曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。) 作:黒雪ゆきは
アリアの剣がつけた傷から、ユリスの血が流れ落ちていた。
頬を伝った一筋が顎先で膨らみ、黒い土へ吸い込まれる。胸元を裂いた傷には黒紫の靄が絡みついていたが、その隙間からも赤が滲んでいた。差し出された右手は皮膚が裂け、エルネアの指に触れられるたび、わずかに震えている。
生きている。一年ぶりに見たユリスは、確かに目の前で息をしていた。だが、また傷ついていた。
向こうでは、リーナの光を腕に受けながら、アリアがユリスの背へ手を伸ばしている。落とした剣は足元にある。喉には黒い切っ先が残した細い傷。頬には涙が伝っていた。
「ユリス……」
名を呼ばれるたび、背を向けたユリスの肩が強張った。
勝負はついた。アリアの剣は落ち、ユリスの剣は喉元へ届いた。それでも二人の間には、クラウディアの入り込めないものが残っている。
アリアが名を呼べば、ユリスはいつかまた振り返る。傷の残る手で剣を握り、次は、と前へ出る。アリアが立っている限り、何度でも。
クラウディアの左手が、大盾の持ち手を強く握った。
一年という時間は、あまりにも長すぎた。
閉ざされた門の前で、許可を求めた。指の背が白くなるほど、戻された申請書を握り潰し、翌日にはまた書き直した。境界警備も、捜索隊の護衛も、黒域周辺の巡回も、すべて生徒だからと退けられた。その間にも、ユリスが傷を負っているかもしれないという不安だけが、答えのないまま胸の奥に積み上がっていった。
初めは、無事に連れ戻せればよかった。やがて願いは、嫌われても生きてさえいればいいというところまで削られた。そうして最後には、ユリスが何を望むのかを思いやる心の余白さえ、とうに磨り減っていた。
ユリスの頬から落ちた血が、黒い土に新しい染みを作った。
大盾の持ち手が軋む。左手にどれほど力を込めているのか、自分でも分からなかった。
──もう、何人たりともユリスを傷つけることは許さない。
黒域も、魔王の剣も、ユリス自身も。そして、アリアも。
──アリアが、勇者でさえなければ。
そうすれば、ユリスはもう剣を握らずに済む。勝つために闇へ身を堕とすことも、血を流しながら立ち上がることもない。
クラウディアは大盾を前へ出した。
リーナが顔を上げる。クラウディアはその脇を抜け、アリアの正面へ立つ。
「クラウディア……?」
アリアの青い瞳に、幼い頃の面影が重なった。
血に濡れたユリスが村へ運び込まれた日、傍らにいたのはアリアだった。震える小さな身体に金の光を纏い、ユリスを救ったのだと、大人たちは口々に褒めていた。
あの日の金の光まで憎んだことはない。アリアがいなければ、今ここにユリスはいなかった。
それでも、クラウディアは剣を抜いた。
胸の奥から白銀の光が溢れ、鎧の継ぎ目を走った。光は肩から背へ、腰から両脚へ広がり、頭の先から爪先までクラウディアの全身を包み込む。
アリアの黄金の光のように、周囲を明るく染めるものではない。白銀の光は身体と鎧、大盾へ隙間なく沿い、そのすべてを一つの堅牢な塊へ変えていく。迫る攻撃を防ぎ、人々を守る聖騎士の祝福だった。
剣を肩の上まで振りかぶる。
二度と剣を握れないように、その一点だけを断てばいい。──それだけでいい。
狙うのは右肩。深く断てば、二度と勇者の剣を振れなくなる場所だった。
全身を包む祝福の光を揺らし、クラウディアは剣を振り下ろした。
アリアは動かなかった。青い瞳を見開き、迫る刃を見上げている。
その眼前へ、黒い影が滑り込んだ。交差した二本の刃が、クラウディアの剣を受け止める。
交わった刃から火花が弾け、クラウディアの全身を包む光が激しく揺れた。衝撃が落ち葉を吹き飛ばす。ヴェルナの足が黒い土へ沈み、交差した双剣が軋む。それでも、刃はアリアへ届かなかった。
真紅の瞳が、交わった剣越しにクラウディアを射抜く。
「何をしている」
ヴェルナの背後で、アリアが掠れた声を漏らした。
「クラウディア……どうして……?」
