勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。   作:激重感情

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002 それでも。

 王立聖戦学園には、いくつもの訓練場がある。

 勇者科が使う第一訓練場。聖騎士科が使う第二訓練場。そして、俺たち戦技科が主に使う第三訓練場だ。

 第一訓練場は、勇者候補のために造られた特別な場所だ。聖剣適性を測るための術式や、女神の祝福を制御するための聖紋が床に刻まれている。アリアと模擬戦をする時、俺は大抵そこに立つ。

 第二訓練場は、聖騎士科のための場所だった。盾術、護衛戦術、防御陣形、集団戦。勇者や聖女を守る者たちが、誰かの前に立つための訓練を積む場所である。

 そして第三訓練場。戦技科の生徒が主に使う、最も実戦寄りの訓練場。第一訓練場のような華やかさはない。女神像も、聖剣の模造品も、祝福増幅用の聖紋もない。あるのは、石畳の広場と、使い込まれた木剣。鍛錬用の重り。魔物の骨格標本。傷だらけの訓練人形。学園の中では、いくらか地味な場所だった。

 

 だが、俺はこの場所が嫌いではない。ここには、余計な光がない。剣を振れば、音が返ってくる。踏み込めば、足裏に石の硬さが伝わる。息が切れれば、自分の弱さが分かる。祝福がなくても、剣は振れる。女神に選ばれていなくても、身体は鍛えられる。

 

 少なくとも、俺はそう信じていた。

 

「……四百九十八、四百九十九、五百」

 

 早朝の第三訓練場。

 俺は最後の一振りを終え、ゆっくりと息を吐いた。銀色の髪先から汗が落ちる。深紺の制服の上着は脱ぎ、訓練用の白いシャツ一枚になっている。それでも背中には熱がこもっていた。

 肩が重い。腕の内側に鈍い疲労が溜まっている。昨日、リーナに治してもらった傷はもう痛まない。だが、無理をすればまた筋を痛めるだろう。分かっている。分かっていて、剣を振っている。

 休めば治る。そんなことは知っている。

 だが、休めば差は開く。

 アリア・ルミナスとの差は、今日も開いている。一日止まれば、もう二度と追いつけない気がした。だから、身体が軋んでいても手を止められない。痛みよりも、置いていかれることの方が怖かったから。

 

「五百回。昨日より十五秒遅い」

 

 背後から、淡々とした声がした。

 振り返ると、訓練場の端に一人の少女が立っていた。

 エルネア・フィル・グリモワール。

 賢者科の生徒であり、学園でも屈指の魔法理論の天才。

 肩にかかる程度の淡い水色の髪は、左右非対称のアシンメトリーなボブに整えられている。片側だけ少し長い前髪が頬にかかり、横には編み込みと黒いリボン、細いヘアピンが入っていた。黒縁の眼鏡の奥にある青系の瞳は、朝の光を受けてもほとんど揺れない。

 深紺の学園制服の上には、賢者科特有の短いローブを羽織っている。袖口には銀糸で魔法陣が刺繍され、胸元には賢者科を示す小さな本型の徽章があった。片腕には分厚い記録板。もう片方の腕には、魔導書らしき本が抱えられている。

 表情は薄い。感情の起伏がほとんど読めない。そのくせ、腕には俺のものらしい記録板を抱えている。朝から人の素振りを観察していたらしい。

 普通に考えれば不審者だ。

 

「……エルネア」

「何」

「いつからいたんだ?」

「三十二回目から」

「ほぼ最初じゃないか!」

「最初ではない。三十二回目」

「……そういう問題じゃない」

 

 エルネアは首を傾げた。

 本気で何が問題なのか分かっていない顔だった。彼女は昔からこうだ。他人との距離感が少し独特で、必要だと思えば遠慮なく踏み込んでくる。ただし、悪意はない。むしろ、本人なりには気を遣っているつもりなのだろう。厄介なのは、その気遣いの方向が常人と少しズレていることだった。

 

「昨日、リーナから激しい訓練は禁止されたのでは」

「これは激しい訓練じゃない」

「通常の男子生徒基準なら、十分に激しい」

「俺基準では?」

「やや軽い」

「なら問題ないな」

「問題はある。身体の修復速度と負荷量が釣り合っていない」

 

