曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。) 作:黒雪ゆきは
黒域で長く生きる者は、危険の匂いを知っている。
獣の足跡。折れた枝。風に混じる血の臭い。魔物除けの黒布が不自然に揺れる音。そういったものを拾えない者から順に死んでいく。それが黒域だった。
だから、男は自分たちが馬鹿をしたのだと理解していた。
「走れ! 走れ走れ走れ!」
荒い声が響いた。
ロヴァン大森林――黒都ノクスガルドから外縁集落群へ向かう道のさらに外側に広がる大森林。外縁集落が管理する狩猟域と、強大な魔物の縄張りが点在する奥地。その境界を曖昧に呑み込む、黒域でも名の知られた森である。
男たちは三人だった。かつては黒域狩人を名乗っていたが、今はどこの集落にも属していない密猟者。外縁集落が管理する狩猟域を勝手に越え、奥地に棲む希少魔物の角や外皮、魔石を狙う連中だった。
善良ではない。だが、弱くもない。
少なくとも、黒域で今日まで生き残るだけの腕はあった。
その三人が、今は死に物狂いで逃げていた。
背後から、鎖が地面を抉る音がした。太い幹がへし折られ、骨のような枝が宙を舞う。血と獣臭と、濃い魔力の臭いが鼻を刺した。追ってくるのは、
巨大な黒狼のような体躯。頭部から突き出した二本の角。全身に巻きついた太い鎖は、防具であり、同時に武器でもある。黒い毛皮の奥に沈んだ瞳は、獲物を見失わない。
ただの獣ではない。逃げる者の恐怖を理解し、足が鈍った瞬間を狙う悪意を持った魔物だった。
本来なら、外縁に出てくるような個体ではない。
彼らが、踏み込んではならない縄張りを踏み荒らしたのだ。
「だから言っただろうが! 管理域の外へ出るなってよ!」
「うるせえ! 高値で売れる素材があるって言ったのはお前だろ!」
「
怒鳴り合いながら、男たちは木々の間を縫うように走る。だが、距離は詰まっていた。
「効かねえ……!」
絶望が声に滲む。
その時、森が途切れた。
視界が開ける。まず目に映ったのは、外縁集落の近くにある乾いた訓練場だった。魔物の骨で作られた簡易的な柵。踏み固められた土。折れては立て直された木杭。集落の若者や見張りが使う、ただの広場。
そこに、一人の少年が立っていた。
「……誰だ?」
白銀の髪。
黒域の粗い黒布の上着。胸元と肩、前腕、脛を守る革の軽鎧。装飾は少なく、黒と暗い革色と深紫だけでまとめられた実用一点張りの装備。
だが、黒域の人間にも見えなかった。
立ち方が違う。纏う空気が違う。
少年は、黒い剣を握っていた。
月光も朝日も飲み込むような、黒い刀身。
男は、その剣を見た瞬間、喉の奥が干上がるのを感じた。最近、黒域の外縁で囁かれている噂がある。――魔王の剣を持つ少年。
まさか、と男は思った。
だが、目の前に立つ少年は噂よりもずっと不気味だった。
少年は逃げなかった。密猟者たちは逃げた。黒域で生きるための当然の判断として、逃げた。だが、少年だけは黒い剣を下ろしたまま、巨大な魔物の前に立っていた。
黒紫の靄が、少年の右腕に絡む。
いや、右腕だけではない。
肩へ。背中へ。足元の影へ。
闇が、血管のように彼の身体を這った。
「おい、逃げろ!」
男は思わず叫んだ。
なぜ叫んだのか、自分でも分からなかった。助ける義理などない。自分たちは密猟者で、あの少年が誰であろうと関係ない。むしろ囮になってくれるなら都合がいいはずだった。それでも叫んでいた。
少年は振り返らない。
男は必死に走りながらも横目で見た。
少年が、わずかに顎を引き、黒い剣が動く。
速い、というより、重かった。
空気そのものを押し潰すような一閃。黒紫の闇が刃に沿って走り、
鎖が砕け、止まった。
巨体が揺れる。黒い血が噴き出し、硬い地面を濡らした。
だが、その一瞬は来なかった。
巨体が、横へ崩れ落ちる。地面が震えた。
乾いた黒砂が舞い上がる。密猟者たちは誰も動けなかった。誰も声を出せなかった。ただ、目の前で起きたことを理解できず、倒れた巨大な魔物と、そこに立つ少年を見ていた。
少年は、息ひとつ乱していないように見えた。
黒い剣を下ろし、死んだ魔物を見下ろしている。白銀の髪が、黒域の朝風に揺れる。表情は薄い。恐怖も、興奮も、安堵もない。ただ、冷たく魔物の死体を見下ろしていた。
