勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。 作:激重感情
王立聖戦学園の朝は早い。
夜明けを告げる鐘が鳴るよりも先に、白亜の校舎は淡い光を帯び始める。中央礼拝堂の尖塔は空へ祈りを捧げる剣のように伸び、壁面に刻まれた聖紋は、朝日を受けて銀色に輝いていた。
エウリア聖王国が誇る、国家最高峰の魔法戦闘教育機関。勇者科、聖女科、賢者科、聖騎士科、そして戦技科。女神の祝福を受けた者たちを、人々を守る“聖なる剣”へと鍛え上げる場所。魔物を討ち、結界を張り、傷を癒やし、戦場で生きるための術を学ぶ場所。それが、王立聖戦学園である。
少し変わっているかもしれないが、学園の中央広場には魔王メルギドスの像がある。かつて世界に大きな災厄をもたらした魔王。その脅威を忘れないための戒めとして、学園の中央に据えられているそうだ。像の足元には、魔王が使ったとされる黒い剣が突き立てられている。
もっとも、あまりにも古い時代の話だ。今では、その剣が本物だと信じる者などほとんどいない。生徒たちにとっては、ただの古びた飾り。入学当初こそ物珍しさから目を向けたものだが、今では誰も気にしない。ただの待ち合わせ場所。入学式の時に一度説明されるだけの、構内の景色の一部だった。
校則で定められた制服は、深紺を基調としている。夜明け前の空のように濃い紺。そこに黒の差し色が入り、襟や袖、胸元には控えめな金装飾が施されている。華美ではないが、王立の名に相応しい品がある。
女神の祝福を掲げる学園にしては、少し重い色だと感じる者もいるかもしれない。だが、俺は嫌いではなかった。光を掲げるために、闇を知らなければならない。この制服には、そんな思想が込められているような気がしたからだ。
そして今、俺――『ユリス・アステル』は、その由緒ある制服を砂埃まみれにして、第一訓練場の石畳を転がっていた。
「ぐ、っ……!」
背中から地面に叩きつけられ、肺の中の空気が一気に押し出される。視界が揺れた。青い空。白い雲。訓練場を囲む淡い結界の輝き。それらがぐるりと回り、最後に、俺を見下ろす少女の姿で止まった。
赤に、わずかな金の光を混ぜたような長い髪が、朝の訓練場に差し込む光を受けて揺れていた。
アリア・ルミナス。
勇者科主席の少女。
白磁のような肌に、澄んだ青の瞳。深紺の学園制服を纏い、腰には剣を差している。黒に近い深紺のブレザー、白いシャツ、そして控えめに施された金の装飾。その制服は学園の誰もが着るもののはずなのに、彼女が身に纏うとそれだけで勇者の装束のように見えた。
立っているだけで人の視線を奪う。
眩しい。その言葉がアリアにはよく似合う。
女神に選ばれた勇者候補。
そして、俺が生まれてから一度も勝てたことのない幼馴染。
「これで、えーと……千勝目くらい? 私の勝ち」
アリアは木剣を下ろし、少し困ったように微笑んだ。
息ひとつ乱れていない。対して、俺は全身が痛い。肩は痺れ、左足は震え、制服の袖口は擦り切れ、銀色の髪には砂埃がついている。
それでも、喉から出たのは呻きではなかった。
「千五十七敗だぁぁああああっ!! くっそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
訓練場中に、俺の叫びが響き渡る。近くで剣を振っていた生徒たちが、一斉にこちらを向いた。アリアも目を瞬かせてから、すぐに苦笑する。
「ユリス、毎回叫ぶね」
「毎回悔しいからな!」
「うん。それは分かるけど……」
俺は上体を起こし、転がっていた木剣を掴んだ。
指先に力を入れるだけで、腕が悲鳴を上げる。だが、折れてはいない。動く。なら、まだ戦える。
そう思って立ち上がろうとした瞬間、膝が笑った。視界がわずかに沈む。アリアはそれを見逃さなかった。
