勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。   作:激重感情

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004 魔王メルギドス。

『──力が欲しいか?』

 

 低く、深く、骨の奥まで響くような声だった。

 俺は息を止めた。思わず辺りを見渡すが、夕暮れの中央広場に人の姿はない。昼間は生徒たちの声で満ちている場所も、今は嘘のように静まり返っている。遠くの校舎から、寮へ戻る生徒たちの足音がかすかに聞こえるだけだ。

 風が吹く。制服の裾が揺れる。魔王像の足元に突き立てられた黒い剣は、夕陽の中で鈍く沈んでいた。

 

「……だ、誰だ」

 

 俺は木剣を握り直す。意味がないことは分かっていた。声は目の前の誰かから聞こえたわけではない。広場には誰もいない。魔王像も、黒い剣も、ただそこにあるだけだ。だが、確かに聞こえた。耳元ではない。頭の中でもない。もっと深い場所。胸の奥に、直接声を落とされたような感覚だった。

 

『問うているのは我だ。答えよ――ユリス・アステル』

 

 俺の名を呼ばれた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 

「なぜ……俺の名を知っている?」

『知っているとも。貴様は、毎日のようにここを通っていたからな』

「……まさか、剣が喋っているのか?」

『ようやく気づいたか』

 

 その声には、どこか呆れたような響きがあった。

 俺は黒い剣を見つめる。学園の中央広場に、ずっと飾られていた剣。入学式の時に説明を受けた。魔王の脅威を忘れないための記念物。かつて魔王が使ったとされる剣。ただし、あまりにも古い時代のものだから、本物かどうかも怪しい。生徒たちは誰も気にしていない。俺も同じだった。

 ただの飾りだと思っていた。

 その剣が、今、俺に語りかけている。馬鹿げている。疲れて幻聴でも聞いているのかと思った。

 

「……俺は疲れているらしい」

『現実逃避が早いな』

 

 剣が喋った。

 いや、喋っていない。喋ったように聞こえただけだ。

 剣は喋らない。常識だ。そんな常識まで失った覚えはない。

 

「剣が喋るわけない……俺は疲れているんだ……」

『ならば、疲労のせいにして通り過ぎるがいい。貴様がその程度なら、我も貴様に用はない』

 

 声が笑う。

 低く、深く、俺の中を撫でるように。

 

『――だが、最後にもう一度だけ問うてやる』

 

 黒い剣の周囲で、影が揺れた。

 夕陽に伸びる魔王像の影が、まるで生き物のように石畳の上を這う。

 

『力が欲しいか?』

 

 二度目の問い。

 その瞬間、喉が乾いた。誘惑だった。慈悲ではない。救いでもない。優しい手でもない。俺の中に沈んでいた願いを、無理やり引きずり出すような声だった。

 

「……欲しい」

 

 気づけば、答えていた。迷いはなかった。ここで嘘をつく意味などない。欲しい。力が欲しい。アリアに届く力が。勇者の前に立てる力が。守られる側ではなく、一人の戦士として見られるための力が。

 

『なぜだ?』

 

 声はさらに問う。

 俺は黒い剣を睨んだ。

 

「……勇者に……勝つためだ」

『勇者とは、アリア・ルミナスのことか』

「……そうだ」

『命の恩人だろう』

 

 その言葉に、喉が詰まった。

 否定できるはずがなかった。

 あの日、アリアがいなければ、俺は死んでいた。

 

「……あいつが、俺を救ってくれた」

『大切な幼馴染だろう』

「そうだ……! 死ぬほど大切だよ!」

 

 今度は、すぐに答えた。

 それだけは、疑いようがなかった。

 悔しさも、惨めさも、屈辱も、その事実を消してはくれない。

 

「なんで……そんなことまで知ってるんだ……?」

『そんなことはどうでも良い。我の問いに答えろ』

 

 低い声が、俺の奥底を抉るように響いた。

 

『救われた。大切だ。感謝している。――ならば、なぜ勝ちたい』

 