クラウディアは答えず、剣を引いて大盾を構え直す。ヴェルナを倒す必要はない。その向こうにいるアリアへ、もう一度剣を届かせればいい。
「退け」
「断る」
クラウディアは大盾ごと踏み込んだ。
ヴェルナは正面から受けず、交差させていた双剣を解きながら右へ流れる。片方の刃が盾の表面を撫で、もう片方が下から膝を狙った。
刃が触れた瞬間、硬い音が鳴った。そこを守っていた光が波打ち、切っ先は鎧の表面を削っただけで外へ弾かれる。
弾かれた刃が戻るより早く、クラウディアは下から剣を斬り上げた。大盾の縁に沿って走った切っ先が、ヴェルナの右肩へ迫る。
ヴェルナは刃を返して受けた。剣と剣が噛み合う。クラウディアは右腕でその刃を押さえたまま、大盾を横へ振った。
空いていた短剣が盾の縁へ添えられる。ヴェルナは力へ逆らわず後ろへ滑り、途中で身体を捻った。押し込んだ大盾が外へ逸らされ、クラウディアの右側が開く。
噛み合っていた刃が外れ、右手首へ走った。クラウディアは剣の鍔元で受け、手首を返して斬り上げる。ヴェルナは顎を引いて切っ先をかわし、そのまま左足を大盾の裏へかけ、クラウディアの重心を外へ引いた。
身体が傾く。倒れず、右足で黒い土を踏み砕いた。全身を包む祝福が強く脈打ち、崩れかけた身体を大盾ごと支える。
一年前なら、そのまま大盾ごと地面へ引き倒されていた。この一年、何度も剣を受け、盾を振り、崩された足を踏み直してきた。今は、その力さえ踏みしめる一歩に変えられる。
クラウディアは傾いた勢いのまま肩から盾へ体重を乗せた。大盾の面を押し込みながら剣を引き、盾の上端越しに突き出す。
ヴェルナは半歩退き、片方の短剣で剣を受けた。金属音が弾ける。同時に大盾の縁が左肩をかすめ、剣と盾の両方を受けた身体が大きく揺れた。
その脇に、アリアへ抜ける道が見えた。ヴェルナには目もくれず、クラウディアは前へ出る。
背後から二本の刃が追いついた。クラウディアは振り返らず、剣を右肩の外へ立てる。一撃目がその刃へ噛み合った。二撃目は太腿へ走り、鎧と祝福の光に受け止められる。打たれた箇所で光が大きく乱れたが、傷は浅い。
アリアまで、あと三歩。
ヴェルナが再び正面へ滑り込む。
クラウディアは大盾を突き出した。ヴェルナの双剣が盾の両端へ当たり、左右から流そうとする。構わず左腕へ力を込める。
ヴェルナの靴が土へ二本の跡を刻んだ。それでも大盾は止まらない。
全身を覆う光が盾を支え、一歩ずつヴェルナを押し戻す。クラウディアは再び右腕を引き、盾の上端から剣を突き出す。狙いはヴェルナの右肩。片方の短剣が大盾から離れ、クラウディアの剣を受けた。支えを失った側から、大盾がさらにヴェルナへ迫る。
ヴェルナの真紅の瞳が細くなった。直後、闇が吹き荒れた。
黒紫の魔力がヴェルナの全身から噴き上がり、地面を這った。落ち葉が巻き上がる。黒髪が激しくなびき、溢れた闇が肩から両腕へ流れ、二本の刃へ絡みついた。
クラウディアは、その魔力を知っていた。先ほどまでユリスの身体と魔王の剣を覆っていたものと、同じ性質を持つ闇だった。
吹き荒れる魔力には、わずかな乱れもない。闇の一筋一筋までがヴェルナの意思に従い、全身と双剣へ鋭くまとわりついている。ユリスが闇を己の動きへ従わせていたように、ヴェルナもまた、それを完全に自らの力として扱っていた。
双剣が動く。大盾を押さえていた刃と、クラウディアの剣を受けていた刃が、闇の軌跡を残して同時に翻った。一方が大盾を斬り上げ、もう一方が剣を外へ弾く。大盾を覆う白銀の光と、ヴェルナの黒紫の闇が正面から衝突した。
大盾を覆う光が大きく波打った。衝撃が左肩を抜け、背骨まで震わせる。同時に、剣を握る右腕が肘まで痺れた。踏み込んでいた足が止まり、剣と盾の両方を押し開かれたまま後ろへ弾かれる。
靴底で土を削り、二歩目で止まる。
目の前には、闇を纏ったヴェルナが立っている。双剣を低く構え、真紅の瞳をクラウディアへ向けていた。
クラウディアは大盾を上げ直す。ヴェルナが消えた。そう見えるほど低く、速い踏み込みだった。
