曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。) 作:黒雪ゆきは
ロヴァン大森林の奥地では、風の音さえ信用できない。
木々の間を抜けていた風が、不意に途切れる。獣の臭いが消え、湿った鉄の臭いが混じる。遠くで枝が折れても、それが魔物の足音とは限らない。風かもしれず、別の何かから逃げる獣かもしれない。
黒域で生きる者は、何かが見えてから剣を抜いたのでは遅い。見えないうちに気づき、近づかれる前に逃げる。それができなければ死ぬ。そういう場所だった。
ヴェルナ・アシュベルは、太い木の根に片足を置き、森の奥を見ていた。
真紅の瞳が追っているのは、魔物ではない。
少し先を歩く、一人の少年の背中だった。
黒域の粗い黒布の服に、暗い革色と深紫の軽鎧を重ねている。右手に武器はない。魔王の剣を足元の影へ沈めたまま、ユリス・アステルは森の奥へ進んでいた。
足取りに迷いはない。
枯れ枝の手前で歩幅を変え、地面に残った爪痕を踏まないよう進路をずらす。濃くなった獣臭を拾うたび、僅かに顎を上げて風向きを確かめている。
一年前なら、ここまで辿り着くことすらできなかった。
「止まって」
後ろからエルネアの声がした。
ユリスは即座に足を止める。ヴェルナも腰の双剣へ手を添えた。
淡い水色の髪が揺れる。エルネアは黒縁眼鏡の奥で目を細め、記録板を胸元へ抱いたまま、意識だけを足元の地脈へ沈めていた。
「前方に大きな魔力反応。一つ。周囲に小型の反応はない」
「距離は?」
「近い。もう、こちらに気づいている」
答えと同時に、森の奥で鎖が鳴った。
重い何かが地面を擦る。低い唸り声に空気が震え、木の葉がはらはらと落ちてくる。
ユリスは足元の爪痕を見下ろした。
「やっぱり、いるんだな」
「当然だ。ここは奴らの縄張りだからな」
ヴェルナは何も言わなかった。
一年前、
今は、ユリスの方から奴らが棲む森の奥へ踏み込んでいる。
正面の木々が弾けた。
巨大な黒い獣が姿を現す。
頭部から突き出した二本の角。黒い毛皮には、太い鎖が幾重にも巻きついている。地面を抉る爪は、並の魔物など一撃で引き裂けるほど大きい。
黒く濁った瞳が三人を捉える。
獣の視線はヴェルナ、エルネアを順に過ぎ、最後に、何も持たず前へ立つユリスで止まった。
牙が剥き出しになる。
「ヴェルナ」
ユリスが呼ぶ。
「手を出すな」
「言われるまでもない」
助けを求めたのなら、蹴り倒してでも下がらせていた。
だが、そうではない。
ヴェルナは双剣から手を離した。
エルネアも動かない。記録板を抱く指先にだけ、僅かに力がこもる。
黒い巨体が、一息で距離を潰す。全身の鎖が広がり、左右から逃げ道を塞いだ。二本の角は真っ直ぐにユリスの胸を狙っている。
ユリスは動かなかった。
まだ、剣すら抜いていない。
──最初に抱いた印象は『弱い』だった。
一年前。魔王の剣を持ち、闇の匂いを纏いながら、そのどちらにも振り回されていた。
右腕へ意識を寄せる癖。変わる呼吸。胸の魔王印から魔力を流すまでの遅さ。黒装を使う前から、次に何をするのか全て見えていた。
剣も同じだった。
握ってはいても、ユリスの身体が魔王の剣に振り回されていた。
だから、弱いと告げた。
見たままを口にした。
あれから一年。
その寸前、ユリスの右足が僅かに沈んだ。
呼吸は変わらない。
肩も動かない。
黒装の前兆は、どこにもなかった。
足元の影から黒い刀身が立ち上がる。ユリスは柄を掴み、引き抜く動きのまま一歩だけ踏み込んだ。
鎖が唸る。
一本目を刃の腹で受けた。力には逆らわず、斜めへ流す。その勢いを利用して身体を半回転させると、二本目の鎖が背中を薙ぐより早く、ユリスの足は獣の懐へ入っていた。
遅れて、黒紫の闇が走る。
右腕からではない。
踏み込んだ足から、捻った腰、沈めた肩を抜け、剣を握る指先へ。
身体の動きを追うように黒装が全身を巡り、次の瞬間には薄い靄だけを残して消えた。
闇が、ユリスを動かしたのではない。
ユリスが選んだ動きへ、闇が遅れずついてきた。
黒い刃が鎖の隙間を通る。──そして一閃。
一年前なら、届いていた。
牙が喉元まで迫り、どちらが先に相手を殺すのか、運に任せるしかなかった。
ユリスはもう、そこにはいない。
踏み込んだ勢いを殺さず、獣の脇を抜けている。振り返りざま、魔王の剣を両手で握る。黒装が背中から両腕へ流れた。
剣が走る。
派手な一撃ではない。
無駄を限りなく削ぎ落とした斬撃。
それでも、
黒い刀身が喉元へ吸い込まれる。
