているだけだ。彼は、そうでなければ己の存在意義を証明出来ないと思っているのだ。

 

一方、椎名さんは分厚い洋書の山を抱え、至福の表情で決済を終えていたが、ふと、その垂れ目の奥に一瞬だけ微かな影を落とした。

「……でも、これだけの本を一度に部屋に持ち帰ると、私のクラスの――龍園くんあたりには、ポイントの不自然な出所を嗅ぎ取られてしまうかもしれませんね。彼はそういう『違和感』に対して、とても鼻が利く人ですから」

 

「ふふ、安心しておくれ、椎名さん。君が望むなら、その本は僕の部屋の本棚に保管しておけばいい。龍園くんだって、Dクラスの足の不自由な少女の部屋まで家宅捜索には来ないさ」

「それは素敵な提案ですね。よろしくお願いします、久那瀬さん。龍園くんは、力で人を従えるのが好きな人ですが……本の話ができるわけではありませんから。私にとっての『本当の居場所』は、この同盟だけです」

椎名さんは、クラス内のリアルな緊張感をよそに、僕との「秘密の共有」を楽しそうに微笑んだ。彼女は一見おっとりしているが、その実、龍園という怪物の本質を見抜き、それをあな恐ろしやと回避するだけの冷徹な合理性を持っている。僕と彼女を結びつけているのは、本への愛と、世界の平穏を願う冷めた視線だ。

 

そんな僕たちの前に、見覚えのある長い黒髪をなびかせた少女が、熱心に英語の専門参考書を品定めしている姿が目に入った。Dクラスの「誇り高き迷い子」、堀北鈴音だ。

彼女は僕たちが雑貨や洋書の山を抱えているのを見ると、呆れたように、すべてを分かったような口調で冷たくため息をついた。

 

「久那瀬さん。支給されたばかりのポイントをそんな風に無駄遣いにするなんて、感心しないわね。この学校の仕組みがどうであれ、最初の一個月でそれだけの浪費をするのは自制心が欠如している証拠よ。少しは周りを見習って、計画性というものを身につけたらどうかしら?」

 

ピエロが、崩壊寸前の舞台の上で必死に高説を垂れている。

僕はそれを「ふふ、すまないね。気を付けるよ」と陽だまりの笑みで受け流すが、脳内では(あぁ、愛しいねぇ堀北さん。君が必死に貯めているその十万ポイントが、五月一日にはただのゴミクズになる。その時の君のプライドが引き裂かれる顔を、僕はどんな筆致で描こうか)と、最高級の玩具を見る目で彼女の傲慢さを値踏みしていた。

 

「まぁ、あなたのポイントだものね。私がこれ以上口を出すことではなかったわ。……失礼するわね」

鈴音はツンとすました顔のまま、自分の「十万ポイント」という偽りの盾を握りしめて去っていく。彼女は優秀だが、あまりにも世界のルールを信じすぎている。その「無垢な傲慢」こそが、彼女を極上の喜劇役に仕立て上げていることに、本人はまだ気づかない。

 

「……ハッ、哀れなもんだな。何も知らねえってのは。なぁ、お嬢様」

正義がクスクスと笑いながら僕に囁きかけた、その時だった。

 

「――おや。随分と賑やかなお買い物のようです。楽しそうで何よりですね、橋本くん」

 

コツ、コツ、と、僕の白磁色の杖とはまた違う、しかし同様にどこか規則的で、洗練された「杖の音」が、静謐な空間にカチリと響き渡った。

 

 

「げぇ、姫さん」という正義の反応と共に現れたのは、Aクラスを実質的に支配する車椅子の少女――坂柳有栖。彼女は数人の屈強な取り巻きを背後に従えながら、その小悪魔のような笑みを浮かべて僕たちを見つめていた。その鋭い視線は、まず僕の隣の正義へと向けられ、それから、僕が抱えている執筆道具、ひよりさんの洋書の山、ブランドの紙袋、そして僕が大切に腕に抱えている純白のサマーハットへとゆっくりと移動していく。

