曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。)   作:黒雪ゆきは

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016 闇の傍らで。

 エルネア・フィル・グリモワールは黒域外縁の訓練場で泣き崩れ、ユリスの服を掴んだまま何度も彼の名を呼んだ後、彼女の意識は糸が切れたように途切れた。

 無理もなかった。

 黒域の地脈に逆らいながら追跡術式を維持し、魔力を削り、足首を痛め、泥にまみれながら、たった一人でここまで来たのだから。

 

 だからユリスは、何も聞けなかった。

 ただ、彼女を休ませるしかなかった。

 ヴェルナは最後まで警戒を解かなかった。気を失ったエルネアを運ぶ間も、小屋に寝かせる間も、集落の長老に事情を説明する間も、真紅の瞳はずっと冷たく細められていた。

 

 ──ユリスを追って聖王国から来た女。

 

 それだけで、黒域にとっては十分な警戒対象だった。

 エルネアは固い寝台に横たえられ、黒域式の薬草を足首に巻かれ、乱れた淡い水色の髪を頬に張りつかせたまま、何度か苦しそうに眉を寄せた。

 そのたびに、ユリスは喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。

 

 何を聞くべきか分からなかった。

 何を謝ればいいのかも分からなかった。

 

 ただ一つだけ分かるのは、自分が何も告げずに学園を出たことで、エルネアの中にあった何かまで壊してしまったということだった。

 彼女の手は、眠ってからもしばらく何かを掴むように丸まっていた。ユリスの服を離す瞬間、どこか不安そうに震えていた指先が、まだ記憶に残っている。

 どこまでも冷静で、淡々と物事を解釈し理解していたエルネアが、理性をかなぐり捨て、ここまで来てしまった。

 

 罪悪感に押しつぶされそうだった。

 様々な考えが頭の中で絡まり、その夜、ユリスはほとんど眠れなかった。

 夜明け前、何度目か分からないため息を吐いた後、ユリスは木の器に入れた薄い粥を持って小屋を出た。

 黒域の朝は早い。まだ空は薄暗いのに、集落ではすでに刃を研ぐ音がしていた。見張りの交代を告げる短い声。竈に火を入れる音。乾いた風に混じる薬草と獣肉の匂い。

 

 聖王国で迎える朝とはまるで違う。

 エルネアが寝かされている小屋の前には、ヴェルナが立っていた。

 黒髪を朝風に揺らし、真紅の瞳でこちらを見る。眠気の欠片もない。いつでも双剣を抜けるような立ち方だった。

 

「夜通し見張ってたのか……?」

「聖王国の女が黒域の集落にいる。目を離す理由がない」

「……それはそうだな」

 

 ユリスは否定できなかった。

 エルネアはユリスの知る少女でも、黒域にとっては得体の知れない外部の魔術師だ。しかも追跡術式でここまで来ている。警戒されない方がおかしい。

 

「足首は処置した。魔力切れに近い。しばらく動かすな」

「……助かった」

「勘違いするな。死なれると面倒なだけだ」

「分かってる」

 

 それでも、助かったことに変わりはない。

 ユリスは小さく息を吐き、小屋の中へ入った。

 エルネアは、固い寝台の上で眠っていた。

 泥に汚れた学園制服と賢者科のローブは脱がされ、壁際の椅子に掛けられている。代わりに、彼女は黒域の女たちが使う粗い布の寝衣を着せられていた。飾り気のない灰色の布。聖王国の制服とはまるで違う、ただ身体を冷やさないためだけの衣服だった。

 淡い水色の髪は乱れ、黒いリボンは外されて寝台の横に置かれ、眼鏡も同じ場所に畳まれている。足首には黒域式の薬草と布が巻かれていた。

 ユリスが近づくと、彼女の指先が小さく動いた。何かを探すように、寝具の端を掴む。

 その仕草だけで、胸の奥がまた痛んだ。

 

「……悪い」

 

 小さく呟く。返事はない。

 眠っているのだから当然だった。それでも、言わずにはいられなかった。

 しばらくすると、エルネアの瞼がかすかに震えた。

 ゆっくりと、青い瞳が開く。最初に天井を見る。

 次に、見慣れない壁を見る。そして、ユリスを見た。

 

