曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。)   作:黒雪ゆきは

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017 想いを胸に。

 木剣が宙を舞った。

 乾いた音を立てて石畳を跳ね、そのまま白線の外まで転がっていく。遅れて、一人の少女が地面へ倒れた。

 勝敗は明らかだった。

 開始からまだ一分も経っていない。勇者科でも上位に入る生徒だった。踏み込みも、剣筋も、決して悪くなかった。──ただ、相手が悪すぎた。

 第一訓練場の中央で、アリア・ルミナスの剣の切っ先は、倒れた少女へ向けられたままだった。

 僅かな金の光を含んだ赤い長髪が肩へ落ちる。

 相手の意識はある。呼吸もしている。片手で石畳を掴み、身体を起こそうとしていた。

 ならば、まだ終わっていない。

 アリアは静かに待った。

 もう少しすれば膝をつく。剣を探し、痛みに耐えながら立ち上がる。そこから、もう一度向かってくる。そのはずだった。

 

 ──ユリスなら、もう立っている。

 

 肩を打たれても。足を払われても。

 何度地面へ叩きつけられても、身体が動く限り剣を拾った。

 倒れたことを、負けた理由にはしなかった。

 だが、目の前の少女は立ち上がらない。

 石畳を掴んでいた指から、ゆっくりと力が抜けていく。アリアは僅かに眉を寄せた。

 

「そこまで!」

 

 審判を務める教師の声が、訓練場へ響いた。

 アリアは動かなかったが、教師が二人の間へ入り、片手を上げる。

 

「勝者、アリア・ルミナス」

 

 そこでようやく、アリアは目を瞬いた。

 

「……もう終わりですか?」

 

 見学していた生徒たちが静まり返る。

 教師は倒れた少女を確認してから、アリアへ向き直った。

 

「武器を失い、戦闘続行が困難だと判断しました」

「でも、まだ意識はあります」

「これは模擬試合です。相手が完全に動けなくなるまで続ける必要はありません」

 

 アリアは、自分が剣を構えたままだったことに気づいた。ゆっくりと切っ先を下げる。

 

「……そうですね。申し訳ありません」

 

 木剣を鞘へ戻し、倒れた少女へ歩み寄った。

 アリアが差し出した手を見て、少女の肩が僅かに跳ねる。一瞬だけだった。それでも、アリアは見逃さなかった。

 

「ごめんなさい。痛かったよね」

 

 声は以前と変わらず、柔らかかった。

 少女は戸惑いながらもその手を取り、立ち上がろうとする。足元が揺れ、教師が反対側から身体を支えた。

 

「あ、ありがとうございました……アリア先輩」

「ううん。こちらこそ」

 

 少女は頭を下げ、別の生徒に連れられて訓練場を出ていった。その背中を見送りながら、アリアは自分の掌を見た。

 怖がらせてしまった。

 それは分かる。

 悪いことをしたとも思う。

 だが、何を間違えたのかが、よく分からなかった。

 相手はまだ意識を失っていなかった。

 剣も、それほど遠くにはない。

 だから立ち上がると思った。

 ただ、それだけだった。

 

「また一分も持たなかった……」

「今の相手、かなり強い人だよね」

「最近のアリアさん、少し怖くない……?」

「強くなっただけでしょう。勇者候補なんだから」

「でも、前はあんな戦い方じゃなかったよ」

 

 声を潜めているつもりなのだろう。

 しかし、祝福によって研ぎ澄まされたアリアの耳には、全て届いていた。

 振り返れば、きっと黙る。また怖がらせてしまう。だから振り返らなかった。

 代わりに、剣を握っていた指をゆっくりと閉じる。

 呼吸は乱れていない。

 相手の攻撃は、全て見えていた。

 踏み込む直前の足の動きも。剣を振る前の肩の揺れも。守りへ移る際の重心も。

 

 この一年、彼女の成長は凄まじかった。

 

 毎日、ユリスを想定して剣を振った。

 魔王の剣を持った彼が、どれほど速く、どれほど強くなっているのか。何も分からないからこそ、最も強いユリスを考えた。

 一度倒しても立ち上がる。二度倒しても、まだ足りない。剣を弾かれても、素手で掴みに来るかもしれない。彼が痛みを理由に止まることなどない。

 そんな相手に剣を届かせるために、アリアは剣を振り続けていた。

 

「アリア・ルミナス」

 

