曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。) 作:黒雪ゆきは
聖王国を出てから、どのくらい経っただろう。
日付を数えていたのは、二十日を過ぎたあたりまでだったと思う。もう一月くらいかな?
リーナの掌の上で、銀色の円盤が夜明け前の闇を吸い込んだように鈍く沈んでいる。中央に嵌め込まれた黒い水晶へ、まるで血が巡るように淡い光が差し込むと、その周りに並ぶ細い針が羽虫の羽音めいた振動を刻んだ。北西を指したかと思えば、数歩進むうちに西へ傾ぎ、地面の下を太い地脈が横切る場所では、酔ったように円盤の上を回り続けてどこにも定まらない。
わかるのは、大まかな方角だけ。距離も、そこへ至る道筋も、この魔導具は頑なに黙している。
だから私たちは、幾度となく足を止めた。
地図に描かれた道が崩落した崖で唐突に途切れていれば、クラウディアが先に降り、岩肌を踏んで足場の強度を確かめた。地図にない獣道へ分け入り、魔物の爪痕がまだ生々しく樹皮に残る場所では、半日をかけてその縄張りを大きく迂回した。どうしても避けられないときだけ私が剣を抜き、戦いの熱が引いたあとにはリーナの光が傷口を静かに縫い合わせた。
辿ってきた道のりは、三人の姿にそのまま刻まれていた。外套の裾は幾筋も裂け、靴底には野宿のたびに縫い直した縫い目が幾重にも走っている。クラウディアの大盾にはいくつもの黒い爪痕が刻まれ、リーナの白いケープも土埃と乾いた血の色でくすんでいた。私の左腕に巻かれた布の下では、昨日ようやく塞いでもらったばかりの傷が、歩みのたびに皮膚の内側で引きつれるように疼いた。
黒域の夜は底なしに深く、朝は遠い岸のように遠い。一晩眠った程度では洗い流せない疲労が、足を持ち上げるたびに骨の芯から重く揺れ返ってくる。
「また、針が動きました」
リーナが足を止めた。
円盤の針は二度ほど左右に振れたあと、正面よりわずかに北へ寄った位置でぴたりと止まる。黒い水晶の底には、まだ燠火のような弱い光が残っていた。
「さっきより反応が強いです。近づいている可能性はあります」
「可能性、か」
クラウディアは油断なく周囲の木々へ視線を配りながら、大盾を担ぐ位置を微調整した。
「十分だ。どのみち、私たちは進むしかないからな」
「うん」
私は短く答え、針の指す森の暗がりを見据えた。
今日中に着く距離なのか、まだ幾日も歩き続けねばならないのか、その見当さえつかない。針が震えるたび、胸の奥だけがきりきりと巻き締められていくようだった。
ユリスへ辿り着けないことより、もっと恐ろしいことがあった。
一年は長い。川の水が岩を削るには十分な長さだ。
私がユリスのことだけを想って剣を振っていた間に、ユリスは別の誰かを見つけたかもしれない。魔王候補と呼ばれ、黒域という異形の土地で生き延びるうちに、私に勝つという願いそのものを、擦り切れた布のように手放したかもしれない。たとえ再会できても、彼の剣の切っ先にもう私の姿が映っていなければ、ここまで歩いてきた道のりの意味まで、足元から崩れて消えてしまいそうだった。
これ以上考えたらだめだ。
前に進めなくなってしまう。
そんなことは、二人には言えなかった。
ユリスを心配している。それも紛れもない本心だった。怪我をしていないか、魔王の剣に呑まれていないか、生きて笑えているのか。確かめたいことはいくらでも胸の中に積み上がっている。
ただ、その全部よりも先に――私はユリスの目を見たかった。
「アリアさん」
リーナの声で顔を上げる。
針が、これまでで一番大きく震えていた。
森の空気が、皮膚をひと撫でするように変わる。鳥の声がふっと途切れ、風に混じる湿った土と草の匂いの中へ、冷たい魔力が糸のように細く差し込んだ。魔物のそれとは異なる、重く、暗く、それでいて確かに覚えのある気配だった。
右手が誘われるように剣の柄へ伸びる。
クラウディアも大盾を前へ出した。リーナは円盤を胸元へ抱き寄せ、黒い水晶と森の奥とを、忙しなく交互に見る。
