勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。 作:黒雪ゆきは
「──やはり斬る」
言葉が終わるより早く、女は動いていた。
速い、という認識すら遅かった。
黒と深紫の影が地面を滑り、二本の刃が左右から俺の間合いを削り取る。狙いは首ではない。心臓でもない。右手首。魔王の剣を握る指。俺から武器を奪うことを目的とした極めて冷徹な一撃。
「っ……!」
反射的に魔王の剣を引く。
黒い刀身と短い双剣がぶつかり、朝の集落に甲高い音が走った。受けた瞬間、腕の芯が痺れた。
立派な角を持つ純魔族ではない。おそらく、魔族と人間の混血。だが、その刃に半端なものは一つもなかった。アリアの剣とは違う。
アリアの剣は眩しい。正しく、速く、まっすぐで、見上げたくなるほど遠い。
しかし、女の刃は今まで味わったことがない鋭さがあった。ただ、冷たい。
相手を倒すために必要な部位だけを、必要な力で斬る。そこに誇示も、華やかさも、情けもなかった。
「遅い」
短い言葉。
次の刃が膝へ来た。
俺は後ろへ跳ぶ。だが、足が重い。五日間の移動で削られた体力は、意地だけでは戻らない。踏み込んだつもりの足が、半歩遅れる。
刃が太腿を裂いた。
「ぐっ……!」
制服の布が裂け、熱い痛みが走った。
浅い。だが、無視できるほどでもない。
血が滲む。足に力を入れるたび、裂けた皮膚が引き攣った。
『ほう』
胸の奥で、メルギドスが低く声を漏らした。
『殺さぬ。だが、動けなくする気ではあるな。手首、膝、足首、肩。実に無駄がない』
(感心してる場合か……!)
『感心に値する。貴様の弱点を正しく見ている』
(俺の心配をしろ!)
『必要か?』
(必要に決まってるだろ!)
内心で毒づいた瞬間、女の目がわずかに細くなった。声に出したわけではない。
それでも、何かを察したような目だった。
興味ではない。斬るべき要素が一つ増えた、とでも言いたげな目だった。
女の足が沈む。
来る。今度は正面。俺は魔王の剣を構え直す。重い。腕が軋む。太腿が痛む。右肩の奥には、五日前から残っている鈍い疲労が澱のように沈んでいた。
だが、構えなければ斬られる。
女が踏み込んだ。双剣が交差する。右の刃が魔王の剣を外へ流し、左の刃が懐へ潜り込む。狙いは脇腹。骨の隙間。呼吸を奪う位置。
受ければ崩される。
避ければ足が追いつかない。
ならば、力で押し返す。
「黒装……!」
胸の奥に意識を向ける。
魔王印が熱を帯び、黒紫の靄が右腕へ集まろうとした。だが、闇が形を取るより早く、女の刃が俺の右手首を打った。
「がっ……!」
指が痺れる。
魔王の剣を落としそうになった。慌てて握り込む。だが、黒装の流れは途切れていた。胸の奥で燃えかけた闇が、腕へ届く前に散る。
女は止まらない。
右足を払う。俺は踏ん張り堪えた。
肩を打つ。魔王の剣が流される。
反撃しようとした瞬間、喉元の寸前に刃が走る。
止まるしかなかった。
見られている。黒装の発動も、魔王の剣の重さも、俺の疲労も、全部。
『黒装の前兆が大きすぎる』
メルギドスが言った。
『右腕へ意識を寄せる癖。呼吸の変化。そして、胸の魔王印から魔力を流すまでの遅さが何より致命的だ。見える者には見える』
(今言うことか……!?)
『今言わねば斬られるだろう』
(もう斬られてる!)
『まだ動ける。ならば問題ない』
問題しかない。
刃と刃がぶつかるたび、腕の芯が削られていく。魔王の剣は強い。まともに当たれば、女の双剣ごと叩き折れるかもしれない。
だが、当たらない。
女は受けない。流す。逸らす。潜る。俺の剣が最も重くなる瞬間だけを外し、最も戻しにくい角度で懐へ入る。
魔王の剣に、俺が振らされている。
その事実が、嫌でも分かった。
「闇の匂いは濃い」
女が言う。
「だが、扱えていない」
肩を打たれる。
「剣も同じだ。持っているだけ」
足首を狙われる。
「魔王の剣に選ばれたのか、拾ったのかは知らない。だが、今のお前は闇に振り回されているだけだ。──相応しくない」
俺は後退する。いや、後退させられる。
胸に刺さる言葉だった。反論はできない。
実際、その通りだからだ。
俺は魔王の剣を持っている。黒装も使える。メルギドスと契約し、闇の魔力を得た。
だが、それだけだ。使いこなしているわけではない。アリアに届くどころか、黒域の女一人に手も足も出ない。
それが今の自分の位置なのだと痛感させられる。あまりに足りない。
「くそ……っ!」
考えろ! 頭を使え!
俺は踏み込んだ。力任せでは駄目だ。
だから、腕力で振り下ろすのではなく、体幹と踏み込みを使え!
