曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。)   作:黒雪ゆきは

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015 記録板が落ちる音。

 エルネア・フィル・グリモワールは、黒域について理解していなかった。

 地理記録は読んだ。旧街道の位置も確認した。黒域外縁に存在する集落群、黒都ノクスガルドへ続く主要な経路、魔物の出没頻度、聖王国式術式との相性の悪さ。必要な情報は、可能な限り集めた。

 だから、未知ではなかった。

 そのはずだった。

 

「……術式線、また乱れた」

 

 乾いた黒い大地の上で、エルネアは膝をついた。

 淡い水色の髪は、もう学園にいた頃のようには整っていない。片側だけ長い前髪は頬に張りつき、編み込みに結んでいた黒いリボンも泥で重くなっている。黒縁の眼鏡には細かな傷が入り、片方のレンズには乾いた砂が薄く残っていた。

 深紺の学園制服も、賢者科の短いローブも、もはや整ってはいない。裾は裂け、袖口には泥がつき、膝には黒い土がこびりついている。

 それでも、エルネアは記録板を手放していなかった。記録するためではない。

 そうしていなければ、自分が何のためにここまで来たのか、分からなくなりそうだったからだ。

 

「黒域地脈による干渉、想定値を上回る。追跡術式、継続困難。魔力消費、予定の二・七倍。現在位置、ロヴァン大森林外縁地点より南東と推定……」

 

 声に出す。言葉にすれば、思考は整理できる。

 事実を並べれば、感情は遠ざけられる。

 エルネアはずっと、そうしてきた。

 ユリス・アステルという少年を観測する時も同じだった。剣速。踏み込み速度。反応時間。疲労回復時間。右肩の可動域。左足への荷重。魔力量の推移。敗北後の再起動作。

 数字にすれば、分かる。

 記録すれば、理解できる。

 理解すれば、見落とさずに済む。

 淡い水色の術式光が、足元の黒い土の中へ細く潜る。魔王の剣が残した闇の残滓を拾い、遠くへ伸びるはずだった。だが、黒域の地脈はそれを拒んだ。

 水色の光が、黒い大地の奥で歪む。まるで見えない手に掴まれたように、術式線が軋む。魔力が逆流し、エルネアの胸の奥を冷たい痛みが撫でた。

 

「……っ」

 

 息が詰まる。

 喉の奥に血の味が滲んだ。

 追跡術式を強引に維持した反動だった。聖王国の結界内で使う術式なら、ここまで乱れない。学園の資料棟で組み上げた理論は正しい。式も、媒体も、魔力配分も間違っていない。

 間違っていたのは、黒域という土地を記録上の危険度だけで測ったことだった。

 ここでは、女神の祝福を前提とした術式が滑る。

 光はまっすぐ進まない。祈りは届かない。

 

「……」

 

 泡のように湧く感情にそっと蓋をする。

 エルネアは震える指で眼鏡を押し上げ、記録板に線を引いた。術式を修正する。

 黒域地脈の流れを完全に制御することはできない。なら、逆らわない。水のように流す。闇の残滓を直接掴むのではなく、周囲に残った歪みを辿る。

 ユリスの魔力ではない。

 魔王の剣の残滓でもない。

 それらが通ったことで生じた、わずかな空白を追う。理論上は可能。成功率は低い。それでも、やる。

 

「対象者の所在確認を継続」

 

 自分の声が、ひどく乾いて聞こえた。

 対象者。そう書いた。

 ユリス、とは書かなかった。

 書けば、何かが崩れる気がした。

 エルネアは立ち上がる。足元がふらついた。昨日、沢を越える時に足首を捻った。治癒魔法は使えない。応急処置はしたが、歩くたびに鈍い痛みが走る。

 痛みは記録できる。

 歩行速度の低下も記録できる。

 魔力消費の増加も記録できる。

 だから、問題ない。

 問題ないはずだった。

 