落ち葉を踏みしめる音がした。
一人ではない。歩調を揃えた三人分の足音が、木々の向こうから静かに近づいてくる。
「三人とも、そこで止まって」
聞き覚えのある、凪いだ水面のように平坦な声だった。
木立の隙間から、淡い水色の髪がのぞく。黒縁眼鏡の奥にある青い瞳が私たちを順に射抜き、最後に胸元の記録板へ一度だけ落ちた。
「エルネア……」
リーナの声が震えた。
エルネアの後ろから、黒髪の女が姿を見せる。真紅の瞳。黒と深紫を纏った軽鎧。両腰に下げた双剣へ、いつでも手が届く、獣めいた歩き方をしていた。
そして、その二人の間を割るように、銀髪の少年が前へ出た。
黒域の粗い黒布に、暗い革色と深紫を重ねた軽鎧。頬の線は記憶にあるものより幾分鋭く削がれ、覗く手には細かな傷痕が編み目のように増えている。剣は持っていない。ただ足元の影だけが、周囲の闇よりも一段深く、墨を落としたように濃かった。
──ユリス。
見間違えるはずがなかった。
ユリスは足を止めた。
リーナも、クラウディアも同じ視界に収まる距離だった。それでも、その瞳は初めから私だけを射抜いていた。
胸の奥に張りつめていた糸が、音もなくほどけていく。
彼はまだ、私を見てくれている。
◇
六人の間には、剣を抜かずにいられるだけの距離が、湖面のように張り詰めて残されていた。
エルネアは、地脈を通じて感知した三つの反応と目の前の姿とを照合するように、記録板を抱え直した。その感知を頼りに、ユリスたちは村を出て、この森まで迎えに来ていた。ヴェルナの右手は双剣の柄に近い位置で止まったまま動かず、リーナは魔導具を白いケープの内側へそっと戻した。
ユリスの意識だけが、初めからアリアへ向いていた。
『第一声だ、ユリス。宿敵の格はここで決まる。決してしくじるな』
ユリスのこめかみが、ほんのわずかに引きつった。それを隠すように顎を引き、アリアを見据える。
「遅かったな、勇者」
「……お待たせ、ユリス」
アリアの声には、長い旅路で擦れた掠れが残っていた。それでも、口元には隠しきれない緩みがある。
ユリスはその笑みをしばらく見つめ、やがて三人の傷んだ外套と装備へ視線を落とした。
「……随分、歩いたらしいな」
「一月くらいかな。魔導具が教えてくれるのは方角だけだったから大変だったよ」
「そこまでして、俺を連れ戻しに来たのか?」
アリアはすぐには答えなかった。
静寂がこの場を支配する。一歩前へ出る。剣の柄へ触れた指を、確かめるように握り直した。
「会いたかったよ。ずっと」
青い瞳が、ユリスをまっすぐに射抜く。
「でも、連れ戻すために来たんじゃない。ユリスと戦うために、私は来たの」
ユリスの目がわずかに細くなった。
「次は本気で来い。俺がそう言ったのを、覚えていたか」
「忘れたことなんてないよ。あの日からずっと、ユリスを考えて剣を振ってきた」
アリアの指が鍔を押す。鞘の中から抜き出された刃が、夜明け前の薄い光を吸い、白く弾き返した。
クラウディアの大盾が動く。割って入れる位置を取った彼女へ、アリアは一度だけ首を振った。
「約束だから」
「…………」
クラウディアは盾を下ろさなかったが、それ以上は前へ出なかった。
ユリスは足元の影へ右手を沈める。黒い霧が指へ蔦のように絡みつき、地面から根こそぎ引き抜かれるように長い刀身が姿を現した。リーナの喉が小さく鳴る。魔王の剣からこぼれ落ちる黒紫の気配は、一年前よりもなお濃く粘り、ユリスの手の中で不気味なまでに静まり返っていた。
「今度こそ俺を、傷つけてはいけない幼馴染じゃなく、倒すべき敵として見られるか?」
アリアは剣を抜き切った。
「もうとっくに見てるよ。油断なんてできないのは、一目見てわかった。……本当に強くなったんだね、ユリス」
刃を正面へ立て、呼吸を整える。
「私は勇者として、ユリスに勝つ。そのために、ここまで来たの」
ユリスも魔王の剣を構えた。右足を半歩引き、肩から余分な力を抜く。千五十七度、剣を交えた記憶が刹那に巡る。ユリスの構えは大きく変わっていないように見えるが、剣の重みに身体を預けきってしまう癖は、もうどこにも見当たらない。