 訓練場の入口から名前を呼ばれる。

 深紺の制服を着た女性教師が、白い封書を手に立っていた。

 

「学園長がお呼びです」

「私を?」

「リーナ・セレナーデ、クラウディア・レインベルも同席します」

 

 三人の名前を聞いた瞬間、アリアの指が止まった。

 

「理由を伺ってもいいですか?」

「中央神殿から、事情聴取の要請が届きました」

 

 胸の奥で、何かが強く鳴った。

 

「ユリスのことですか」

 

 教師は答えなかった。

 だが、否定もしなかった。

 

 

 学園長室には、リーナとクラウディアが先に到着していた。

 リーナは白いケープの前で両手を重ね、胸元の銀の聖紋へ指を添えている。淡いミントグリーンの髪は以前と変わらず整えられていたが、アリアが入室した瞬間、緑の瞳がすぐに向けられた。

 クラウディアは壁際に立っている。

 白い外套の下には訓練用の軽装。背中には、細かな傷の増えた大盾があった。僅かな隙もない。

 アリアが二人の隣へ並ぶ。

 机の向こうに座る学園長は、三人の顔を順に見た。

 

「先に伝えておきます」

 

 銀髪の女性の声は抑揚がまるでなかった。

 

「今回、君たちを呼んだのは、情報提供の協力をしてもらうためです」

 

 学園長は机の上に置かれた封書へ手を重ねた。

 白い封蝋には、中央神殿の聖紋が刻まれている。

 

「中央神殿が、ユリス・アステルに関する事情聴取を求めています。その対象として、君たち三人が指定されました」

「私たちを、ですか?」

 

 リーナの指が聖紋から離れた。

 

「アリア・ルミナスとクラウディア・レインベルは、ユリス・アステルと同じ村で育ち、入学以前の彼を知る者として。リーナ・セレナーデは、学園内で彼の治療を継続して担当していた者として、名前が挙げられています」

「昔のユリスを調べて、どうするつもりなんですか」

 

 アリアが尋ねる。

 学園長はすぐには答えなかった。

 

「魔王の剣を手にする以前から、危険な思想や兆候があったのか。剣を手にしたことで変化したのか。中央神殿は、それを確認したいのでしょう」

「ユリスは危険な思想なんて持っていません!!」

 

 アリアの声が低く鋭かった。

 

「だからこそ、君たちの証言が求められています」

 

 学園長は封書を開かなかった。

 中に何が書かれているのか、三人へ見せるつもりはないらしい。

 

「なぜ、今になって?」

 

 クラウディアが問う。

 

「我々が把握している情報によると、ユリス・アステルの存在が無視できなくなりつつあるからです。状況次第では、聖王国として対処しなくてはなりません」

 

 三人の空気が変わった。

 学園長は必要な言葉だけを選ぶように、静かに続ける。

 

「黒域の複数の場所で、魔王の剣と思われる黒剣を持った銀髪の少年が目撃されています。一部では、魔王候補と呼ばれているそうです」

「魔王候補……」

 

 リーナの唇から、細い声が漏れた。

 アリアは無意識に胸元へ手を置いた。

 女神に選ばれた勇者候補。

 それが、アリアに与えられた呼び名だった。

 そして今、ユリスは魔王候補と呼ばれている。

 

「それが、ユリスだという証拠はあるんですか」

「確証はありません。容姿と所持品、聖王国から黒域へ入った時期が一致している。それだけです」

「何をしたんですか」

 

 アリアは机へ一歩近づいた。

 

「ユリスが……誰かを傷つけたんですか……?」

「現在の情報だけでは、判断できません」

「なら、どうして魔王なんて呼ばれるんですか」

「そちらの詳細も不明です」

 

 学園長の声に、感情はなかった。

 それが真実なのかどうか、アリアをして分からなかった。

 アリアは唇を噛んだ。

 ユリスは、聖王国を苦しめるために黒域へ行ったのではない。魔王になりたかったわけでもない。

 

 彼が望んでいたのは、ただ──アリアに勝つことだった。

 

 少なくとも、一年前までは。

 今も同じなのか。そう問われれば、答えることはできなかった。

 この一年、彼の声を聞いていない。

 剣を交えていない。

 どこで、誰と、何を見ているのかも分からない。

 

「もう一人」

 

 クラウディアが口を開いた。

 

「目撃されたのは、ユリスだけではないのではありませんか」

 