「……ユリス」

「起きたか」

「……本当に、いた」

 

 エルネアの声は掠れていた。

 昨日の続きのような声だった。

 記録でも、確認でもなく、ただ確かめるような声。

 

「ああ……」

 

 ユリスが答えると、エルネアは少しだけ目を伏せた。

 

「よかった」

 

 その一言が、ユリスの胸に深く刺さった。

 エルネアはゆっくりと身体を起こそうとして、足首に走った痛みに顔を歪める。

 

「無理するな。足、痛めてる」

「……軽度の捻挫。歩行は可能」

「可能でも痛いだろ」

「痛い」

「だったら動かない方がいい」

 

 ユリスは粥の入った器を差し出した。

 エルネアはそれを受け取り、両手で包むように持つ。学園の食堂で出るものよりずっと粗末で、見た目も整っていない。だが、その温かさだけで、少しだけ息が楽になった。

 

「食べれるか?」

「うん」

「無理しなくていい」

「食べないと動けない」

「……いや動くなよ」

 

 ユリスは壁にもたれ、小さくため息を吐いた。

 エルネアは粥を一口食べる。癖のある味だった。だが、身体が温まる。しばらく、二人とも黙っていた。

 外では、誰かが木材を運ぶ音がする。子供の声も聞こえる。遠くでヴェルナの短い指示が響いた。

 その声に、エルネアの指が少しだけ止まる。

 

「ヴェルナは、お前をまだ警戒してる」

「当然」

「自覚してるのか」

「私は聖王国から来た。黒域にとって警戒対象。しかも追跡術式を使ってユリスのところまで来た。信用される要素が少ない」

「……さすがだな、エルネア」

 

 いつものエルネアの言い方だった。

 けれど、昨日の涙を見た後だと、同じ言葉でも少し違って聞こえた。ユリスは腕を組み、息を吐く。

 そして、言わなければならないことを言った。

 

「エルネア。……足が治ったら、帰れ」

「嫌」

 

 即答だった。

 

「昨日のお前は、まともに話せる状態じゃなかった。だから改めて言う。黒域は危険だ。聖王国の術式は乱れる。魔物もいる。集落の外に出るだけで死ぬ可能性がある。実際、お前はここまで来るだけでボロボロになってる」

「知ってる」

「なら──」

「帰らない」

 

 迷いはなかった。

 エルネアは器を膝の上に置き、寝台の横に置かれていた記録板へ触れた。

 昨日、彼女が落としたものだった。

 黒砂は払われている。誰かが拾い、ここに置いておいたのだろう。

 エルネアは記録板を抱き寄せた。

 

「もう、見失いたくない」

 

 その一言で、ユリスは言葉を失った。

 

「一度、見失った。ユリスが魔王の剣を取るほど追い詰められていたことを、私は知らなかった。記録していたのに。ずっと見ていたのに。ユリスが何を飲み込んでいたのか、何に傷ついていたのか、分かっていなかった」

「それは、お前のせいじゃない」

「そうかもしれない」

 

 エルネアは静かに言った。

 

「でも、私が嫌だった」

 

 泣いていない。

 昨日のように崩れてもいない。

 だからこそ、その言葉は余計に重かった。

 

「知らない場所でユリスが壊れていくのは嫌。知らないうちに選んで、知らないうちに傷ついて、知らないうちに遠くへ行くのは嫌。だから、帰らない」

 

 ユリスは返せなかった。

 エルネアの声は、淡々としている。

 けれど、その奥には、昨日まで隠れていた感情が確かにあった。

 

「俺は……前までの俺とは違う」

「見れば分かる」

「俺は闇を掴んだ。──これから先、アリア達の敵になるかもしれない」

 

 アリアの顔が浮かぶ。

 血の気を失った顔。震えた声。助けたいと言った瞳。ユリスは奥歯を噛む。

 

「俺は、お前たちが知っている俺じゃなくなるかもしれない」

「うん」

「俺が、本当に悪になったらどうする……?」

 

