勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。   作:激重感情

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003 原点。

 いつから、アリアに勝ちたいと思うようになったのか。そう問われれば、答えは決まっている。

 

 あの日だ。

 

 アリア・ルミナスが勇者の祝福に目覚めた日。そして俺が、初めて自分は“守られる側”なのだと思い知らされた日。

 

 幼い頃の俺は、今よりずっと単純だった。剣を振れば強くなれる。身体を鍛えれば誰かを守れる。努力すれば、いつかどんな相手にも負けなくなる。そう信じていた。いや、信じたかったのだと思う。

 

 その日、俺とアリアは王都近郊の森にいた。王立聖戦学園に入る何年も前。まだ俺たちが、勇者候補でも戦技科生でもなく、ただの幼馴染だった頃の話だ。

 

 森は穏やかだった。木漏れ日が地面に斑模様を作り、柔らかな風が草を揺らしている。遠くで鳥が鳴き、小川のせせらぎが耳に届く。今思えば、子供二人だけで入るには十分危険な場所だった。けれど当時の俺は、危険というものをよく分かっていなかった。腰に下げていたのは、子供用の短い木剣。訓練用ですらない、遊び道具のようなもの。それでも俺は、胸を張っていた。

 

「アリア、俺から離れるなよ!」

「ユリス、本当に大丈夫?」

 

 隣を歩くアリアは、今よりも幼く、少し気弱だった。陽光のような金髪は短く、蒼い瞳は不安げに揺れていた。今のような勇者候補の風格はない。剣を握る手も頼りなく、何かあるたびに俺の袖を掴んでいた。

 

「大丈夫、俺がいるから!」

「でも、大人の人たちから、遠くに行っちゃ駄目って……」

「すぐ戻るから大丈夫だって!」

「本当に?」

「うん! もし魔物が出ても、俺が倒す!」

 

 そう言って、俺は木剣の柄を叩いた。アリアは心配そうに俺を見上げる。

 

「ユリス、怪我しない?」

「しないよ、俺は強いからな!」

「……うん。ユリスは強いもんね」

 

 アリアが小さく笑う。

 その笑顔を見て、胸の奥が温かくなった。俺は本気で、アリアを守れると思っていた。彼女が怯えているなら、自分が前に立てばいい。彼女が泣きそうなら、自分が笑えばいい。彼女に何かが迫るなら、自分が剣を振ればいい。子供らしい、何の裏付けもない自信だった。

 

 だが、その時の俺にとっては、それが世界のすべてだった。

 

 しばらく森を進んだところで、空気が変わった。鳥の声が消えた。風の音も止んだ。草むらの奥から、濁った呼吸音が聞こえる。俺は足を止めた。

 

「ユリス……?」

 

 アリアの声が震えていた。俺は木剣の柄に手をかける。

 

「さ、下がってろ!」

 

 声が震えないように言った。

 正直に言えば、この時点で怖かった。背中に冷たい汗が流れ、木剣を握る手が湿っていた。けれど、アリアの前で怖がるわけにはいかなかった。俺は男だ。アリアを守ると言った。なら、前に立つしかない。

 草むらが大きく揺れる。次の瞬間、そこから黒い獣が現れた。狼に似ていた。だが、普通の狼ではない。体は子供の俺の何倍も大きく、背中からは歪な角のような骨が突き出ていた。口元からは黒い涎が垂れ、黄色い目は飢えたように俺たちを見ている。

 

 魔物。

 

 それを見た瞬間、本能で理解した。これは木剣でどうにかなる相手ではない。逃げるべきだ。大人を呼ぶべきだ。アリアを連れて、一目散に走るべきだ。頭では分かっていた。だが、足は動かなかった。恐怖で固まっていたのではない。

 後ろにアリアがいたからだ。

 

「アリア走れ!」

「だ、駄目だよ! 一緒に――」

「いいから走れ!」

 

 初めて、アリアに怒鳴った。彼女の肩がびくりと震える。胸が痛んだ。だが、それでも俺は前を向く。魔物が低く唸った。獲物を見つけた獣の目。それが、俺を見ている。

 俺は木剣を握りしめた。手のひらが痛い。心臓がうるさい。怖い。怖くて、今すぐ逃げ出したい。だが、ここで逃げたら、何のために剣を振ってきたのか分からない。俺は誰かを守れる人間になりたかった。アリアを守りたかった。

 なら、今だ。今、前に出なくてどうする。

 

「……来いよ」

 

 声は震えていた。けれど、確かに言った。

 

「アリアには触らせない!」

 

 魔物が地面を蹴った。速かった。目で追えないほどではない。

 だが、子供の身体では反応しきれない。俺は木剣を振った。渾身の一撃だった。

 けれど、それは魔物の前脚に簡単に弾かれた。

 木剣が手から飛ぶ。その瞬間、魔物の爪が俺の身体を薙いだ。

 