女は俺の右腕を見ている。魔王の剣を見ている。黒装の前兆を警戒している。
なら、逆だ。俺は右腕へ闇を流すふりをした。
女の視線が、わずかに右手首へ落ちる。
その一瞬、足元の影へ意識を沈めた。
魔王の剣の気配を、影の中で揺らす。
できるかどうかは分からない。
だが、やる。
女が踏み込んだ瞬間、俺は半歩だけ斜めへ出た。前ではない。後ろでもない。剣を当てるためではなく、予測を外すための半歩。
魔王の剣を振る。遅い。重い。
だが、女の予測より、ほんのわずかに軌道がずれた。刃は届かない。
だが──剣先が彼女の黒髪を掠めた。
一房だけ、黒い髪が宙に舞う。
女の真紅の瞳が、ほんの少しだけ見開かれた。
「……偶然か?」
正直、半分は偶然だった。
だが、言う必要はない。
女は落ちた髪を一瞥し、それから俺を見た。
次の瞬間、視界が揺れた。
「っ……!?」
足を払われていた。
反応できなかった。髪を掠めたことで、ほんの一瞬だけ意識が緩んだ。そこを突かれた。
背中から地面に叩きつけられる。
肺の空気が抜けた。
魔王の剣を握る手に力を入れようとした瞬間、女の靴が俺の手首を踏んだ。
「ぐ、っ……!」
もう片方の刃が、喉元に突きつけられる。
冷たい金属が、皮膚に触れる寸前で止まっていた。
集落が静まり返る。誰も声を出さない。
これが、今の俺の現実だった。
「弱い」
女は言った。
その声に、侮蔑はあった。
だが、決めつけはなかった。
ただ、見たものをそのまま言っている声だった。
「理由など挙げればキリがないが――」
真紅の瞳が、俺を見下ろす。
「ただ──お前が弱い」
胸の奥が軋んだ。
屈辱だった。悔しかった。
今すぐ立ち上がって、もう一度剣を振りたいと思った。だが、それ以上に。
「……ははっ、そうか」
声が漏れた。
女の眉がわずかに動く。
「何がおかしい」
「いや」
喉元に刃を突きつけられたまま、俺は小さく笑った。
「ようやく、ちゃんと弱いと言われた気がしてな」
女は一瞬、黙った。
それから、心底理解できないものを見る目になった。
「気持ち悪いな、お前」
「……それも言われるのは初めて」
やはり、俺は弱い。
それを嫌というほど突きつけられた。
『ククク……よいぞ、ユリス』
メルギドスが笑う。
『実に歪だ。弱いと断じられて安堵するとは、なかなか見込みがある』
(安堵してない)
『似たようなものだ』
(全然違うわ!)
刃が、ほんのわずかに喉へ近づいた。
「……妙だな」
「何が」
「お前、時々ここにいない何かを見ている」
「……気のせいだ」
全く信じていない目であった。
だが、女はそれ以上追及しなかった。
しばらく俺を見下ろした後、喉元の刃を引く。手首を踏んでいた足も退ける。
解放された瞬間、右手に血が戻る。鈍い痺れが走った。
俺は身体を起こそうとして、失敗した。
足に力が入らない。
五日間の疲労。さっきの戦闘。黒装を使おうとして潰された反動。全部が一気に身体へ来ていた。
情けない。
そう思った瞬間、女が言った。
「立て」
「……ありがとう」
俺は歯を食いしばり、片膝を立てる。
身体が重い。腕が痛い。喉が乾く。
それでも、立つ。
ここで立てなければ、何のために黒域まで来たのか分からない。
時間をかけて、どうにか立ち上がる。魔王の剣は、いつの間にか足元の影へ沈んでいた。俺が無意識に戻したのか、それとも剣が勝手に沈んだのかは分からない。
女は俺が立つまで、何も言わなかった。
手も貸さない。支えもしない。
ただ、立つかどうかを見ている。
その視線が、妙に心地悪くて、妙にありがたかった。
「ヴェルナ」
集落の奥から、低い声がした。
振り向くと、年老いた男が歩いてきていた。額には小さく歪んだ角が二本。純魔族というより、魔族の血を引く混血なのだろう。背は曲がっているが、目は鋭い。古びた外套を羽織り、杖をついている。
周囲の者たちが自然と道を開けた。
この集落の長か、それに近い立場の者だった。
──ヴェルナ。
それが、この女の名らしい。
「殺すなと言ったはずだ」
「殺していない」
ヴェルナは淡々と答えた。
「殺す価値もない」
「聞こえているんだが……」
容赦がない。
老人は俺を見る。その視線は、ヴェルナほど鋭くはない。だが、柔らかくもなかった。魔王の剣に膝を折った者たちとは違う。畏れも、崇拝も、期待も、簡単には見せない目だった。
「名は?」
「ユリス・アステル」
「聖王国の者か?」
「ああ」
「女神の祝福は?」
「ない」
「男か?」
「見れば分かるだろ」
「ここでは、見た目ほど当てにならんものはない」
老人は淡々と言った。