 エルネアは、すぐには答えなかった。

 その沈黙に、ユリスは一瞬だけ息を止める。

 やがて、エルネアは顔を上げた。

 眼鏡の奥の青い瞳が、まっすぐユリスを見ている。

 

「そばにいる」

 

 とても強く、迷いなどなかった。

  

「……普通は、止めるとこだぞ」

「止めるかもしれない。でも、否定はしない」

 

 エルネアは首を振った。

 

「ユリスが闇を選んでも、悪に染まっても、誰かを傷つける言葉を吐いても、私は否定しない。理解したい。認めたい。そして、支えたい」

「……俺が、戻れないところまで行ったとしてもか?」

「それでも」

 

 エルネアの声は、震えていなかった。

 

「──ユリスが悪に堕ちても、私だけはそばにいる」

 

 嬉しくなかったといえば、嘘になる。

 その言葉は、温かいはずだった。

 救いの言葉であるはずだった。

 

 しかし──エルネアの目に迷いが無さすぎた。

 

 ユリスは背筋に冷たいものを感じた。

 エルネアは、ユリスを止めようとしていない。

 戻そうとしていない。闇を捨てろとも、魔王の剣を手放せとも言わない。

 その代わり、闇の先までついてくると言っている。

 それが、危うかった。

 とても優しく、とても真っ直ぐだからこそ。

 

『よい』

 

 胸の奥で、メルギドスが低く笑った。

 

『貴様が闇へ進むなら、この娘はその闇の中で隣に立とうとしている。ククク……アッハッハッハ! たまらんではないかユリス!』

(頼むから黙っててくれ!!)

 

 内心で舌打ちした。

 エルネアには、メルギドスの声は聞こえない。

 だが、彼女はユリスのわずかな表情の変化を見逃さなかった。

 

「今、誰かと話しているように見えた」

「……気のせいだ」

「嘘」

「…………」

「ユリスは嘘をつく時、剣の鞘を触る」

「……そ、そうなのか」

「もう見失わない。何があっても」

 

 その返しに、ユリスは言葉を失った。

 エルネアは記録板を抱えたまま、膝の上で指を重ねる。

 

「それも、いつか教えて欲しい」

 

 淡々とした声だった。

 だが、以前と同じではない。

 そこには、はっきりとした執着があった。

 

 ユリスを知りたい。

 ユリスを見失いたくない。

 ユリスがどこへ行っても、隣にいたい。

 そういった感情が、理屈の下で静かに燃えている。

 

「随分と簡単に揺れるんだな」

 

 その時、小屋の外から冷たい声がした。

 戸口にヴェルナが立っていた。

 だが、会話の一部は聞こえていたのだろう。

 

「ヴェルナ」

「三ヶ月、お前は何度倒れても立った。斬られても、折られても、黒装に失敗しても、何度でも立った。──そこには決して折れない意志があった」

 

 ヴェルナはユリスを見る。

 その目は冷たい。

 だが、いつもの冷たさとは少し違った。

 

「なのに、その女の前では随分と顔が変わる」

「……そりゃ、学園の友達が黒域まで来たら驚くだろ」

「友達」

「友達」

 

 ヴェルナとエルネアの声が重なった。

 エルネアは彼女を見る。

 

「あなたが、ヴェルナ」

「そうだ」

「ユリスを見ていた人」

「監視していただけだ」

「見ていたことには変わらない。……私は、見失っていた」

 

 エルネアは、すぐに答えた。

 ヴェルナの真紅の瞳が、わずかに細くなる。

 

「だから、もう見失わない」

「ここは黒域だ。お前のようないい子ちゃんが生きていける場所ではない」

「居る。居させて」

「死ぬぞ」

「死なない方法を学ぶ」

 

 ヴェルナの眉がわずかに動いた。

 ユリスは嫌な予感を覚える。

 

「おい、エルネア。いきなり何を言って――」

「ユリスは黒域で三ヶ月生きている。あなたが監視していた。なら、あなたは黒域で生きるために必要なことを知っている」

「だから教えろと?」

「必要なら」

「図々しいな、聖王国の女」

「そうかもしれない」

 