 

正義の身体が一瞬で硬直した。いつものチャラついた態度を完全に消し、Aクラスの絶対的な女王を前に、喉を鳴らして冷や汗を流している。

 

「……姫さん。お前も買い物かよ」

「ええ。ですが、まさか我がAクラスの橋本くんが、他クラスの女子生徒とここまで親密にされているとは思いませんでした。それも……随分と『羽振りの良い』お買い物のようですが? 入学直後の一年生が立ち寄るには、少々敷居の高いお店ばかりに見えますけれど」

 

坂柳有栖の澄んだ瞳の奥で、恐るべき知性の光がチリチリと弾けた。

入学してまだ二週間。本来なら十万ポイントしか持っていないはずの一年生が、このエリアで一般の生徒には手の届かない高級品を躊躇なく爆買いしている。その絶対的な不自然さを、彼女の天才的な嗅覚が見逃すはずがなかった。

坂柳は、僕の白磁色の杖をじっと見つめ、それから僕の目を覗き込んできた。その表情には、すべてを見透かしたような、しかし同時に「予想外の面白い怪物を見つけた」という、極上の愉悦が浮かんでいる。

 

彼女と僕の視線が交差する。お互いに「身体的なハンデ」を抱えながら、それを補って余りある知性という名の武器で世界をチェス盤のように見下ろしている同類。しかし、そのアプローチは決定的に違った。彼女は「神の視点」からゲームを支配する天才であり、僕は「傍観者(劇作家)の視点」から混沌を愛する悪魔だ。

 

「久那瀬阿憐さん、でしたね。あなたからは、我がAクラスの退屈な方々からは決して感じられない、とても芳醇な『悪意の香り』がいたします。……ふふ、どうやらこの学校には、私が退屈せずに済む最高の舞台が、最初から用意されていたようですね」

 

「お褒めに預かり光栄だよ、坂柳さん。僕たちはただ、互いに読書が趣味の友人として、ささやかな創作のインスピレーションを得るために買い物をしていただけさ。規律を乱すようなことは、何一つしていないよ」

僕はオペラグラスのレンズを彼女へと向け、一歩も引かずに、完璧に澄み切ったホワイトのボブカットを揺らしながら、陽だまりのような笑みを返した。

 

「ええ、そういうことにしておきましょう。橋本くん、あまり他クラスの魅力的な劇作家さんに首輪を握られすぎないようにね。あなたも我がAクラスの大切な『駒』なのですから」

「……分かってるよ」

正義は視線を逸らしながらも、冷や汗を拭う。彼は坂柳の底知れなさを知っているからこそ、その彼女に目を付けられた僕という存在の危うさに、内心で狂おしいほどの興奮を覚えていた。

 

「五月一日……最初の『答え合わせ』の日に、皆さんがどのような顔をされているか、今から本当に待ち遠しいものです。……行きましょうか、神室さん」

 

坂柳有栖は満足げに微笑むと、車椅子を静かに回し、取り巻きを連れて去っていった。その背中を見送りながら、正義が大きく胸の息を吐き出す。

「……はぁ、姫さん、完全に何かを察しやがったな。お嬢様、やっぱりあの天才サマは危険だぜ。」

 

「ふふ、最高じゃないか、ジュスティ。大人だけじゃなく、こんな美しい怪物の少女までが、僕たちの鑑賞する舞台に引き寄せられてくる……。物語は、役者が極上であればあるほど輝くんだよ」

 

椎名さんも、去っていく坂柳の背中を見つめながら、静かに息を漏らした。

「坂柳さん……確かこの学校の理事長さんの娘さんでしたか。あの瞳に宿った露悪的な視線・・・・・・一筋縄では行きそうにないですね。」

 

「そうだね、椎名さん。しかし、最高の読者に見守られているなら、僕も筆を鈍らせるわけにはいかないね」

 

