曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。)   作:黒雪ゆきは

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018 変わらないもの。

 ロヴァン大森林の奥地では、風の音さえ信用できない。

 木々の間を抜けていた風が、不意に途切れる。獣の臭いが消え、湿った鉄の臭いが混じる。遠くで枝が折れても、それが魔物の足音とは限らない。風かもしれず、別の何かから逃げる獣かもしれない。

 黒域で生きる者は、何かが見えてから剣を抜いたのでは遅い。見えないうちに気づき、近づかれる前に逃げる。それができなければ死ぬ。そういう場所だった。

 ヴェルナ・アシュベルは、太い木の根に片足を置き、森の奥を見ていた。

 真紅の瞳が追っているのは、魔物ではない。

 少し先を歩く、一人の少年の背中だった。

 黒域の粗い黒布の服に、暗い革色と深紫の軽鎧を重ねている。右手に武器はない。魔王の剣を足元の影へ沈めたまま、ユリス・アステルは森の奥へ進んでいた。

 足取りに迷いはない。

 枯れ枝の手前で歩幅を変え、地面に残った爪痕を踏まないよう進路をずらす。濃くなった獣臭を拾うたび、僅かに顎を上げて風向きを確かめている。

 一年前なら、ここまで辿り着くことすらできなかった。

 

「止まって」

 

 後ろからエルネアの声がした。

 ユリスは即座に足を止める。ヴェルナも腰の双剣へ手を添えた。

 淡い水色の髪が揺れる。エルネアは黒縁眼鏡の奥で目を細め、記録板を胸元へ抱いたまま、意識だけを足元の地脈へ沈めていた。

 

「前方に大きな魔力反応。一つ。周囲に小型の反応はない」

「距離は?」

「近い。もう、こちらに気づいている」

 

 答えと同時に、森の奥で鎖が鳴った。

 重い何かが地面を擦る。低い唸り声に空気が震え、木の葉がはらはらと落ちてくる。

 ユリスは足元の爪痕を見下ろした。

 

「やっぱり、いるんだな」

「当然だ。ここは奴らの縄張りだからな」

 

 ヴェルナは何も言わなかった。

 一年前、悪霊犬の王(バーゲストロード)は密猟者に追い立てられ、本来なら出てくるはずのない外縁へ現れた。

 今は、ユリスの方から奴らが棲む森の奥へ踏み込んでいる。

 正面の木々が弾けた。

 巨大な黒い獣が姿を現す。

 頭部から突き出した二本の角。黒い毛皮には、太い鎖が幾重にも巻きついている。地面を抉る爪は、並の魔物など一撃で引き裂けるほど大きい。

 悪霊犬の王(バーゲストロード)。以前、ユリスが偶然に近い一撃で辛うじて倒した上位個体。

 黒く濁った瞳が三人を捉える。

 獣の視線はヴェルナ、エルネアを順に過ぎ、最後に、何も持たず前へ立つユリスで止まった。

 牙が剥き出しになる。

 

「ヴェルナ」

 

 ユリスが呼ぶ。

 

「手を出すな」

「言われるまでもない」

 

 助けを求めたのなら、蹴り倒してでも下がらせていた。

 だが、そうではない。

 ヴェルナは双剣から手を離した。

 エルネアも動かない。記録板を抱く指先にだけ、僅かに力がこもる。

 悪霊犬の王(バーゲストロード)が地面を蹴った。

 黒い巨体が、一息で距離を潰す。全身の鎖が広がり、左右から逃げ道を塞いだ。二本の角は真っ直ぐにユリスの胸を狙っている。

 ユリスは動かなかった。

 まだ、剣すら抜いていない。

 

 ──最初に抱いた印象は『弱い』だった。

 

 一年前。魔王の剣を持ち、闇の匂いを纏いながら、そのどちらにも振り回されていた。

 右腕へ意識を寄せる癖。変わる呼吸。胸の魔王印から魔力を流すまでの遅さ。黒装を使う前から、次に何をするのか全て見えていた。

 剣も同じだった。

 握ってはいても、ユリスの身体が魔王の剣に振り回されていた。

 だから、弱いと告げた。

 見たままを口にした。

 