一撃目が盾を打つ。黒紫の闇を纏った刃が、大盾を覆う光へ食い込み、その輝きを大きく揺らした。二撃目は盾の下を回って右足首へ伸びる。クラウディアは剣を地面すれすれに差し込み、切っ先を外へ滑らせた。
三撃目がすでに右肩へ迫っている。肩を守っていた光で受ける。鎧の上を火花が走った。闇を纏った刃はその輝きを削り、肩口へ細い赤を残して離れた。
クラウディアは退かず、大盾の縁をヴェルナの胸へ打ち込む。ヴェルナは双剣を交差させたが、衝撃を消し切れず、身体が後ろへ流れた。
すぐさまクラウディアは距離を詰め、剣で胴を薙ぐ。ヴェルナは交差させていた片方の刃を返して受けた。もう片方は大盾を押さえたまま動かせない。剣と盾に挟まれ、ヴェルナの身体がさらに後ろへ滑った。
追えば届く。だが、クラウディアは傷ついたヴェルナを追わず、アリアへ向きを変えた。
だが、ヴェルナもすぐさま肉薄し、右の刃が脇腹へ滑り込む。
脇腹を覆う光が刃を受け止めた。しかし、完全には弾けない。闇の切っ先がそれを押し退け、鎧の継ぎ目から肉へ浅く入る。
熱が走る。それでも、アリアへ進めるなら問題はなかった。
左腕を畳み、大盾の内側へヴェルナの右手ごと押し込む。刃を抜かせないまま、剣を左肩へ振り下ろした。
ヴェルナは身体を捻る。切っ先が軽鎧を浅く裂き、低くなった身体から膝が跳ね上がって盾の中心を打った。
衝撃が大盾を覆う光の中に散る。クラウディアは盾を上げたまま、空いた右足で踏み込んだ。
剣の柄頭を、ヴェルナの頬へ打ち込む。
ヴェルナは顔を逸らした。柄頭が頬骨をかすめ、白い肌に赤い線が走る。その動きのまま身体を回し、押さえられていた右腕を盾の外へ抜いた。
左の刃が、クラウディアの右前腕へ迫る。腕を引けば避けられるが、それではアリアが遠ざかる。
クラウディアは腕を引かず、右前腕を守る光で刃を受けた。輝きが弾け、外套と籠手が裂ける。皮膚にも赤い筋が走ったが、剣は落とさない。
斬撃を受けたまま剣を返す。クラウディアの切っ先が、ヴェルナの左腕の軽鎧を浅く裂いた。
互いの光と闇が弾け、二人の身体が離れる。クラウディアは体勢を立て直すと同時にアリアへ向いたが、その先にはヴェルナがすでに立っていた。
闇は少しも衰えていない。肩と腕にはクラウディアが残した赤がある。それでも、双剣の切っ先は揺れず、二本ともクラウディアへ向けられていた。
「クラウディア、やめろ!」
ユリスの声が背中へ突き刺さった。だが足を止めず、振り返らずに答えた。
「ユリス、動くな。傷が開く」
「俺の傷の話じゃない! 何してるんだ!」
その声に、胸の奥が痛んだ。
昔と変わらない声だった。小さな身体で木剣を抱え、いつか隣で戦うと言ってくれた少年の声。ずっと守りたかったものが、ここにある。
だから、クラウディアは剣を下ろさなかった。
「リーナ。ユリスを治してくれ」
「クラウディアさん、まず剣を――」
「早く」
低く告げたとき、ヴェルナが距離を詰め、黒紫の闇を纏った双剣が左右から大盾へ襲いかかる。
左からの刃を大盾で受け、右からの刃を剣で弾く。盾の上端へ落ちた斬撃を外へ流し、その下を回る切っ先を剣の腹で掬い上げた。剣と盾を休みなく打たれ、両腕へ痺れが重なっていく。
防ぐだけでは、アリアへ近づけない。次の斬撃を盾で外へ弾き、戻る刃より早く前へ出る。大盾をヴェルナの左肩へぶつけ、同時に剣を横へ払った。
「……チッ」
ヴェルナは地面へ手をつくほど深く身を沈めた。剣が頭上を通り過ぎる頃には片足を軸に身体を回し、右の刃をクラウディアの膝裏へ滑らせていた。
闇の刃が食い込み、脚を守っていた光が大きく波打った。
膝が落ちかける。大盾の下端を地面へ突き立て、倒れる身体を支えた。そのまま盾を軸にして身体を回し、ヴェルナを蹴り飛ばした。
アリアまでの線が開き、クラウディアは前へ出た。
受身を取り、すぐさま体勢を立て直したヴェルナが追いついた。双剣の一方が肩を打ち、もう一方が太腿の外側へ走った。守りの輝きが弾ける。防ぎきれなかった刃先が肉を裂き、血が靴の中へ流れ込んだ。
