曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。) 作:黒雪ゆきは
木剣が宙を舞った。
乾いた音を立てて石畳を跳ね、そのまま白線の外まで転がっていく。遅れて、一人の少女が地面へ倒れた。
勝敗は明らかだった。
開始からまだ一分も経っていない。勇者科でも上位に入る生徒だった。踏み込みも、剣筋も、決して悪くなかった。──ただ、相手が悪すぎた。
第一訓練場の中央で、アリア・ルミナスの剣の切っ先は、倒れた少女へ向けられたままだった。
僅かな金の光を含んだ赤い長髪が肩へ落ちる。
相手の意識はある。呼吸もしている。片手で石畳を掴み、身体を起こそうとしていた。
ならば、まだ終わっていない。
アリアは静かに待った。
もう少しすれば膝をつく。剣を探し、痛みに耐えながら立ち上がる。そこから、もう一度向かってくる。そのはずだった。
──ユリスなら、もう立っている。
肩を打たれても。足を払われても。
何度地面へ叩きつけられても、身体が動く限り剣を拾った。
倒れたことを、負けた理由にはしなかった。
だが、目の前の少女は立ち上がらない。
石畳を掴んでいた指から、ゆっくりと力が抜けていく。アリアは僅かに眉を寄せた。
「そこまで!」
審判を務める教師の声が、訓練場へ響いた。
アリアは動かなかったが、教師が二人の間へ入り、片手を上げる。
「勝者、アリア・ルミナス」
そこでようやく、アリアは目を瞬いた。
「……もう終わりですか?」
見学していた生徒たちが静まり返る。
教師は倒れた少女を確認してから、アリアへ向き直った。
「武器を失い、戦闘続行が困難だと判断しました」
「でも、まだ意識はあります」
「これは模擬試合です。相手が完全に動けなくなるまで続ける必要はありません」
アリアは、自分が剣を構えたままだったことに気づいた。ゆっくりと切っ先を下げる。
「……そうですね。申し訳ありません」
木剣を鞘へ戻し、倒れた少女へ歩み寄った。
アリアが差し出した手を見て、少女の肩が僅かに跳ねる。一瞬だけだった。それでも、アリアは見逃さなかった。
「ごめんなさい。痛かったよね」
声は以前と変わらず、柔らかかった。
少女は戸惑いながらもその手を取り、立ち上がろうとする。足元が揺れ、教師が反対側から身体を支えた。
「あ、ありがとうございました……アリア先輩」
「ううん。こちらこそ」
少女は頭を下げ、別の生徒に連れられて訓練場を出ていった。その背中を見送りながら、アリアは自分の掌を見た。
怖がらせてしまった。
それは分かる。
悪いことをしたとも思う。
だが、何を間違えたのかが、よく分からなかった。
相手はまだ意識を失っていなかった。
剣も、それほど遠くにはない。
だから立ち上がると思った。
ただ、それだけだった。
「また一分も持たなかった……」
「今の相手、かなり強い人だよね」
「最近のアリアさん、少し怖くない……?」
「強くなっただけでしょう。勇者候補なんだから」
「でも、前はあんな戦い方じゃなかったよ」
声を潜めているつもりなのだろう。
しかし、祝福によって研ぎ澄まされたアリアの耳には、全て届いていた。
振り返れば、きっと黙る。また怖がらせてしまう。だから振り返らなかった。
代わりに、剣を握っていた指をゆっくりと閉じる。
呼吸は乱れていない。
相手の攻撃は、全て見えていた。
踏み込む直前の足の動きも。剣を振る前の肩の揺れも。守りへ移る際の重心も。
この一年、彼女の成長は凄まじかった。
毎日、ユリスを想定して剣を振った。
魔王の剣を持った彼が、どれほど速く、どれほど強くなっているのか。何も分からないからこそ、最も強いユリスを考えた。
一度倒しても立ち上がる。二度倒しても、まだ足りない。剣を弾かれても、素手で掴みに来るかもしれない。彼が痛みを理由に止まることなどない。
そんな相手に剣を届かせるために、アリアは剣を振り続けていた。
「アリア・ルミナス」
訓練場の入口から名前を呼ばれる。