 学園長の表情は変わらない。

 だが、答えるまでに僅かな間があった。

 

「淡い水色の髪を持つ、若い女魔術師の目撃証言があります。複数系統の魔法を使用していたという証言もあります」

「エルネア……」

 

 今度は、三人の誰も否定しなかった。

 生きている。

 少なくとも、証言が得られた時点では。

 黒域へ辿り着いていた。胸へ安堵が広がるより先に、別の疑問が浮かぶ。

 では、なぜ戻ってこなかったのか。

 帰れないのか。捕らえられたのか。

 

 それとも──戻らないことを選んだのか。

 

「二人は一緒にいるんですか」

 

 アリアが尋ねる。

 

「現時点で、そう断定できる情報はありません」

「目撃された場所は?」

「答えられません」

「どうしてですか」

「君たちは調査担当者ではないからです」

 

 学園長の声が厳しくなる。

 

「事情聴取は、黒域の情報を開示するためのものではありません。また、君たちに黒域への接近を許可するものでもない」

「まだ、私たちを行かせないつもりですか!」

 

 クラウディアの手が、大盾の縁を掴んだ。

 

「一年以上が過ぎています」

「一年が経過すれば、黒域が安全になるわけではありません」

「安全になるのを待っていたら、永遠に行けません!」

「だからといって、黒域へ生徒を送り出すことはできません」

 

 その言葉に、三人は黙った。

 場所が分からない。

 それこそが、一年間どうすることもできなかった最大の理由だった。

 エルネアだけは、ユリスが残した闇の魔力を追う術式を組み上げた。

 資料を集め。痕跡を調べ。

 一週間をかけて、黒域へ続く道を見つけ出した。

 アリアたちには、同じことができなかった。

 アリアとクラウディアには、追跡術式そのものが使えない。リーナにも、黒域の地脈へ干渉しながら一人の痕跡を追う技術はなかった。

 方角も分からないまま黒域へ入ることは、ユリスを追うことではない。

 ただ、黒域のどこかで死ぬことだった。

 

「エルネアが消えた後、学園は全ての門と搬入口の警備を強化しましたね」

 

 クラウディアが低く言った。

 

「外出許可の基準は以前より厳しくなり、黒域に関する記録は閲覧を制限された。私たち三人は、学園外へ出るだけでも教員の確認が必要になった」

「当然の措置です」

 

 学園長は視線を逸らさない。

 

「一人の生徒が魔王の剣を持ち去り、もう一人が後を追って失踪した。同じことを繰り返すわけにはいきません」

「だから、私が何度申請しても却下したのですか」

 

 クラウディアの声には、抑え込まれた熱があった。

 

「境界警備への参加も。捜索隊の護衛も。黒域周辺の巡回任務も」

「君は生徒です」

 

 学園長の視線が鋭く突き刺さる。

 

「皆さんが成長し、強くなったことは認めます。しかし、強さだけを理由に生徒を黒域へ行かせることはできません」

 

 クラウディアの指が、盾の縁へ食い込む。

 この一年、何度同じ言葉を聞いたか分からない。

 まだ早い。危険すぎる。待ちなさい。任せなさい。

 そう言われている間にも、ユリスは自分の手の届かない場所にいる。

 傷ついているかもしれない。

 助けを求めているかもしれない。

 それでも、自分には何もできない。それがどうしようもなく、もどかしかった。

 

「事情聴取は三日後です」

 

 学園長が告げる。

 

「尋ねられたことへ、事実だけを答えてください。幼少期の言動、入学以前の人間関係、治療時の状態。余計な推測を加える必要はありません」

「私たちの答えで、神殿はユリスさんをどうするのでしょう」

 

 リーナが尋ねた。

 声は静かだったが、胸元の聖紋を握る指は白くなっていた。

 

「それを判断するための聴取です」

「救うのか、危険な存在として対処するかもしれないということですね」

「私は中央神殿の判断を代弁する立場にはありません」

 

 正しい答えだった。

 だからこそ、冷たかった。

 ユリスという一人の少年が、本人のいない場所で分類されようとしている。

 被害者。危険人物。魔王候補。

 

「独断で動くことは認めません」

 

 学園長は三人を順に見た。

 

「エルネア・フィル・グリモワールと同じ行動を取らないように。本日は以上です。解散」

 

 