 あれから一年。

 悪霊犬の王(バーゲストロード)の角が、ユリスへ届く。

 その寸前、ユリスの右足が僅かに沈んだ。

 呼吸は変わらない。

 肩も動かない。

 黒装の前兆は、どこにもなかった。

 足元の影から黒い刀身が立ち上がる。ユリスは柄を掴み、引き抜く動きのまま一歩だけ踏み込んだ。

 鎖が唸る。

 一本目を刃の腹で受けた。力には逆らわず、斜めへ流す。その勢いを利用して身体を半回転させると、二本目の鎖が背中を薙ぐより早く、ユリスの足は獣の懐へ入っていた。

 遅れて、黒紫の闇が走る。

 右腕からではない。

 踏み込んだ足から、捻った腰、沈めた肩を抜け、剣を握る指先へ。

 身体の動きを追うように黒装が全身を巡り、次の瞬間には薄い靄だけを残して消えた。

 闇が、ユリスを動かしたのではない。

 ユリスが選んだ動きへ、闇が遅れずついてきた。

 黒い刃が鎖の隙間を通る。──そして一閃。

 

 悪霊犬の王(バーゲストロード)の前脚から黒い血が噴き出した。巨体が傾く。だが、上位個体はそれだけでは止まらない。痛みを怒りへ変え、首を捻りながらユリスへ噛みつく。

 一年前なら、届いていた。

 牙が喉元まで迫り、どちらが先に相手を殺すのか、運に任せるしかなかった。

 ユリスはもう、そこにはいない。

 踏み込んだ勢いを殺さず、獣の脇を抜けている。振り返りざま、魔王の剣を両手で握る。黒装が背中から両腕へ流れた。

 剣が走る。

 派手な一撃ではない。

 無駄を限りなく削ぎ落とした斬撃。

 

 それでも、悪霊犬の王(バーゲストロード)が首を戻す場所へ、最初から刃が置かれていた。

 黒い刀身が喉元へ吸い込まれる。

 鎖が砕け、鈍い音が、森へ響く。

 巨体は二歩進み、そこで力を失った。頭から地面へ崩れ落ち、黒い土を大きく跳ね上げる。

 ユリスは一歩だけ下がった。

 土煙が晴れる。

 悪霊犬の王(バーゲストロード)は動かない。

 その前に立つユリスの呼吸は、僅かに深くなっただけだった。膝はつかない。腕も震えていない。魔王の剣を下ろしたまま、倒れた魔物を静かに見ている。

 やがて、刃についた黒い血を振り払った。

 

「エルネア」

「黒装の流れ、安定。発動時の魔力散逸は僅か。右腕への偏りも確認できない。反動は――」

 

 エルネアは記録板から顔を上げる。

 

「右手を出して」

「怪我はしてないぞ」

「出して」

「……はい」

 

 ユリスが素直に右手を差し出す。

 エルネアは手首へ指を添え、目を閉じた。淡い水色の光が薄く灯り、皮膚の下へ残る魔力の流れを拾っていく。

 この一年、同じやり取りを何度も繰り返してきた。

 エルネアはもう許可を求めず、ユリスも拒まない。

 森全体へ意識を広げていたはずなのに、ユリスの魔力が僅かに乱れただけで、彼女はすぐにそれを見つける。

 ヴェルナは、その指先を黙って見ていた。

 

「異常なし。負荷も許容範囲」

「よかった。前に戦った時は、立ってるだけで精一杯だったからな」

「前回は、戦闘後に片膝をついている。右腕の感覚低下、呼吸困難、口腔内の出血もあった」

「なんで見てないことまで知ってるんだよ」

「ユリスから聞いた。忘れたの?」

「……そこまで詳しく話したか?」

「話した」

「……」

 

 エルネアの返答に迷いはない。

 ユリスは何かを思い出そうと眉を寄せたが、すぐに諦める。

 その時、足元へ沈みかけた魔王の剣を見て、ユリスの表情が僅かに歪んだ。

 

「……分かってる。最後、肩に力が入りすぎたんだろ」

 