鎖が砕け、鈍い音が、森へ響く。
巨体は二歩進み、そこで力を失った。頭から地面へ崩れ落ち、黒い土を大きく跳ね上げる。
ユリスは一歩だけ下がった。
土煙が晴れる。
その前に立つユリスの呼吸は、僅かに深くなっただけだった。膝はつかない。腕も震えていない。魔王の剣を下ろしたまま、倒れた魔物を静かに見ている。
やがて、刃についた黒い血を振り払った。
「エルネア」
「黒装の流れ、安定。発動時の魔力散逸は僅か。右腕への偏りも確認できない。反動は――」
エルネアは記録板から顔を上げる。
「右手を出して」
「怪我はしてないぞ」
「出して」
「……はい」
ユリスが素直に右手を差し出す。
エルネアは手首へ指を添え、目を閉じた。淡い水色の光が薄く灯り、皮膚の下へ残る魔力の流れを拾っていく。
この一年、同じやり取りを何度も繰り返してきた。
エルネアはもう許可を求めず、ユリスも拒まない。
森全体へ意識を広げていたはずなのに、ユリスの魔力が僅かに乱れただけで、彼女はすぐにそれを見つける。
ヴェルナは、その指先を黙って見ていた。
「異常なし。負荷も許容範囲」
「よかった。前に戦った時は、立ってるだけで精一杯だったからな」
「前回は、戦闘後に片膝をついている。右腕の感覚低下、呼吸困難、口腔内の出血もあった」
「なんで見てないことまで知ってるんだよ」
「ユリスから聞いた。忘れたの?」
「……そこまで詳しく話したか?」
「話した」
「……」
エルネアの返答に迷いはない。
ユリスは何かを思い出そうと眉を寄せたが、すぐに諦める。
その時、足元へ沈みかけた魔王の剣を見て、ユリスの表情が僅かに歪んだ。
「……分かってる。最後、肩に力が入りすぎたんだろ」
誰へ返しているのか、ヴェルナには分からない。
時折、ユリスはあの剣へ向かって、誰かの言葉に応じるように口を動かす。問い詰めても誤魔化すだけだったが、その直後は決まって剣の振り方が変わった。
魔王の剣が強いことは、最初から変わっていない。
闇の魔力も、契約した日からユリスの中にあった。
それでも、一年前のユリスは弱かった。
剣を振る腕も、魔物の動きを読む目もあった。何度負けても立ち上がり、どうすれば次は届くのかを考え続けてきた。身体には、積み重ねたものが確かに残っていた。
積み重ねたものを出し切るには、力が足りなかった。闇の魔力が、その不足を補った。
それを自分の力として扱えるようになるまで、ユリスは何度も倒れた。
ヴェルナに倒され、黒域の魔物に傷つけられた。間違えれば死ぬと、実戦のたびに思い知らされた。
ヴェルナの訓練と、黒域での実戦。そして、剣から与えられているらしい助言。その全てを受け、少しずつ同じ失敗をしなくなった。
一年かけて、ユリスはここまで来た。
ヴェルナは倒れた
それから、ユリスを見た。
「……強くなったな」
ユリスの目が僅かに見開かれた。
「ヴェルナが、俺を褒めた?」
「事実を言っただけだ」
「いや、それでも初めてじゃないか? 明日は黒域に光でも降るのか」
「斬られたいのか?」
「すまん……本当にやめてくれ」
即答だった。
だが、その口元には笑みが残っている。
ヴェルナは目を細めた。
一年前、弱いと告げた時も、ユリスは笑った。
ようやく、ちゃんと弱いと言われた気がする、と。
あの時は意味が分からなかった。今も、全てを理解したわけではない。それでも、ユリスが欲しがっていたものなら、少しだけ分かる。
守るための優しい言葉でも、魔王の剣を持つ者へ向けられる畏れでもない。
ただ一人の戦士として見て、事実を告げること。
だからヴェルナも、見たままを口にした。
ユリスは自分の右手を見下ろす。握り、開き、残った闇の感覚を確かめている。
「……これで少しは、アリアに近づけたかな」
エルネアの指が、記録板の上で止まった。
ほんの一瞬だった。すぐに何事もなかったように動き、先ほどの戦闘記録へ文字を加えていく。
ヴェルナも何も言わない。
けれど、胸の奥には小さな棘が刺さった。
一年間、ユリスを倒し続けた。
剣の持ち方を直し、足の運びを教え、何度失敗しても立たせた。傷つく姿も、強くなっていく過程も、誰より近くで見てきた。
今、強くなったと認めたのも自分だ。
それなのに、ユリスの視線はここにはない。
――また、その女か。
それだけは、ずっと変わらない。
なぜそれが気に障るのか、ヴェルナには分からなかった。
分からないまま、視線を逸らす。
「戻るぞ」
「もう一体くらい探さないのか?」
「調子に乗るな。死ぬぞ」
