曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。) 作:黒雪ゆきは
黒都ノクスガルドに、魔王の剣を持つ少年の報告が届いたのは、三ヶ月前のことだった。
エウリア聖王国出身。女神の祝福なし。魔王の剣を所持。闇を纏う兆候あり。
ただし、戦闘能力は未熟。
黒都は、その報告だけでは動かなかった。
魔王の剣という名には価値がある。
だが、剣を持つだけの弱者に、黒域は膝を折らない。
それから三ヶ月、少年はまだ死んでいない。
その経過報告が、黒都へ届いた。
黒都ノクスガルドは、黒域の中心にある都市だった。高い城壁は黒い石と古い骨材で組まれ、ところどころに旧魔王軍の紋章が削り残されている。
聖王国の都市のように整えられてはいない。だが、荒れ果ててもいない。雑多で、重く、古い。
その一角にある広間で、角を持つ男が報告を聞いていた。
二本の角は黒曜石のように艶を帯び、背は高い。純魔族特有の整いすぎた顔立ちに、冷えた笑みが浮かんでいる。旧魔王軍系名家、アシュベル家の嫡男。
現時点で最も魔王に近いと囁かれる男。
――ゼルグ・アシュベル
黒域に正式な魔王はいない。
だが、魔王の座に最も近い者はいる。
その筆頭が、この男だった。
「まだ死んでいない?」
ゼルグは、報告書から顔を上げた。
「はい。外縁集落にて三ヶ月生存。以前よりもやや強い闇の魔力の反応あり。魔王の剣との同調は不安定とのことです」
「未熟な聖王国の男が、黒域で魔王の剣を持って三ヶ月生き延びた。そういう報告か」
「その通りです」
「監視役は?」
「ヴェルナ・アシュベル様です」
ゼルグの指が止まった。
肘掛けを叩いていた指が、ぴたりと動きを失う。
報告役は頭を下げたまま、表情を変えない。
「……ヴェルナが?」
「はい」
「ヴェルナが、三ヶ月も殺していないのか」
「少なくとも、報告上は」
広間の空気が、わずかに沈んだ。
ゼルグはしばらく黙った。
報告書に記された少年の名ではなく、その下に添えられた監視役の名を見ていた。
「……随分と、長く見ているな」
小さな声だった。
だが、その場にいた者たちは、誰も聞き逃さなかった。
ゼルグは笑っていた。
だが、その笑みに先ほどまでの退屈はない。
魔王の剣を持った少年が、黒域で三ヶ月生き延びた。それだけなら、まだ捨て置くこともできた。
だが、そこに『ヴェルナ・アシュベル』の名が乗るなら、話は変わる。
ヴェルナ・アシュベル。
ゼルグと同じ父を持つ、腹違いの妹。
ただし、彼女が正統な後継者として扱われたことは一度もない。彼女は純血主義者の言うところの、“半端者”だからだらだ。
「魔王の剣などという過去の遺物が、今さら出てきたから何だというのだ」
ゼルグは、つまらなさそうに言った。
「しかし、外縁では既に噂が広がり始めています。聖王国の少年が魔王の剣を持ち戦うと。──古の魔王様のように」
「……聖王国の少年」
その声に、わずかな侮りが混じった。
「女神の祝福に守られた国の男が、魔王の剣を拾った。笑い話としては悪くない」
ゼルグの笑みが深くなる。
だが、そこに愉快さはなかった。
「剣に選ばれた者が王なのではない。皆を跪かせた者が王だ。血と力と恐怖。それを示せぬ者が、魔王を名乗る資格などない」
広間にいた者たちは黙っていた。
誰も反論しない。それだけの説得力が、この男にはあった。
「捨て置け。外縁で三ヶ月生き延びた程度の男に騒ぐな。黒域に相応しくない弱者なら、じきに死ぬ」
そこで、ゼルグは一度言葉を切った。
そして、薄く目を細める。
「ただし」
「はい」
「ヴェルナがなお監視を続けるなら、追加で報告を上げろ」
「承知しました」
ゼルグは再び肘掛けを指で叩く。
一度。二度。
黒曜石の角に、広間の灯りが鈍く反射した。
「魔王の剣を持つ少年、か」
冷たい笑みが、彼の口元に戻る。
「多少は見る価値があるかもしれんな」
◇
三ヶ月が過ぎた。
結論から言えば、俺はまだ死んでいない。
ヴェルナ曰く、それだけは予想外だったらしい。
「起きろ」
硬いものが腹に落ちた。
「ぐっ……!」
寝台から半分転がり落ちる。目を開けると、薄暗い小屋の中で、黒髪の女が俺を見下ろしていた。真紅の瞳。黒と深紫の軽装鎧。腰には二本の短剣。朝から人を起こす態度ではない。
「く、訓練剣!? 殺す気か!」
