曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。) 作:黒雪ゆきは
エルネア・フィル・グリモワールは黒域外縁の訓練場で泣き崩れ、ユリスの服を掴んだまま何度も彼の名を呼んだ後、彼女の意識は糸が切れたように途切れた。
無理もなかった。
黒域の地脈に逆らいながら追跡術式を維持し、魔力を削り、足首を痛め、泥にまみれながら、たった一人でここまで来たのだから。
だからユリスは、何も聞けなかった。
ただ、彼女を休ませるしかなかった。
ヴェルナは最後まで警戒を解かなかった。気を失ったエルネアを運ぶ間も、小屋に寝かせる間も、集落の長老に事情を説明する間も、真紅の瞳はずっと冷たく細められていた。
──ユリスを追って聖王国から来た女。
それだけで、黒域にとっては十分な警戒対象だった。
エルネアは固い寝台に横たえられ、黒域式の薬草を足首に巻かれ、乱れた淡い水色の髪を頬に張りつかせたまま、何度か苦しそうに眉を寄せた。
そのたびに、ユリスは喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
何を聞くべきか分からなかった。
何を謝ればいいのかも分からなかった。
ただ一つだけ分かるのは、自分が何も告げずに学園を出たことで、エルネアの中にあった何かまで壊してしまったということだった。
彼女の手は、眠ってからもしばらく何かを掴むように丸まっていた。ユリスの服を離す瞬間、どこか不安そうに震えていた指先が、まだ記憶に残っている。
どこまでも冷静で、淡々と物事を解釈し理解していたエルネアが、理性をかなぐり捨て、ここまで来てしまった。
罪悪感に押しつぶされそうだった。
様々な考えが頭の中で絡まり、その夜、ユリスはほとんど眠れなかった。
夜明け前、何度目か分からないため息を吐いた後、ユリスは木の器に入れた薄い粥を持って小屋を出た。
黒域の朝は早い。まだ空は薄暗いのに、集落ではすでに刃を研ぐ音がしていた。見張りの交代を告げる短い声。竈に火を入れる音。乾いた風に混じる薬草と獣肉の匂い。
聖王国で迎える朝とはまるで違う。
エルネアが寝かされている小屋の前には、ヴェルナが立っていた。
黒髪を朝風に揺らし、真紅の瞳でこちらを見る。眠気の欠片もない。いつでも双剣を抜けるような立ち方だった。
「夜通し見張ってたのか……?」
「聖王国の女が黒域の集落にいる。目を離す理由がない」
「……それはそうだな」
ユリスは否定できなかった。
エルネアはユリスの知る少女でも、黒域にとっては得体の知れない外部の魔術師だ。しかも追跡術式でここまで来ている。警戒されない方がおかしい。
「足首は処置した。魔力切れに近い。しばらく動かすな」
「……助かった」
「勘違いするな。死なれると面倒なだけだ」
「分かってる」
それでも、助かったことに変わりはない。
ユリスは小さく息を吐き、小屋の中へ入った。
エルネアは、固い寝台の上で眠っていた。
泥に汚れた学園制服と賢者科のローブは脱がされ、壁際の椅子に掛けられている。代わりに、彼女は黒域の女たちが使う粗い布の寝衣を着せられていた。飾り気のない灰色の布。聖王国の制服とはまるで違う、ただ身体を冷やさないためだけの衣服だった。
淡い水色の髪は乱れ、黒いリボンは外されて寝台の横に置かれ、眼鏡も同じ場所に畳まれている。足首には黒域式の薬草と布が巻かれていた。
ユリスが近づくと、彼女の指先が小さく動いた。何かを探すように、寝具の端を掴む。
その仕草だけで、胸の奥がまた痛んだ。
「……悪い」
小さく呟く。返事はない。
眠っているのだから当然だった。それでも、言わずにはいられなかった。
しばらくすると、エルネアの瞼がかすかに震えた。
ゆっくりと、青い瞳が開く。最初に天井を見る。
次に、見慣れない壁を見る。そして、ユリスを見た。
「……ユリス」
「起きたか」
「……本当に、いた」
エルネアの声は掠れていた。
昨日の続きのような声だった。
記録でも、確認でもなく、ただ確かめるような声。
「ああ……」
ユリスが答えると、エルネアは少しだけ目を伏せた。
「よかった」
その一言が、ユリスの胸に深く刺さった。
エルネアはゆっくりと身体を起こそうとして、足首に走った痛みに顔を歪める。
「無理するな。足、痛めてる」
「……軽度の捻挫。歩行は可能」
「可能でも痛いだろ」
「痛い」