 誰へ返しているのか、ヴェルナには分からない。

 時折、ユリスはあの剣へ向かって、誰かの言葉に応じるように口を動かす。問い詰めても誤魔化すだけだったが、その直後は決まって剣の振り方が変わった。

 魔王の剣が強いことは、最初から変わっていない。

 闇の魔力も、契約した日からユリスの中にあった。

 それでも、一年前のユリスは弱かった。

 剣を振る腕も、魔物の動きを読む目もあった。何度負けても立ち上がり、どうすれば次は届くのかを考え続けてきた。身体には、積み重ねたものが確かに残っていた。

 積み重ねたものを出し切るには、力が足りなかった。闇の魔力が、その不足を補った。

 それを自分の力として扱えるようになるまで、ユリスは何度も倒れた。

 ヴェルナに倒され、黒域の魔物に傷つけられた。間違えれば死ぬと、実戦のたびに思い知らされた。

 ヴェルナの訓練と、黒域での実戦。そして、剣から与えられているらしい助言。その全てを受け、少しずつ同じ失敗をしなくなった。

 一年かけて、ユリスはここまで来た。

 ヴェルナは倒れた悪霊犬の王(バーゲストロード)を見る。

 それから、ユリスを見た。

 

「……強くなったな」

 

 ユリスの目が僅かに見開かれた。

 

「ヴェルナが、俺を褒めた?」

「事実を言っただけだ」

「いや、それでも初めてじゃないか? 明日は黒域に光でも降るのか」

「斬られたいのか?」

「すまん……本当にやめてくれ」

 

 即答だった。

 だが、その口元には笑みが残っている。

 ヴェルナは目を細めた。

 一年前、弱いと告げた時も、ユリスは笑った。

 ようやく、ちゃんと弱いと言われた気がする、と。

 あの時は意味が分からなかった。今も、全てを理解したわけではない。それでも、ユリスが欲しがっていたものなら、少しだけ分かる。

 守るための優しい言葉でも、魔王の剣を持つ者へ向けられる畏れでもない。

 ただ一人の戦士として見て、事実を告げること。

 だからヴェルナも、見たままを口にした。

 ユリスは自分の右手を見下ろす。握り、開き、残った闇の感覚を確かめている。

 

「……これで少しは、アリアに近づけたかな」

 

 エルネアの指が、記録板の上で止まった。

 ほんの一瞬だった。すぐに何事もなかったように動き、先ほどの戦闘記録へ文字を加えていく。

 ヴェルナも何も言わない。

 けれど、胸の奥には小さな棘が刺さった。

 一年間、ユリスを倒し続けた。

 剣の持ち方を直し、足の運びを教え、何度失敗しても立たせた。傷つく姿も、強くなっていく過程も、誰より近くで見てきた。

 今、強くなったと認めたのも自分だ。

 それなのに、ユリスの視線はここにはない。

 

 ――また、その女か。

 

 それだけは、ずっと変わらない。

 なぜそれが気に障るのか、ヴェルナには分からなかった。

 分からないまま、視線を逸らす。

 

「戻るぞ」

「もう一体くらい探さないのか?」

「調子に乗るな。死ぬぞ」

「さっき強くなったって言ったばかりだろ」

「強くなったことと、死なないことは別だ」

「……黒域って厳しいな」

 

 今さらなことを言いながら、ユリスは魔王の剣を影へ沈めた。

 

 ◇

 

 集落へ戻ると、長老から呼び出された。

 中央の古い小屋へ入る。長老はいつもの椅子に座り、杖へ両手を重ねていた。その前には、一枚の文書が置かれている。

 ヴェルナは文書を見た瞬間、足を止めた。

 アシュベル家からの報告書ではない。

 

「黒都からだ」

 

 長老が文書を顎で示す。

 ユリスは自分を指差した。

 

「俺に?」

「魔王の剣を持った聖王国の人間なんて、お前さんくらいさ」

 

 長老は短く息を吐く。

 

「アシュベル家からではない。評議会の名で届いている。一度、本人を見極める必要があるそうだ」

「見極める……」

「魔王の剣を持ったまま一年以上生き残り、闇の魔力を扱い、上位魔物を容易く屠る。新たな魔王候補などという噂を吹聴する輩も少なくない。これ以上、見ないふりはできんということだろう」