 エルネアは否定しなかった。

 ただ、記録板を抱える手に力を込める。

 

「でも、帰らない。ユリスのそばにいたいから」

 

 ヴェルナの視線が鋭くなる。

 エルネアは揺れない。ユリスの心臓が跳ねた。

 

「そのために……黒域まで来たのか」

「うん」

 

 あまりにも真っ直ぐだった。

 真っ直ぐすぎて、ユリスは咄嗟に口を挟んだ。

 

「……エルネア、やっぱり駄目だ。アリアたちも心配している。リーナも、クラウディアも」

「学園は、ユリスの行動を重大な逸脱行為と言った」

「…………」

「アリアは止めに来ると思う」

 

 エルネアは、静かに言った。

 

「でも、私は違う場所に居たい」

「違う場所?」

「ユリスのそばに居させて欲しい」

 

 その言葉はひどく静かで、優しかった。

 だが、それだけではない。エルネアの中で何かが歪み始めていた。

 

 みんながユリスを止めるなら。

 みんながユリスを戻そうとするなら。

 みんなが、悪に染まったユリスを受け入れられないなら。

 

 ──自分だけは、そばにいられるのではないか?

 

 誰にも理解されないユリスの隣なら、自分だけが立てるのではないか。そう思った瞬間、エルネアの胸の奥に浅ましい安堵が生まれた。

 ひどく醜い感情だった。それなのに、手放せない。気づいてしまったからにはもう偽れない。

 エルネアは、その感情にまだ名前をつけなかった。

 記録もしなかった。ただ、胸の奥に隠した。

 ユリスは、何も言えなかった。

 その沈黙を、ヴェルナが切った。

 

「長老に判断させる」

「長老?」

「この集落のまとめ役だ。聖王国の女を勝手には置けない。ユリス、お前も来い」

「おい、俺はエルネアに──」

「いいから来い」

「……はい」

 

 エルネアは立ち上がろうとして、少しだけ顔を歪めた。足首が痛むのだろう。

 ユリスは手を貸そうとした。

 その前に、エルネアは寝台の縁を掴み、自分で体勢を整えた。

 

「歩ける」

「無理するな」

「ユリスに言われたくない」

「…………」

 

 正論だった。

 ユリスは黙った。

 ヴェルナが、ほんのわずかに目を細める。

 

「随分と仲が良いな」

 

 その言葉には分かりやすく棘があった。実際に彼女は機嫌が悪かった。しかし、彼女自身なぜこうも苛立つのか理解してはいなかった。

 エルネアは記録板を抱え、ヴェルナを見た。

 小屋を出るヴェルナの背中は、いつも通り冷たかった。

 

 ◇

 

 長老は、エルネアを見るなり深いため息をついた。

 額に小さな角を持つ老人は、集落の中央にある古い小屋の前に座っていた。周囲には干した薬草と、燻した肉の匂いが漂っている。

 その目は、初めてユリスを見た時と同じように鋭かった。

 

「今度は聖王国の娘か」

「……すみません」

 

 ユリスは反射的に謝った。

 長老が細い目で彼を見る。

 

「なぜお前が謝る」

「いや、その……俺を追って来たので」

「なら、お前のせいでもあるな」

「ですよね……」

 

 胃が痛い。

 長老は次にエルネアを見る。

 

「名は?」

「エルネア・フィル・グリモワールです」

「目的は?」

「ユリス・アステルの所在確認、および魔王の剣と闇の魔力に関する情報収集」

「表向きの目的は整っているな。では、本音は?」

「ユリスに会いたかった」

 

 周囲にいた者たちの間に、小さなどよめきが走った。あまりにも真っ直ぐな言葉に、少しだけ反応が遅れ、長老はしばらくエルネアを見ていた。

 やがて、低く笑う。

 

「面白い娘だ」

「ありがとうございます」

「黒域まで一人で来た時点で十分面白い。必要なら死んでもよいのか?」

「死ぬつもりはありません」

「死はいつも唐突だ」

 