 森の奥で、遠吠えが響いた。

 恐らく魔物だが、判別はつかないため危険性の判断ができない。音は遠い。だが、近づいている可能性はある。

 エルネアは息を殺した。

 賢者科で学んだ魔物回避のための術式を発動する。自分の気配を周囲の影に溶かし、足音を小さくする。戦闘用ではない。あくまで、見つからないための術式だ。

 黒域では、それさえ安定しなかった。

 術式の輪郭が揺れる。淡い水色の光が、黒い大地に吸われるように薄まった。

 

「……出力、維持」

 

 震える声で呟く。

 ユリスは、この地にいる。

 魔王の剣を持ち、闇の魔力を扱い、黒域で生きている。

 そう信じ疑わないことが、エルネアの足を進ませた。

 

 知りたいから。

 確認する必要があるから。

 観測しなければならないから。

 

 そう理由を重ねる。

 重ねなければ、胸の奥から別の言葉が出てきてしまいそうだった。

 単純で、不正確で、分類不能な言葉が。

 だから、エルネアは歩いた。

 足首が痛んでも。魔力が削れても。髪が乱れ、眼鏡が汚れ、制服が裂れても。

 ロヴァン大森林の外縁へ向かって、ただ一人で進んだ。

 

 ◇

 

 淡い水色の術式光が、三度目に脈打った時、エルネアは息を止めた。

 反応がある。これまでのような不明瞭な歪みではない。黒域の地脈に乱されながら、それでも確かに残っている闇の魔力の痕跡。

 そして、その中心に、見覚えのある魔力の癖があった。

 ただ歪み、変質している。以前とは比べものにならないほど濃い闇が混じっている。

 それでも、ずっと観測してきたから分かる。

 

 これは──ユリス・アステルの魔力。

 

「……見つけた」

 

 声が震えた。

 エルネアはすぐに口を閉じる。

 喜びではない。安堵でもない。

 これは、対象者の所在確認に近づいたことによる反応。調査目的に対する進捗。追跡術式の有効性が証明されたことによる一時的な緊張緩和。

 胸の奥が熱い。喉が痛い。手が震える。視界が滲む。

 まだ早い。

 まだ確認していない。

 本人を視認していない。声も聞いていない。魔力反応は似ているが、魔王の剣による残滓混合の可能性がある。結論を急ぐべきではない。

 エルネアは、何度も自分に言い聞かせた。

 そして、足を速めた。

 

 森を抜けると、黒い土の広場が見えた。

 外縁集落の近くにある訓練場だった。魔物の骨で作られた柵。踏み固められた地面。折れては立て直された木杭。学園の第三訓練場とは何もかも違う。

 それなのに、そこには訓練場としての空気があった。誰かが何度も倒れ、何度も立ち、剣を振った場所の気配が。

 エルネアは、木々の陰に身を隠したまま広場を見た。

 

 最初に見えたのは、黒髪の少女だった。

 真紅の瞳。黒と深紫の軽装鎧。両手には双剣。動きは速く、鋭く、無駄がない。学園の聖騎士科とも、勇者科とも違う。殺すための剣。殺すための間合い。相手を壊すことに躊躇のない身体運用。

 その刃を受けている少年がいた。

 白銀の髪。

 黒と暗い革色と深紫でまとめられた、聖王国の制服とはまるで違う装備。

 手には訓練用と思われる剣。

 身体は以前より少し締まって見えた。頬はわずかに削げ、手の甲には細かな傷が増えている。歩幅は変わっている。右肩の使い方も違う。踏み込みは、以前より重い。だが、左足への荷重の偏りはまだ残っている。

 記録できる。

 変化を記録できる。

 視認した対象者の外見変化、装備変更、身体運用、魔力反応、交戦相手の情報。

 そう思った。

 エルネアは記録板を持ち上げた。

 だが、筆先は動かなかった。

 目が、少年から離れなかった。

 

 彼が、いた。

 ユリスが、いた。

 広場の中央で、黒髪の少女の双剣を受け、倒れかけ、それでも踏みとどまっていた。

 彼は生きていた。

 傷つきながら、それでも剣を握っていた。

 

「……」

 