「え……俺は全く聞いてないんですけど」

 

 そう言いながら、ユリスは文書を手に取った。

 文字へ目を走らせるが、表情は変わらない。だが、困っている時ほど黙る男だと、ヴェルナはもう知っている。

 

「行くのか」

「……行く。俺も、黒都が俺をどう見ているのか知っておきたい」

 

 答えは早かった。

 ユリスは文書を折り直し、懐へ入れる。

 

「黒都まで、どのくらいだ?」

「ヴェルナに聞け」

 

 長老の視線がこちらへ向く。

 

「夜明けに出る。必要なものを揃えろ」

「分かった」

 

 ヴェルナが答えると、隣でエルネアも頷いていた。

 

「保存食と水を確認する。記録板の予備も必要」

「黒都でも記録する気か?」

「当然」

「評議会の前では少し控えろよ」

「必要な記録はする」

「……頼むから、必要かどうかは俺にも相談してくれ」

 

 ユリスの懇願を聞き流し、エルネアは小屋を出ていく。

 同行するかどうかなど、誰も尋ねなかった。

 道を知るヴェルナが先導し、エルネアが周囲を探る。その中央をユリスが歩く。

 この一年、三人はそうして動いてきた。

 

 ◇

 

 夜明けに備え、三人は必要な荷を集めた。

 武器。保存食。水。薬草。森を抜けるための黒布。エルネアの小屋には記録板と魔導具が並び、床には黒都までの簡単な地図が広げられている。

 ヴェルナは壁際に座り、双剣の刃を確かめていた。

 ユリスは持っていく荷を何度も詰め直している。重すぎるとエルネアに抜かれ、今度は少なすぎると戻され、先ほどから同じことを繰り返していた。

 

「俺の荷物なんだから、俺に決めさせてくれないか?」

「駄目。ユリスは必要以上に持とうとする」

「途中で足りなくなるよりいいだろ……」

 

 エルネアは答えず、ユリスの荷からもう一つ水筒を抜いた。

 一年前、彼女は黒域の地脈に術式を阻まれ、魔力を削りながらユリスの痕跡を追ってきた。

 今では、地脈へ逆らわない。黒い大地の流れを支配しようともせず、その中へ細い術式を溶かしている。

 出力を抑えた魔力感知が、エルネアを中心に周囲の地脈へ沿って巡っていた。

 何かが見えているわけではない。

 正確な位置も、姿も、行動も分からない。拾えるのは、感知圏へ入った魔力反応の存在と規模、それに性質だけだ。

 初めは、ユリスが集落を出るたびに使っていた。

 やがて魔物の接近や、外から来る者を早く見つけられると分かり、長老も止めなくなった。術式を使うたびに申告しろと言われていた頃とは違う。今では、集落を守る目の一つとして常時展開を許されている。

 エルネアはユリスから取り上げた水筒を、自分の荷へ入れようとした。

 その手が止まる。

 黒縁眼鏡の奥で、青い瞳が僅かに見開かれた。

 ヴェルナは双剣から顔を上げる。

 

「どうした」

 

 エルネアは答えない。

 意識を地脈へ沈めたまま、何かを確かめている。普段なら僅かな魔物の反応にもすぐ言葉を返す彼女が、黙っている。

 ユリスも荷物から手を離した。

 

「エルネア?」

「……新しい反応が入った」

「魔物か?」

「違う……人間。三人」

 

 小屋の空気が変わった。

 この集落を訪れる商人や狩人なら、決まった道を通る。見張りからも先に連絡が入る。だが、エルネアが見ている方向は街道ではない。

 

「どこから来る」

「聖王国側。黒域の地脈に馴染まない、女神の祝福を帯びた反応」

 

 ユリスの表情が固まる。

 

「誰か分かるのか?」

「……分かる。三人とも」

 

 エルネアは記録板を胸元へ引き寄せた。

 何度も観測した魔力だった。

 間違えるはずがない。

 エルネアはユリスを見た。

 

「リーナと、クラウディア。それから――アリア」

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