 長老の声は静かだった。

 エルネアは、少しだけ黙る。

 

「……学びます」

「何を?」

「死なない方法を」

「それは、ここで生きる者が皆最初に学ぶことだ」

 

 長老は杖をつき、ゆっくりと立ち上がった。

 

「聖王国の娘を置く理由はない。だが、追い返したところで一人で死なれるのも面倒だ。しばらく置く。ただし、客ではない。食うなら働け。学ぶなら対価を払え。勝手に集落の外へ出るな。術式を使う時は申告しろ。黒域の地脈に下手な術式を流されると面倒だ」

「承知」

「それと」

 

 長老の視線が鋭くなる。

 

「ユリス・アステル。これ以上、聖王国の者を増やすな」

「俺が呼んだわけじゃないんですけど」

「この娘はお前を追ってきた。事実が全てだ」

「……はい」

 

 何も言えなかった。

 メルギドスが胸の奥で楽しそうに笑っている。

 

『クク……光を歪め、闇へ堕とす。実に魔王らしいではないか』

 

 エルネアが、ちらりとユリスを見る。

 また何かを察したような目だった。ユリスは慌てて視線を逸らした。

 エルネアには、ユリスと同じく集落の空き小屋が与えられた。正確には、使われていない物置に近い。木の壁は隙間風を通し、床は硬い。学園の寮とは比べものにならないほど粗末な場所だった。

 それでも、エルネアは文句を言わなかった。

 むしろ淡々と内部を確認し、持ってきた魔導具を並べ始めた。

 

「寝台、簡易。防寒性、低い。机、なし。記録作業には不向き」

 

 ユリスは戸口に立ったまま、気まずさを抱えていた。エルネアは振り返る。

 

「ユリス」

「何だ?」

「繰り返す。私は、ユリスを連れ戻すためにここにいるわけじゃない」

 

 ユリスは、何も言わずに聞いた。

 

「ユリスが選んだことを、なかったことにしたいわけじゃない。魔王の剣を捨てさせて、前の学園生活に戻せば全部解決するとも思っていない」

「……アリアたちは、そう思うかもしれない」

「うん」

「……リーナも、クラウディアも」

「うん」

 

 エルネアは頷く。

 

「だから、私は違う。私だけは違う。──どんなに闇に堕ちても、私はユリスのそばにいる」

 

 その言葉に、ユリスは胸を押さえたくなった。

 救いのようだった。

 あまりにも都合のいい救いのようだった。

 だが、背筋に嫌なものが走る。

 

 一瞬、エルネアの目の奥に、どろりと濁った感情が、見えたような気がした。

 

「そばで支えたい」

 

 エルネアは静かに言った。

 淡い水色の髪が、薄暗い小屋の中で揺れる。

 

「ユリスが、誰にも分かってもらえない場所へ行くなら──」

 

 そこで、ほんの少しだけ言葉が止まった。

 エルネアの胸の奥で、またあの安堵が疼いた。

 誰にも分かってもらえないユリス。

 その隣に、自分だけが立てるかもしれないという感覚。

 それは醜い。分かっている。

 けれど、どうしようもなく甘かった。

 

「……私だけは、分かってあげたい」

 

 ユリスは、しばらく黙っていた。

 それから、困ったように笑う。

 

「それは……ありがたいな」

「ありがたい?」

「……いや、ありがたいって言い方も変か。でも、救われる」

 

 救われる。

 その言葉を聞いた瞬間、エルネアの指先が震えた。

 胸の奥に、柔らかな熱が広がる。

 同時に、怖くなった。

 この言葉を、他の誰かにも向けるのだろうか。

 アリアにも。リーナにも。クラウディアにも。ヴェルナにも。

 そう考えた瞬間、熱の中に小さな棘が混じった。

 エルネアは、それを見ないふりをした。

 まだ、名前をつけるべきではない。

 つけてしまえば、自分がひどく醜いものになってしまう気がしたから。

 

「でも、エルネア」

 

 ユリスが言う。

 