「避けろ」
「寝ていただろうが!」
「まだわからんのか。寝ているから襲われないという理屈は通らん」
「地獄すぎる……」
ヴェルナは答えなかった。
ただ、床に転がった訓練剣を顎で示した。
黒域の硬い魔木を削り、芯に鉄を通した剣だ。木剣より重く、鉄剣より鈍い。殺すためではなく、折るために作られたような代物だった。
三ヶ月前、最初にこれを持たされた時、俺は十回振っただけで肩を痛めた。
今は、百回振れば肩を痛める。
成長と呼ぶべきかは微妙。
「やるぞ」
「やるか」
俺は訓練剣を拾う。
小屋の窓から、朝の薄い光が差し込んでいた。
聖王国の朝とは違う。鐘の音も、礼拝堂の光も、白亜の校舎もない。代わりに、外から聞こえてくるのは、刃物を研ぐ音、見張り交代の声、竈に火を入れる音だった。
三ヶ月暮らして分かったことがある。
黒域は、聖王国の教本に書かれていたような、魔族だけが蠢く暗黒の土地ではなかった。
人間がいる。魔族がいる。その混血がいる。
立派な角を持つ者もいれば、小さな角しかない者もいる。角を持たず、瞳や肌にだけ魔族の名残が出る者もいる。見た目だけで何者かを決めることはできない。
同じ井戸を使い、同じ煙の下で飯を作り、同じ門を守る。
子供が走る。老人が火を焚く。女が刃を研ぎ、男が罠を直す。
ここには生活がある。
当然、優しい土地ではない。
家の戸口には魔物除けの黒布が吊るされている。子供でさえ短剣の扱いを知っている。食事の前に祈る者は少ないが、武器の手入れを忘れる者はほとんどいない。
聖王国では、弱さは守られる理由になった。
黒域では、弱さは死ぬ理由になる。
「何をぼうっとしている」
「黒域の朝について考えていた」
「暇だな」
「これこそが情緒ってもんだろ」
「情緒ってなんだ」
ヴェルナは小屋の外へ出る。
俺も後を追った。
朝の集落は、すでに動いていた。小さな角を持つ老婆が干し肉を吊るし、赤い瞳の少年が井戸から水を汲んでいる。片腕に古傷のある男が門の近くで槍を構え、純魔族らしい立派な角を持つ女が、商人らしき集団に何かを売っていた。
俺を見る目は、三ヶ月前とは少し変わった。
警戒は消えていない。好意もない。
だが、初日のように、すぐ死ぬ外来者を見る目ではなくなっていた。
まだ死んでいない。それだけで、黒域では多少の意味を持つらしい。
訓練場と呼ばれている場所は、集落の外れにある乾いた広場だった。石畳などない。地面は硬く、ところどころ黒い砂が混じっている。周囲には魔物の骨で作られた柵があり、何本もの古い傷跡が残っていた。
ヴェルナが双剣を抜く。
「来い」
「準備運動くらいさせてくれよ」
「魔物に襲われたとき、準備運動をするのか」
「……しないな」
「なら不要だ」
瞬間、ヴェルナが動いた。
来いと言っておきながら、自分から剣を抜く。ツッコミたいところだが、今はそれどころではない。相変わらず速すぎる。だが、見えないほどではない。
三ヶ月前は、速いと認識した時にはもう地面に転がされていた。今は違う。少なくとも、最初の一撃がどこへ来るかくらいは分かる。
右手首。剣を握る指。
俺は訓練剣を引き、刃を受ける。
腕が痺れる。だが、崩れない。
二撃目は膝。
後ろへ逃げると遅れる。だから半歩だけ内側へ入る。ヴェルナの双剣が俺の腿を掠め、布を裂く。血は出た。だが浅い。
三撃目、肩。
俺は右腕ではなく、左足へ闇を流した。
『遅い』
胸の奥で、メルギドスが言った。
(分かっている)
黒紫の靄が、ほんの一瞬だけ足首に絡む。
踏み込みが伸びた。
ヴェルナの目が細くなる。
俺は訓練剣を振る。重く、遅い。だが、三ヶ月前よりは剣筋が死んでいない。
ヴェルナは受けなかった。
流す。逸らす。そして潜る。
俺の剣が最も戻りにくい角度で、懐へ入ってくる。
やはり届かない。
だが、初日よりは長く立っていられる。
「足に流したか」
ヴェルナが言う。
「だが、それがどうした」
ヴェルナの一撃を半身になり避け、距離をとった。
俺は息を整える。
右腕だけに黒装を纏えば、魔王の剣は振れる。だが、身体全体が置いていかれる。足に流せば踏み込みは伸びるが、今度は腕が追いつかない。
闇は力だ。だが、力だけで剣を振ってはいけない。
三ヶ月かけて、それだけは嫌というほど分かった。
『ようやく少しは理解したか』
(少しだけな!)