 息が詰まった。

 エルネアは声を出せなかった。

 ヴェルナの双剣がユリスの訓練剣を弾く。

 ユリスの体勢が崩れる。黒紫の靄が、ほんの一瞬だけ彼の右腕に絡んだ。

 闇の魔力。

 エルネアの知るどの属性にも分類できない、黒い力。その魔力が、ユリスの身体を削りながら前へ押し出す。

 ユリスは踏み込んだ。

 だが、届かない。

 ヴェルナは刃を滑らせ、足を払った。ユリスの身体が宙に浮き、背中から地面へ叩きつけられる。乾いた黒砂が舞った。

 ユリスが殺される。そう思った瞬間、心から急速に熱が消えた。

 だが、ヴェルナは追撃しなかった。喉元に刃も置かない。ただ、倒れたユリスを見下ろしている。

 ユリスは、地面に仰向けになったまま、荒く息を吐いた。

 

「……もう一本!」

 

 その声が聞こえた瞬間、エルネアの中で何かが崩れた。──同じだった。

 

 違う服を着ている。

 違う土地にいる。

 違う魔力を纏っている。

 

 それでも、同じだった。

 倒れても、立とうとする。

 届かなくても、もう一度と言う。

 何度でも剣を握る。

 ユリス・アステルは、そこにいた。

 

 記録板が──エルネアの手から滑り落ちた。

 

 乾いた音がした。

 その音に、広場の二人が反応した。

 ヴェルナの真紅の瞳が、即座に森の方を向く。双剣の刃が構え直される。ユリスも、地面に片膝をついたまま顔を上げた。

 木々の陰にいるエルネアと、目が合った。

 時間が止まった。

 ユリスの目が、大きく見開かれる。

 

「……エルネア?」

 

 名前を呼ばれた。

 刹那、エルネアの中で最後まで形を保っていた理性が砕けた。そしてようやく理解する。

 

 調査ではなかった。

 確認ではなかった。

 観測でも、記録でも、分類でも、分析でもなかった。

 

 自分が何のためにここまで来たのか、ようやく分かった。

 

「ユリス」

 

 声が漏れた。

 掠れた、小さな声だった。

 一歩、足が前に出る。

 足首が痛む。膝が震える。身体は限界に近い。魔力もほとんど残っていない。黒域の砂に汚れた制服は重く、乱れた髪が頬に張りついている。

 それでも、止まれなかった。

 

「ユリス」

 

 二度目は、少しだけ大きかった。

 涙が出た。

 理由を分類する前に、涙が勝手に零れた。

 ユリスが立ち上がろうとする。

 

「エルネア、お前、どうしてここに――」

 

 言葉が終わる前に、エルネアは駆け出していた。

 ヴェルナが一歩前へ出る。双剣が鋭く光る。

 

「止まれ! 聖王国の女」

「待て、ヴェルナ! 知り合いだ!」

 

 ユリスの声が飛んだ。

 それでもヴェルナの警戒は消えない。だが、エルネアはもう見ていなかった。双剣も、黒域の集落も、周囲の視線も、何も入っていなかった。

 ただ、ユリスだけが見えていた。

 

 辿り着いた。

 見つけた。

 生きていた。

 そこにいた。

 

 エルネアはユリスの前で止まろうとして、止まれなかった。足がもつれ、そのまま彼の胸元へぶつかるように倒れ込む。

 

「うわっ……エルネア大丈夫か!?」

 

 ユリスが慌てて受け止める。

 黒域の革鎧は硬かった。

 学園の制服ではない。

 いつもの白いシャツでもない。

 以前よりも、血と土と鉄の匂いがした。

 その事実が、また胸を締めつけた。

 エルネアは、ユリスの服を掴んだ。

 指に力が入らない。それでも離せなかった。

 

「……いた」

 

 吹けば消えそうな声だった。

 

「いた……本当に、いた……」

 

 声が震える。

 もう整えられない。

 言葉が、記録にならない。

 

「調査、だった。確認、しなきゃいけなくて。魔王の剣の残滓と、黒域地理記録と、閲覧履歴を照合して、追跡術式を組んで、それで……それで……」

 