「さっき強くなったって言ったばかりだろ」
「強くなったことと、死なないことは別だ」
「……黒域って厳しいな」
今さらなことを言いながら、ユリスは魔王の剣を影へ沈めた。
◇
集落へ戻ると、長老から呼び出された。
中央の古い小屋へ入る。長老はいつもの椅子に座り、杖へ両手を重ねていた。その前には、一枚の文書が置かれている。
ヴェルナは文書を見た瞬間、足を止めた。
アシュベル家からの報告書ではない。
「黒都からだ」
長老が文書を顎で示す。
ユリスは自分を指差した。
「俺に?」
「魔王の剣を持った聖王国の人間なんて、お前さんくらいさ」
長老は短く息を吐く。
「アシュベル家からではない。評議会の名で届いている。一度、本人を見極める必要があるそうだ」
「見極める……」
「魔王の剣を持ったまま一年以上生き残り、闇の魔力を扱い、上位魔物を容易く屠る。新たな魔王候補などという噂を吹聴する輩も少なくない。これ以上、見ないふりはできんということだろう」
「え……俺は全く聞いてないんですけど」
そう言いながら、ユリスは文書を手に取った。
文字へ目を走らせるが、表情は変わらない。だが、困っている時ほど黙る男だと、ヴェルナはもう知っている。
「行くのか」
「……行く。俺も、黒都が俺をどう見ているのか知っておきたい」
答えは早かった。
ユリスは文書を折り直し、懐へ入れる。
「黒都まで、どのくらいだ?」
「ヴェルナに聞け」
長老の視線がこちらへ向く。
「夜明けに出る。必要なものを揃えろ」
「分かった」
ヴェルナが答えると、隣でエルネアも頷いていた。
「保存食と水を確認する。記録板の予備も必要」
「黒都でも記録する気か?」
「当然」
「評議会の前では少し控えろよ」
「必要な記録はする」
「……頼むから、必要かどうかは俺にも相談してくれ」
ユリスの懇願を聞き流し、エルネアは小屋を出ていく。
同行するかどうかなど、誰も尋ねなかった。
道を知るヴェルナが先導し、エルネアが周囲を探る。その中央をユリスが歩く。
この一年、三人はそうして動いてきた。
◇
夜明けに備え、三人は必要な荷を集めた。
武器。保存食。水。薬草。森を抜けるための黒布。エルネアの小屋には記録板と魔導具が並び、床には黒都までの簡単な地図が広げられている。
ヴェルナは壁際に座り、双剣の刃を確かめていた。
ユリスは持っていく荷を何度も詰め直している。重すぎるとエルネアに抜かれ、今度は少なすぎると戻され、先ほどから同じことを繰り返していた。
「俺の荷物なんだから、俺に決めさせてくれないか?」
「駄目。ユリスは必要以上に持とうとする」
「途中で足りなくなるよりいいだろ……」
エルネアは答えず、ユリスの荷からもう一つ水筒を抜いた。
一年前、彼女は黒域の地脈に術式を阻まれ、魔力を削りながらユリスの痕跡を追ってきた。
今では、地脈へ逆らわない。黒い大地の流れを支配しようともせず、その中へ細い術式を溶かしている。
出力を抑えた魔力感知が、エルネアを中心に周囲の地脈へ沿って巡っていた。
何かが見えているわけではない。
正確な位置も、姿も、行動も分からない。拾えるのは、感知圏へ入った魔力反応の存在と規模、それに性質だけだ。
初めは、ユリスが集落を出るたびに使っていた。
やがて魔物の接近や、外から来る者を早く見つけられると分かり、長老も止めなくなった。術式を使うたびに申告しろと言われていた頃とは違う。今では、集落を守る目の一つとして常時展開を許されている。
エルネアはユリスから取り上げた水筒を、自分の荷へ入れようとした。
その手が止まる。
黒縁眼鏡の奥で、青い瞳が僅かに見開かれた。
ヴェルナは双剣から顔を上げる。
「どうした」
エルネアは答えない。
意識を地脈へ沈めたまま、何かを確かめている。普段なら僅かな魔物の反応にもすぐ言葉を返す彼女が、黙っている。
ユリスも荷物から手を離した。
「エルネア?」
「……新しい反応が入った」
「魔物か?」
「違う……人間。三人」
小屋の空気が変わった。
この集落を訪れる商人や狩人なら、決まった道を通る。見張りからも先に連絡が入る。だが、エルネアが見ている方向は街道ではない。
「どこから来る」
「聖王国側。黒域の地脈に馴染まない、女神の祝福を帯びた反応」
ユリスの表情が固まる。
「誰か分かるのか?」
「……分かる。三人とも」
エルネアは記録板を胸元へ引き寄せた。
何度も観測した魔力だった。
間違えるはずがない。
エルネアはユリスを見た。
「リーナと、クラウディア。それから――アリア」