片や、数千ポイントの残高に焦りながらも五月を盲信している家畜たち。

片や、偽りのプライドにすがる堀北鈴音。

空間の歪みを敏感に察知して手を伸ばし始めたAクラスの天才。

それぞれのキャラクターが、それぞれの歪みと知性を抱えながら、僕の周りで踊り始めている。

 

天文学的なポイントが眠る端末をポケットへと仕舞い込み、僕は正義から贈られた純白のサマーハットを愛おしげに撫で、白磁色の杖を、コツ、と床に心地よく響かせた。

 

 

同じ日の夕暮れ。

橙色の残光が窓から差し込む、誰もいなくなった静まり返る図書室。

 

最後に一人残された綾小路清隆は、先ほどまで四人で囲んでいた机の上にぽつんと置かれた、燻し銀のネクタイピンをじっと見つめていた。カミツレとラベンダー。七宝焼きの精巧な色彩が、夕闇の中で沈むように鈍く光っている。

 

彼はそれを無造作に拾い上げると、ブレザーの胸元に当てることもせず、ただ手のひらの上で転がした。その死んだ魚のような瞳には、驚きも、あるいは畏怖の念も一切浮かんでいない。

 

「有川ひろの『図書館戦争』、か」

 

ぽつりと言葉が漏れる。

椎名はあれほど無邪気に、そして熱狂的に喜んでいたが、綾小路は最初からその本質に気づいていた。いや、それ以上に久那瀬阿憐という少女がその裏に忍ばせた、より血生臭い意図までを正確に演算していた。

 

カミツレ(逆境に耐える)と、ラベンダー(沈黙)

「国家権力による不当な検閲」という絶対的な逆境に対抗するため、武力という暴力を行使した図書隊の物語。久那瀬がそれをオマージュしたということは、つまり彼女にとってのこの学校の『システム』とは、排除すべき敵性存在であり、自分たちはその『システム』を内側から破壊する「防衛部隊」であるという意味に他ならない。そしてそれは、たった4人の平穏を維持する為だけに行おうとしているのだ。

 

「百万ポイントの恐喝。そして、それを秘匿するための『図書隊』を模した共犯関係の構築。……よくできた台本だ」

 

綾小路は、感情の削ぎ落とされた声で淡々と呟いた。久那瀬阿憐という存在は、この高度育成高等学校という精緻な箱庭において、明らかに異質なバグだ。彼女はゲームに勝ちにきているのではない。自分を含むすべての登場人物を巻き込み、極上の「不条理劇」を書き上げようとしている。

 

「だが、恐らく。この学校のシステムは一筋縄でいくほど甘くはないぞ、久那瀬」

 

彼女が仕掛けた完璧なプロット。それが5月1日という最初の「査定」の日を前にして、どう歪み、どう変化していくのか。綾小路はネクタイピンをブレザーの内ポケットへと滑り込ませると、一切の足音を立てずに、静かに図書室を後にした。

 

 

夜、男子寮とは完全に隔離された女子寮の一室。

154センチほどの華奢な身体を包む部屋着に着替えた僕の部屋は、入学してわずか十日とは思えないほど、僕の個人的な色彩で完全に侵食されていた。壁一面を埋める本棚には、すでに一般的な高校生が読むはずのない、ドストエフスキーやカフカ、果ては海外の法医学書や社会学の原書が美しく並べられている。

 

「うふふ……本当に、まるで魔法の国に迷い込んだような本棚ですね」

 

椎名さんが、段ボールから取り出したばかりの、未翻訳の分厚いラテン語の原書を両手で大切そうに抱えながら、感嘆の息を漏らした。

ケヤキモールの高級エリアで購入した大量の洋書。それらは龍園翔という「違和感に鼻が利く怪物」の目を欺くため、すべて僕の部屋へと運び込まれ、二人の『秘密の図書館』として保管されることになっていた。

 

椎名さんは、本棚の空いたスペースに一冊ずつ、丁寧に、そしてどこか儀式めいた手つきで本を収めていく。そのたびに、彼女の美しい髪に飾られたカミツレの髪飾りが、部屋のペンダントライトの光を反射してチリチリと繊細に煌めいていた。