「なら、見せてみろ」
「いくよ、ユリス」
アリアの全身から、黄金の光が奔流のように噴き上がった。
木々の隙間に居座っていた夜が、一瞬で押し流される。赤い髪に混じる金の色が焼けるように強く輝き、剣へ集まった祝福が白い吐息のように刃を包んだ。
アリアが地面を蹴る。
落ち葉が舞い上がったときには、すでに剣がユリスの肩口へ迫っていた。
ユリスの右足にだけ黒紫の闇が奔る。一歩で斬撃の中心を外し、魔王の剣を下から当てた。白と黒がぶつかり合い、衝撃が周囲の枝を震わせて葉を散らす。受け止めた靴底が土へ沈んだものの、ユリスの腰は崩れない。刃を滑らせ、そのままアリアの外側へ回り込む。
返した魔王の剣を、アリアは身を沈めてかわした。切っ先が赤い髪を数本さらい、宙に舞わせる。低い姿勢から振り上げられた剣が、今度はユリスの脇腹を狙った。
黒装が右足から腰へ移る。身体を捻り、紙一重で逃がす。革鎧の表面が裂け、遅れて血が滲み出た。
「ユリスさん……!」
リーナが一歩踏み出す。
その前でクラウディアの腕が横へ伸びた。アリアの剣は止まっていない。ユリスも傷を押さえようとはせず、すでに次の間合いへ踏み込んでいる。
アリアが剣を横へ薙ぐ。ユリスは屈み、黒装を剣腕へ集めた。空を切った刃の下から、魔王の剣が跳ね上がる。
狙いはアリアの左肩だった。
アリアは上体を反らす。黒い切っ先が胸元をかすめて外れた瞬間、ユリスの手首が返った。ヴェルナに何度も弾かれながら身体に叩き込んだ、小さく鋭い返しだった。
刃がアリアの上腕を裂いた。
赤い血が飛び散り、白金の光の中へ細かな影を落とす。
ユリスの口元に、笑みが浮かんだ。
「そうだ、それでいい」
アリアは傷を見なかった。
踏み込んだ右足を軸に身体を回し、ユリスの胸へ剣を突き込む。魔王の剣が間に合うより早く、黄金の切っ先が軽鎧を削り取った。ユリスは身を引いたが、避けきれない。肩から胸へ斜めに傷が走る。
やはり速さではアリアが僅かに上回る。
血が黒い布地へ、じわりと沁み広がった。
ユリスは短く息を吐き、痛みに強張りかけた肩を落とす。足は退かなかった。ヴェルナの真紅の瞳が、その呼吸の乱れと踏み込みの角度を、一瞬たりとも逃さず追う。
アリアがさらに速度を上げた。
金の軌跡が幾重にも空間を裂く。正面から受ければ、黒装ごと押し潰されるだろう。ユリスは脚へ闇を集め、半歩ずつ斬撃の芯を外し続けた。腰へ移し、剣を返す。衝突の瞬間だけ腕を闇で覆い、すぐにまた薄い靄へ戻す。
──まだ、届かないのか。
そんな無駄な思考を瞬時にかなぐり捨てる。
数え切れないほど交えてきたアリアの剣筋を、ユリスは見てきた。
踏み込む前にわずかに沈む左足。上段へ移るときだけ狭くなる右肘。速さに任せて押し切れる場面ほど、次の一撃のために僅かに弱くなる初撃。その記憶が、祝福の光の奔流の中から、剣筋という一本の糸を確かに拾い上げる。
記憶より深く沈んだ踏み込みから刃が伸び、ユリスの頬を浅く裂く。受けると読んだ斬撃が途中でふっと止まり、逆側から脇腹へ返ってきた。アリアの剣もまた、一年前の場所には留まっていなかった。
二人の刃がぶつかるたび、森の空気そのものが震え、木の葉が細かく揺れて散った。
クラウディアは大盾の持ち手を握りしめたまま、二人の足元の攻防を見つめている。速すぎる。
ユリスが大きく踏み込む。
右足から腰へ走った闇が、肩を抜けて指先まで一気に届く。魔王の剣がアリアの剣を外へ押し流し、黒い刃が喉元へ迫った。
アリアは首を傾けてかわす。皮膚に細い赤が走るほどの近さだった。続けて放った肘がユリスの胸を打ち、傷口から血が噴いた。
ユリスの身体が後ろへ流れる。
倒れかけた足が、土を踏み直す。
ユリスはヴェルナに数え切れないほど姿勢を崩され、立てないほどの痛みの中から足を残す術を、骨の髄まで叩き込まれてきた。血を吐いても、魔王の剣は下がらない。