「が、っ……!」

 

 痛みより先に、衝撃が来た。身体が宙に浮き、背中から木の幹に叩きつけられる。息が止まった。視界が赤く染まる。何が起きたのか分からない。立たなければ。アリアを守らなければ。そう思うのに、身体が動かない。手足に力が入らない。腹の奥が焼けるように熱い。薄い服が血で濡れていくのが分かった。

 

「ユリス!」

 

 アリアの悲鳴が聞こえた。来るな。逃げろ。そう言いたかった。だが、声が出ない。魔物が俺に近づく。俺は指先だけを動かした。木剣は遠くに転がっている。届かない。届くはずがない。

 魔物の牙が見えた。

 その時だった。

 

「やめて……」

 

 小さな声がした。アリアだった。彼女は逃げていなかった。震えながら、泣きながら、それでも俺と魔物の間に立っていた。細い手で、木剣を握っている。構えは滅茶苦茶だった。足は震えている。今にも崩れ落ちそうだった。

 それでも、アリアは俺の前に立っていた。

 

「ユリスを……」

 

 彼女の声が震える。

 

「ユリスを、傷つけないで……!」

 

 次の瞬間、光が爆ぜた。

 森全体が白く染まった。眩しくて、何も見えなくなる。ただ、温かい光だった。恐怖を押し流し、傷の痛みすら遠ざける、圧倒的な光。魔物の咆哮が聞こえた。次いで、何かが裂ける音。そして静寂。

 光が収まった時、魔物は倒れていた。

 その前に立っていたのは、アリアだった。彼女の手には、先ほどまでの木剣ではなく、光で形作られた剣が握られていた。小さな身体を包むように、女神の祝福が輝いている。金の髪が光を帯び、蒼い瞳には涙が浮かんでいた。

 あまりにも美しかった。あまりにも眩しかった。

 俺はその光景を、地面に倒れたまま見ていた。

 

「ユリス!」

 

 アリアは光の剣を消し、俺の元へ駆け寄る。泣きながら、俺の身体を抱きしめた。

 

「ユリス、やだ、死なないで……!」

 

 俺は返事をしようとした。大丈夫だ。俺は強いから。そう言いたかった。けれど、声は出なかった。視界が暗くなる。意識が沈んでいく。

 最後に見たのは、泣きじゃくるアリアの顔だった。

 

 ◇

 

 目が覚めた時、俺は白い天井を見ていた。

 身体中が痛かった。けれど、生きていた。治療院のベッドの上。周りには大人たちがいて、誰もが安堵と興奮を浮かべていた。そして、口々にアリアを称えていた。

 

「勇者の祝福だ」

「間違いない。女神があの子を選ばれた!」

「魔物を一撃で祓ったそうだ」

「幼くして、なんという光だ……」

「エウリア聖王国に、新たな勇者候補が現れたぞ!」

 

 ――勇者。

 

 その言葉が、部屋の中で何度も繰り返された。女神の祝福は、女性にのみ宿る。その中でも、勇者の祝福は特別だった。人々の希望。魔を討つ光。国を守る剣。

 その日、アリアは選ばれた。

 勇者になった。

 アリアは部屋の隅にいた。目を赤く腫らし、不安そうに俺を見ている。俺と目が合うと、彼女は泣きそうな顔で駆け寄ってきた。

 

「ユリス……!」

「アリア」

 

 声は掠れていた。だが、何とか言えた。

 

「無事、か……?」

 

 アリアの顔がくしゃりと歪む。

 

「それは、私の台詞だよ……」

 

 そう言って、彼女はまた泣いた。俺は手を伸ばそうとした。けれど、包帯だらけの腕は上手く動かなかった。代わりに、大人の一人が穏やかに言った。

 

「ユリス君、君もよく頑張った」

 

 優しい声だった。

 

「怖かっただろう。もう無理をしてはいけないよ」

 

 別の大人が続ける。

 

「君は男の子なのだから」

 

 部屋の空気が、少しだけ柔らかくなった。誰も悪意を持っていなかった。皆、俺を労っていた。命が助かったことを喜んでくれていた。それなのに、その言葉は俺の胸に沈んだ。

 

「これからは、アリア様が君を守ってくださる」

「勇者の祝福は、弱き者を守るための力だからね」

「君は守られる側でいいんだ」

 

 守られる側。

 その言葉が、やけにはっきりと聞こえた。

 俺はアリアを守りたかった。でも、何もできなかった。魔物に吹き飛ばされ、地面に転がり、最後はアリアに救われた。事実だけを並べれば、それだけだった。

 俺は生きている。アリアが救ってくれたから。感謝している。その気持ちは嘘ではない。アリアがいなければ、俺は死んでいた。

 