 

しかし、海外の専門書を綺麗に並べ終えようとしたその時、椎名さんの指先が、本棚の中段、一際異彩を放つ重厚な革表紙の本の傍らでピタリと止まった。

 

そこにあったのは、今日購入した本でも、学校の図書室から借りてきた本でもない、布張りの上質な装丁が施された一冊の単行本だった。

真っ黒なビロード調の布地に、怪しくも美しい銀の箔押しが施されている。ひよりさんは、その背表紙に刻まれたタイトルを、吸い込まれるように小さく読み上げた。

 

「――『狂気の町と神の落とし子』……?」

 

彼女ほどの膨大な読書量を持ってしても、そのタイトルには全く聞き覚えがなかった。しかし、その背表紙の下部に印字された著者名――『セーレ・ブランシュ』の文字を目にした瞬間、ひよりさんの身体が、まるで電流が走ったかのように完全に硬直した。

 

「セーレ、ブランシュ……先生……?」

 

椎名さんの声が、微かに震える。

椎名ひよりという少女にとって、その名はただの「好きな作家」という枠に収まるものではなかった。特定のジャンルに縛られず、ファンタジーから重厚な人間ドラマまでを縦横無尽に描き、世界を驚かせ続ける年齢不詳のノージャンルの天才。入学時点で累計発行部数3500万部を突破している現代の生ける伝説。彼女が人生で最も救われ、最も敬愛し、そのすべての新刊を擦り切れるまで読み込んできた心の神域、それこそが『セーレ・ブランシュ』だった。

 

椎名さんは、震える指先でその本棚からビロードの単行本を引き抜いた。

手製本ならではの、独特な微かな糊の香り。そして、めくった奥付に記された「私家版・第一刷」の文字。市販されているはずのない、世界にたった一冊の特異点。

 

彼女は、その本を抱きしめたまま、ゆっくりと部屋を見回した。

机の上に置かれた、今日購入したペンや原稿用紙、細かやかな装飾の施された万年筆と、特殊なインクの数々。

傷つかない特等席から、この学校のシステムを完全に見抜き、大人たちを鮮やかに脅迫して「百万ポイント」を吐き出させた、久那瀬阿憐という少女の、あまりにも緻密で不条理なプロットの数々。

 

(……ああ、そう、ですか。だから、だったのですね……)

 

椎名さんの頭の中で、点と点が、恐ろしいほどの速度で一本の美しい線へと繋がっていく。

なぜ、出会ったばかりの自分にこれほど精緻な「行間の意図」を仕掛けたプレゼントをくれたのか。なぜ、この不条理な学校のルールを、まるで最初から知っていたかのように楽しげに利用しているのか。この圧倒的な構成力、人間を観察する冷徹な視点、そして世界の形を意図的に歪める悪魔的な知性。これほどの『物語』を現実の盤面で紡げる人間など、世界に一人しかいない。

 

椎名さんは弾かれたように振り返り、手にした本を胸に抱きしめたまま、僕をじっと見つめた。その可憐な垂れ目は、驚愕を通り越し、狂おしいほどの歓喜と法悦の光で潤んでいた。

 

「久那瀬さん……いえ、セーレ・ブランシュ先生……。あなたが、この物語を執筆されていたのですね……!?」

 

「ふふ、気づいてしまったかい? 流石は僕の最高の読者だ。それはね、僕がこの学校に来る前、自分の脳髄を絞り出して書き上げた最新のプロットだよ。まだ世界のどこにも流通していない、僕の手製本さ」

 

「……! 私、『幻獣物語』のあの壮大な世界観も、キャラクターたちの隠された過去を様々なアプローチで描いた『幻獣列伝』も、世界の隙間を埋めるような『栞シリーズ』の短編たちも、すべて、すべて擦り切れるほど読んできました……! 先生の紡ぐ、ジャンルという枠組みを軽々と飛び越えていく物語の数々が、私の人生の何よりの宝物だったんです。まさか、そのご本人が……私の目の前にいるなんて……!」