「だったら動かない方がいい」
ユリスは粥の入った器を差し出した。
エルネアはそれを受け取り、両手で包むように持つ。学園の食堂で出るものよりずっと粗末で、見た目も整っていない。だが、その温かさだけで、少しだけ息が楽になった。
「食べれるか?」
「うん」
「無理しなくていい」
「食べないと動けない」
「……いや動くなよ」
ユリスは壁にもたれ、小さくため息を吐いた。
エルネアは粥を一口食べる。癖のある味だった。だが、身体が温まる。しばらく、二人とも黙っていた。
外では、誰かが木材を運ぶ音がする。子供の声も聞こえる。遠くでヴェルナの短い指示が響いた。
その声に、エルネアの指が少しだけ止まる。
「ヴェルナは、お前をまだ警戒してる」
「当然」
「自覚してるのか」
「私は聖王国から来た。黒域にとって警戒対象。しかも追跡術式を使ってユリスのところまで来た。信用される要素が少ない」
「……さすがだな、エルネア」
いつものエルネアの言い方だった。
けれど、昨日の涙を見た後だと、同じ言葉でも少し違って聞こえた。ユリスは腕を組み、息を吐く。
そして、言わなければならないことを言った。
「エルネア。……足が治ったら、帰れ」
「嫌」
即答だった。
「昨日のお前は、まともに話せる状態じゃなかった。だから改めて言う。黒域は危険だ。聖王国の術式は乱れる。魔物もいる。集落の外に出るだけで死ぬ可能性がある。実際、お前はここまで来るだけでボロボロになってる」
「知ってる」
「なら──」
「帰らない」
迷いはなかった。
エルネアは器を膝の上に置き、寝台の横に置かれていた記録板へ触れた。
昨日、彼女が落としたものだった。
黒砂は払われている。誰かが拾い、ここに置いておいたのだろう。
エルネアは記録板を抱き寄せた。
「もう、見失いたくない」
その一言で、ユリスは言葉を失った。
「一度、見失った。ユリスが魔王の剣を取るほど追い詰められていたことを、私は知らなかった。記録していたのに。ずっと見ていたのに。ユリスが何を飲み込んでいたのか、何に傷ついていたのか、分かっていなかった」
「それは、お前のせいじゃない」
「そうかもしれない」
エルネアは静かに言った。
「でも、私が嫌だった」
泣いていない。
昨日のように崩れてもいない。
だからこそ、その言葉は余計に重かった。
「知らない場所でユリスが壊れていくのは嫌。知らないうちに選んで、知らないうちに傷ついて、知らないうちに遠くへ行くのは嫌。だから、帰らない」
ユリスは返せなかった。
エルネアの声は、淡々としている。
けれど、その奥には、昨日まで隠れていた感情が確かにあった。
「俺は……前までの俺とは違う」
「見れば分かる」
「俺は闇を掴んだ。──これから先、アリア達の敵になるかもしれない」
アリアの顔が浮かぶ。
血の気を失った顔。震えた声。助けたいと言った瞳。ユリスは奥歯を噛む。
「俺は、お前たちが知っている俺じゃなくなるかもしれない」
「うん」
「俺が、本当に悪になったらどうする……?」
エルネアは、すぐには答えなかった。
その沈黙に、ユリスは一瞬だけ息を止める。
やがて、エルネアは顔を上げた。
眼鏡の奥の青い瞳が、まっすぐユリスを見ている。
「そばにいる」
とても強く、迷いなどなかった。
「……普通は、止めるとこだぞ」
「止めるかもしれない。でも、否定はしない」
エルネアは首を振った。
「ユリスが闇を選んでも、悪に染まっても、誰かを傷つける言葉を吐いても、私は否定しない。理解したい。認めたい。そして、支えたい」
「……俺が、戻れないところまで行ったとしてもか?」
「それでも」
エルネアの声は、震えていなかった。
「──ユリスが悪に堕ちても、私だけはそばにいる」
嬉しくなかったといえば、嘘になる。
その言葉は、温かいはずだった。
救いの言葉であるはずだった。
しかし──エルネアの目に迷いが無さすぎた。
ユリスは背筋に冷たいものを感じた。
エルネアは、ユリスを止めようとしていない。
戻そうとしていない。闇を捨てろとも、魔王の剣を手放せとも言わない。
その代わり、闇の先までついてくると言っている。
それが、危うかった。
とても優しく、とても真っ直ぐだからこそ。
『よい』
胸の奥で、メルギドスが低く笑った。
『貴様が闇へ進むなら、この娘はその闇の中で隣に立とうとしている。ククク……アッハッハッハ! たまらんではないかユリス!』
(頼むから黙っててくれ!!)