 その問いに、俺は一瞬だけ言葉を失った。

 なぜ。そんなことは、何度も考えた。アリアに救われた。アリアは俺に優しい。アリアは俺を馬鹿にしない。何度挑んでも向き合ってくれる。俺が倒れれば手を差し伸べ、俺が傷つけば心配してくれる。だから、俺は彼女を憎んでいない。恨んでいない。

 

 それでも。

 

「……このままじゃ、俺は一生、あいつに守られるだけの男になる」

 

 喉の奥から、言葉が零れた。

 

「俺はアリアに感謝している。あいつがいなければ、俺は死んでいた。そこに嘘はない」

 

 夕陽が石畳を赤く染めている。魔王像の影と、俺の影が足元で重なっていた。

 

「でも、救われたまま終わりたくない」

 

 胸が熱い。どこかで、誰かが笑ったような気がした。

 

「守られる側でいることに、耐えられない」

『ほう』

「アリアに、本気で剣を向けられたい。手加減でも、気遣いでも、幼馴染への優しさでもなく……一人の敵として見られたい」

『敵、か』

「……そうだ」

 

 言葉にした瞬間、胸の奥にあったものが形を持った気がした。

 勇者の敵。その響きは、本来なら忌むべきものだ。エウリア聖王国において、勇者は人々の希望であり、女神の祝福を受けた聖なる存在だ。その敵になるなど、正気の沙汰ではない。

 それでも俺は、その言葉を否定できなかった。勇者の隣に立ちたいのではない。勇者の後ろで支えたいのでもない。勇者の前に立ちたい。剣を向けられる存在として。

 

「俺は、勇者に勝ちたい」

 

 そう言い切った瞬間、中央広場の空気が変わった。風が止まる。遠くの足音も、校舎のざわめきも、急に遠くなったように感じた。黒い剣の刀身に、紫の光が一瞬だけ走る。

 

『触れろ』

 

 俺は息を呑んだ。 

 

「……何?」

『剣に触れろ、ユリス・アステル』

「だ、誰が触るか!」

『怖いか』

「怪しすぎるだろうが」

『力が欲しいと答えておいて、剣に触れる勇気はないと?』

 

 腹立たしい言い方だった。

 分かっていて挑発している。俺は歯を食いしばり、黒い剣を睨む。触れるべきではない。頭では分かっていた。学園の中央広場に飾られた古い剣。魔王が使ったとされる、不気味な記念物。そこから聞こえる声。どう考えてもまともではない。

 

 だが、俺の足は前に出ていた。

 

 一歩。また一歩。黒い剣の前に立つ。近くで見ると、刀身は思っていたよりも古びていなかった。表面は黒く沈んでいるのに、錆びてはいない。傷もない。まるで、長い時を経てもなお眠っているだけのようだった。柄に巻かれた黒い革は硬く、鍔には見慣れない紋様が刻まれている。

 俺は右手を伸ばした。指先が柄に触れる。

 その瞬間、世界が反転した。

 

「――ッ!」

 

 冷たい。熱い。矛盾した感覚が手のひらから全身に駆け上がる。心臓を鷲掴みにされたような圧迫感。だが、不思議と苦しくはない。ただ、身体の奥底に眠っていた何かを無理やり叩き起こされたような感覚だった。

 足元の影が濃くなる。魔王像の影が揺らぐ。黒紫の靄が、剣から滲み出した。それはゆっくりと俺の周囲に広がり、空間を侵していく。

 最初に見えたのは、闇だった。

 黒というにはなお暗く、紫というにはなお妖しい煙のようなものが、剣の周囲で渦を巻く。

 

 その中心に、骸骨があった。

 

 人の骨格に似てはいる。

 だが、明らかに人ではない。頭蓋は禍々しく歪み、額からは大きく湾曲した二本の角が突き出ていた。空洞であるはずの眼窩には、紫の鬼火めいた光が燃えている。裂けた顎は嗤うように開き、牙のような歯列を覗かせていた。

 首から下は、骨と闇が曖昧に混ざり合っている。肋骨じみた輪郭の奥で黒紫の靄が渦を巻き、肩からは外套のような闇が流れ落ちていた。実体は薄い。半透明だ。輪郭の向こうに、夕暮れの中央広場が透けて見える。

