勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。 作:激重感情
王立聖戦学園には、いくつもの訓練場がある。
勇者科が使う第一訓練場。聖騎士科が使う第二訓練場。そして、俺たち戦技科が主に使う第三訓練場だ。
第一訓練場は、勇者候補のために造られた特別な場所だ。聖剣適性を測るための術式や、女神の祝福を制御するための聖紋が床に刻まれている。アリアと模擬戦をする時、俺は大抵そこに立つ。
第二訓練場は、聖騎士科のための場所だった。盾術、護衛戦術、防御陣形、集団戦。勇者や聖女を守る者たちが、誰かの前に立つための訓練を積む場所である。
そして第三訓練場。戦技科の生徒が主に使う、最も実戦寄りの訓練場。第一訓練場のような華やかさはない。女神像も、聖剣の模造品も、祝福増幅用の聖紋もない。あるのは、石畳の広場と、使い込まれた木剣。鍛錬用の重り。魔物の骨格標本。傷だらけの訓練人形。学園の中では、いくらか地味な場所だった。
だが、俺はこの場所が嫌いではない。ここには、余計な光がない。剣を振れば、音が返ってくる。踏み込めば、足裏に石の硬さが伝わる。息が切れれば、自分の弱さが分かる。祝福がなくても、剣は振れる。女神に選ばれていなくても、身体は鍛えられる。
少なくとも、俺はそう信じていた。
「……四百九十八、四百九十九、五百」
早朝の第三訓練場。
俺は最後の一振りを終え、ゆっくりと息を吐いた。銀色の髪先から汗が落ちる。深紺の制服の上着は脱ぎ、訓練用の白いシャツ一枚になっている。それでも背中には熱がこもっていた。
肩が重い。腕の内側に鈍い疲労が溜まっている。昨日、リーナに治してもらった傷はもう痛まない。だが、無理をすればまた筋を痛めるだろう。分かっている。分かっていて、剣を振っている。
休めば治る。そんなことは知っている。
だが、休めば差は開く。
アリア・ルミナスとの差は、今日も開いている。一日止まれば、もう二度と追いつけない気がした。だから、身体が軋んでいても手を止められない。痛みよりも、置いていかれることの方が怖かったから。
「五百回。昨日より十五秒遅い」
背後から、淡々とした声がした。
振り返ると、訓練場の端に一人の少女が立っていた。
エルネア・フィル・グリモワール。
賢者科の生徒であり、学園でも屈指の魔法理論の天才。
肩にかかる程度の淡い水色の髪は、左右非対称のアシンメトリーなボブに整えられている。片側だけ少し長い前髪が頬にかかり、横には編み込みと黒いリボン、細いヘアピンが入っていた。黒縁の眼鏡の奥にある青系の瞳は、朝の光を受けてもほとんど揺れない。
深紺の学園制服の上には、賢者科特有の短いローブを羽織っている。袖口には銀糸で魔法陣が刺繍され、胸元には賢者科を示す小さな本型の徽章があった。片腕には分厚い記録板。もう片方の腕には、魔導書らしき本が抱えられている。
表情は薄い。感情の起伏がほとんど読めない。そのくせ、腕には俺のものらしい記録板を抱えている。朝から人の素振りを観察していたらしい。
普通に考えれば不審者だ。
「……エルネア」
「何」
「いつからいたんだ?」
「三十二回目から」
「ほぼ最初じゃないか!」
「最初ではない。三十二回目」
「……そういう問題じゃない」
エルネアは首を傾げた。
本気で何が問題なのか分かっていない顔だった。彼女は昔からこうだ。他人との距離感が少し独特で、必要だと思えば遠慮なく踏み込んでくる。ただし、悪意はない。むしろ、本人なりには気を遣っているつもりなのだろう。厄介なのは、その気遣いの方向が常人と少しズレていることだった。
「昨日、リーナから激しい訓練は禁止されたのでは」
「これは激しい訓練じゃない」
「通常の男子生徒基準なら、十分に激しい」