その姿を見て、アリアの青い瞳に光が満ちる。
再び距離が、蜃気楼のように消えた。
剣と剣が触れ、離れ、白と黒の火花が二人の間へ雨のように散る。アリアの出力が押し、ユリスの技術が刃を逸らす。ユリスが癖を読めば、アリアは一年前にはなかった角度から斬り返す。
やがて、互いの呼吸が海鳴りのように深くなる。
アリアの肩から腕へ、赤い糸を引くように血が伝っていた。ユリスの胸元は大きく裂け、魔王の剣を握る指にも赤が滲んでいる。
それでも、二人は笑っていた。
先に動いたのはユリスだった。
黒装が右脚を包み込む。地面を蹴る寸前に姿を消し、次の瞬間には腰へ走っていた。狙いを隠すように剣を低く構え、アリアの間合いへ踏み込む。
アリアは正面から迎え撃った。
黄金の光が剣へ集まり、森に落ちていた影を焼くように薄くする。踏み込みだけで、地面が乾いた音を立てて割れた。
二つの剣が、互いの身体へ向かう。
アリアの刃はユリスの鎖骨から胸へ。魔王の剣はアリアの首筋へ。
速いのはアリアだった。
黄金の切っ先が黒い軽鎧へ触れる。あとわずかに振り抜けば、勝負は終わる。そのとき――ユリスの剣が防御へ戻らず、なお自分へ迫り続けていることを、アリアは見た。
──青い瞳が、水面のように揺れた。
剣の軌道が変わる。
ユリスの胸を斬るはずだった刃が外へ逸れ、迫る魔王の剣を受ける位置へ回った。黄金の光も、刃先から鍔元へ、川が逆流するように流れを変える。
ユリスは何度もその手首の返しを見ていた。足を滑らせたとき。木剣を取り落としたとき。
アリアが勝ちを取らず、彼を傷つけないために剣を回したときと――まったく同じ動きだった。
黒い刃が、黄金へ触れる。
鍔元へ集まり直していた光に、針で突いたような小さな穴が空いた。
赤い髪も、アリアの身体も眩しいままなのに、重なった刃の一点からだけ、金色がすうっと抜け落ちていく。
──《反祝福》
黒紫の衝撃が、魔王の剣を伝ってユリスへ跳ね返る。右手の皮膚が裂け、腕の奥で骨が軋んだ。膝が、糸が切れたように落ちかける。
反動は覚悟していた。だが覚悟と、この身を突き上げる痛みは、まるで別物だった。
それでも止まることなくユリスは踏み込んだ。
右足へ黒装を集め、崩れる身体を半歩だけ前へ運ぶ。腰を回し、アリアの剣を下から弾いた。
黄金の剣が、指の間から離れていく。
魔王の剣が、アリアの喉元へ届いた。
森が、水を打ったように静まり返った。
アリアは動かない。細い首へ黒い切っ先を向けられたまま、ユリスの胸だけを見ていた。自分の剣が届きかけた場所。深く斬らずに済んだことを確かめるように、その顔から少しずつ、糸が緩むように力が抜けていく。
ユリスの瞳に残っていた熱が、静かに消えた。
そして、ゆっくりと魔王の剣を下ろした。
しばらくの間、何も言わなかった。剣を下げたまま、アリアの喉元に残る赤い筋だけを見つめていた。
「がっかりだ──勇者」
その一言が、刃よりも深く突き刺さった。
アリアは唇を開いたが、声は出なかった。息を吸うことさえ、何かに縫い止められたように上手くいかない。
一瞬のうちに身体の熱が根こそぎ奪われたようだった。
喉元に残る刃の冷たさより、目の前から遠ざかっていくユリスの視線を追うほうが、はるかに切実だった。
森で姿を見つけたとき、真っ先に向けられた目が嬉しかった。一月近く歩き続けた疲れも、胸の奥にわだかまっていた恐れも、あの一瞬だけは確かに消えていた。
今、ユリスの目にはもう、次の戦いを望む熱がない。
「ユリス……待って、お願い待って……」
呼び止める声は、掠れて糸のように細かった。
アリアは落ちた剣へ手を伸ばす。指先が鍔に触れたものの、握ることができない。腕だけでなく、柄へ回しかけた指の先まで、木の葉のように細かく震えていた。
「私、本気で……」
続きが喉の奥に詰まる。
最後まで振り抜かなかった剣を、ユリスは見ていた。言葉をどれだけ重ねても、あの一瞬だけは消せない。
アリアは剣から手を離し、代わりにその手をユリスへ伸ばした。届くはずの距離にいる。けれど、ユリスはその手を見ても動かなかった。