 それでもなお、その存在感だけは城壁のように重かった。ただそこに立っているだけで、王だと分かる。怪物ではない。亡霊でもない。それは、世界を敵に回す側の頂点に立つ者。

 

 ――魔王。

 

 その言葉以外に、この存在を表すものを俺は知らなかった。

 

『ようやく我を見たか』

 

 骸骨の魔王が、嗤う。

 骨だけの顎が動いているのに、声はやはり胸の奥から響いていた。俺は剣の柄から手を離そうとする。だが、指が動かない。剣が俺を掴んでいるようだった。

 

「嘘……だろ……何だよ、お前……」

『何だ、ではない。誰だ、と問え。魔王に対する礼儀がなっていないな』

 

 骸骨の魔王は、満足げに眼窩の光を細めた。

 見た目はどう考えても禍々しい。今にも世界を滅ぼしそうな存在感だ。なのに、言っていることが妙に細かい。恐怖と困惑が混ざり合い、俺の思考は少しだけ鈍った。

 

「こ、答えろ……! お前は誰だ!」

 

 その問いかけはほとんど悲鳴だった。

 

『クク……いいだろう』

 

 骸骨の魔王が、嗤った。

 

 『我が名は――メルギドス・ノクスヴェルト』

 

 その名が告げられた瞬間、空気が沈んだ。

 音が遠の木、風が止まった。

 心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。

 

『かつて、魔王と呼ばれた者だ』

「魔王……だと?」

 

 俺は息を呑む。――メルギドス・ノクスヴェルト。

 歴史書で見た名だった。入学式の説明では、ただ魔王メルギドスとだけ呼ばれていた。だが、魔法史の講義ではフルネームも一度だけ出てきたことがある。

 かつて世界を闇で覆い、女神の祝福を受けた勇者たちと戦った存在。最終的には勇者連合に討たれ、滅びたはずの魔王。子供に聞かせる悪い夢。教会が語る禁忌。魔法史の講義でさえ、詳しい記録は断片的にしか残っていないとされる存在。

 その魔王が、俺の前にいる。半透明の骸骨として。妙に偉そうに。

 

「……死んだはずだ」

『死んだとも。肉体はな』

「剣に宿っているのか……?」

『ふむ、ものわかりがいいな。貴様の目の前にあるそれは、ただの飾りではない』

 

 メルギドスの紫の眼光が、黒い剣へ向けられる。

 

『それは、かつて我が世界に影を落とすために振るった剣だ』

 

  俺の手の中で、黒い剣がかすかに震えた。

 

『我は肉体を失う寸前、その剣へ魂の残滓を刻んだ。完全な復活には遠く及ばん。だが、我が意志を、我が魔力を、我が美学を残すには十分だった』

「……美学?」

 

 反射的に聞き返していた。

 意志、魔力。

 そこまでは、まだ分かる。

 分かりたくはないが、魔王の魂が剣に残っているという時点で、異常なりに筋は通っている。

 だが、美学。

 その単語だけは、妙に嫌な響きを持っていた。

 

『そこに反応するか。良い耳だ』

「いや、美学って何だよ。そこだけ妙に嫌な予感がするんだが……」

『クク……いずれ分かる』

「分かりたくない……」

『案ずるな。理解とは、望んだ者にだけ訪れるものではない』

 

 メルギドスは、喉のない身で低く嗤った。

 

『特に、魂の奥底に願いを抱えた者にはな』

 

 笑い声は不気味だった。だが、完全な恐怖だけではない。どこか、楽しそうでもあった。

 

「この剣……本物だったのか」

『当然だ。貴様らが勝手に飾りと思い込んでいただけだ』

「何百年も学園の中央に放置されていたぞ」

『愉快だったな』

「愉快?」

『魔王を討つ者たちを育てる学び舎。その中心に、魔王の剣を飾る。しかも誰も本物とは気づかぬ。これを滑稽と言わずして何と言う』

 

 俺は思わず中央広場を見回した。

 この学園は、女神の祝福を受けた者たちを育てる場所だ。勇者が学び、聖女が祈り、賢者が術式を組み、聖騎士が盾を掲げる。その中心に、本物の魔王の剣があった。誰も知らずに。誰も気にせずに。待ち合わせ場所の目印として。