深紺の制服を着た女性教師が、白い封書を手に立っていた。
「学園長がお呼びです」
「私を?」
「リーナ・セレナーデ、クラウディア・レインベルも同席します」
三人の名前を聞いた瞬間、アリアの指が止まった。
「理由を伺ってもいいですか?」
「中央神殿から、事情聴取の要請が届きました」
胸の奥で、何かが強く鳴った。
「ユリスのことですか」
教師は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
◇
学園長室には、リーナとクラウディアが先に到着していた。
リーナは白いケープの前で両手を重ね、胸元の銀の聖紋へ指を添えている。淡いミントグリーンの髪は以前と変わらず整えられていたが、アリアが入室した瞬間、緑の瞳がすぐに向けられた。
クラウディアは壁際に立っている。
白い外套の下には訓練用の軽装。背中には、細かな傷の増えた大盾があった。僅かな隙もない。
アリアが二人の隣へ並ぶ。
机の向こうに座る学園長は、三人の顔を順に見た。
「先に伝えておきます」
銀髪の女性の声は抑揚がまるでなかった。
「今回、君たちを呼んだのは、情報提供の協力をしてもらうためです」
学園長は机の上に置かれた封書へ手を重ねた。
白い封蝋には、中央神殿の聖紋が刻まれている。
「中央神殿が、ユリス・アステルに関する事情聴取を求めています。その対象として、君たち三人が指定されました」
「私たちを、ですか?」
リーナの指が聖紋から離れた。
「アリア・ルミナスとクラウディア・レインベルは、ユリス・アステルと同じ村で育ち、入学以前の彼を知る者として。リーナ・セレナーデは、学園内で彼の治療を継続して担当していた者として、名前が挙げられています」
「昔のユリスを調べて、どうするつもりなんですか」
アリアが尋ねる。
学園長はすぐには答えなかった。
「魔王の剣を手にする以前から、危険な思想や兆候があったのか。剣を手にしたことで変化したのか。中央神殿は、それを確認したいのでしょう」
「ユリスは危険な思想なんて持っていません!!」
アリアの声が低く鋭かった。
「だからこそ、君たちの証言が求められています」
学園長は封書を開かなかった。
中に何が書かれているのか、三人へ見せるつもりはないらしい。
「なぜ、今になって?」
クラウディアが問う。
「我々が把握している情報によると、ユリス・アステルの存在が無視できなくなりつつあるからです。状況次第では、聖王国として対処しなくてはなりません」
三人の空気が変わった。
学園長は必要な言葉だけを選ぶように、静かに続ける。
「黒域の複数の場所で、魔王の剣と思われる黒剣を持った銀髪の少年が目撃されています。一部では、魔王候補と呼ばれているそうです」
「魔王候補……」
リーナの唇から、細い声が漏れた。
アリアは無意識に胸元へ手を置いた。
女神に選ばれた勇者候補。
それが、アリアに与えられた呼び名だった。
そして今、ユリスは魔王候補と呼ばれている。
「それが、ユリスだという証拠はあるんですか」
「確証はありません。容姿と所持品、聖王国から黒域へ入った時期が一致している。それだけです」
「何をしたんですか」
アリアは机へ一歩近づいた。
「ユリスが……誰かを傷つけたんですか……?」
「現在の情報だけでは、判断できません」
「なら、どうして魔王なんて呼ばれるんですか」
「そちらの詳細も不明です」
学園長の声に、感情はなかった。
それが真実なのかどうか、アリアをして分からなかった。
アリアは唇を噛んだ。
ユリスは、聖王国を苦しめるために黒域へ行ったのではない。魔王になりたかったわけでもない。
彼が望んでいたのは、ただ──アリアに勝つことだった。
少なくとも、一年前までは。
今も同じなのか。そう問われれば、答えることはできなかった。
この一年、彼の声を聞いていない。
剣を交えていない。
どこで、誰と、何を見ているのかも分からない。
「もう一人」
クラウディアが口を開いた。
