勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。 作:激重感情
いつから、アリアに勝ちたいと思うようになったのか。そう問われれば、答えは決まっている。
あの日だ。
アリア・ルミナスが勇者の祝福に目覚めた日。そして俺が、初めて自分は“守られる側”なのだと思い知らされた日。
幼い頃の俺は、今よりずっと単純だった。剣を振れば強くなれる。身体を鍛えれば誰かを守れる。努力すれば、いつかどんな相手にも負けなくなる。そう信じていた。いや、信じたかったのだと思う。
その日、俺とアリアは王都近郊の森にいた。王立聖戦学園に入る何年も前。まだ俺たちが、勇者候補でも戦技科生でもなく、ただの幼馴染だった頃の話だ。
森は穏やかだった。木漏れ日が地面に斑模様を作り、柔らかな風が草を揺らしている。遠くで鳥が鳴き、小川のせせらぎが耳に届く。今思えば、子供二人だけで入るには十分危険な場所だった。けれど当時の俺は、危険というものをよく分かっていなかった。腰に下げていたのは、子供用の短い木剣。訓練用ですらない、遊び道具のようなもの。それでも俺は、胸を張っていた。
「アリア、俺から離れるなよ!」
「ユリス、本当に大丈夫?」
隣を歩くアリアは、今よりも幼く、少し気弱だった。陽光のような金髪は短く、蒼い瞳は不安げに揺れていた。今のような勇者候補の風格はない。剣を握る手も頼りなく、何かあるたびに俺の袖を掴んでいた。
「大丈夫、俺がいるから!」
「でも、大人の人たちから、遠くに行っちゃ駄目って……」
「すぐ戻るから大丈夫だって!」
「本当に?」
「うん! もし魔物が出ても、俺が倒す!」
そう言って、俺は木剣の柄を叩いた。アリアは心配そうに俺を見上げる。
「ユリス、怪我しない?」
「しないよ、俺は強いからな!」
「……うん。ユリスは強いもんね」
アリアが小さく笑う。
その笑顔を見て、胸の奥が温かくなった。俺は本気で、アリアを守れると思っていた。彼女が怯えているなら、自分が前に立てばいい。彼女が泣きそうなら、自分が笑えばいい。彼女に何かが迫るなら、自分が剣を振ればいい。子供らしい、何の裏付けもない自信だった。
だが、その時の俺にとっては、それが世界のすべてだった。
しばらく森を進んだところで、空気が変わった。鳥の声が消えた。風の音も止んだ。草むらの奥から、濁った呼吸音が聞こえる。俺は足を止めた。
「ユリス……?」
アリアの声が震えていた。俺は木剣の柄に手をかける。
「さ、下がってろ!」
声が震えないように言った。
正直に言えば、この時点で怖かった。背中に冷たい汗が流れ、木剣を握る手が湿っていた。けれど、アリアの前で怖がるわけにはいかなかった。俺は男だ。アリアを守ると言った。なら、前に立つしかない。
草むらが大きく揺れる。次の瞬間、そこから黒い獣が現れた。狼に似ていた。だが、普通の狼ではない。体は子供の俺の何倍も大きく、背中からは歪な角のような骨が突き出ていた。口元からは黒い涎が垂れ、黄色い目は飢えたように俺たちを見ている。
魔物。
それを見た瞬間、本能で理解した。これは木剣でどうにかなる相手ではない。逃げるべきだ。大人を呼ぶべきだ。アリアを連れて、一目散に走るべきだ。頭では分かっていた。だが、足は動かなかった。恐怖で固まっていたのではない。
後ろにアリアがいたからだ。
「アリア走れ!」
「だ、駄目だよ! 一緒に――」
「いいから走れ!」
初めて、アリアに怒鳴った。彼女の肩がびくりと震える。胸が痛んだ。だが、それでも俺は前を向く。魔物が低く唸った。獲物を見つけた獣の目。それが、俺を見ている。
俺は木剣を握りしめた。手のひらが痛い。心臓がうるさい。怖い。怖くて、今すぐ逃げ出したい。だが、ここで逃げたら、何のために剣を振ってきたのか分からない。俺は誰かを守れる人間になりたかった。アリアを守りたかった。
なら、今だ。今、前に出なくてどうする。
「……来いよ」
声は震えていた。けれど、確かに言った。
「アリアには触らせない!」
魔物が地面を蹴った。速かった。目で追えないほどではない。
だが、子供の身体では反応しきれない。俺は木剣を振った。渾身の一撃だった。
けれど、それは魔物の前脚に簡単に弾かれた。