 くだらない冗談のような話だった。

 

「なぜ、今まで誰にも反応しなかったんだ?」

『反応する価値がなかったからだ』

 

 即答だった。

 

『ここを通る者は多い。勇者に憧れる者。聖女を目指す者。騎士として誰かを守りたい者。女神の祝福を誇る者。魔王を恐れる者。魔王を過去の遺物として笑う者』

 

 メルギドスは、俺を覗き込む。

 

『どれもつまらん』

 

 紫の眼光が、俺の胸を貫くように光った。

 

『だが、貴様は違った』

「……俺が?」

『勇者に救われた。感謝している。憎んではいない。むしろ大切に思っている。――にもかかわらず、勇者に勝ちたいと願う。守られることを拒み、勇者の前に敵として立ちたいと望む』

 

 メルギドスの声が、深くなる。

 

『実に歪だ』

「……悪かったな」

『褒めている』

「どこがだよ」

『これ以上に魔王向きの素材があるか?』

 

 断言された。

 俺は頭痛を覚える。

 

「待て。俺は魔王になりたいなんて一言も言っていない」

『そうだな。貴様は勇者に勝ちたいだけだ』

「ああ」

『だから良い』

 

 メルギドスは愉快そうに嗤う。

 

『世界を滅ぼしたいわけではない。人々を苦しめたいわけでもない。ただ、勇者に勝ちたい。己を救った光を、己の手で超えたい。その願いは小さい。幼い。身勝手で、醜く、どうしようもなく人間らしい』

「……全く褒めてないだろ」

『褒めているとも』

 

 メルギドスの眼窩の炎が揺れる。

 

『醜い願いを最後まで貫く者だけが、魔王になれる』

 

 胸の奥が震えた。

 その言葉は、呪いのようだった。同時に、救いのようでもあった。誰もそんなことは言わなかった。アリアは優しく手を差し出す。リーナは傷を癒やす。エルネアは努力を見てくれる。クラウディアは守ろうとしてくれる。

 皆、俺に優しい。

 だが、この魔王だけは違った。

 俺の中にある醜いものを、見ないふりしなかった。勝ちたいという執念。守られることへの屈辱。アリアに本気で見られたいという願い。それらを、否定しなかった。

 

「お前の目的は何だ」

『我の目的か』

「ああ。俺に何をさせるつもりだ」

 

 メルギドスは両腕を広げた。黒紫の外套めいた闇が、夕暮れの空に滲む。

『最高の魔王を育てることだ』

「……は?」

 

 間の抜けた声が出た。

 今、こいつは何と言った。

 最高の魔王を……育てる?

 その言葉の並びがあまりにも不吉で、意味がわからなくて、頭が理解を拒んだ。

 

『聞こえなかったか? 最高の魔王を育てることだ』

「聞こえた。理解したくなかっただけだ」

『我は貴様を気に入った』

 

 メルギドスの声が、胸の奥で低く響く。

 

『貴様の執念を気に入った。屈辱を気に入った。救われたことに感謝しながら、それでも救った者へ勝ちたいと願う歪みを気に入った』

「……やっぱり褒められてる気がしないんだが」

『褒めているとも』

 

 骸骨の魔王は、当然のように言った。

 

『貴様が勇者の前に立つ姿が見たい。光に選ばれなかった者が、光の象徴に剣を向ける。その瞬間、貴様の魂は最も美しく輝くだろう』

「……趣味が悪くないか?」

『ならば、力は要らんのか?』

 

 その一言で、喉が詰まった。

 ずるい問いだった。

 要らないわけがない。

 欲しい。喉から手が出るほど欲しい。

 アリアに届く力。守られる側ではないと証明する力。そのすべてが欲しかった。

 けれど、相手は魔王だ。

 剣に魂の残滓を刻み、胸の奥へ直接声を響かせ、俺の知られたくない感情を当然のように言い当てる存在だ。

 ここで即答するほど、俺は馬鹿ではない。……多分。

 

「……代償はなんだ?」

『話が早いな』

「ただで力をくれるほど、親切な存在には見えない」

『ほう。魔王を前にして、そこを疑えるか』

 