「俺基準では?」
「やや軽い」
「なら問題ないな」
「問題はある。身体の修復速度と負荷量が釣り合っていない」
エルネアは手元の記録板に視線を落とす。そこには細かな文字と数値がびっしりと並んでいた。嫌な予感がした。
「……まさかと思うが、それは俺の記録か?」
「そう」
「い、いつからつけている……?」
「入学二日目から」
「ほぼ最初じゃないか!」
「初日は基準値が取れなかった」
「そういう問題じゃない!」
俺はこめかみを押さえた。頭が痛くなってきた。
エルネアは平然としている。
「安心して。個人情報として管理している」
「……安心できるか」
「では、今から許可を取る」
「順番がおかしいだろ!」
「ユリスの訓練記録を継続的に観察してもいい?」
「断ったら?」
「困る」
「正直だな」
「必要だから」
エルネアはまっすぐ俺を見る。青い瞳には、からかいや憐れみの色がなかった。あるのは、純粋な関心。俺という人間を、感情ではなく、事実として見ようとする目だった。
だから、俺はため息をつく。
「……好きにしろ。ただし、妙な研究に使わないでくれよ」
「妙の定義による」
「おい」
「冗談」
「……冗談に聞こえなくて普通に怖いんだよ」
「よく言われる」
エルネアは淡々と答え、記録板に何かを書き加えた。俺は木剣を肩に担ぎ、彼女の方へ歩く。
「それで、昨日より十五秒遅いと言ったな」
「言った」
「原因は?」
「疲労の蓄積。右肩の可動域低下。踏み込み時の左足への荷重不足。あとは精神状態」
「精神状態?」
「昨日、アリアに負けたことを引きずっている」
「……引きずってない」
「毎日引きずってる」
「これ以上追い詰める必要あるか!?」
エルネアは記録板をこちらに向けた。細かな折れ線がいくつも引かれている。
剣速。踏み込み速度。反応時間。模擬戦での持続時間。魔力出力。回復時間。俺自身よりも、俺の身体を把握しているのではないかと思うほど細かい。
「全体的には伸びている」
「そうは思えんが……」
「アリアと比較するから」
その名前が出た瞬間、胸の奥がわずかに強張った。エルネアは構わず続ける。
「アリア・ルミナスは異常、例外。勇者科の中でも成長曲線が突出している。比較対象として不適切」
「俺が勝ちたい相手は、その不適切な相手なんだが」
「知っている」
彼女は頷いた。
「だから、貴方は焦っている」
「……」
「けれど、結論から言えば、貴方の努力は無駄ではない。むしろ、祝福を持たない戦技科生徒としては異常な伸び方をしている」
「異常?」
「褒め言葉」
「そうか」
「ただし、勇者科主席に届くかは別問題」
「そこは濁してくれてもいいんだぞ」
「濁す意味がない」
容赦がない。
だが、不思議と嫌ではなかった。エルネアは俺を慰めない。男なのにすごい、とも言わない。アリアに勝てなくても仕方ない、とも言わない。ただ、事実だけを並べる。届かないものは届かない。伸びているものは伸びている。無駄ではないものは無駄ではない。
優しくはない。
けれど、誤魔化しもない。
それが、俺には少しだけ救いだった。
「ユリス」
「何だ?」
「貴方は弱くない」
エルネアは、いつもと変わらない平坦な声で言った。
「成長の仕方が違うだけ」
風が訓練場を通り抜けた。朝露を含んだ冷たい空気が、汗ばんだ肌に触れる。俺は少しだけ黙った。そんな言葉を、誰かに言われたかったのかもしれない。
弱くない。男なのに頑張っているのではなく。守られるべきなのに無茶をしているのでもなく。ただ、成長の仕方が違う。
その言葉は、アリアの優しさとも、リーナの治癒とも違う形で、俺の胸に触れた。
アリアは俺を励ます。リーナは俺を癒やす。
けれど、エルネアだけは俺を測る。
酷い言い方をすれば、それだけだった。