「……あれが」
男の一人が、掠れた声を出す。
「あれが、魔王の剣を持つ少年……?」
「違う」
別の男が首を振った。
「あれはもう、ただの少年じゃねえ」
誰かが、喉を鳴らす。
少年が、ゆっくりとこちらを見た。
白銀の髪の奥にある瞳が、黒紫の気配を帯びているように見えた。実際にそうだったのかは分からない。だが、その瞬間、男たちの身体は本能で理解した。
関わってはいけない。
名前を呼んではいけない。
恩を売ろうなどと考えてはいけない。
この少年の前では、余計な言葉を口にすること自体が危険だ。
「逃げるぞ」
「お、おい、でも……」
「いいから逃げろ! あれは魔物より面倒だ!」
男たちは、
背後で、少年は追ってこなかった。
それが逆に恐ろしかった。
追う価値すらないと、そう判断されたように思えたからだ。
男は走りながら、一度だけ振り返る。
ロヴァン大森林の外縁にある乾いた訓練場。
倒れた上位魔物。
その前に立つ、黒い軽鎧の白銀髪の少年。
黒紫の闇を纏い、魔王の剣を手にしたその姿は、黒域に古くから伝わる災厄の影そのものだった。
「あれが……黒域に現れた、新しい魔王候補……」
その呟きは、木々の中へ飲み込まれるように消えていった。
◇
「し、死ぬかと思ったああああああああああ!!」
密猟者たちの気配が完全に遠ざかった瞬間、俺はその場に片膝をついた。
足が震えている。腕も痛い。心臓がうるさい。
さっきまで無表情で立っていたのは、表情を動かす余裕がなかっただけ。息ひとつ乱していないように見えたかもしれないが、実際には呼吸の仕方を忘れかけていた。
右腕の感覚が鈍い。握っていたはずの指先が、遅れて震え始める。喉の奥に鉄の味が残っていた。たぶん、歯を食いしばりすぎて口の中を切ったのだ。
でかい。近くで見ると、なおさらでかい。
黒狼どころではない。全身に巻きついた鎖は一本一本が腕ほど太く、角は槍のように鋭い。こんなものがいきなり突っ込んできたのだ。正直、よく生きていたと思う。
『悪くない』
胸の奥で、メルギドスが低く言った。
『一瞬とはいえ、黒装を右腕から肩、背中、足へ通した。魔王の剣も反応した。未熟ではあるが、貴様の闇が剣に届き始めている』
(絶対死んだと思った……)
『まあ、今のお前では百回やれば九十九回は死ぬだろうな』
(悔しいが全く反論できん。その通り過ぎる)
俺は荒い息を吐く。実際、運が良すぎた
訓練場の足場を確認していたところに、密猟者たちが
俺が退けば、魔物は集落側へ抜ける。
そう理解した瞬間、身体が動いた。
勇敢だったからではない。格好つけたかったからでもない。
ただ、退くという選択肢を取った後の光景を想像してしまっただけだ。
井戸の近くで水を汲んでいる子供。
干し肉を吊るす老婆。
あの巨体がそこへ突っ込む光景を想像したら、足が下がらなかった。
『ふむ、いささか勇者的すぎるな。もっと魔王らしくしろ』
(なんだ魔王らしくって……)
メルギドスが愉快そうに笑う。
『まあ、良い。誰かの前に立ちたかったのであろう? 念願叶ったな』
(……褒めてるのか馬鹿にしてるのか、どっちだ)
『両方だ』
最悪だった。
俺は魔王の剣を影へ沈める。黒い刀身が霧のようにほどけ、足元の影へ消えた瞬間、身体に残っていた力が一気に抜けた。
「……はぁ、なんかどっと疲れたな」
口に出すと、余計に実感が増した。
右腕がじんじんと痛む。肩から背中へかけて、熱い筋が残っている。
さっきの黒装は、今までとは少し違った。右腕だけではなく、身体の奥を通すように闇が走った。
まぐれでもなんでも、できた。この感覚を忘れないようにしないとな。
「一人で何をしている」
背後から声がした。
振り返ると、ヴェルナが立っていた。表情はいつも通り薄いが、その視線は倒れた
「いろいろあったんだよ……」
俺は疲れたように言った。
ヴェルナは死体へ近づき、傷口を見た。
「
「なんか、三人組の男を追ってたぞ」
「三人組? 狩猟の予定はないはずだが、密猟か?」
「……いや、俺が知るわけないだろ」
「コイツはお前が斬ったのか」
「まあ、そうなるな」
ヴェルナの目が細くなる。
「一人で?」
「ほぼ剣がやった」
「剣を持っていたのはお前だ」
「そうだけど、魔王の剣がなければ絶対に無理だった」
事実だった。