 

椎名さんは、本物の神を目の当たりにしたかのように、手にした特異点の一冊を愛おしそうに、壊れ物を扱うように強く抱きしめた。

僕が「作家」を自称していることは知っていたはずだが、まさかそれが世界的な大ヒットを記録している本人であるとは、夢にも思っていなかったのだろう。カラリとしていて愛おしげな愛想を振りまく「お人好しな美少女」という僕の表の仮面は、天才作家という肩書きすら霞ませるほど完璧だったのだから。

 

「そんな風に熱く語ってもらえるなんて、作者冥利に尽きるね。椎名さん、その最新作に少し目を通してみるといい。僕が眠れぬ夜に、この不自由な右足の痛みを忘れるために、脳内のチェス盤をひっくり返しながら紡いだ、まだ誰も知らない不条理の物語だ」

 

椎名さんは息を呑み、厳かな手つきでページをめくった。その目は一文字も読み飛ばすまいとする狂信的な読者のそれだった。

「……クトゥルフ神話をベースにした世界観、その混沌の中で『永遠に続く一週間』という絶望のループに囚われた二人の子供と、彼らを嘲笑いながらも共にある一人の悪魔が、その終わりを求めて世界を壊していくお話……。ああっ、なんて美しく、そして残酷な救いなのでしょう! 先生の描く『人間』は、いつだって極限の過酷な運命の中で足掻き、託し、自分を削り落としながらも、最後にこれ以上ないほど眩しい輝きを放ちます……!」

 

椎名さんは白い頬を興奮で紅潮させ、うっとりとした表情で本を胸にぴったりと抱きしめた。

彼女の言う通りだ。僕が求めているのは、単なる露悪的な破滅(サディズム)ではない。僕が愛してやまないのは、人間たちが過酷な運命という絶望のスパイスを経て、抗い続けた先にだけ現れる、本物の「美しい結末(エンディング)」。だからこそ僕は人間が大好きだし、彼らの可能性に期待せずにはいられないんだ。

 

しばらくの間、椎名さんは夢中になってページをめくり、僕はベッドの縁に腰を下ろして、その美しい読者の横顔をただ満足げに眺めていた。彼女は時折、感嘆の息を漏らしながら、僕が仕込んだ小さな言葉の罠や、構成の妙を正確にすくい上げていく。

 

「……先生のこの『狂気の町と神の落とし子』の導入部、以前の『幻獣列伝』の第六巻で描かれた、あの没落貴族の心理描写に通じるものがありますね。あの時も、絶望の淵に立たされた人間が、最後の最後で己のプライドを爆発させる瞬間が本当に見事で……」

 

「おや、そこに気づいてくれるなんてね。あの章は、人間の『無駄な足掻き』が最も美しく結実した瞬間さ。報われないと分かっていてもなお、一歩前に進もうとする人間の不合理さこそが、物語を最高に引き立てる極上のスパイスなんだから」

 

僕たちは時間を忘れて物語の深淵について語り合った。僕が創り出した架空の世界の、そのインクの滲み一つにまで、彼女は深い愛情と理解を寄せてくれる。これほど贅沢な時間が他にあるだろうか。

 

ふと、椎名さんは本を膝の上に置き、少しだけ声音を落として僕を見つめた。

 

「こうして先生と物語の本質について語り合っていると、あの図書室に集まる他の方々の存在も、まるで先生が配置した『登場人物』のように思えてきます。……例えば、橋本くん。彼は、先生を恐れながらも、その圧倒的な非日常に魅了されている。まるで、破滅をもたらす主人に惹かれていく忠実な猟犬のようです」

 

「ふふ、ジュスティのことかい? 彼は僕の最初の『観客』であり、舞台の引き立て役さ。僕の身代わりに傷つくことでしか、自分の存在価値を証明できない哀れな男でね。でも、だからこそ彼は僕の用意したシナリオに、誰よりも従順に踊ってくれる。今日のあのハットも、彼なりの精一杯の『貢ぎ物』なんだろうね」