だが、俺にはそれがありがたかった。測るということは、戦う者として見るということだから。
「……お前だけだな」
「何が」
「俺の努力を、“男なのに偉い”で片づけないのは」
エルネアは瞬きをした。
珍しく、ほんの少しだけ反応が遅れる。
「それは、評価として不正確」
「そうか」
「そう」
彼女は記録板に視線を落とした。耳が少しだけ赤くなっているように見えたが、気のせいかもしれない。
「今の発言も記録するのか?」
「しない」
「なんで?」
「私的情報だから」
「基準が分からんな」
「私にも分からない」
「……お前な」
思わず笑うと、エルネアは不思議そうに首を傾げた。
その様子が少しおかしくて、俺はまた笑った。
エルネアは笑わない。だが、俺の訓練記録を抱えたまま、静かに隣に立っている。この学園で、俺を戦士として見ている者がどれだけいるのかは分からない。だが、少なくともエルネアは、俺を数字と事実で見てくれていた。
それが冷たいと感じる者もいるだろう。
けれど俺にとっては妙に温かかった。
「次の訓練はいつ?」
「今日の午後、戦技科の合同実習がある」
「相手は?」
「ゴーレム二体。魔物を想定した連携訓練だ」
「見に行く」
「また記録か」
「うん」
「暇なのか、賢者科は」
「暇ではない。だから効率よく観察する」
「来るなとは言わんが、面白いものじゃないぞ」
「ユリスの戦闘は面白い」
エルネアは即答した。俺は少しだけ目を見開く。
「そうか?」
「そう」
彼女は表情を変えない。だが、その一言が嘘ではないことだけは分かった。
その後、俺は軽い基礎訓練を終え、午前の講義へ向かった。第三訓練場から講義棟へ向かうには、中央広場の外縁を抜けるのが近道だった。
朝の広場には、生徒たちの声が満ちている。勇者科の生徒たちが、第一訓練場へ向かいながら今日の実技について話している。聖女科の生徒たちは、治療棟で使う薬草の仕分けを相談している。賢者科の生徒たちは分厚い本を抱え、眠そうな顔で魔導演習棟へ歩いていく。
その中心で、魔王像は変わらず沈黙していた。足元に突き立てられた黒い剣も、朝の光を鈍く弾いている。誰も足を止めない。誰も見上げない。俺もまた、何気なく横目で見ただけだった。
王立聖戦学園の講義は、科によって大きく違う。勇者科は聖剣適性や対魔王戦術。聖女科は治癒と浄化。賢者科は魔法理論や術式解析。聖騎士科は護衛戦術、防御魔法、騎士道。そして戦技科は、実戦で生き延びるための技術を叩き込まれる。
戦技科には、女神の祝福を持たない者が集まる。平民出身の者もいれば、下級貴族もいる。中には、魔力量こそ少ないが身体能力に優れた者、魔法の才はないが剣に秀でた者もいた。
選ばれなかった者が、それでも戦場に立つための科。
俺はそこにいる。
だが、俺が男であることだけは、どうしても目立った。
「ユリス、今日も勇者科とやったんだって?」
「また負けたのか?」
「当たり前だろ。相手はアリア様だぞ」
「いや、でもあそこまで挑み続けるのは普通にすごいよ」
「男なのに根性あるよね」
同じ戦技科の生徒たちは、そう言って笑う。
悪い奴らではない。むしろ、俺のことを認めてくれている方だろう。
だが、その言葉にもやはり“男なのに”がつく。
俺はそれを聞き流す。いちいち噛みついていては、日が暮れる。
聞き流すことには慣れていた。慣れてしまっていた。
午後。
合同実習を終えた俺は、第三訓練場の隅で水を飲んでいた。ゴーレム二体を相手にした連携訓練。結果だけを言えば、悪くなかった。片方の脚部関節を崩し、もう片方の攻撃を誘導して同士討ちさせた。戦技科の教官にも、判断は良かったと評価された。
だが、身体は重い。午前の素振りと、昨日の模擬戦の疲労が残っている。