「目撃されたのは、ユリスだけではないのではありませんか」
学園長の表情は変わらない。
だが、答えるまでに僅かな間があった。
「淡い水色の髪を持つ、若い女魔術師の目撃証言があります。複数系統の魔法を使用していたという証言もあります」
「エルネア……」
今度は、三人の誰も否定しなかった。
生きている。
少なくとも、証言が得られた時点では。
黒域へ辿り着いていた。胸へ安堵が広がるより先に、別の疑問が浮かぶ。
では、なぜ戻ってこなかったのか。
帰れないのか。捕らえられたのか。
それとも──戻らないことを選んだのか。
「二人は一緒にいるんですか」
アリアが尋ねる。
「現時点で、そう断定できる情報はありません」
「目撃された場所は?」
「答えられません」
「どうしてですか」
「君たちは調査担当者ではないからです」
学園長の声が厳しくなる。
「事情聴取は、黒域の情報を開示するためのものではありません。また、君たちに黒域への接近を許可するものでもない」
「まだ、私たちを行かせないつもりですか!」
クラウディアの手が、大盾の縁を掴んだ。
「一年以上が過ぎています」
「一年が経過すれば、黒域が安全になるわけではありません」
「安全になるのを待っていたら、永遠に行けません!」
「だからといって、黒域へ生徒を送り出すことはできません」
その言葉に、三人は黙った。
場所が分からない。
それこそが、一年間どうすることもできなかった最大の理由だった。
エルネアだけは、ユリスが残した闇の魔力を追う術式を組み上げた。
資料を集め。痕跡を調べ。
一週間をかけて、黒域へ続く道を見つけ出した。
アリアたちには、同じことができなかった。
アリアとクラウディアには、追跡術式そのものが使えない。リーナにも、黒域の地脈へ干渉しながら一人の痕跡を追う技術はなかった。
方角も分からないまま黒域へ入ることは、ユリスを追うことではない。
ただ、黒域のどこかで死ぬことだった。
「エルネアが消えた後、学園は全ての門と搬入口の警備を強化しましたね」
クラウディアが低く言った。
「外出許可の基準は以前より厳しくなり、黒域に関する記録は閲覧を制限された。私たち三人は、学園外へ出るだけでも教員の確認が必要になった」
「当然の措置です」
学園長は視線を逸らさない。
「一人の生徒が魔王の剣を持ち去り、もう一人が後を追って失踪した。同じことを繰り返すわけにはいきません」
「だから、私が何度申請しても却下したのですか」
クラウディアの声には、抑え込まれた熱があった。
「境界警備への参加も。捜索隊の護衛も。黒域周辺の巡回任務も」
「君は生徒です」
学園長の視線が鋭く突き刺さる。
「皆さんが成長し、強くなったことは認めます。しかし、強さだけを理由に生徒を黒域へ行かせることはできません」
クラウディアの指が、盾の縁へ食い込む。
この一年、何度同じ言葉を聞いたか分からない。
まだ早い。危険すぎる。待ちなさい。任せなさい。
そう言われている間にも、ユリスは自分の手の届かない場所にいる。
傷ついているかもしれない。
助けを求めているかもしれない。
それでも、自分には何もできない。それがどうしようもなく、もどかしかった。
「事情聴取は三日後です」
学園長が告げる。
「尋ねられたことへ、事実だけを答えてください。幼少期の言動、入学以前の人間関係、治療時の状態。余計な推測を加える必要はありません」
「私たちの答えで、神殿はユリスさんをどうするのでしょう」
リーナが尋ねた。
声は静かだったが、胸元の聖紋を握る指は白くなっていた。
「それを判断するための聴取です」
「救うのか、危険な存在として対処するかもしれないということですね」
「私は中央神殿の判断を代弁する立場にはありません」
正しい答えだった。
だからこそ、冷たかった。
ユリスという一人の少年が、本人のいない場所で分類されようとしている。
被害者。危険人物。魔王候補。
「独断で動くことは認めません」
学園長は三人を順に見た。