『少しでは勇者には届かんぞ』
(わかっている!)
ヴェルナの刃が、再び迫る。
俺は右腕に黒装を纏う。
黒紫の靄が手首から肘へ絡み、訓練剣の重さがわずかに軽くなる。いや、軽くなったわけではない。俺の腕が、無理やり重さに耐えられるようになっているだけだ。
俺は踏み込んだ。刃がぶつかる。
一瞬だけ、押し返せた。
しかし、次の瞬間、足を払われた。
「っ……!」
視界が反転する。
背中から地面に叩きつけられた。肺の空気が抜ける。喉元に、木剣ではなく双剣の刃が突きつけられていた。
「終わりだ」
「……まだ十分も経っていない」
「昨日より一分長い」
「……それは成長なのか」
「成長だ」
ヴェルナは刃を引く。
俺は地面に転がったまま、空を見上げた。
黒域の空は、聖王国より少し暗く見える。雲のせいか、大地のせいか、それとも俺の気分の問題かは分からない。
息を吸うたび、胸が痛む。
だが、痛みにも慣れてきた。
それが良いことなのかも、まだ分からない。
「そういえば、俺がここに来てはや三ヶ月だぞ。三日ともたないと思っていたんだろ」
「思っていたな」
ヴェルナは否定しなかった。
「今は?」
「一週間はもつ」
「評価が低い」
「上がっている」
「いや三ヶ月持ってるだろ実際」
「じゃあもうすぐ死ぬな」
「おい」
真顔だった。
俺は笑うしかなかった。
笑ったら脇腹が痛んだ。
「まだ弱い」
「知っている」
「だが、最初よりはましだ」
「それは褒めてるのか」
「事実を言っている」
「褒め言葉と受け取っておくよ」
ヴェルナは鼻を鳴らした。
それから、ほんの一瞬だけ視線を外した。
初日なら、俺が倒れても立つまで黙って見ていた。今も手は貸さない。支えもしない。だが、追撃もしない。
それが優しさなのか、監視対象を壊さないための判断なのかは分からない。
分からないが、ヴェルナは俺が立つまで待つ。
それだけで、三ヶ月前とは違っていた。
『曇りの芽だな』
(……は?)
『まだ芽にも満たぬか。土の下で育っているところだ』
(気持ち悪い)
『貴様は本当に情緒を解さぬ』
(解したくない情緒もある)
俺は訓練剣を杖代わりにして立ち上がる。
膝が笑う。
だが、立てた。
ヴェルナはそれを見て、短く言う。
「もう一本たのむ」
「仕方ない」
結局、その朝はさらに十二回倒された。
最後に地面へ転がった時、集落の子供が近くで見ていることに気づいた。赤い瞳の少年と、小さな角を持つ少女だ。二人とも、俺を怖がっているわけではなかった。
珍しいものを見る目。
死に損ないが今日も立っているのを確認する目。
そのうち少年が言った。
「今日も生きてる」
「そう簡単に死んでたまるか。俺はしぶとさに定評のある男だ」
少年は驚いたように目を瞬かせ、それから少し笑った。
それだけだった。
聖王国なら、男が傷だらけで転がっていれば、誰かが駆け寄っただろう。リーナなら怒りながら治療した。アリアなら手を差し出した。クラウディアなら訓練を止めろと言った。エルネアなら状態を記録したうえで、負荷量が異常だと指摘しただろう。
ここでは、子供が言う。
今日も生きてる。
それで終わる。
酷い土地だと思う。
だが、どういうわけか俺はここが嫌いではなかった。
昼前になると、黒都方面から来た商人たちが集落に入った。荷車には干し薬草、獣皮、鉄の矢尻、黒い石の欠片が積まれている。護衛らしい傭兵も数人いた。人間も、角のある魔族もいる。
その中の一人が、俺を見た。
次に、俺の足元の影に視線が動く。そして、声を潜めた。もっとも、少なくともその商人は、声を潜めるのがあまり上手くなかった。
「例の聖王国の少年か」
「あれが?」
「魔王の剣を持っているらしい」
「弱そうだな」
「弱いぞ」
最後に答えたのはヴェルナだった。
俺は思わず振り向く。
「そこは黙っていてくれてもいいだろ」
「事実だ」
「事実を何でも言えばいいわけじゃない」
「弱いと知られて困るのか」