 治療棟には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。

 白い床。薬草と香油の匂い。

 棚へ並べられた包帯と治療具。

 一年前と変わらない場所だった。

 窓際に置かれた白い椅子には、先ほどアリアと模擬試合をした少女が座っている。

 リーナは腫れた足首へ両手を添え、静かに治癒魔法を流していた。

 淡い光が肌を包み、赤くなっていた箇所が少しずつ元の色へ戻っていく。

 アリアは少し離れた場所に立っていた。

 クラウディアは壁際へ盾を置き、腕を組んでいる。

 

「これで大丈夫です。今日はもう訓練へ戻らないでください」

「ありがとうございます、リーナ先輩」

 

 少女は立ち上がり、足の状態を確かめる。

 痛みが消えていることに安堵した後、アリアへ視線を向けた。

 僅かに身体が強張る。

 アリアはそれを見て、目を伏せた。

 

「本当にごめんなさい」

「い、いえ。ありがとうございました、アリア先輩……」

 

 少女はそう答えたが、最後までアリアの目を見ることはなかった。

 小さく頭を下げ、治療室を出ていく。

 扉が閉まった後、アリアは白い椅子を見つめた。

 

「怖がらせちゃったな……」

 

 誰へ言うでもなく呟く。

 

「そうですね」

 

 リーナは否定しなかった。

 

「でも、故意に傷つけたわけではないことは、皆わかっていますよ」

「うん……私はただ、立つと思っただけ」

「立てる状態ではなかった」

 

 クラウディアが言う。

 アリアは自分の掌を見た。

 

「分かってる。でも、あの時は分からなかった。ユリスなら、もう立ってると思って」

 

 クラウディアの表情が僅かに動いた。

 

「今日の相手はユリスではない」

「うん」

 

 アリアは素直に頷いた。

 

「分かってたはずなんだけどね」

 

 この一年、ユリスを想定して剣を振り続けた。

 ユリスが望んだ自分でいられるように。

 気づけば、誰と戦ってもユリスと比べるようになった。

 倒れた相手を見れば、彼なら立つと思った。

 剣を弾けば、彼ならまだ来ると思った。

 勝っても、これでは足りないとしか思えなかった。

 

「私、強くなったよ」

 

 アリアは静かに言った。

 

「前よりずっと。誰と戦っても負けない。でも、これで足りるのか分からない。今のユリスが、どれだけ強くなっているのかわからないから」

 

 勇者候補として強くなることは、正しい。

 誰もが褒めてくれた。訓練の成果を称え、次代の勇者に相応しいと言った。

 だが、アリアが求めているのは、魔物を倒すためだけの強さではなかった。

 

「報告の中では、ユリスは魔王候補だった」

 

 アリアは意図的に表情を繕った。

 二人にも決して明かせない心の奥底。

 

 ──安堵。

 

 ユリスは魔王となり、自分の前に立とうとしている。

 それが嬉しい。どうしようもなく嬉しい。

 自分を追うことを、もうやめてしまったかもしれないと思っていたから。

 けれど、この真実だけは明かせない。だからアリアは隠し、心の奥にしまった。

 

「ユリスさんは、今も傷ついているのでしょうか」

 

 リーナが白い椅子へ手を置いた。

 かつて、ユリスが何度も座った椅子だった。

 怪我をしても、大したことはないと言った。

 放っておけば治ると笑った。それでも最後には、リーナへ傷を見せた。

 今は、誰でもこの椅子へ座る。

 リーナは誰の傷であっても治す。

 この一年、以前より多くの生徒へ光を使ってきた。

 救われた者は、皆笑って礼を言った。

 光には意味があった。

 無意味ではなかった。

 

「エルネアさんは……治癒魔法を使えないですよね」

 

 誰にも聞こえないほど小さくリーナはつぶやき、椅子の背をそっと撫でた。

 

「だから、ユリスさんが傷ついても、治してあげることはできません。大丈夫でしょうか……」

 

 リーナの指が止まった。

 

「そうですね」

 

 声は穏やかだった。

 それ以上は何も言わない。

 エルネアには傷を治せない。

 それでも、傷ついた時のユリスを見ているかもしれない。

 痛みを隠す顔を。眠れない夜を。大丈夫だと嘘をつく声を聞いている。

 

「私は、何も知りません」

 

 リーナの声が、小さく落ちた。

 