木剣が手から飛ぶ。その瞬間、魔物の爪が俺の身体を薙いだ。
「が、っ……!」
痛みより先に、衝撃が来た。身体が宙に浮き、背中から木の幹に叩きつけられる。息が止まった。視界が赤く染まる。何が起きたのか分からない。立たなければ。アリアを守らなければ。そう思うのに、身体が動かない。手足に力が入らない。腹の奥が焼けるように熱い。薄い服が血で濡れていくのが分かった。
「ユリス!」
アリアの悲鳴が聞こえた。来るな。逃げろ。そう言いたかった。だが、声が出ない。魔物が俺に近づく。俺は指先だけを動かした。木剣は遠くに転がっている。届かない。届くはずがない。
魔物の牙が見えた。
その時だった。
「やめて……」
小さな声がした。アリアだった。彼女は逃げていなかった。震えながら、泣きながら、それでも俺と魔物の間に立っていた。細い手で、木剣を握っている。構えは滅茶苦茶だった。足は震えている。今にも崩れ落ちそうだった。
それでも、アリアは俺の前に立っていた。
「ユリスを……」
彼女の声が震える。
「ユリスを、傷つけないで……!」
次の瞬間、光が爆ぜた。
森全体が白く染まった。眩しくて、何も見えなくなる。ただ、温かい光だった。恐怖を押し流し、傷の痛みすら遠ざける、圧倒的な光。魔物の咆哮が聞こえた。次いで、何かが裂ける音。そして静寂。
光が収まった時、魔物は倒れていた。
その前に立っていたのは、アリアだった。彼女の手には、先ほどまでの木剣ではなく、光で形作られた剣が握られていた。小さな身体を包むように、女神の祝福が輝いている。金の髪が光を帯び、蒼い瞳には涙が浮かんでいた。
あまりにも美しかった。あまりにも眩しかった。
俺はその光景を、地面に倒れたまま見ていた。
「ユリス!」
アリアは光の剣を消し、俺の元へ駆け寄る。泣きながら、俺の身体を抱きしめた。
「ユリス、やだ、死なないで……!」
俺は返事をしようとした。大丈夫だ。俺は強いから。そう言いたかった。けれど、声は出なかった。視界が暗くなる。意識が沈んでいく。
最後に見たのは、泣きじゃくるアリアの顔だった。
◇
目が覚めた時、俺は白い天井を見ていた。
身体中が痛かった。けれど、生きていた。治療院のベッドの上。周りには大人たちがいて、誰もが安堵と興奮を浮かべていた。そして、口々にアリアを称えていた。
「勇者の祝福だ」
「間違いない。女神があの子を選ばれた!」
「魔物を一撃で祓ったそうだ」
「幼くして、なんという光だ……」
「エウリア聖王国に、新たな勇者候補が現れたぞ!」
――勇者。
その言葉が、部屋の中で何度も繰り返された。女神の祝福は、女性にのみ宿る。その中でも、勇者の祝福は特別だった。人々の希望。魔を討つ光。国を守る剣。
その日、アリアは選ばれた。
勇者になった。
アリアは部屋の隅にいた。目を赤く腫らし、不安そうに俺を見ている。俺と目が合うと、彼女は泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「ユリス……!」
「アリア」
声は掠れていた。だが、何とか言えた。
「無事、か……?」
アリアの顔がくしゃりと歪む。
「それは、私の台詞だよ……」
そう言って、彼女はまた泣いた。俺は手を伸ばそうとした。けれど、包帯だらけの腕は上手く動かなかった。代わりに、大人の一人が穏やかに言った。
「ユリス君、君もよく頑張った」
優しい声だった。
「怖かっただろう。もう無理をしてはいけないよ」
別の大人が続ける。
「君は男の子なのだから」
部屋の空気が、少しだけ柔らかくなった。誰も悪意を持っていなかった。皆、俺を労っていた。命が助かったことを喜んでくれていた。それなのに、その言葉は俺の胸に沈んだ。
「これからは、アリア様が君を守ってくださる」
「勇者の祝福は、弱き者を守るための力だからね」
「君は守られる側でいいんだ」
守られる側。
その言葉が、やけにはっきりと聞こえた。
俺はアリアを守りたかった。でも、何もできなかった。魔物に吹き飛ばされ、地面に転がり、最後はアリアに救われた。事実だけを並べれば、それだけだった。
俺は生きている。アリアが救ってくれたから。感謝している。その気持ちは嘘ではない。アリアがいなければ、俺は死んでいた。