「俺はたぶん……お前が思っているより面倒な道を進む」

「知ってる」

「後悔するかもしれないぞ?」

「後悔なんてしない」

「なんで、そう言い切れる?」

「後悔しない自信があるから」

「ははっ……珍しく、理屈通ってなくないか?」

 

 ユリスが少しだけ笑う。

 その笑顔を見た瞬間、エルネアは思った。

 来てよかった。会えてよかった。

 

 そして──もう二度と何があっても離れたくない。

 

 その感情は、あまりにも単純で、あまりにも強かった。

 

 ◇

 

 その日の夕方。

 ユリスは訓練場で、また地面に転がされていた。

 ヴェルナの双剣が、喉元の少し手前で止まっている。

 

「遅い」

「今日は色々あったからな……」

「言い訳か?」

「……言い訳だ」

 

 ユリスが認めると、ヴェルナは少しだけ眉を動かした。

 

「なら立て」

「相変わらず厳しいな」

 

 ユリスは呻きながら立ち上がる。

 訓練場の端では、エルネアが記録板を抱えて座っていた。

 そして今、ユリスの訓練を見ている。

 記録している。

 けれど、学園にいた頃のように、ただ数値を取っているわけではなかった。

 

「黒装発動前の呼吸、以前より浅い。右腕への偏りも強い。ヴェルナの二撃目に対する反応が遅れている」

「……聞こえてるぞ、エルネア」

「聞かせている」

「お前までヴェルナみたいなことを言わないでくれよ……」

「必要な指摘」

 

 ヴェルナが、わずかにエルネアを見る。

 

「二撃目ではなく、初動から遅い。反応が遅いのではなく、迷っているからだ」

「なるほど。修正する」

 

 エルネアは記録板に書き込む。

 ユリスはその様子を見て、妙な気分になった。

 ヴェルナが感覚で見ているものを、エルネアが記録する。エルネアが数値で拾うものを、ヴェルナが実戦で試す。

 どちらも正しい。

 そして、その両方が自分に向いている。

 

 ……胃が痛い。

 

『よいではないか』

 

 メルギドスが言った。

 

『黒域の刃と、聖王国の観測者。双方に見られながら鍛えられる。なかなか贅沢な状況だ』

(胃痛が倍になった)

『ならば胃も鍛えろ』

(どうやってだよ)

 

 ユリスは訓練剣を構え直す。

 ヴェルナが踏み込む。エルネアが見る。メルギドスが笑う。

 黒域の風が吹く。

 学園ではあり得なかった時間が、そこに生まれていた。

 エルネアは、ユリスの動きを記録しながら、時々ふと顔を上げる。

 ユリスは倒れる。立つ。痛みに顔を歪める。けれど、決してやめない。止まらない。

 その姿は、学園にいた頃と同じだった。

 けれど、同じではなかった。

 彼の手には闇がある。背には黒域がある。隣には、自分の知らない少女がいる。

 

 エルネアは、記録板を握る指に力を込めた。

 ユリスがどれだけ闇を選んでも。

 悪に染まっても。誰かを傷つけるとしても。

 その奥にあるものを、見たい。知りたい。支えたい。

 それだけは偽ることのできない本心であった。

 

 ◇

 

 その日から、奇妙な日々が始まった。

 ヴェルナは、ユリスを倒した。

 エルネアは、それを記録した。

 ユリスは、倒れては立ち上がった。

 メルギドスは、胸の奥で楽しそうに笑っていた。

 黒域の外縁集落には、悪霊犬の王(バーゲストロード)を一撃で屠る力を持つ魔王の剣に選ばれた少年と、その少年を追ってきた、あらゆる魔法を自在に操る少女がいるという噂が広がった。

 

 それは小さな噂だった。

 まだ、黒域全体を揺らすほどのものではない。

 だが、噂は歩く。商人の口を渡り、傭兵の酒場へ流れ、密猟者の恐怖と混ざり、小さな火種へと変わっていく。

 ユリス・アステルは、そのことをまだ知らない。

 ただ一人。

 魔王メルギドスだけが、その先に生まれる歪みを愉快そうに眺めていた。

 

 そして――それから一年が過ぎた。

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