「困る」
「なら強くなれ」
その通りすぎて反論できない。
商人の一人が笑った。嘲笑ではない。値踏みに近い笑いだった。
「弱いが、まだ死んでいない。噂通りか」
「噂?」
「知らんのか。黒都の方では少し話題になっている。魔王の剣を持つ聖王国の少年が、外縁で飼われているとな」
「飼われてはいない」
「監視中だ」
ヴェルナが即座に言った。
違いはあるのだろう。たぶん。
商人は俺の抗議に興味を示さず、足元の影を見続けた。
「本当に持っているのか」
「見せ物じゃない」
胃が痛くなってきた。
俺はただ、強くなるためにここにいる。アリアに勝つために、黒域で闇の扱い方を覚えようとしている。それだけだ。
だが、魔王の剣を持つ聖王国の少年という言葉は、俺が思っているよりもずっと勝手に歩き始めていた。
『よいではないか』
(よくない)
『噂とは魔王の衣装の一部だ』
(いらない衣装だな)
『貴様は本当に美学を解さぬ』
(その美学は返品したい)
ヴェルナがこちらを見る。
また表情に出ていたらしい。
「妙な顔をするな」
「胃が痛いだけだ」
「弱いな」
「強い弱いじゃないだろこれは」
「胃も含めてお前は弱い」
商人たちは荷を降ろしながら、まだ俺を見ていた。
その視線は、聖王国のものとは違う。憐れみではない。保護でもない。珍しい獲物を見る目。使えるか、売れるか、危険か、面白いかを量る目だった。
俺は理解する。
黒域で生き残るということは、ただ魔物に殺されないという意味ではない。
人の視線にも、噂にも、値踏みにも耐えるということだった。
村の手伝いを終えた夕方、俺はまた地面に転がされていた。脇腹が痛い。肩も痛い。右腕は、黒装の反動でじんじんと痺れている。
目の前では、ヴェルナが双剣を下ろしもせずに俺を見ていた。
「お前、本当に容赦ないな」
「強くなりたいんだろう?」
「ああ」
そうだ、俺は何としても強くなる……が、きついものきつい。
それでも、立ち上がらなければ。
立つしかない。倒れたままでは、アリアには届かない。
「なぜ、そこまでする」
不意にヴェルナが言った。
俺は訓練剣を握り直したまま、顔を上げる。
「何が」
「倒れても立つ。斬られても向かってくる。闇に身体を削られても、また使う」
真紅の瞳が、俺を見る。
「何のために、そこまでする」
「アリアに勝つためだ」
答えはすぐに出た。
考える必要もなかった。
ヴェルナは黙った。
ほんの一瞬。
本当にわずかな間だった。
だが、その沈黙だけが、妙に耳に残った。
「……勇者か」
「ああ」
ヴェルナは視線を逸らし、双剣を構え直した。
『ククク……』
(なんだ)
『いや、何でもない。気にするな』
よく分からないが、メルギドスはいつものように愉快でたまらないといった様子で笑っていた。
「なら、まだ足りない」
「知ってる」
「何もかも足りない」
「それも知ってる」
「なら立て」
「立つさ」
ヴェルナは何も言わず、踏み込んできた。
それから俺は八回倒された。
それで何かが変わったわけではない。
ヴェルナにはまだ届かない。黒装は未熟で、魔王の剣も扱えているとは言い難い。黒域に来て三ヶ月が経っても、俺は相変わらず弱かった。
それでも、三日で死ぬ男ではないことは証明した。
倒される。立つ。斬られる。覚える。また倒される。それを繰り返しながら、少しずつ前へ進んでいるだけ。勇者に届くには遠すぎて、魔王を名乗るにはあまりにも足りない。そんな、取るに足らない途中経過。
──しかし、黒域はそう受け取らなかったらしい。
魔王の剣を持つ聖王国の少年。
弱いくせに死なない男。
ヴェルナ・アシュベルに何度倒されても、まだ立ち上がる異物。
そんな噂は、俺の知らないところで形を変え、尾ひれをつけ、黒域の外へと滲み出していく。
そして、やがて辿り着く。
エウリア聖王国、王立聖戦学園。
ユリス・アステルがいなくなった朝を、まだ終わらせられずにいる者たちのもとへと──。