ヴェルナはしばらく俺を見ていた。責めるでもなく、褒めるでもない。ただ、何が起きたのかを測る目だった。
「密猟者は」
「逃げた」
「斬らなかったのか?」
「……なんで斬るんだよ。発想が相変わらず怖すぎる」
「ロヴァンの管理域を越え、上位個体を集落へ流したんだぞ。斬る理由は十分だろ」
「意図的ではないかもしれない。まあ、密猟は良くないけど」
「お前のいた国ではどうだったか知らんが、ここでは、結果がすべてだ」
ヴェルナの声は冷たい。
俺は少し黙った。
「……そこまで黒域に染まったつもりはない」
「甘いな」
「知ってる」
ヴェルナは、ほんのわずかに目を伏せた。
甘い。愚かだ。早死にする考え方だ。
そう判断しているはずなのに、彼女はなぜか、すぐには視線を外さなかった。
「……そういうところだ」
「何が」
彼女はそれ以上何も言わず、
「処理は集落の者を呼ぶ。鎖も角も牙も毛皮も素材になる」
「助かる」
「よかったな。しばらく食うには困らない」
「……命懸けの臨時収入としては、割に合わないな」
俺は訓練場の端に移動し、魔物の骨で作られた柵にもたれた。足元には黒い砂。近くには訓練用の木杭と、芯に鉄を通した重い訓練剣が置かれている。
集落の外れにあるこの訓練場は、ただの乾いた広場だった。
学園の第三訓練場とは違う。石畳もない。結界もない。女神の聖紋もない。あるのは踏み固められた黒い土と、魔物の骨で作られた柵と、何度も折られては立て直された木杭だけだ。
それでも、今の俺にはここが訓練場だった。
今の俺が着ているのは、黒域の粗い黒布と革の軽鎧。
肩、前腕、胸元、脛。急所だけを守る、動きを殺さないための最低限の装甲。色は黒と暗い革色、そして深紫。装飾はほとんどない。もはや聖王国らしさなど欠片もなかった。
渡してきたのはヴェルナだった。
「その服では死ぬ」
「服装で死ぬのか」
「目立つ。動きにくい。破れた布は掴まれる。なぜ死ぬ理由を増やす?」
「……反論できないな」
「着ろ」
好意ではない。
監視対象を無駄に死なせないための処置。
ヴェルナはそういう顔をしていた。だが、今はその装備に助けられている。さっきの魔物の鎖が掠めた部分も、革鎧がなければ肉まで裂かれていただろうからな。
しばらくすると、集落の者たちが集まってきた。
誰も大袈裟に騒がない。
その中に、いつもの赤い瞳の少年がいた。
少年は俺を見て、少しだけ目を丸くした。
「今日も生きてる」
「今日は本当に危なかった」
「弱いのに、なんで前に出たの?」
素直すぎる問いだった。
俺は少し考え、肩をすくめる。
「弱くても、前に出なきゃならんときがあるんだよ」
「よく分からない」
「俺もたまによく分からない」
少年はさらに不思議そうな顔をした。
ヴェルナが横で呟く。
「本当に面倒な男だな」
いつもの返答だった。
実態とはだいぶ違う。かなり違う。ほぼ詐欺だ。
『よいではないか』
メルギドスが楽しそうに言った。
『畏怖とは、正確な事実よりも見え方によって育つ。貴様は今日、黒域の者たちに魔王候補としての威を示した』
(……ものすごくかっこよく言えばな)
『クク、なお良い。無自覚に畏怖を撒くとは、なかなか筋がいい』
胃が痛くなってきた。
俺は訓練剣を拾う。
「もうやるのか」
ヴェルナが言った。
「時間が惜しいからな」
腕は痛い。肩も重い。先ほどの戦闘で、身体には確実に負荷が残っている。
それでも、剣を握った。
三ヶ月が過ぎた。
リーナも、エルネアも、クラウディアも、きっと学園で前に進んでいる。アリアも、勇者としてさらに強くなっていることだろう。
だから、俺も進まなければならない。負けていられない。死ぬ気で食らいつかなければ土俵にすら上がれない。
みんなに、顔向けできるように。
いつか、もう一度アリアの前に立った時、胸を張って剣を向けられるように。
俺は訓練剣を構えた。
◇
同じ頃。
ロヴァン大森林から外縁集落へ続く黒い大地の下を、淡い水色の術式光が這っていた。
それは聖王国式の追跡術式だった。
魔王の剣が残した闇の残滓を、遠くから伸びた光が静かに捉える。
黒域の地脈に弾かれ、歪み、何度も途切れかけながら、それでも消えない。
淡い水色の光は、黒い大地の奥で一度だけ脈打った。
ユリス・アステルが終わったと思い込もうとした朝は、まだ誰の中でも終わっていなかった――。