腰を下ろして息を整えていると、影が差した。
「ユリス」
顔を上げる。そこに立っていたのは、クラウディア・レインベルだった。
金色の髪を高い位置で一つにまとめた、背の高い少女だった。前髪はきちんと整えられ、編み込みを入れた髪が陽光を受けて柔らかく輝いている。青い瞳は澄んでいて、まっすぐこちらを見るだけで、嘘やごまかしを許さない硬質さがあった。
深紺の学園制服の上には、聖騎士科の白い外套。胸元には盾と剣を象った徽章。高身長で、姿勢が良く、制服越しにも分かるほど均整の取れた体つきをしている。鍛えられた手足と、女性らしい柔らかな線。その両方が同居しているせいで、ただ立っているだけでも人目を引く。黒いストッキングに包まれた脚は長く、外套の下から覗く剣帯には訓練用の剣が下げられていた。
背には、訓練用とはいえ重そうな剣と盾を背負っている。
頼れる守護者。
そんな言葉が似合う女性だった。
第二訓練場での演習帰りなのだろう。外套の裾にはわずかに砂がつき、手袋には盾を握った跡が残っていた。彼女は俺を見るなり、わずかに眉を寄せる。
「また、無茶をしたな」
「開口一番それか」
「心配しているんだ」
「今日の実習は悪くなかったはずだが」
「結果の話ではない。君の身体の話をしている」
クラウディアは俺の隣に膝をつき、怪我がないか確認するように視線を走らせた。それはリーナの治療前の確認とも、アリアの心配とも違う。もっと規律的で、騎士らしい。
護衛対象の状態を確認する目だった。
「第二訓練場から見えた。最後のゴーレム戦、左足を庇っていただろう」
「……よ、よく見ているな」
そんな一瞬すら見られていることに、俺は若干の恐怖を抱いた。
「聖騎士科は、守るべき相手の状態を見落とすなと教わる」
「俺は守るべき相手か……?」
「少なくとも、無茶を止めるべき相手ではある」
クラウディアは真面目な顔で言った。
冗談ではないらしい。というか、冗談など言ったことがないだろう。
「昨日、リーナから休むよう言われたと聞いている」
「情報が早いな」
「君は目を離すとすぐ無理をするからな」
「俺は子供か」
「似たようなものだ」
自覚なく神経を逆撫でしてくる。
「年は同じだろうが」
「危険に対する自己評価が低すぎるという意味だ」
クラウディアは真顔で続ける。俺は水筒の蓋を閉め、軽く息を吐いた。
「私は、君の努力を軽んじるつもりはない」
「なら、このまま続けても問題ないだろ」
「話を最後まで聞け」
「は、はい……」
反射的に返事をすると、クラウディアは少しだけ満足げに頷いた。
騎士候補というより、教官に近い。
「君の努力は尊い。アリアに何度敗れても立ち上がる姿勢も、戦技科で積み重ねてきた技術も、私は認めている」
その言葉に嘘はなかった。クラウディアは誠実だ。誰かを侮辱するために言葉を使う人間ではない。
だからこそ、次の言葉が来ることも分かっていた。
「だが、君は男だ」
やっぱりな。
胸の奥から熱が失われていく。
「男性は守られるべき存在だ。これは君を侮って言っているのではない。命の重さと役割の違いの話をしている」
「役割、か」
「そうだ」
クラウディアは真っ直ぐに俺を見る。
その目に悪意はない。だから、余計に厄介だった。
「戦場に立つ者が偉いわけではない。剣を取らずとも、人を支える道はある。君には君の役割があるはずだ」
「その役割は、誰が決める?」
「社会だ。歴史だ。女神の祝福が示した秩序だ」
「……俺ではなく?」
クラウディアは一瞬だけ言葉を詰まらせた。だが、すぐに首を振る。
「君が自分の道を選ぼうとしていることは分かっている。だからこそ、私は止めたい」
「なんでだよ」
「君が壊れるところを見たくない」
まっすぐな言葉だった。