 説明しようとした。

 理由を並べようとした。

 でも、喉が詰まった。

 涙が止まらない。

 視界がぐしゃぐしゃに歪む。ユリスの顔がぼやける。見失いたくなくて、エルネアはさらに服を掴んだ。

 

「違う……」

 

 自分で言った。

 ようやく、言えた。

 

「違った……」

 

 ユリスが息を呑む。

 

「調査じゃ、なかった……観測でも、記録でも、確認でも、なかった……」

 

 言葉が崩れていく。

 理性で包んでいたものが、全部剥がれていく。

 

「私……」

 

 涙が、頬を流れた。

 

「ただ……ユリスに会いたかった……」

 

 その一言を口にした瞬間、エルネアは完全に泣き崩れた。

 声を殺せなかった。

 肩が震える。息が詰まる。胸が痛い。喉が熱い。子供のように、みっともなく、理屈も何もなく、ただ泣いた。

 

「会いたかった……会いたかった、ユリス……っ。分からなかった。何があったのか、分からなくて……どこにいるのかも、怪我してるのかも、生きてるのかも、分からなくて……っ」

 

 ユリスの身体が固まっているのが分かった。

 困っている。驚いている。

 たぶん、罪悪感で胃を痛めている。

 そんなことまで分かるのに、涙は止まらなかった。

 

「記録、できてなかった……。ユリスが何を選んだのか、私、見てなかった……分かってるつもりだったのに、何も分かってなかった……っ」

「……エルネア」

「今度こそ見なきゃって思った。知らなきゃって思った。だから来たって、ずっと思ってた。でも違った……違ったの……」

 

 エルネアは、ユリスの胸元に額を押しつけた。

 黒域の革鎧は冷たく、硬く、少しだけ土の匂いがした。

 それすらも、今は確かめたくて仕方なかった。

 

「ただ、会いたかった……ユリスに、会いたかった……っ」

 

 黒域の訓練場が、静まり返っていた。

 集落の者たちが遠巻きに見ている気配がある。ヴェルナの視線も刺さっている。けれど、エルネアにはもう何も見えなかった。

 賢者科の天才でも、冷静な分析者でも、理性的な観測者でもいられなかった。

 

 ただ──ユリス・アステルに会いたくて黒域まで来た少女が、そこにいた。

 

 ユリスは、しばらく何も言わなかった。

 言葉を探している気配だけがあった。

 やがて、ためらうように、彼の手がエルネアの肩に触れた。

 

「……悪い」

 

 掠れた声だった。

 

「心配、かけた」

 

 その一言で、また涙が溢れた。

 

「心配、した……っ」

「ああ」

「すごく、した……っ」

「……ああ、すまん」

「ユリスが、いなくなって……っ。誰も、ちゃんと分かってなくて……学園も、秩序って言って……でも、ユリスが何を思ってたのか、誰も……っ」

「エルネア……」

「私も、分かってなかった……!」

 

 叫びに近い声だった。

 エルネア自身が、自分の声に驚いた。

 だが、止まらない。

 

「分かってるつもりだった! 記録してた! ずっと見てた! ユリスの剣速も、踏み込みも、怪我の癖も、疲労も、全部、全部見てたのに……っ」

 

 ユリスの服を掴む手に、力が入る。

 

「ユリスがどれだけ苦しかったのか、見てなかった……!」

 

 ユリスは何も言わなかった。

 言えなかったのかもしれない。

 胸の奥で、何か低い笑い声が響いた気がした。エルネアには聞こえない。ただ、ユリスの表情がわずかに歪んだことで、何かがあるのだと分かった。

 その違和感さえ、今はどうでもよかった。

 

「ユリス」

 

 エルネアは顔を上げた。

 涙で視界は滲んでいる。眼鏡はずれている。きっと、ひどい顔をしている。

 それでも、見たかった。

 ユリスの顔を。生きている彼を。

 自分の知らない彼を。

 

「……生きてて、よかった」

 

 それだけ言うのが、精一杯だった。

 ユリスの表情が、痛そうに歪んだ。

 

「……ごめん」

「許さない」

「え」

 