内心で舌打ちした。
エルネアには、メルギドスの声は聞こえない。
だが、彼女はユリスのわずかな表情の変化を見逃さなかった。
「今、誰かと話しているように見えた」
「……気のせいだ」
「嘘」
「…………」
「ユリスは嘘をつく時、剣の鞘を触る」
「……そ、そうなのか」
「もう見失わない。何があっても」
その返しに、ユリスは言葉を失った。
エルネアは記録板を抱えたまま、膝の上で指を重ねる。
「それも、いつか教えて欲しい」
淡々とした声だった。
だが、以前と同じではない。
そこには、はっきりとした執着があった。
ユリスを知りたい。
ユリスを見失いたくない。
ユリスがどこへ行っても、隣にいたい。
そういった感情が、理屈の下で静かに燃えている。
「随分と簡単に揺れるんだな」
その時、小屋の外から冷たい声がした。
戸口にヴェルナが立っていた。
だが、会話の一部は聞こえていたのだろう。
「ヴェルナ」
「三ヶ月、お前は何度倒れても立った。斬られても、折られても、黒装に失敗しても、何度でも立った。──そこには決して折れない意志があった」
ヴェルナはユリスを見る。
その目は冷たい。
だが、いつもの冷たさとは少し違った。
「なのに、その女の前では随分と顔が変わる」
「……そりゃ、学園の友達が黒域まで来たら驚くだろ」
「友達」
「友達」
ヴェルナとエルネアの声が重なった。
エルネアは彼女を見る。
「あなたが、ヴェルナ」
「そうだ」
「ユリスを見ていた人」
「監視していただけだ」
「見ていたことには変わらない。……私は、見失っていた」
エルネアは、すぐに答えた。
ヴェルナの真紅の瞳が、わずかに細くなる。
「だから、もう見失わない」
「ここは黒域だ。お前のようないい子ちゃんが生きていける場所ではない」
「居る。居させて」
「死ぬぞ」
「死なない方法を学ぶ」
ヴェルナの眉がわずかに動いた。
ユリスは嫌な予感を覚える。
「おい、エルネア。いきなり何を言って――」
「ユリスは黒域で三ヶ月生きている。あなたが監視していた。なら、あなたは黒域で生きるために必要なことを知っている」
「だから教えろと?」
「必要なら」
「図々しいな、聖王国の女」
「そうかもしれない」
エルネアは否定しなかった。
ただ、記録板を抱える手に力を込める。
「でも、帰らない。ユリスのそばにいたいから」
ヴェルナの視線が鋭くなる。
エルネアは揺れない。ユリスの心臓が跳ねた。
「そのために……黒域まで来たのか」
「うん」
あまりにも真っ直ぐだった。
真っ直ぐすぎて、ユリスは咄嗟に口を挟んだ。
「……エルネア、やっぱり駄目だ。アリアたちも心配している。リーナも、クラウディアも」
「学園は、ユリスの行動を重大な逸脱行為と言った」
「…………」
「アリアは止めに来ると思う」
エルネアは、静かに言った。
「でも、私は違う場所に居たい」
「違う場所?」
「ユリスのそばに居させて欲しい」
その言葉はひどく静かで、優しかった。
だが、それだけではない。エルネアの中で何かが歪み始めていた。
みんながユリスを止めるなら。
みんながユリスを戻そうとするなら。
みんなが、悪に染まったユリスを受け入れられないなら。
──自分だけは、そばにいられるのではないか?