取り繕いも、建前もない。クラウディアは本気で俺を心配している。その気持ちは分かる。分かってしまう。
「戦いは、私たちに任せてくれ」
クラウディアは静かに言った。
「勇者科がいる。聖騎士科がいる。聖女科も、賢者科もいる。君が無理に前線へ出なくても、守る者はいる」
ああ。そうだろう。この国では、それが正しい。アリアは勇者候補。リーナは聖女候補。エルネアは賢者候補。クラウディアは聖騎士候補。彼女たちは人々を守るために選ばれ、育てられている。
一方、俺は戦技科の男子生徒だ。祝福はない。魔力も多くない。いくら剣を振っても、勇者には届かない。なら、守られる側にいるべきだ。
その理屈は分かる。正しいことも分かる。
――分かってしまうから、余計に苦しかった。
「クラウディア」
「何だ」
「いつか、お前にも本気で剣を向けさせてやる」
クラウディアは目を瞬かせた。それから、少し困ったように笑う。
「その時が来ないことを願っている」
「俺は来てほしい」
「ユリス」
「冗談だ」
そう言うと、クラウディアはほっとしたように息を吐いた。
本当は、冗談ではない。
俺はアリアだけではなく、クラウディアにも、リーナにも、エルネアにも、ちゃんと見てほしかった。守るべき男としてではなく。癒やすべき怪我人としてではなく。観察すべき珍しい存在としてでもなく。一人の戦士として。剣を向ける価値のある相手として。
だが、それを口にすれば、彼女はきっと悲しい顔をする。――だから、俺は笑った。
「心配してくれているのは分かっている。いつも、ありがとな」
「分かっているなら、もう少し自分を大事にしてくれ」
「努力する」
「君の”努力する”は全く信用できない……」
「そういえば、リーナにも似たようなことを言われたな」
「なら、皆が同じ認識ということだ」
クラウディアは真剣に頷いた。
どこまでも真面目で、その真面目さが、眩しかった。
目を背けたくなるほどに。
「ユリス」
「まだあるのか」
「ある」
彼女は立ち上がり、俺に手を差し出した。
「立てるか」
「ああ」
「なら、自分で立て」
「え……手を差し出した意味は?」
「確認だ」
「お前もなかなか意地が悪いな」
「君が私の手を取るなら、それはそれで支えるつもりだったさ」
クラウディアは当然のように言う。俺は苦笑し、自力で立ち上がった。彼女の差し出した手は、使わなかった。
それを見て、彼女はほんの少しだけ安心したような顔をした。きっと、俺の意地を尊重してくれたのだ。だが同時に、俺が倒れればすぐに支えるつもりでもいる。
その優しさは、温かい。
温かくて、苦しい。
日が傾き始めた頃、俺は一人で第三訓練場に戻った。朝と同じ場所。誰もいない石畳の上で、木剣を構える。
エルネアの言葉が頭をよぎる。貴方は弱くない。成長の仕方が違うだけ。
クラウディアの言葉も残っている。戦いは、私たちに任せてくれ。
どちらも、俺を思っての言葉だった。どちらも、嘘ではない。どちらも、優しさだった。
「……勝ちたいんだよ」
気づけば溢れていた。
アリアに勝ちたい。
ただ、それだけだ。
その願いは、誰かを傷つけるためのものではない。誰かの善意を踏みにじるためのものでもない。女神の秩序に逆らいたいわけでもない。
それでも、この国ではきっと、俺の願いは異物なのだ。守られるべき男が、守る者たちを超えたいと願っている。その愚かしさを、誰よりも俺自身が理解している。
理解していても、捨てられない。
俺は木剣を握り直した。腕は重い。身体は疲れている。それでも、足は前に出る。一振り。また一振り。誰かが俺を見ているわけではない。アリアも、リーナも、エルネアも、クラウディアもいない。
ただ、俺だけがいる。
守られる側で終わりたくない俺だけが。
夕陽の中、木剣が空を切る音だけが響いた。