「ありがとう、アリア」

 

 アリアは泣きながら首を振った。

 

「ユリスが生きててよかった」

 

 その言葉に、胸が温かくなった。

 けれど同時に、別の何かが胸の奥で軋んだ。

 

 ――あの日、アリアは勇者になった。

 

 そして俺は、“勇者に守られた男”になった。

 それから世界の見え方が変わった。大人たちはアリアを見る目を変えた。期待。敬意。畏れ。希望。彼女は女神に選ばれた存在として扱われるようになった。

 一方、俺を見る目も変わった。優しくなった。より丁寧になった。より慎重になった。まるで、一度割れかけた宝石を扱うように。

 俺が剣を握ろうとすると、誰かが止めた。危ないから。無理をしなくていいから。アリアが守ってくれるから。君は男の子なのだから。その言葉に、俺は何度も頷いた。

 頷きながら、夜になると木剣を握った。

 こっそり庭に出て、傷が痛む身体で剣を振った。振るたびに傷が疼いた。息が上がった。涙が出そうになった。それでも、やめなかった。

 アリアに感謝している。アリアを憎んでなどいない。むしろ、彼女は俺にとって一番大切な幼馴染だった。

 

 だからこそ、勝ちたかった。

 救われたままで終わりたくなかった。

 守られる側であり続けることに、耐えられなかった。

 

 どれほど月日が流れても、あの日の光景は消えない。

 魔物の爪。地面に倒れた自分。泣きながら前に立ったアリア。そして、彼女の手に生まれた光の剣。

 あれは、俺にとって救いだった。そして同時に、呪いでもあった。

 

 王立聖戦学園の第三訓練場。

 夕暮れの中、俺は一人で木剣を振っていた。第二の鐘が鳴り、生徒たちの声が遠ざかっていく。空は赤く染まり、白亜の校舎の影が長く伸びていた。

 一振り。また一振り。汗が顎を伝い、石畳に落ちる。腕は重い。足も限界に近い。それでも、剣を振る。

 アリアは今も強い。あの日、勇者の祝福に目覚めた彼女は、学園に入ってからも成長し続けている。努力を怠らない。才能に甘えない。誰よりも真剣に剣を振り、誰よりもまっすぐに前へ進んでいる。

 だから、差は縮まらない。むしろ開いていく。俺が一歩進む間に、アリアは二歩も三歩も先へ行く。その現実を、何度も思い知らされてきた。

 

 それでも、

 

「……諦めてたまるか」

 

 声が漏れた。小さく、掠れた声。

 

「どんなに不格好でもいい。死に物狂いで食らいついてやる」

 

 俺は剣を握り直す。

 目の前には誰もいない。けれど、俺には見えていた。光を纏い、剣を構えるアリアの姿が。俺を守るためではなく。俺を気遣うためでもなく。本気で、俺を倒すために剣を向けてくるアリアの姿が。

 

 それが見たい。

 その前に立ちたい。

 

 勇者の隣ではなく。勇者の後ろでもなく。勇者の前に。一人の戦士として。敵としてでもいい。アリアが本気で俺を見てくれるなら。

 

「俺は……」

 

 剣を振り上げる。夕陽が視界に滲む。あの日、俺は命を救われた。代わりに、誇りを失った。ならば、取り戻す。どれだけ時間がかかっても。どれだけ届かなくても。この手で、必ず。

 

「俺は──勇者に勝つ」

 

 その願いであり、決意だった。

 やがて日が沈みかけ、第三訓練場にも夜の気配が落ち始めた。俺は荒い息を吐きながら木剣を下ろす。リーナには激しい訓練は禁止だと言われていた。クラウディアにも、自分を大事にしろと言われていた。エルネアなら、今日の負荷量は明らかに過剰だと記録するだろう。

 分かっている。

 分かっていても、やめられなかった。

 

 俺は木剣を片づけ、第三訓練場を後にする。

 寮へ戻るには、中央広場を抜けるのが一番早い。もう皆帰ってしまったのか、夕暮れの広場に人影はなかった。

 いつもの魔王像が見えてくる。その足元に突き立てられた、黒い剣。普段なら、気にせず通り過ぎるだけの景色だった。けれど、その日は違った。なぜか、足が止まった。

 

「……」

 

 黒い剣が目に入る。夕陽を受けた刀身は、光を弾くのではなく、飲み込んでいるように見えた。妙に、視線が離れない。胸の奥がざわつく。剣を握っていた手が、まだ熱を持っている。

 俺はゆっくりと息を吐いた。疲れているのだと思った。無理をしすぎたのだと。だから、古い飾りの剣が妙に気になっているだけだと。

 そう思って、歩き出そうとした。

 

 その時――

 

『──力が欲しいか?』

 

 それは低く、深く、骨の奥まで響くような声だった。

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