俺は少しだけ言葉に詰まる。
確かに、この集落を見ただけでも、俺には誰が人間で、誰が魔族で、誰が混血なのか分からない者が多かった。角を持たない魔族の血筋もいれば、人間に近い混血もいるのだろう。聖王国の常識をそのまま当てはめるには、ここは違いすぎる。
老人の視線が、俺の足元の影へ向いた。
「魔王の剣を持っていると聞いたが」
「持っている」
「自分の意思で持ったか」
「ああ」
「ほう、そうか」
老人はそう言った後、わずかに目を細めた。
「だが、聖王国の者を軽々しく信じる理由もない」
「……だろうな」
「魔王の剣を持つ者を、簡単に斬るわけにはいかん。だが、聖王国の者を、黒域を好きに歩かせるわけにもいかん」
老人の声は静かだった。
だが、その言葉が集落の空気を決めていくのが分かった。
「しばらく、この集落に留まれ。幸い、ここはまだ外縁だ」
老人は笑わなかった。
冗談で言ったつもりはないらしい。
横でヴェルナが双剣を鞘に収める。
「なら、誰が見張る」
老人は彼女を見る。
「お前だ、ヴェルナ」
「嫌だ」
即答だった。
「なんで、私がこんな弱くて甘い聖王国の男を見張らないといけない? お断りだ」
「最初に斬りかかったのはお前だ。だから見張れ」
「意味が分からない」
ヴェルナの真紅の瞳が、不満げに細くなる。
「私は子守りはしない」
「しなくていい」
「同じでは?」
「違う。子守りは守る。監視は見る」
「なら見るだけでいいな」
「ああ。見るだけでいい」
「死にそうでもか?」
「お前の判断に任せる」
「本当に死んだら?」
「その時は、その程度だったということだ」
老人は淡々と言い切った。
ヴェルナはしばらく黙っていたが、やがて小さく舌打ちした。
「……三日もたないと思うが」
「なら、三日で終わる」
「魔王の剣は?」
「死体から回収する」
黒域らしい判断だった。
冷たい。だが、妙に納得できる。
聖王国なら、こうはならない。俺が男だと分かった時点で、誰かが保護しようとしただろう。危険だから下がれと言われ、傷を見られ、手を引かれ、守られる。
だが、ここでは違う。
死ぬならその程度。立てるならそれでいい。
倒れたなら、そこで終わり。
至って単純だった。
「ユリス・アステル」
老人が俺を見る。
「この集落にいる間、勝手に動くな。魔王の剣を不用意に抜くな。黒都への報告はこちらで送る」
「黒都?」
「ノクスガルド。黒域の中心だ」
黒都ノクスガルド。
資料で見た名だった。
評議会が置かれる中心都市。自治都市、砦町、集落、傭兵団、旧魔王軍系の名家が緩やかに結びつく、この土地の中心。
そこへ、俺の存在が報告される。
『よいではないか』
メルギドスが愉快そうに言う。
『魔王の剣を持つ者として、黒域へ名が届く。肩書きとは向こうから来るものだ。よかったな、ユリス』
(よくない)
胃が痛い。
外縁の集落だけでもこの扱いだ。黒都まで話が届けば、面倒なことになるのは目に見えている。
だが、拒める立場ではなかった。
魔王の剣を持っている。聖王国から来た。
今の俺にある情報は、それだけだ。
信用される理由などどこにもない。
「連れていけ。空き小屋を使わせる。食事は最低限でいい。武器は取り上げられんのだろう?」
「影に沈む。取り上げても意味がない」
「なら、目を離すな」
「本当に面倒だ」
ヴェルナは心底嫌そうに言った。
それから俺を見る。
「来い」
「どこへ」
「お前が住む場所だ」
「優しいな」
刃のような目で睨まれた。
「次、無駄口を叩いたら斬る」
「……分かりました」
ヴェルナはもう答えず、背を向けて歩き出した。
俺は痛む足を引きずりながら、その後を追う。集落の者たちの視線が背中に刺さる。
畏れ。警戒。好奇。値踏み。
どれも聖王国で向けられてきた温かな視線とは違っていた。けれど、不思議と息苦しくはなかった。
ここでは、俺は男という理由で守られない。
聖王国の出身だから歓迎されない。
魔王の剣を持っているからといって、無条件に認められない。
ただ、弱いから倒された。
そして、立てたからまだ生かされている。
とても分かりやすいからこそ、居心地がいいのかもしれない。……やっぱ俺は変わっているのかもしれない。
「言っておく」
前を歩くヴェルナが、不意に口を開いた。
「私はお前を守らない」
「わかってる」
その言葉は、ひどく冷たかった。
だが、聖王国で向けられたどんな優しさよりも、俺の足元を確かにした。
こうして俺は、黒域に辿り着いた初日から、監視役つきの生活を送ることになった。
そしてその監視役は、俺がこれまで出会った誰よりも、俺を守る気のない女だった。