「黒い魔力を使った後、身体にどれほど負担がかかるのか。以前の傷が残っていないか。ちゃんと眠れているのか。今は、誰に大丈夫だと言っているのか」

 

 掌に淡い光が灯る。

 だが、癒やすべき傷はそこにはなかった。

 

「傷ついてほしくありません。でも……」

「でも?」

「い、いえ、なんでもありません」

  

 リーナはこれ以上は言葉を続けなかった。

 今自分が抱いているのは、聖女にあるまじき最低な考えであると、わかっていたから。

 

 ──自分の知らないところで傷ついて、自分の知らない誰かに支えられている。

 

 それが、不快で仕方なかった。

 心の奥で蠢くドス黒い感情が、リーナの瞳から一瞬光を奪った。

 しかし、すぐさま笑顔を貼り付けた。太陽のように柔らかく、皆を包み込むような笑顔を。

 

「エルネアだけが追いついた」

 

 クラウディアが壁際で言った。

 

「私たちが一年かけてもできなかったことを、あの子は一週間でやった」

「……うん。本当にすごいよね、エルネアは」

 

 アリアが答える。

 

「腹が立つんだ。私だってエルネアのようにユリスを探しに行きたかった。だが……道を見つける方法がなかった」

「それに、エルネアが消えた後は学園の外へ出ることすら、難しくなりましたしね……」

 

 クラウディアは目を伏せる。

 

「そうだな……外出許可は何度出しても戻された。黒域の資料も、私たちの名前では借りられない。境界警備へ志願しても、生徒だからと却下された」

 

 盾の持ち手へ、指が触れる。

 

「正直……一人で抜け出すことも考えた」

「クラウディア」

「考えただけだ」

 

 止めようとしたアリアへ、短く答える。

 

「場所も分からず黒域へ向かっても、ユリスには会えない。私まで消えれば、探す者を一人増やすだけだ」

 

 それでも、何度も考えた。

 夜の門を越える方法を。

 警備の交代のタイミングを調べた。物資搬入口の結界の隙間を見つけた。

 だが、方角が分からない。

 エルネアの術式を再現することもできない。

 

「私も、何度もお願いしました」

 

 リーナは胸元の聖紋へ触れた。

 

「中央神殿に、黒域の捜索へ使えるものがないか。魔王の剣を探知できる魔導具がないか。何度も照会を送りました」

「返事はなかったんだよね」

 

 リーナは頷いた。

 

「正式な捜索に使えるほど正確なものはない、と。黒域の地脈では反応も乱れるから、危険な場所へ人を送る理由にはできない、と」

 

 リーナはそこで言葉を止めた。

 それから、治療室の扉を確認する。

 廊下に人の気配はない。

 窓の外にも、生徒の姿はなかった。

 

「でも、今日」

 

 白いケープの内側へ手を入れる。

 取り出したのは、布で包まれた小さな物だった。

 机の上へ置き、慎重に布を開いていく。

 現れたのは、掌ほどの銀色の円盤だった。

 中央には黒く濁った水晶。その周囲を、細い針が囲んでいる。

 アリアとクラウディアが、同時に息を止めた。

 

「神殿のお友達から、こちらをお借りしました」

 

 リーナの声は静かだった。

 

「固有の魔力を追跡するための探索魔導具です」

「なんだと! これで、ユリスの場所が分かるのか!?」

 

 クラウディアが机へ近づく。

 

「正確な場所までは分かりません。分かるのは、大まかな方角だけです。距離も測れません。古いものなので精度も保証できません。黒域へ入れば、地脈の影響で反応が乱れる可能性もあります」

「それでも……」

 

 アリアは円盤から目を離さなかった。

 

「はい」

 

 リーナは両手を魔導具へ添える。

 

「神殿は、この魔導具を信頼できないと判断したのでしょう。それだけ、黒域へ向かうのは危険ですから」

 

 淡い光が、リーナの指先から円盤へ流れ込む。

 中央の黒い水晶が微かに震えた。

 細い針が、ゆっくりと回り始める。

 一度。二度。

 行き先を失ったように揺れた後、一つの方向を指して止まった。

 三人が、その先を見る。

 治療室の壁。その向こう。聖王国の外。さらに遠く。

 針は震えている。

 今にも外れそうな、頼りない反応だった。

 

「……いる」

 