 

僕は机の上に置かれた、純白のサマーハットに目を向けた。正義の歪んだ狂信が形を成したそれすらも、僕にとっては舞台を彩る小道具に過ぎない。そんな訳がない。アレは僕を縛り付ける鎖であり、僕の意思で動く事は許さないという罪の証だ。

 

「では……綾小路くんは? 彼は、あの空間にいてもなお、完全に感情を削ぎ落としたままでした。百万ポイントという不条理を前にしても、彼の瞳には一切の動揺がなかった。まるですべての結末を、最初から知っているかのような……」

 

椎名さんの鋭い指摘に、僕は低く笑った。

「彼は面白いね。普通の人間なら、恐怖か狂喜に染まる場面で、彼はただ『背景』と同化しようとする。あれは、劇を観賞する僕たちとはまた違う、徹底的に計算され尽くした『無機質な演算装置』だよ。彼がこれから人間関係の中でどんな色に染まり、あるいはどんな風に僕の予測を裏切ってくれるのか……。想像するだけで、僕の心臓は狂おしいほど高鳴るんだ。期待せずにはいられないよ、彼の『足掻き』にはね」

 

読書同盟という奇妙な劇団。そのメンバーの本質を、椎名さんは驚くほどの正確さで見抜いていた。やはり彼女は、僕の隣に立つに相応しい特等席の観客だ。

 

語らいが一段落した頃、夜の静寂が部屋を完全に支配していた。ペンダントライトの光が、二人の影を優しく床に落としている。

 

椎名さんは、膝の上の私家版をそっと撫でながら、少しだけ上目遣いに僕を見つめた。その白い頬には、まだ文学的な興奮とは少し違う、微かな赤みが残っている。

 

「……あの、セーレ先生。いえ……阿憐さん」

 

彼女は少し言い淀むように、しかし決意を秘めた心地よい声で僕の名を呼んだ。

「私、ずっと、セーレ・ブランシュ先生という存在を、遠い雲の上の神様のように思っていました。でも、こうして目の前で、同じ本を愛する友人として、そしてこの不条理な学校を共に見下ろす『共犯者』として繋がることができた……。これは、どんな小説よりも劇的な奇跡です」

 

「僕にとってもそうさ、椎名さん。君のような鋭い読者に出会えたことは、僕の執筆人生において最大の幸運だよ」

 

「ですから……その、もしよろしければ、二人きりのこの『秘密の図書館』の中だけでは……。お互いに、苗字ではなく、名前で呼び合ってもよろしいでしょうか……? クラスの壁も、作家と読者という関係もすべて取り払って……ただの『阿憐』と『ひより』として、この素晴らしい劇を一番近くで楽しみたいのです」

 

椎名さんの可憐な垂れ目が、少しだけ潤みを帯びて僕の瞳を覗き込んでくる。それは、普段の冷徹な合理主義者としての彼女からは想像もつかないほど、瑞々しく、そしてどこか甘やかな響きを孕んだ提案だった。僕を崇拝する信者としての顔と、一人の少女としての純粋な好意が混ざり合った、実に美しい表情。

 

僕はそのあまりの愛らしさに、胸の奥がトクンと小さく跳ねるのを感じた。他人の感情を弄び、観賞することを無上の幸福とする僕の心に、彼女のその純粋な一滴が、思いがけず深く染み渡っていく。

 

「ふふ……それは、実に魅力的な提案だね、ひより。僕たちを結ぶ鋼の糸に、これ以上ないほど甘美な名前が付けられたわけだ。歓迎するよ。これから始まる残酷な喜劇の幕引きまで、僕の特等席で、僕の紡ぐ言葉を一番近くで聴いておくれ」

 

「はい……阿憐。喜んで」

 