 エルネアは手元の記録板に視線を落とす。そこには細かな文字と数値がびっしりと並んでいた。嫌な予感がした。

 

「……まさかと思うが、それは俺の記録か?」

「そう」

「い、いつからつけている……?」

「入学二日目から」

「ほぼ最初じゃないか!」

「初日は基準値が取れなかった」

「そういう問題じゃない!」

 

 俺はこめかみを押さえた。頭が痛くなってきた。

 エルネアは平然としている。

 

「安心して。個人情報として管理している」

「……安心できるか」

「では、今から許可を取る」

「順番がおかしいだろ!」

「ユリスの訓練記録を継続的に観察してもいい?」

「断ったら?」

「困る」

「正直だな」

「必要だから」

 

 エルネアはまっすぐ俺を見る。青い瞳には、からかいや憐れみの色がなかった。あるのは、純粋な関心。俺という人間を、感情ではなく、事実として見ようとする目だった。

 だから、俺はため息をつく。

 

「……好きにしろ。ただし、妙な研究に使わないでくれよ」

「妙の定義による」

「おい」

「冗談」

「……冗談に聞こえなくて普通に怖いんだよ」

「よく言われる」

 

 エルネアは淡々と答え、記録板に何かを書き加えた。俺は木剣を肩に担ぎ、彼女の方へ歩く。

 

「それで、昨日より十五秒遅いと言ったな」

「言った」

「原因は?」

「疲労の蓄積。右肩の可動域低下。踏み込み時の左足への荷重不足。あとは精神状態」

「精神状態?」

「昨日、アリアに負けたことを引きずっている」

「……引きずってない」

「毎日引きずってる」

「これ以上追い詰める必要あるか!?」

 

 エルネアは記録板をこちらに向けた。細かな折れ線がいくつも引かれている。

 剣速。踏み込み速度。反応時間。模擬戦での持続時間。魔力出力。回復時間。俺自身よりも、俺の身体を把握しているのではないかと思うほど細かい。

 

「全体的には伸びている」

「そうは思えんが……」

「アリアと比較するから」

 

 その名前が出た瞬間、胸の奥がわずかに強張った。エルネアは構わず続ける。

 

「アリア・ルミナスは異常、例外。勇者科の中でも成長曲線が突出している。比較対象として不適切」

「俺が勝ちたい相手は、その不適切な相手なんだが」

「知っている」

 

 彼女は頷いた。

 

「だから、貴方は焦っている」

「……」

「けれど、結論から言えば、貴方の努力は無駄ではない。むしろ、祝福を持たない戦技科生徒としては異常な伸び方をしている」

「異常?」

「褒め言葉」

「そうか」

「ただし、勇者科主席に届くかは別問題」

「そこは濁してくれてもいいんだぞ」

「濁す意味がない」

 

 容赦がない。

 だが、不思議と嫌ではなかった。エルネアは俺を慰めない。男なのにすごい、とも言わない。アリアに勝てなくても仕方ない、とも言わない。ただ、事実だけを並べる。届かないものは届かない。伸びているものは伸びている。無駄ではないものは無駄ではない。

 優しくはない。

 けれど、誤魔化しもない。

 それが、俺には少しだけ救いだった。

 

「ユリス」

「何だ?」

「貴方は弱くない」

 

 エルネアは、いつもと変わらない平坦な声で言った。

 

「成長の仕方が違うだけ」

 

 風が訓練場を通り抜けた。朝露を含んだ冷たい空気が、汗ばんだ肌に触れる。俺は少しだけ黙った。そんな言葉を、誰かに言われたかったのかもしれない。

 弱くない。男なのに頑張っているのではなく。守られるべきなのに無茶をしているのでもなく。ただ、成長の仕方が違う。

 その言葉は、アリアの優しさとも、リーナの治癒とも違う形で、俺の胸に触れた。

 アリアは俺を励ます。リーナは俺を癒やす。

 けれど、エルネアだけは俺を測る。

 酷い言い方をすれば、それだけだった。

 だが、俺にはそれがありがたかった。測るということは、戦う者として見るということだから。

 