誰にも理解されないユリスの隣なら、自分だけが立てるのではないか。そう思った瞬間、エルネアの胸の奥に浅ましい安堵が生まれた。
ひどく醜い感情だった。それなのに、手放せない。気づいてしまったからにはもう偽れない。
エルネアは、その感情にまだ名前をつけなかった。
記録もしなかった。ただ、胸の奥に隠した。
ユリスは、何も言えなかった。
その沈黙を、ヴェルナが切った。
「長老に判断させる」
「長老?」
「この集落のまとめ役だ。聖王国の女を勝手には置けない。ユリス、お前も来い」
「おい、俺はエルネアに──」
「いいから来い」
「……はい」
エルネアは立ち上がろうとして、少しだけ顔を歪めた。足首が痛むのだろう。
ユリスは手を貸そうとした。
その前に、エルネアは寝台の縁を掴み、自分で体勢を整えた。
「歩ける」
「無理するな」
「ユリスに言われたくない」
「…………」
正論だった。
ユリスは黙った。
ヴェルナが、ほんのわずかに目を細める。
「随分と仲が良いな」
その言葉には分かりやすく棘があった。実際に彼女は機嫌が悪かった。しかし、彼女自身なぜこうも苛立つのか理解してはいなかった。
エルネアは記録板を抱え、ヴェルナを見た。
小屋を出るヴェルナの背中は、いつも通り冷たかった。
◇
長老は、エルネアを見るなり深いため息をついた。
額に小さな角を持つ老人は、集落の中央にある古い小屋の前に座っていた。周囲には干した薬草と、燻した肉の匂いが漂っている。
その目は、初めてユリスを見た時と同じように鋭かった。
「今度は聖王国の娘か」
「……すみません」
ユリスは反射的に謝った。
長老が細い目で彼を見る。
「なぜお前が謝る」
「いや、その……俺を追って来たので」
「なら、お前のせいでもあるな」
「ですよね……」
胃が痛い。
長老は次にエルネアを見る。
「名は?」
「エルネア・フィル・グリモワールです」
「目的は?」
「ユリス・アステルの所在確認、および魔王の剣と闇の魔力に関する情報収集」
「表向きの目的は整っているな。では、本音は?」
「ユリスに会いたかった」
周囲にいた者たちの間に、小さなどよめきが走った。あまりにも真っ直ぐな言葉に、少しだけ反応が遅れ、長老はしばらくエルネアを見ていた。
やがて、低く笑う。
「面白い娘だ」
「ありがとうございます」
「黒域まで一人で来た時点で十分面白い。必要なら死んでもよいのか?」
「死ぬつもりはありません」
「死はいつも唐突だ」
長老の声は静かだった。
エルネアは、少しだけ黙る。
「……学びます」
「何を?」
「死なない方法を」
「それは、ここで生きる者が皆最初に学ぶことだ」
長老は杖をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「聖王国の娘を置く理由はない。だが、追い返したところで一人で死なれるのも面倒だ。しばらく置く。ただし、客ではない。食うなら働け。学ぶなら対価を払え。勝手に集落の外へ出るな。術式を使う時は申告しろ。黒域の地脈に下手な術式を流されると面倒だ」
「承知」
「それと」
長老の視線が鋭くなる。
「ユリス・アステル。これ以上、聖王国の者を増やすな」
「俺が呼んだわけじゃないんですけど」
「この娘はお前を追ってきた。事実が全てだ」
「……はい」
何も言えなかった。
メルギドスが胸の奥で楽しそうに笑っている。
『クク……光を歪め、闇へ堕とす。実に魔王らしいではないか』
エルネアが、ちらりとユリスを見る。
また何かを察したような目だった。ユリスは慌てて視線を逸らした。
エルネアには、ユリスと同じく集落の空き小屋が与えられた。正確には、使われていない物置に近い。木の壁は隙間風を通し、床は硬い。学園の寮とは比べものにならないほど粗末な場所だった。
それでも、エルネアは文句を言わなかった。
むしろ淡々と内部を確認し、持ってきた魔導具を並べ始めた。
「寝台、簡易。防寒性、低い。机、なし。記録作業には不向き」
ユリスは戸口に立ったまま、気まずさを抱えていた。エルネアは振り返る。
「ユリス」
「何だ?」
「繰り返す。私は、ユリスを連れ戻すためにここにいるわけじゃない」
ユリスは、何も言わずに聞いた。
「ユリスが選んだことを、なかったことにしたいわけじゃない。魔王の剣を捨てさせて、前の学園生活に戻せば全部解決するとも思っていない」
「……アリアたちは、そう思うかもしれない」
「うん」
「……リーナも、クラウディアも」
「うん」
エルネアは頷く。
「だから、私は違う。私だけは違う。──どんなに闇に堕ちても、私はユリスのそばにいる」
その言葉に、ユリスは胸を押さえたくなった。
救いのようだった。
あまりにも都合のいい救いのようだった。
だが、背筋に嫌なものが走る。