 反射的に言葉が出た。

 エルネアは自分で言ってから、少しだけ驚いた。

 ユリスも驚いていた。

 ヴェルナも、ほんのわずかに目を細めた。

 

「許さない……まだ」

 

 エルネアは涙を拭わずに言った。

 

「理由を聞いていない。何を選んだのかも、何を背負ったのかも、どれだけ怪我したのかも、三ヶ月で何が変わったのかも、全部まだ確認していない」

「……そうだな」

 

 声はまだ震えていた。

 けれど、その奥に、少しだけいつものエルネアが戻っていた。

 

「でも、今は……」

 

 また声が揺れる。

 

「今は、少しだけこのままにすべき」

 

 ユリスは息を止めた。

 そして、ひどく困ったように、けれど拒むことはできないという顔で、小さく頷いた。

 

「……ああ」

 

 エルネアは、再びユリスの胸元に顔を押しつけた。

 もう泣き声を抑えなかった。

 黒域の訓練場に、エルネア・フィル・グリモワールの泣き声が響いていた。

 普段なら、絶対に見せない姿だった。

 理性で感情を包み、記録と分類で世界を整理し、淡々と事実だけを拾っていた少女が、ただ一人の少年に縋って泣いている。

 ヴェルナは双剣を下ろし、無言でその光景を見ていた。

 真紅の瞳に浮かんだ感情は、まだ誰にも分類できない。

 

 ◇

 

『ほう……観測する者が、観測を捨てたか』

 

ユリスの胸の奥で、メルギドスが低く笑った。

 

『記録と理性で己を縛っていた娘が、記録板を落とし、貴様の名を呼んで泣き崩れた。実に鮮烈だ』

 

(……相変わらず悪趣味な奴め)

 

『クク……見るがいい、ユリス。貴様が勇者の敵となる道を選んだ結果だ。貴様を数値で測っていた娘が、理屈を捨てて、貴様一人を追って黒域まで来た』

 

(……分かってる)

 

『これはほんの序章に過ぎんぞ。貴様に関わった全ての者が、貴様の選択によって狂わされるのだ。本来歩むはずだった道から外れるのだ。ククク……全く、笑いが止まらん』

 

 ユリスは、腕の中で泣き続けるエルネアを見下ろした。

 彼女の髪は乱れていた。眼鏡は汚れ、制服は裂れ、足元は泥だらけだった。手には細かな傷がある。足首も痛めているのか、立っているだけでわずかに体重を逃がしている。

 ここまで来たのだ。

 学園から、黒域まで。たった一人で。

 追跡術式を組み、地脈に逆らい、魔物の気配を避け、傷つきながら。自分を探して。

 突き放すことはできなかった。

 ユリスは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「エルネア」

「……何」

「とりあえず、座れ。足、痛めてるだろ」

 

 エルネアの肩が、ぴくりと動いた。

 

「観測された」

「このくらい、見れば分かる」

 

 エルネアは、小さく鼻をすすった。

 それから、まだ涙を流したまま、ほんの少しだけ笑った。笑ったというより、泣き顔が崩れただけかもしれない。

 それでも、ユリスには十分だった。

 ヴェルナが静かに口を開いた。

 

「ユリス」

「……何だ」

「説明しろ」

「……だよな」

 

 ヴェルナの真紅の瞳は、エルネアを見ていた。

 警戒。疑念。そして、ほんのわずかに、別の何か。

 ユリスはそれに気づきかけたが、今は考える余裕がなかった。エルネアが、まだ服を掴んで離さない。 

 黒域の朝風が、三人の間を通り抜ける。

 学園から消えた少年。その少年を追って黒域まで来た少女。そして、黒域で彼を見続けてきた少女。

 それぞれの視線が、ここで初めて交差した。

 

 この日、エルネア・フィル・グリモワールの観測は失敗した。記録も、分類も、分析も、何一つできはしなかった。

 ただ、一つだけ確かな事実がある。

 彼女は、ユリスに会いたかった。

 その思いだけで、黒域まで辿り着いたのだ――。

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