「……お前だけだな」

「何が」

「俺の努力を、“男なのに偉い”で片づけないのは」

 

 エルネアは瞬きをした。

 珍しく、ほんの少しだけ反応が遅れる。

 

「それは、評価として不正確」

「そうか」

「そう」

 

 彼女は記録板に視線を落とした。耳が少しだけ赤くなっているように見えたが、気のせいかもしれない。

 

「今の発言も記録するのか?」

「しない」

「なんで?」

「私的情報だから」

「基準が分からんな」

「私にも分からない」

「……お前な」

 

 思わず笑うと、エルネアは不思議そうに首を傾げた。

 その様子が少しおかしくて、俺はまた笑った。

 エルネアは笑わない。だが、俺の訓練記録を抱えたまま、静かに隣に立っている。この学園で、俺を戦士として見ている者がどれだけいるのかは分からない。だが、少なくともエルネアは、俺を数字と事実で見てくれていた。

 それが冷たいと感じる者もいるだろう。

 けれど俺にとっては妙に温かかった。

 

「次の訓練はいつ?」

「今日の午後、戦技科の合同実習がある」

「相手は?」

「ゴーレム二体。魔物を想定した連携訓練だ」

「見に行く」

「また記録か」

「うん」

「暇なのか、賢者科は」

「暇ではない。だから効率よく観察する」

「来るなとは言わんが、面白いものじゃないぞ」

「ユリスの戦闘は面白い」

 

 エルネアは即答した。俺は少しだけ目を見開く。

 

「そうか?」

「そう」

 

 彼女は表情を変えない。だが、その一言が嘘ではないことだけは分かった。

 その後、俺は軽い基礎訓練を終え、午前の講義へ向かった。第三訓練場から講義棟へ向かうには、中央広場の外縁を抜けるのが近道だった。

 朝の広場には、生徒たちの声が満ちている。勇者科の生徒たちが、第一訓練場へ向かいながら今日の実技について話している。聖女科の生徒たちは、治療棟で使う薬草の仕分けを相談している。賢者科の生徒たちは分厚い本を抱え、眠そうな顔で魔導演習棟へ歩いていく。

 

 その中心で、魔王像は変わらず沈黙していた。足元に突き立てられた黒い剣も、朝の光を鈍く弾いている。誰も足を止めない。誰も見上げない。俺もまた、何気なく横目で見ただけだった。

 王立聖戦学園の講義は、科によって大きく違う。勇者科は聖剣適性や対魔王戦術。聖女科は治癒と浄化。賢者科は魔法理論や術式解析。聖騎士科は護衛戦術、防御魔法、騎士道。そして戦技科は、実戦で生き延びるための技術を叩き込まれる。

 戦技科には、女神の祝福を持たない者が集まる。平民出身の者もいれば、下級貴族もいる。中には、魔力量こそ少ないが身体能力に優れた者、魔法の才はないが剣に秀でた者もいた。

 選ばれなかった者が、それでも戦場に立つための科。

 俺はそこにいる。

 だが、俺が男であることだけは、どうしても目立った。

 

「ユリス、今日も勇者科とやったんだって?」

「また負けたのか?」

「当たり前だろ。相手はアリア様だぞ」

「いや、でもあそこまで挑み続けるのは普通にすごいよ」

「男なのに根性あるよね」

 

 同じ戦技科の生徒たちは、そう言って笑う。

 悪い奴らではない。むしろ、俺のことを認めてくれている方だろう。

 だが、その言葉にもやはり“男なのに”がつく。

 俺はそれを聞き流す。いちいち噛みついていては、日が暮れる。

 聞き流すことには慣れていた。慣れてしまっていた。

 

 午後。

 合同実習を終えた俺は、第三訓練場の隅で水を飲んでいた。ゴーレム二体を相手にした連携訓練。結果だけを言えば、悪くなかった。片方の脚部関節を崩し、もう片方の攻撃を誘導して同士討ちさせた。戦技科の教官にも、判断は良かったと評価された。

 だが、身体は重い。午前の素振りと、昨日の模擬戦の疲労が残っている。

 腰を下ろして息を整えていると、影が差した。

 