一瞬、エルネアの目の奥に、どろりと濁った感情が、見えたような気がした。
「そばで支えたい」
エルネアは静かに言った。
淡い水色の髪が、薄暗い小屋の中で揺れる。
「ユリスが、誰にも分かってもらえない場所へ行くなら──」
そこで、ほんの少しだけ言葉が止まった。
エルネアの胸の奥で、またあの安堵が疼いた。
誰にも分かってもらえないユリス。
その隣に、自分だけが立てるかもしれないという感覚。
それは醜い。分かっている。
けれど、どうしようもなく甘かった。
「……私だけは、分かってあげたい」
ユリスは、しばらく黙っていた。
それから、困ったように笑う。
「それは……ありがたいな」
「ありがたい?」
「……いや、ありがたいって言い方も変か。でも、救われる」
救われる。
その言葉を聞いた瞬間、エルネアの指先が震えた。
胸の奥に、柔らかな熱が広がる。
同時に、怖くなった。
この言葉を、他の誰かにも向けるのだろうか。
アリアにも。リーナにも。クラウディアにも。ヴェルナにも。
そう考えた瞬間、熱の中に小さな棘が混じった。
エルネアは、それを見ないふりをした。
まだ、名前をつけるべきではない。
つけてしまえば、自分がひどく醜いものになってしまう気がしたから。
「でも、エルネア」
ユリスが言う。
「俺はたぶん……お前が思っているより面倒な道を進む」
「知ってる」
「後悔するかもしれないぞ?」
「後悔なんてしない」
「なんで、そう言い切れる?」
「後悔しない自信があるから」
「ははっ……珍しく、理屈通ってなくないか?」
ユリスが少しだけ笑う。
その笑顔を見た瞬間、エルネアは思った。
来てよかった。会えてよかった。
そして──もう二度と何があっても離れたくない。
その感情は、あまりにも単純で、あまりにも強かった。
◇
その日の夕方。
ユリスは訓練場で、また地面に転がされていた。
ヴェルナの双剣が、喉元の少し手前で止まっている。
「遅い」
「今日は色々あったからな……」
「言い訳か?」
「……言い訳だ」
ユリスが認めると、ヴェルナは少しだけ眉を動かした。
「なら立て」
「相変わらず厳しいな」
ユリスは呻きながら立ち上がる。
訓練場の端では、エルネアが記録板を抱えて座っていた。
そして今、ユリスの訓練を見ている。
記録している。
けれど、学園にいた頃のように、ただ数値を取っているわけではなかった。
「黒装発動前の呼吸、以前より浅い。右腕への偏りも強い。ヴェルナの二撃目に対する反応が遅れている」
「……聞こえてるぞ、エルネア」
「聞かせている」
「お前までヴェルナみたいなことを言わないでくれよ……」
「必要な指摘」
ヴェルナが、わずかにエルネアを見る。
「二撃目ではなく、初動から遅い。反応が遅いのではなく、迷っているからだ」
「なるほど。修正する」
エルネアは記録板に書き込む。
ユリスはその様子を見て、妙な気分になった。
ヴェルナが感覚で見ているものを、エルネアが記録する。エルネアが数値で拾うものを、ヴェルナが実戦で試す。
どちらも正しい。
そして、その両方が自分に向いている。
……胃が痛い。
『よいではないか』
メルギドスが言った。
『黒域の刃と、聖王国の観測者。双方に見られながら鍛えられる。なかなか贅沢な状況だ』
(胃痛が倍になった)
『ならば胃も鍛えろ』
(どうやってだよ)
ユリスは訓練剣を構え直す。
ヴェルナが踏み込む。エルネアが見る。メルギドスが笑う。
黒域の風が吹く。
学園ではあり得なかった時間が、そこに生まれていた。
エルネアは、ユリスの動きを記録しながら、時々ふと顔を上げる。
ユリスは倒れる。立つ。痛みに顔を歪める。けれど、決してやめない。止まらない。
その姿は、学園にいた頃と同じだった。
けれど、同じではなかった。
彼の手には闇がある。背には黒域がある。隣には、自分の知らない少女がいる。
エルネアは、記録板を握る指に力を込めた。
ユリスがどれだけ闇を選んでも。
悪に染まっても。誰かを傷つけるとしても。
その奥にあるものを、見たい。知りたい。支えたい。
それだけは偽ることのできない本心であった。
◇
その日から、奇妙な日々が始まった。
ヴェルナは、ユリスを倒した。
エルネアは、それを記録した。
ユリスは、倒れては立ち上がった。
メルギドスは、胸の奥で楽しそうに笑っていた。
黒域の外縁集落には、
それは小さな噂だった。
まだ、黒域全体を揺らすほどのものではない。
だが、噂は歩く。商人の口を渡り、傭兵の酒場へ流れ、密猟者の恐怖と混ざり、小さな火種へと変わっていく。
ユリス・アステルは、そのことをまだ知らない。
ただ一人。
魔王メルギドスだけが、その先に生まれる歪みを愉快そうに眺めていた。
そして――それから一年が過ぎた。