「駄目」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてる」
「……もう一本」
「やっぱりね! だから駄目! 今日はもう終わり!」
アリアは俺の前にしゃがみ込み、木剣をそっと押さえた。
その仕草は柔らかい。力づくで奪うことだってできるはずなのに、彼女はそうしない。俺の意志を踏みにじらないように。壊れ物に触れるように。丁寧に止める。
――それが、胸の奥にひどく刺さった。
「今日のユリス、すごく良かったよ。踏み込みも前より速かったし、最後の返しも鋭かった」
「なら、何故俺は負けた」
「私の方が強いから」
「……その通り過ぎて苦しい」
アリアが小さく笑う。
その笑顔は、昔から変わらない。俺がどれだけ挑んでも、アリアは笑って受け止める。面倒そうにもしない。馬鹿にもしない。何度負けても立ち上がる俺を、ずっと見てくれる。
だから、俺はまた挑んでしまう。
勝てないと分かっていても。今日こそはと、剣を握ってしまう。
「次は勝つ」
「うん。待ってるね」
アリアは優しく言った。
本当に、優しく。俺の心が折れないように。明日もまた剣を振れるように。俺が自分を嫌いにならないように。そんな言葉だった。
そして、だからこそ苦しかった。
アリアは本気ではない。少なくとも、俺を叩き潰すことに全力ではない。先ほどの模擬戦でも、決定的な瞬間は何度もあった。俺の手首を打てた。喉元を突けた。足を払って動きを止めることもできた。
だが、アリアはしなかった。
俺が大怪我をしないように。俺が立ち上がれる余地を残すように。俺が、次も挑めるように。
それは、優しさだ。アリアの善意だ。俺はそれを知っている。知っているからこそ、叫び出したくなるほど悔しい。
「ユリス君、またアリア様に挑んでたんだ」
「本当にすごいよね。男の子なのに」
「戦技科の人で、あそこまで勇者科に食らいつける人ってあまりいないんじゃない?」
「でも、あそこまで無理しなくていいのにね。いっつもボロボロだしさ」
訓練場の端から、そんな声が聞こえてきた。
振り返りはしなかった。彼女たちに悪意はない。むしろ好意的なのだろう。俺を笑い者にしているわけではない。男でありながら剣を振る俺を、努力家で、健気で、少し珍しい存在として見ている。
エウリア聖王国では、それが当たり前だった。
女神の祝福は、一切の例外なく女性にのみ宿る。勇者も、聖女も、賢者も、聖騎士も、祝福を授かる者はすべて女性だ。彼女たちは剣を取り、魔物と戦い、人々を守る。
一方で、男性に女神の祝福が宿ることはない。
魔力量も少なく、戦闘には向かないとされている。
だから男は守られる。大切にされる。庇護される。誰も、それをおかしいとは思っていない。強い者が弱い者を守る。女神の祝福を持つ者が、持たぬ者を救う。この国では、それは正しさそのものだった。
そして俺は、その“守られる側”に置かれている。
王立聖戦学園には、選ばれた者たちが集まる。
勇者科は、人々の希望を背負う者を育てる特別課程。
聖女科は、傷と呪いを癒やす者を育てる。
賢者科は、魔法理論と術式を極める者を。
聖騎士科は、盾となり剣となって誰かを守る者を。
そして戦技科は、祝福に選ばれなかった者が、技術と努力で戦場に立つための実戦課程だった。
剣術、体術、基礎魔法、対魔物戦闘、戦場での生存術。華々しい勇者科や聖女科と比べれば、ずっと地味だ。だが、現場に最も近い学びがある。
俺はその戦技科にいる。
男でありながら、前線に立つために。
それでも、周囲の目は変わらない。男なのに頑張っている。男なのに勇敢だ。男なのに、戦技科でよくやっている。
――男なのに。
その言葉はいつも、俺の努力の前に置かれる。
「ユリス」