ひよりは、花の咲くような本当に嬉しそうな笑みを浮かべ、カミツレの髪飾りを揺らした。その瞬間、僕たちの間に漂う空気は、冷徹な共犯関係から、どこか互いの体温を感じるような、密やかで特別な甘さを帯びたものへと変貌していた。

 

「恐らくですが龍園くんは、恐怖と暴力でクラスを統率しようとしています」

ひよりは、僕の著書を大切に抱きしめたまま、おっとりとした、しかし完全に冷え切った声で言葉を紡いだ。

「彼はとても頭が良い人です。だからこそ、もし彼が私たちが手に入れた『百万ポイント』の存在を知れば、間違いなく手段を選ばずに奪いに来るでしょう。……彼は、本の中に書かれているような『高潔な足掻き』を、最も嫌う人ですから」

 

「ふふ、そうだろうね。彼は舞台を引っかき回す、実に見事な悪役(ヒール)だ。だけど安心しておくれ。僕たちのポイントは、学校の特別会計から直接振り込まれた、公的な記録を持たない『透明な弾丸』だ。いくら龍園くんがクラスメイトの所持ポイントを監視しようとしても、僕たちが口を閉ざしている限り、その尻尾を掴むことは絶対にできないさ」

 

「ええ、分かっています。ラベンダーの『沈黙』、ですね」

 

ひよりは、ゆっくりと僕の正面の椅子に静かに腰掛けた。その可憐な垂れ目の奥には、先ほどまでの純粋な読書少女の光はなかった。そこにあるのは、龍園という暴力を完全に客観視し、それを「あな恐ろしや」と微笑みながら回避する、恐るべき合理的知性だ。

 

「坂柳有栖さんについても、同じことが言えますね」

ひよりは僕の目をじっと見つめた。

「彼女は、私たちが大人の懐に直接手を突っ込んだこと……その『結果』には気づいていました。ですが、真嶋先生の査定データを盾にしたという『台本』までは、まだ辿り着いていないはずです。違いますか、阿憐?」

 

その言葉に、僕は思わず胸の奥から湧き上がる極上の愉悦を抑えきれず、小さく、しかし深く声を立てて笑った。

ああ、本当に素晴らしい。彼女はただ僕の過去の著作や、一点物の書籍のクオリティに喜んでいただけではない。最新作を書き上げた僕の脳髄を完全に理解し、信頼したその瞬間に、僕たちが仕掛けた「大人の世界のバグ」の全容を、その明晰な頭脳で完璧に補正していたのだ。

 

「流石は僕の最高の読者だ、ひより。その通りさ。坂柳さんは天才だが、天才ゆえに『ルールの中でチェスを動かす』ことに慣れすぎている。僕たちがチェス盤そのものをひっくり返し、不条理という名の悪魔の手を借りてディーラーの首を絞めたとは、まだ夢にも思っていないだろうね」

 

「ふふ、それはとても痛快なプロットですね。5月1日、この学校の本当の地獄が始まった時、他の生徒たちが絶望する中で、私たちだけがこの『秘密の図書館』で静かにページをめくっている……。想像するだけで、読書が捗りそうです」

 

ひよりはそう言って、悪戯っぽく、しかし底知れない美しさを孕んだ微笑みを浮かぜ、自らの髪飾りにそっと触れた。

 

窓外では、高度育成高等学校の広大な敷地が、不気味な夜の静寂に包まれている。

偽りの十万ポイントに踊らされる凡俗たち。

それを支配しようとする龍園。

すべてを見下ろす坂柳。

この影の中で、新しく手に入れた純白のサマーハットを机に置き、自分が絶対に傷つかない特等席に身を置きながら、闇の中で静かにページをめくる僕たち。

 

役者は揃い、舞台の背景は完璧に塗り替えられた。

新しく手に入れた百万ポイントという牙と、この部屋に潜む二人の怪物の知性は、これから訪れる崩壊の5月1日、あの『変身』や『蝿の王』のような不条理が幕を開ける日に向けて、誰にも予測できない、最も残酷で美しい「喜劇」の幕を、いよいよ静かに引き上げるのだった。





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