それでも、足は止まらない。あと二歩。
アリアはリーナに腕を支えられたまま、クラウディアを見ていた。青い瞳は大きく見開かれ、理由を求めるように揺れている。
クラウディアは剣を握り直し、ヴェルナが背後から追いつくより先に、その剣を振り上げた。そのとき、革帯を掴まれた。
「もうやめろ。これは俺が望んだ戦いだ」
ユリスの左手だった。胸の傷を押さえていたため、指には血がついている。息も荒い。それでも、革帯を掴む力は強かった。
クラウディアは盾越しにユリスを見た。
「俺が、アリアに追いつきたいと願った。次は絶対に、あいつに本気で――」
「だからだ、ユリス」
声は、驚くほど静かに出た。
クラウディアは左腕をゆっくり返した。掴んでいた指が一本ずつほどけていく。傷ついた身体を引き倒さないように。
「クラウディア、俺の話を――」
「ユリスは、もう剣を握らなくていい」
最後の指が離れる。ユリスの意思を聞いたうえで、クラウディアは背を向けた。
ヴェルナがアリアとの間に立っている。呼吸は先ほどより深く、頬と左腕には傷がある。それでも双剣を覆う闇は衰えず、真紅の瞳からも戦意は消えていなかった。
クラウディアも剣を上げた。
全身を包む光が明滅する。肩、脇腹、前腕、太腿。闇の刃に削られた箇所から血が流れ、纏う祝福にも細かな揺らぎが生まれている。
まだ動ける。アリアへ届くまで、あと一度だけヴェルナを越えればいい。クラウディアは地面を蹴った。
ヴェルナの右の刃は低く、左の刃は胸元にある。その二つの軌道の間に、アリアへ抜ける細い道が見えた。
大盾で低い刃を押さえ、剣で胸元の刃を外へ弾けば、そのままアリアへ届く。
これまで一度もなかった道だ。罠だと分かった。それでも、そこにしか道はない。クラウディアは大盾を前へ突き出した。
左の短剣へ剣を合わせようとした瞬間、その刃が軌道を変えて盾の表面を滑った。黒紫の闇が、大盾を覆う光を大きく削る。右の刃は低く沈み、傷ついた太腿を正確に裂いた。太腿を守っていた光が一度は防いだが、消耗した輝きは押し切られ、切っ先が肉へ入った。
膝から力が抜ける。倒れる前に大盾を地面へ突き、片足で身体を前へ投げた。
ヴェルナの肩へ盾が当たる。正面から受けたはずの身体が、抵抗なく横へ流れた。
退かしたのではない。最初から通されたのだ。
気づいたときには、ヴェルナの左の短剣が大盾の上端にかかっていた。クラウディアの勢いをそのまま使い、刃を引いて大盾を外へ逸らす。開いた右側へ、右の短剣の柄頭が迫り、硬い一撃がこめかみをとらえた。視界が白く弾けたが、それでも剣は離さない。アリアはすぐ前にいる。
クラウディアは崩れた姿勢から剣を伸ばした。狙うのは右肩。最初に断つはずだった場所へ、今度こそ切っ先を届かせる。
アリアは動かなかった。青い瞳を見開いたまま、迫る剣を見ている。あと、指二本分。
「クラウディア!」
ユリスの声と同時に、右手から剣の重みが消えた。
ヴェルナの右の短剣が鍔元へ入り、クラウディアの剣を上空へ弾き飛ばしている。回転する白い刃が、木々の隙間の空を切った。
左手の大盾を振る。
ヴェルナは身を沈めてかわし、懐へ入った。真紅の瞳が、すぐ近くにある。
クラウディアは盾を捨てなかった。押し切れば、まだアリアへ届く。左腕へ残った力をすべて込める。
全身を包んでいた祝福が、最後の力を振り絞るように白く燃え上がった。
その盾が動くより早く、黒紫の闇を纏ったヴェルナの左腕が跳ね上がり、短剣の柄頭が顎の下へ突き上がる。
祝福の光でも衝撃を散らしきれず、歯が鳴り、視界が跳ねた。
白銀の光が砕けるように散った。
膝から力が抜けていく。クラウディアは大盾を杖にして踏みとどまった。
アリアの赤い髪が滲む。その向こうで、胸を血で濡らしたユリスの唇が動いていた。何を言っているのか、もう聞こえない。
それでも、ユリスの姿だけは最後まで消えなかった。
──もう、自分を傷つけるのはやめてくれ。
ユリスへ向かって、もう一歩だけ踏み出そうとした。
だが、右足が土を踏むより早く、視界が黒く塗り潰された。