「エルネア・フィル・グリモワールと同じ行動を取らないように。本日は以上です。解散」
◇
治療棟には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
白い床。薬草と香油の匂い。
棚へ並べられた包帯と治療具。
一年前と変わらない場所だった。
窓際に置かれた白い椅子には、先ほどアリアと模擬試合をした少女が座っている。
リーナは腫れた足首へ両手を添え、静かに治癒魔法を流していた。
淡い光が肌を包み、赤くなっていた箇所が少しずつ元の色へ戻っていく。
アリアは少し離れた場所に立っていた。
クラウディアは壁際へ盾を置き、腕を組んでいる。
「これで大丈夫です。今日はもう訓練へ戻らないでください」
「ありがとうございます、リーナ先輩」
少女は立ち上がり、足の状態を確かめる。
痛みが消えていることに安堵した後、アリアへ視線を向けた。
僅かに身体が強張る。
アリアはそれを見て、目を伏せた。
「本当にごめんなさい」
「い、いえ。ありがとうございました、アリア先輩……」
少女はそう答えたが、最後までアリアの目を見ることはなかった。
小さく頭を下げ、治療室を出ていく。
扉が閉まった後、アリアは白い椅子を見つめた。
「怖がらせちゃったな……」
誰へ言うでもなく呟く。
「そうですね」
リーナは否定しなかった。
「でも、故意に傷つけたわけではないことは、皆わかっていますよ」
「うん……私はただ、立つと思っただけ」
「立てる状態ではなかった」
クラウディアが言う。
アリアは自分の掌を見た。
「分かってる。でも、あの時は分からなかった。ユリスなら、もう立ってると思って」
クラウディアの表情が僅かに動いた。
「今日の相手はユリスではない」
「うん」
アリアは素直に頷いた。
「分かってたはずなんだけどね」
この一年、ユリスを想定して剣を振り続けた。
ユリスが望んだ自分でいられるように。
気づけば、誰と戦ってもユリスと比べるようになった。
倒れた相手を見れば、彼なら立つと思った。
剣を弾けば、彼ならまだ来ると思った。
勝っても、これでは足りないとしか思えなかった。
「私、強くなったよ」
アリアは静かに言った。
「前よりずっと。誰と戦っても負けない。でも、これで足りるのか分からない。今のユリスが、どれだけ強くなっているのかわからないから」
勇者候補として強くなることは、正しい。
誰もが褒めてくれた。訓練の成果を称え、次代の勇者に相応しいと言った。
だが、アリアが求めているのは、魔物を倒すためだけの強さではなかった。
「報告の中では、ユリスは魔王候補だった」
アリアは意図的に表情を繕った。
二人にも決して明かせない心の奥底。
──安堵。
ユリスは魔王となり、自分の前に立とうとしている。
それが嬉しい。どうしようもなく嬉しい。
自分を追うことを、もうやめてしまったかもしれないと思っていたから。
けれど、この真実だけは明かせない。だからアリアは隠し、心の奥にしまった。
「ユリスさんは、今も傷ついているのでしょうか」
リーナが白い椅子へ手を置いた。
かつて、ユリスが何度も座った椅子だった。
怪我をしても、大したことはないと言った。
放っておけば治ると笑った。それでも最後には、リーナへ傷を見せた。
今は、誰でもこの椅子へ座る。
リーナは誰の傷であっても治す。
この一年、以前より多くの生徒へ光を使ってきた。
救われた者は、皆笑って礼を言った。
光には意味があった。
無意味ではなかった。
「エルネアさんは……治癒魔法を使えないですよね」
誰にも聞こえないほど小さくリーナはつぶやき、椅子の背をそっと撫でた。
「だから、ユリスさんが傷ついても、治してあげることはできません。大丈夫でしょうか……」
リーナの指が止まった。
「そうですね」
声は穏やかだった。
それ以上は何も言わない。
エルネアには傷を治せない。
それでも、傷ついた時のユリスを見ているかもしれない。
痛みを隠す顔を。眠れない夜を。大丈夫だと嘘をつく声を聞いている。