 アリアの唇から、声が漏れた。

 ユリス本人を示しているとは限らない。

 魔王の剣が捨てられ、別の誰かが持っている可能性もある。

 反応そのものが誤っているかもしれない。

 それでも。一年間、何も示さなかった闇の向こうから、初めて一本の針が返事をした。

 

「神殿に黙って持ち出せば、問題になります」

 

 リーナが言う。

 その言葉とは裏腹に、魔導具を包み直そうとはしなかった。

 

「学園の許可も必要です。黒域へ入る準備も。これだけでは、ユリスさんへ辿り着ける保証もありません」

「分かってる」

 

 アリアは針の先を見つめた。

 

「それでも、行けるかもしれない」

「アリアさん」

「今までは、どこへ行けばいいのかも分からなかった。エルネアの術式も使えなかった。門を抜けたところで、迷うだけだった」

 

 アリアは拳を握る。

 

「でも、今は違う」

 

 魔導具の針が、小さく震える。

 それはユリスの声ではない。

 彼がアリアを呼んでいるわけでもない。

 分かっている。

 それでも、胸の奥が強く引かれていた。

 

「私は行く」

 

 アリアは言った。

 

「ユリスが魔王候補なんて呼ばれて、勝手に聖王国の敵にされて、それで終わりになんてさせない」

 

 勇者候補として正しい言葉ではなかった。

 聖王国を守るためでも、魔王の剣を封じるためでもない。自分を追い続けていた少年が、今もそこにいるのか確かめたい。それだけだった。

 

「私も行くぞ」

 

 クラウディアが盾を背負う。

 

「今度こそ、ユリスを見つける」

 

 クラウディアは僅かに目を細めた。

 

「まず、生きている姿を見る」

 

 低い声だった。

 

「本人の言葉を聞く。それから決める」

「ユリスが……戻らないと言ったら?」

「その時考える」

 

 答えを避けたことは、二人にも分かった。

 クラウディアはユリスを守る。

 本人が拒んでも。再び危険へ向かおうとしても。

 その覚悟は、一年前より硬くなっている。

 ただ、それを今は口にしなかった。

 

「リーナはどうする?」

 

 アリアが尋ねる。

 リーナは円盤の中央にある黒い水晶を見つめていた。

 治癒の光では届かない場所。

 一年以上、自分の祈りを拒み続けた闇の向こう。

 そこにユリスがいるかもしれない。

 

「もちろん、私も行きます。そのために、お二人に話したんですから」

 

 リーナは魔導具を両手で包んだ。

 

「それに、ユリスさんが傷ついているなら、治してあげたいので」

 

 少しだけ間を置く。そして、

 

「私がいなくても、本当に平気なのか」

 

 言葉にしてから、リーナは自分の口元へ手を当てた。

 言うつもりのなかった本音だった。

 アリアもクラウディアも、何も言わない。

 リーナはゆっくりと手を下ろした。

 

「……それも、確かめたいです」

 

 三人の目的は、同じではない。

 アリアは、ユリスが今も自分を追っているのか知りたい。

 リーナは、自分の光がまだ彼に必要とされるのか確かめたい。

 クラウディアは、もう二度と手の届かない場所へユリスを行かせたくない。

 それでも、向かう場所だけは同じだった。

 

「三人で行こう」

 

 アリアが言った。

 

「三人で、ユリスに会いに行こう」

「はい」

「ああ」

 

 魔導具の針は、黒域を指し続けていた。

 弱く、頼りなく。

 それでも確かに、一つの方角を示している。

 一年間、閉ざされていた道だった。

 学園が許すかは分からない。

 中央神殿が何を望んでいるのかも分からない。

 魔導具が、どこまで役に立つのかも。

 だが、三人の決意は揺るがない。

 

 アリアは窓の外を見る。

 第一訓練場では、新しい模擬試合が始まっていた。

 倒れた者がいる。

 すぐには立ち上がらない。

 今度は、それを不思議には思わなかった。

 誰もがユリスではない。

 ユリスは、あの訓練場にはもういない。

 黒域のどこかにいる。

 ならば、待つ理由はなかった。

 

「待ってて、ユリス」

 

 小さく落ちた声に、二人がアリアを見る。

 アリアは目を伏せた。

 

「……今度は、私たちが行くから」

 

 円盤の針が、僅かに揺れた。

 まるで、その言葉へ応えるように。

 三人はそれぞれ異なる願いを抱えたまま、同じ闇へ足を踏み出すことを決めた。

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