「ユリス」

 

 顔を上げる。そこに立っていたのは、クラウディア・レインベルだった。

 金色の髪を高い位置で一つにまとめた、背の高い少女だった。前髪はきちんと整えられ、編み込みを入れた髪が陽光を受けて柔らかく輝いている。青い瞳は澄んでいて、まっすぐこちらを見るだけで、嘘やごまかしを許さない硬質さがあった。

 深紺の学園制服の上には、聖騎士科の白い外套。胸元には盾と剣を象った徽章。高身長で、姿勢が良く、制服越しにも分かるほど均整の取れた体つきをしている。鍛えられた手足と、女性らしい柔らかな線。その両方が同居しているせいで、ただ立っているだけでも人目を引く。黒いストッキングに包まれた脚は長く、外套の下から覗く剣帯には訓練用の剣が下げられていた。

 背には、訓練用とはいえ重そうな剣と盾を背負っている。

 

 頼れる守護者。

 そんな言葉が似合う女性だった。

 第二訓練場での演習帰りなのだろう。外套の裾にはわずかに砂がつき、手袋には盾を握った跡が残っていた。彼女は俺を見るなり、わずかに眉を寄せる。

 

「また、無茶をしたな」

「開口一番それか」

「心配しているんだ」

「今日の実習は悪くなかったはずだが」

「結果の話ではない。君の身体の話をしている」

 

 クラウディアは俺の隣に膝をつき、怪我がないか確認するように視線を走らせた。それはリーナの治療前の確認とも、アリアの心配とも違う。もっと規律的で、騎士らしい。

 護衛対象の状態を確認する目だった。

 

「第二訓練場から見えた。最後のゴーレム戦、左足を庇っていただろう」

「……よ、よく見ているな」

 

 そんな一瞬すら見られていることに、俺は若干の恐怖を抱いた。

 

「聖騎士科は、守るべき相手の状態を見落とすなと教わる」

「俺は守るべき相手か……?」

「少なくとも、無茶を止めるべき相手ではある」

 

 クラウディアは真面目な顔で言った。

 冗談ではないらしい。というか、冗談など言ったことがないだろう。

 

「昨日、リーナから休むよう言われたと聞いている」

「情報が早いな」

「君は目を離すとすぐ無理をするからな」

「俺は子供か」

「似たようなものだ」

 

 自覚なく神経を逆撫でしてくる。

 

「年は同じだろうが」

「危険に対する自己評価が低すぎるという意味だ」

 

 クラウディアは真顔で続ける。俺は水筒の蓋を閉め、軽く息を吐いた。

 

「私は、君の努力を軽んじるつもりはない」

「なら、このまま続けても問題ないだろ」

「話を最後まで聞け」

「は、はい……」

 

 反射的に返事をすると、クラウディアは少しだけ満足げに頷いた。

 騎士候補というより、教官に近い。

 

「君の努力は尊い。アリアに何度敗れても立ち上がる姿勢も、戦技科で積み重ねてきた技術も、私は認めている」

 

 その言葉に嘘はなかった。クラウディアは誠実だ。誰かを侮辱するために言葉を使う人間ではない。

 だからこそ、次の言葉が来ることも分かっていた。

 

「だが、君は男だ」

 

 やっぱりな。

 胸の奥から熱が失われていく。

 

「男性は守られるべき存在だ。これは君を侮って言っているのではない。命の重さと役割の違いの話をしている」

「役割、か」

「そうだ」

 

 クラウディアは真っ直ぐに俺を見る。

 その目に悪意はない。だから、余計に厄介だった。

 

「戦場に立つ者が偉いわけではない。剣を取らずとも、人を支える道はある。君には君の役割があるはずだ」

「その役割は、誰が決める?」

「社会だ。歴史だ。女神の祝福が示した秩序だ」

「……俺ではなく?」

 

 クラウディアは一瞬だけ言葉を詰まらせた。だが、すぐに首を振る。

 

「君が自分の道を選ぼうとしていることは分かっている。だからこそ、私は止めたい」

「なんでだよ」

「君が壊れるところを見たくない」

 