「私は、何も知りません」
リーナの声が、小さく落ちた。
「黒い魔力を使った後、身体にどれほど負担がかかるのか。以前の傷が残っていないか。ちゃんと眠れているのか。今は、誰に大丈夫だと言っているのか」
掌に淡い光が灯る。
だが、癒やすべき傷はそこにはなかった。
「傷ついてほしくありません。でも……」
「でも?」
「い、いえ、なんでもありません」
リーナはこれ以上は言葉を続けなかった。
今自分が抱いているのは、聖女にあるまじき最低な考えであると、わかっていたから。
──自分の知らないところで傷ついて、自分の知らない誰かに支えられている。
それが、不快で仕方なかった。
心の奥で蠢くドス黒い感情が、リーナの瞳から一瞬光を奪った。
しかし、すぐさま笑顔を貼り付けた。太陽のように柔らかく、皆を包み込むような笑顔を。
「エルネアだけが追いついた」
クラウディアが壁際で言った。
「私たちが一年かけてもできなかったことを、あの子は一週間でやった」
「……うん。本当にすごいよね、エルネアは」
アリアが答える。
「腹が立つんだ。私だってエルネアのようにユリスを探しに行きたかった。だが……道を見つける方法がなかった」
「それに、エルネアが消えた後は学園の外へ出ることすら、難しくなりましたしね……」
クラウディアは目を伏せる。
「そうだな……外出許可は何度出しても戻された。黒域の資料も、私たちの名前では借りられない。境界警備へ志願しても、生徒だからと却下された」
盾の持ち手へ、指が触れる。
「正直……一人で抜け出すことも考えた」
「クラウディア」
「考えただけだ」
止めようとしたアリアへ、短く答える。
「場所も分からず黒域へ向かっても、ユリスには会えない。私まで消えれば、探す者を一人増やすだけだ」
それでも、何度も考えた。
夜の門を越える方法を。
警備の交代のタイミングを調べた。物資搬入口の結界の隙間を見つけた。
だが、方角が分からない。
エルネアの術式を再現することもできない。
「私も、何度もお願いしました」
リーナは胸元の聖紋へ触れた。
「中央神殿に、黒域の捜索へ使えるものがないか。魔王の剣を探知できる魔導具がないか。何度も照会を送りました」
「返事はなかったんだよね」
リーナは頷いた。
「正式な捜索に使えるほど正確なものはない、と。黒域の地脈では反応も乱れるから、危険な場所へ人を送る理由にはできない、と」
リーナはそこで言葉を止めた。
それから、治療室の扉を確認する。
廊下に人の気配はない。
窓の外にも、生徒の姿はなかった。
「でも、今日」
白いケープの内側へ手を入れる。
取り出したのは、布で包まれた小さな物だった。
机の上へ置き、慎重に布を開いていく。
現れたのは、掌ほどの銀色の円盤だった。
中央には黒く濁った水晶。その周囲を、細い針が囲んでいる。
アリアとクラウディアが、同時に息を止めた。
「神殿のお友達から、こちらをお借りしました」
リーナの声は静かだった。
「固有の魔力を追跡するための探索魔導具です」
「なんだと! これで、ユリスの場所が分かるのか!?」
クラウディアが机へ近づく。
「正確な場所までは分かりません。分かるのは、大まかな方角だけです。距離も測れません。古いものなので精度も保証できません。黒域へ入れば、地脈の影響で反応が乱れる可能性もあります」
「それでも……」
アリアは円盤から目を離さなかった。
「はい」
リーナは両手を魔導具へ添える。
「神殿は、この魔導具を信頼できないと判断したのでしょう。それだけ、黒域へ向かうのは危険ですから」
淡い光が、リーナの指先から円盤へ流れ込む。
中央の黒い水晶が微かに震えた。
細い針が、ゆっくりと回り始める。
一度。二度。
行き先を失ったように揺れた後、一つの方向を指して止まった。
三人が、その先を見る。
治療室の壁。その向こう。聖王国の外。さらに遠く。
針は震えている。
今にも外れそうな、頼りない反応だった。
「……いる」