アリアの声で、意識が戻る。彼女は俺の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?」
「問題ない」
「本当に?」
「本当だって」
「じゃあ、ちゃんとリーナに診てもらって」
「この程度なら放っておけば治る」
「駄目」
即答だった。アリアの目が、ほんの少しだけ厳しくなる。勇者候補としてではなく、幼馴染としての目。この目をしたアリアは、絶対に譲らない。
「ユリスはすぐそう言う。でも、無茶を重ねたら身体を壊すよ」
「そんな柔じゃないって」
「でも念の為診てもらって」
「……どうしても?」
「どうしても」
観念した俺をみて、アリアは笑った。
それから立ち上がり、手を差し出した。白く、細い手。けれど、その手は俺よりもずっと強い。俺は一瞬だけそれを見つめ、結局、自力で立ち上がった。
アリアの手が、空中で小さく止まる。すぐに彼女は微笑んだ。何でもないように。俺が意地を張ったことなど、気づいていないふりをするように。
「行こう。リーナ、もう治療棟にいると思う」
「ああ」
訓練場を出る時、また周囲の視線が集まった。微笑ましいものを見る目。勇者候補に挑み続ける、珍しい男子を見る目。そのどれもが温かい。温かいから、息苦しい。
治療棟は、第一訓練場から少し離れた白い建物だった。清潔な薬草の匂いと、聖魔法に使う香油の柔らかな香りが廊下に満ちている。窓から差し込む朝日が、白い床に淡い金色の線を落としていた。
その一室に、リーナ・セレナーデはいた。
淡いミントグリーンの髪は、ふんわりと丸みを帯びたボブ。前に落ちる小さな編み込みには、白い花飾りが添えられている。緑の瞳は穏やかで、傷ついた者を拒まない優しさを湛えていた。
深紺の制服に白いケープを合わせ、胸元には聖女科を示す小さな銀の聖紋が輝いている。彼女はとても治療棟の空気に溶け込んで見えた。
清楚で、可憐で、優しい。
聖女という言葉が、これほど似合う少女もいないのだろう。
けれど、俺を見る目だけは、いつも少し厳しい。今日も今日とて、俺の姿を見るなり小さくため息をついた。
「……また、随分と派手にやりましたね」
「そこまでではない」
「ユリスさんの“そこまでではない”は、全く信用できません」
リーナは椅子を引き、俺に座るよう促した。アリアが横から言う。
「リーナ、お願い。ユリスまた無茶したから」
「また、ではなく今日も、ですね」
「二人して俺を責めるな」
「責めていません。心配しているんです」
リーナの声は柔らかい。だが、その柔らかさの中には、逃げ道を塞ぐような強さがあった。俺は諦めて椅子に座る。
リーナは俺の袖を丁寧にまくり、傷の状態を確認した。打撲。擦過傷。筋肉の炎症。いつものことだ。けれど、リーナはいつものように痛ましそうな顔をする。
「右肩、かなり負担がかかっています。左足もです。これで“もう一本”とか言っていませんよね?」
「……」
「言ったんですね」
アリアが横で小さく笑った。
リーナも呆れたようにため息をつき、それから俺の腕に手を添えた。
「治します。少しじっとしていてください」
淡い光が彼女の掌に灯る。聖女科の治癒魔法。女神の祝福を帯びた魔力が、傷口に染み込んでいく。温かく、優しく、痛みを溶かすような光だった。
裂けた皮膚が塞がる。熱を持っていた筋肉が落ち着く。呼吸が少し楽になる。
「いつも悪いな」
「悪いと思うなら、もう少し怪我を減らしてください」
「それは難しい」
「即答しないでください」
リーナは拗ねたように言う。けれど、その表情はどこか嬉しそうでもあった。
彼女はいつもそうだ。俺が傷つくと怒る。呆れる。心配する。それでも、治療する時の彼女はどこか誇らしげだった。聖女候補として誰かを癒やせること。傷ついた者を、もう一度立ち上がらせること。それが、リーナにとって大切な意味を持っているのだと、俺にも何となく分かっていた。