 まっすぐな言葉だった。

 取り繕いも、建前もない。クラウディアは本気で俺を心配している。その気持ちは分かる。分かってしまう。

 

「戦いは、私たちに任せてくれ」

 

 クラウディアは静かに言った。

 

「勇者科がいる。聖騎士科がいる。聖女科も、賢者科もいる。君が無理に前線へ出なくても、守る者はいる」

 

 ああ。そうだろう。この国では、それが正しい。アリアは勇者候補。リーナは聖女候補。エルネアは賢者候補。クラウディアは聖騎士候補。彼女たちは人々を守るために選ばれ、育てられている。

 一方、俺は戦技科の男子生徒だ。祝福はない。魔力も多くない。いくら剣を振っても、勇者には届かない。なら、守られる側にいるべきだ。

 その理屈は分かる。正しいことも分かる。

 

 ――分かってしまうから、余計に苦しかった。

 

「クラウディア」

「何だ」

「いつか、お前にも本気で剣を向けさせてやる」

 

 クラウディアは目を瞬かせた。それから、少し困ったように笑う。

 

「その時が来ないことを願っている」

「俺は来てほしい」

「ユリス」

「冗談だ」

 

 そう言うと、クラウディアはほっとしたように息を吐いた。

 本当は、冗談ではない。

 俺はアリアだけではなく、クラウディアにも、リーナにも、エルネアにも、ちゃんと見てほしかった。守るべき男としてではなく。癒やすべき怪我人としてではなく。観察すべき珍しい存在としてでもなく。一人の戦士として。剣を向ける価値のある相手として。

 

 だが、それを口にすれば、彼女はきっと悲しい顔をする。――だから、俺は笑った。

 

「心配してくれているのは分かっている。いつも、ありがとな」

「分かっているなら、もう少し自分を大事にしてくれ」

「努力する」

「君の”努力する”は全く信用できない……」

「そういえば、リーナにも似たようなことを言われたな」

「なら、皆が同じ認識ということだ」

 

 クラウディアは真剣に頷いた。

 どこまでも真面目で、その真面目さが、眩しかった。

 目を背けたくなるほどに。

 

「ユリス」

「まだあるのか」

「ある」

 

 彼女は立ち上がり、俺に手を差し出した。

 

「立てるか」

「ああ」

「なら、自分で立て」

「え……手を差し出した意味は?」

「確認だ」

「お前もなかなか意地が悪いな」

「君が私の手を取るなら、それはそれで支えるつもりだったさ」

 

 クラウディアは当然のように言う。俺は苦笑し、自力で立ち上がった。彼女の差し出した手は、使わなかった。

 それを見て、彼女はほんの少しだけ安心したような顔をした。きっと、俺の意地を尊重してくれたのだ。だが同時に、俺が倒れればすぐに支えるつもりでもいる。

 その優しさは、温かい。

 温かくて、苦しい。

 

 日が傾き始めた頃、俺は一人で第三訓練場に戻った。朝と同じ場所。誰もいない石畳の上で、木剣を構える。

 エルネアの言葉が頭をよぎる。貴方は弱くない。成長の仕方が違うだけ。

 クラウディアの言葉も残っている。戦いは、私たちに任せてくれ。

 どちらも、俺を思っての言葉だった。どちらも、嘘ではない。どちらも、優しさだった。

 

「……勝ちたいんだよ」

 

 気づけば溢れていた。

 アリアに勝ちたい。

 ただ、それだけだ。

 その願いは、誰かを傷つけるためのものではない。誰かの善意を踏みにじるためのものでもない。女神の秩序に逆らいたいわけでもない。

 それでも、この国ではきっと、俺の願いは異物なのだ。守られるべき男が、守る者たちを超えたいと願っている。その愚かしさを、誰よりも俺自身が理解している。

 

 理解していても、捨てられない。

 

 俺は木剣を握り直した。腕は重い。身体は疲れている。それでも、足は前に出る。一振り。また一振り。誰かが俺を見ているわけではない。アリアも、リーナも、エルネアも、クラウディアもいない。

 ただ、俺だけがいる。

 守られる側で終わりたくない俺だけが。

 夕陽の中、木剣が空を切る音だけが響いた。

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