「待って。次は、ちゃんと……」
何をちゃんとするのか、自分でも言葉にできなかった。
ユリスの頬にも、胸にも、自分の刃の跡が残っている。最後の一振りだけが、彼の身体を避けていた。
もう一度を口にすれば、ユリスはまた自分だけを目指してくれるのだろうか。以前なら、負けた直後の彼のほうが先に言っていた。次は勝つ。もう一本。何度でも。
今は、何もない。
──アリアには、もう自分が彼の目標ではなくなったように見えた。
アリアの手が宙で止まった。指先から力が抜け、ゆっくりと落ちる。喉の奥から込み上げるものを堪えきれず、涙だけが静かに頬を濡らし続けた。
リーナが駆け寄り、傷ついた腕へ光を灯す。その光を受けながらも、アリアはユリスから目を離せなかった。
ユリスの胸からも血が伝い落ちている。傷口には黒紫の靄が糸のように細くまとわりつき、流れる血を堰き止めるように揺れていた。リーナはそちらを見つめたまま、アリアの治療に当てた手を強張らせる。
エルネアがユリスへ手を差し出した。
「右手を見せて」
ユリスは答えず、裂けた右手を差し出した。
勝った、という感覚がどこにもなかった。届くはずだったアリアの剣は、直前で軌道を変え、ユリスの剣を防いだ。あの手首の返しを、ユリスは何度も見てきた。木剣を落としたとき。膝をついたとき。──手加減する、いつものアリアの動きだった。
それに気づいてしまった今、勝った実感さえ手のひらからこぼれ落ちていくようだった。
エルネアに手首を取られたまま、掠れた声で自分を呼ぶアリアに背を向けた。エルネアの指が傷口へ触れ、淡い水色の光が水のように皮膚の下へ沈んでいく。
リーナの緑の瞳が、その手元から動かなくなった。
クラウディアは大盾を下ろしていない。喉元へ剣を届かせたユリスと、地面に落ちたアリアの剣とを見比べ、踏み出しかけた足を元の位置へそっと戻した。
『勝者のする顔ではないな』
メルギドスの声に、ユリスは眉を寄せた。
(今は黙っていてくれ)
『勇者はいまだ貴様を敵として斬れず、貴様はそれに失望してなお、勇者しか見ておらん。そのせいで見ろ! ヴェルナの瞳まで曇っているぞ! 無自覚に女を二人も狂わせるとは、実に素晴らしいぞユリス! それでこそ魔王よ! ククク……フハハハハハ!』
◇
ヴェルナは、ユリスの足元を見ていた。
最後にアリアの剣を弾いた半歩は、何度も何度も教え込んだ踏み込みだった。崩れた姿勢から右足を残し、一息で腰を戻し、黒装を必要な場所へ通す。一年間、ユリスが地面へ倒れ込むたびに、その身体へ叩き込んできたものが、いま、アリアへ勝つための一歩になっていた。
あの一年がなければ、最後の半歩は出なかった。そのことを、誰よりもヴェルナ自身が知っている。
なのにユリスは──勝った後でさえアリアという女しか見ていなかった。
アリアの剣が全力で迫ったとき、ユリスは笑った。軌道が変わった瞬間には顔を歪めた。そのどれもが、ヴェルナの前では、一度も見せたことのない顔ばかりだった。
胸の奥に刺さっていた棘が、初めてはっきりと、鋭く痛んだ。
剣を弾かれて舌打ちした顔。初めて自分の間合いへ刃を届かせた朝の、驚いたような表情。黒装を制御できたとき、褒めるまで何度もこちらを窺っていた目。
今さら監視という名で括ったところで、胸の痛みだけが澱のように残った。
強くなったと言ったときの笑みを、もう一度こちらへ向けてほしかった。怒りでも、喜びでも、失望でもいい。アリアへ向けたように、自分の言葉でユリスの心を揺らしたかった。
――今のお前を知っているのは、私なのに。……あの女がいるから、私を見てくれないのか?
脳裏をよぎったその考えに、ヴェルナは息をわずかに止めた。そんなことを望む理由を、もう監視という言葉では覆い隠せなかった。
真紅の瞳の先で、ユリスはアリアに背を向けた。
それでも、アリアの呼ぶ声が落ちるたび、その肩だけがわずかに強張った。
ヴェルナは、指が食い込むほど双剣の柄を強く握り込んだ。