「リーナの治療は、相変わらず効くな」
「当然です。聖女科ですから」
「助かる。リーナが治してくれるから、俺は明日も剣を振れる」
何気なく言った言葉だった。本当に、ただの感謝だった。だが、リーナの手が一瞬だけ止まる。
「……そう、ですか」
「ああ」
「それなら、私はもっと上手くならないといけませんね」
「今でも十分だろ」
「十分ではありません」
リーナは静かに首を振る。光の中で、淡いミントグリーンの髪がわずかに揺れた。彼女の緑の瞳は、まっすぐ俺を見ている。
「ユリスさんが明日も剣を振るなら、私はその傷を癒やせる聖女でいたいんです」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
リーナの声は穏やかだった。だが、そこには揺るぎない何かがあった。俺が勝手に剣を振り、勝手に負け、勝手に傷つく。その傷を彼女は癒やしてくれる。それを当たり前のように受け取っている自分に、ほんの少しだけ罪悪感を覚えた。
「……無茶を減らす努力はする」
「本当ですか?」
「努力はする」
「信用できない言い方です」
リーナが小さく笑う。その隣で、アリアが安心したように息を吐いた。
「ありがとう、リーナ」
「アリアさんが礼を言うことではありません」
「でも、ユリスを治してくれたから」
アリアは自然にそう言った。リーナも自然に頷いた。
俺だけが、その言葉に引っかかる。
ユリスを治してくれた。
まるで、俺はアリアの大切な荷物のようだった。
いや、違う。アリアはそんなつもりで言っていない。リーナもそうだ。二人とも、ただ俺を心配しているだけだ。
そんなことは分かっている。分かっているのに、胸の奥がざらつく。
――クソみたいな自分が心底嫌になる。
治療が終わる頃には、身体の痛みはほとんど消えていた。リーナは俺の袖を戻しながら言う。
「今日は、もう激しい訓練は禁止です」
「軽い素振りなら」
「禁止です」
「走り込みは」
「禁止です」
「瞑想は?」
「それなら許します」
「分かった。剣を持ちながら瞑想する」
「ユリスさん?」
「冗談だ」
リーナの目が本気だったので、俺は素直に両手を上げた。アリアがまた笑う。その笑顔を見ていると、治療棟の白い空間がやけに穏やかに思えた。
傷を癒やしてくれる聖女候補。心配してくれる勇者候補。俺は恵まれている。人に大切にされている。きっと、他から見れば幸せなのだろう。
だが――俺の胸の奥に沈んだ黒い感情は、少しも消えてくれなかった。
リーナが痛みを癒やしてくれても。アリアが優しく笑ってくれても。周囲が温かい言葉をかけてくれても。俺の胸の奥には、ずっと同じ願いが沈んでいる。
――アリアに勝ちたい。
守られる側ではなく、一人の戦士として、アリアの前に立ちたい。
治療棟を出る時、リーナが背中に声をかけた。
「ユリスさん」
「何だ?」
「明日も訓練するんですよね」
「ああ」
「では、怪我をしたら必ず来てください」
「怪我をしないよう努力する」
「それが一番です。でも、もし傷ついたら――」
リーナは微笑んだ。
「私が治します」
その言葉は、優しかった。
優しくて、温かくて、少しだけ重かった。
俺は頷き、治療棟を後にする。
外に出ると、朝の光はもうすっかり明るくなっていた。白亜の校舎が輝いている。女神の祝福を受けた者たちが、今日も剣を取り、魔法を学び、誰かを守るために強くなっていく。
その中で、俺は拳を握った。
戦技科の生徒として。女神に選ばれなかった者として。男でありながら、前線に立とうとする愚か者として。
俺は、褒められたいんじゃない。慰められたいんじゃない。守られたいんじゃない。
勝ちたい。
ただ、それだけだった――。