「ありがとう、アリア」
アリアは泣きながら首を振った。
「ユリスが生きててよかった」
その言葉に、胸が温かくなった。
けれど同時に、別の何かが胸の奥で軋んだ。
――あの日、アリアは勇者になった。
そして俺は、“勇者に守られた男”になった。
それから世界の見え方が変わった。大人たちはアリアを見る目を変えた。期待。敬意。畏れ。希望。彼女は女神に選ばれた存在として扱われるようになった。
一方、俺を見る目も変わった。優しくなった。より丁寧になった。より慎重になった。まるで、一度割れかけた宝石を扱うように。
俺が剣を握ろうとすると、誰かが止めた。危ないから。無理をしなくていいから。アリアが守ってくれるから。君は男の子なのだから。その言葉に、俺は何度も頷いた。
頷きながら、夜になると木剣を握った。
こっそり庭に出て、傷が痛む身体で剣を振った。振るたびに傷が疼いた。息が上がった。涙が出そうになった。それでも、やめなかった。
アリアに感謝している。アリアを憎んでなどいない。むしろ、彼女は俺にとって一番大切な幼馴染だった。
だからこそ、勝ちたかった。
救われたままで終わりたくなかった。
守られる側であり続けることに、耐えられなかった。
どれほど月日が流れても、あの日の光景は消えない。
魔物の爪。地面に倒れた自分。泣きながら前に立ったアリア。そして、彼女の手に生まれた光の剣。
あれは、俺にとって救いだった。そして同時に、呪いでもあった。
王立聖戦学園の第三訓練場。
夕暮れの中、俺は一人で木剣を振っていた。第二の鐘が鳴り、生徒たちの声が遠ざかっていく。空は赤く染まり、白亜の校舎の影が長く伸びていた。
一振り。また一振り。汗が顎を伝い、石畳に落ちる。腕は重い。足も限界に近い。それでも、剣を振る。
アリアは今も強い。あの日、勇者の祝福に目覚めた彼女は、学園に入ってからも成長し続けている。努力を怠らない。才能に甘えない。誰よりも真剣に剣を振り、誰よりもまっすぐに前へ進んでいる。
だから、差は縮まらない。むしろ開いていく。俺が一歩進む間に、アリアは二歩も三歩も先へ行く。その現実を、何度も思い知らされてきた。
それでも、
「……諦めてたまるか」
声が漏れた。小さく、掠れた声。
「どんなに不格好でもいい。死に物狂いで食らいついてやる」
俺は剣を握り直す。
目の前には誰もいない。けれど、俺には見えていた。光を纏い、剣を構えるアリアの姿が。俺を守るためではなく。俺を気遣うためでもなく。本気で、俺を倒すために剣を向けてくるアリアの姿が。
それが見たい。
その前に立ちたい。
勇者の隣ではなく。勇者の後ろでもなく。勇者の前に。一人の戦士として。敵としてでもいい。アリアが本気で俺を見てくれるなら。
「俺は……」
剣を振り上げる。夕陽が視界に滲む。あの日、俺は命を救われた。代わりに、誇りを失った。ならば、取り戻す。どれだけ時間がかかっても。どれだけ届かなくても。この手で、必ず。
「俺は──勇者に勝つ」
その願いであり、決意だった。
やがて日が沈みかけ、第三訓練場にも夜の気配が落ち始めた。俺は荒い息を吐きながら木剣を下ろす。リーナには激しい訓練は禁止だと言われていた。クラウディアにも、自分を大事にしろと言われていた。エルネアなら、今日の負荷量は明らかに過剰だと記録するだろう。
分かっている。
分かっていても、やめられなかった。
俺は木剣を片づけ、第三訓練場を後にする。
寮へ戻るには、中央広場を抜けるのが一番早い。もう皆帰ってしまったのか、夕暮れの広場に人影はなかった。
いつもの魔王像が見えてくる。その足元に突き立てられた、黒い剣。普段なら、気にせず通り過ぎるだけの景色だった。けれど、その日は違った。なぜか、足が止まった。
「……」
黒い剣が目に入る。夕陽を受けた刀身は、光を弾くのではなく、飲み込んでいるように見えた。妙に、視線が離れない。胸の奥がざわつく。剣を握っていた手が、まだ熱を持っている。
俺はゆっくりと息を吐いた。疲れているのだと思った。無理をしすぎたのだと。だから、古い飾りの剣が妙に気になっているだけだと。
そう思って、歩き出そうとした。
その時――
『──力が欲しいか?』
それは低く、深く、骨の奥まで響くような声だった。