アリアの唇から、声が漏れた。
ユリス本人を示しているとは限らない。
魔王の剣が捨てられ、別の誰かが持っている可能性もある。
反応そのものが誤っているかもしれない。
それでも。一年間、何も示さなかった闇の向こうから、初めて一本の針が返事をした。
「神殿に黙って持ち出せば、問題になります」
リーナが言う。
その言葉とは裏腹に、魔導具を包み直そうとはしなかった。
「学園の許可も必要です。黒域へ入る準備も。これだけでは、ユリスさんへ辿り着ける保証もありません」
「分かってる」
アリアは針の先を見つめた。
「それでも、行けるかもしれない」
「アリアさん」
「今までは、どこへ行けばいいのかも分からなかった。エルネアの術式も使えなかった。門を抜けたところで、迷うだけだった」
アリアは拳を握る。
「でも、今は違う」
魔導具の針が、小さく震える。
それはユリスの声ではない。
彼がアリアを呼んでいるわけでもない。
分かっている。
それでも、胸の奥が強く引かれていた。
「私は行く」
アリアは言った。
「ユリスが魔王候補なんて呼ばれて、勝手に聖王国の敵にされて、それで終わりになんてさせない」
勇者候補として正しい言葉ではなかった。
聖王国を守るためでも、魔王の剣を封じるためでもない。自分を追い続けていた少年が、今もそこにいるのか確かめたい。それだけだった。
「私も行くぞ」
クラウディアが盾を背負う。
「今度こそ、ユリスを見つける」
クラウディアは僅かに目を細めた。
「まず、生きている姿を見る」
低い声だった。
「本人の言葉を聞く。それから決める」
「ユリスが……戻らないと言ったら?」
「その時考える」
答えを避けたことは、二人にも分かった。
クラウディアはユリスを守る。
本人が拒んでも。再び危険へ向かおうとしても。
その覚悟は、一年前より硬くなっている。
ただ、それを今は口にしなかった。
「リーナはどうする?」
アリアが尋ねる。
リーナは円盤の中央にある黒い水晶を見つめていた。
治癒の光では届かない場所。
一年以上、自分の祈りを拒み続けた闇の向こう。
そこにユリスがいるかもしれない。
「もちろん、私も行きます。そのために、お二人に話したんですから」
リーナは魔導具を両手で包んだ。
「それに、ユリスさんが傷ついているなら、治してあげたいので」
少しだけ間を置く。そして、
「私がいなくても、本当に平気なのか」
言葉にしてから、リーナは自分の口元へ手を当てた。
言うつもりのなかった本音だった。
アリアもクラウディアも、何も言わない。
リーナはゆっくりと手を下ろした。
「……それも、確かめたいです」
三人の目的は、同じではない。
アリアは、ユリスが今も自分を追っているのか知りたい。
リーナは、自分の光がまだ彼に必要とされるのか確かめたい。
クラウディアは、もう二度と手の届かない場所へユリスを行かせたくない。
それでも、向かう場所だけは同じだった。
「三人で行こう」
アリアが言った。
「三人で、ユリスに会いに行こう」
「はい」
「ああ」
魔導具の針は、黒域を指し続けていた。
弱く、頼りなく。
それでも確かに、一つの方角を示している。
一年間、閉ざされていた道だった。
学園が許すかは分からない。
中央神殿が何を望んでいるのかも分からない。
魔導具が、どこまで役に立つのかも。
だが、三人の決意は揺るがない。
アリアは窓の外を見る。
第一訓練場では、新しい模擬試合が始まっていた。
倒れた者がいる。
すぐには立ち上がらない。
今度は、それを不思議には思わなかった。
誰もがユリスではない。
ユリスは、あの訓練場にはもういない。
黒域のどこかにいる。
ならば、待つ理由はなかった。
「待ってて、ユリス」
小さく落ちた声に、二人がアリアを見る。
アリアは目を伏せた。
「……今度は、私たちが行くから」
円盤の針が、僅かに揺れた。
まるで、その言葉へ応えるように。
三人はそれぞれ異なる願いを抱えたまま、同じ闇へ足を踏み出すことを決めた。