 メルギドスは愉快そうに嗤った。

 

『良い。力に目が眩むだけの愚物なら、ここで興醒めだった』

 

 黒い剣が、俺の手の中でわずかに熱を帯びた。

 

『貴様は欲している。だが、まだ呑まれてはいない。その浅ましさと警戒心の釣り合いが良い』

「本当に褒め方が最悪だな」

 

 メルギドスは、喉のない身で低く嗤った。

 笑い声は耳からではなく、胸の奥で響いた。

 まるで、俺の中にある欲望そのものを撫でられているようだった。

 

『代償は簡単だ。貴様は勇者の前に立て。守られる幼馴染ではなく、勇者の敵として』

「敵……」

『己の欲望を偽るな。勝ちたいなら勝ちたいと言え。妬ましいなら妬ましいと言え。屈辱なら屈辱だと認めろ。光に選ばれぬ己を嘆く暇があるなら、闇を掴め』

 

 魔王の剣が、俺の掌の中で熱を帯びた。

 

『ユリス・アステル』

 

 メルギドスの声が、静かに響く。

 

『貴様の願いは美しいものではない』

「……分かっている」

『だが、美しくない願いだからこそ、力になる』

 

 俺は剣の柄を握りしめる。警戒は消えていない。恐怖もある。だが、それ以上に、胸の奥に熱がある。この魔王は危険だ。この剣に触れてはいけなかったのかもしれない。

 

 それでも。

 メルギドスは、俺がアリアに勝ちたいという願いを笑わなかった。

 それだけで、今は十分だった。

 

「この剣と契約すれば、俺はアリアに勝てるのか」

『保証はせん』

「おい」

『力を得ただけで勇者に勝てるほど、世界は甘くない。貴様は鍛えねばならん。学ばねばならん。苦しみ、足掻き、何度も敗れ、それでも前へ進まねばならん』

 

 メルギドスの眼光が細くなる。

 

『だが、道は開く』

 

 俺は息を呑んだ。

 勝てるとは言わない。だが、道は開く。それだけで十分だった。今の俺には、道すら見えていなかったのだから。

 

『我が貴様を鍛えてやる。戦い方を、闇の魔力の扱いを、畏怖の背負い方を、勇者の前に立つ者としての在り方を叩き込んでやる』

「……それだけ聞くと、まともな師匠みたいだな」

『当然だ。我は魔王だぞ』

「魔王と師匠は両立するのか」

『当然する』

 

 強引だった。あまりにも強引だった。だが、不思議と嫌いではない。いや、嫌いではないと思ってしまっている時点で、かなり危ないのかもしれない。

 

「……一つ聞かせてくれ」

『許す』

「俺を、操るつもりはあるか?」

 

 声に、少しだけ力が入った。

 力は欲しい。喉から手が出るほど欲しい。だが、操られて手にする力なら意味がない。

 誰かに剣を振らされて、誰かに言葉を選ばされて、誰かの意思でアリアの前に立つのなら――それは、俺が勝ったことにはならない。

 

『ない』

 

 メルギドスは即答した。

 

「……本当か?」

『操られた者が勇者の前に立って、何が面白い』

 

 その声には、迷いも、誤魔化しもなかった。

 むしろ、そんな発想そのものを侮蔑しているようですらあった。

 

『我が見たいのは、ユリス・アステルが自らの意思で勇者の前に立つ姿だ。自ら望み、自ら選び、自ら堕ちる。そこにこそ意味がある』

 

 骸骨の魔王は、眼窩の奥で静かに嗤い、

 

『それこそが――我が美学だ』

 

 言い切った。

 

「……美学」

 

 操るつもりはない。

 その答えには、迷いも誤魔化しもなかった。

 けれど、俺の胸に引っかかったのはそこではない。

 ――美学。この言葉だ。

 善意ではない。救済でもない。

 こいつは本気で、俺が自分の意思で勇者の前に立つ姿を見たいと言っている。

 それも、ただ前に立つだけではない。

 自ら望み、自ら選び、自ら堕ちる姿を。

 

「操る気がないのは分かった」

『うむ』

「けど、お前の美学に沿って育てられるのは、操られるのと何が違うんだ?」

 

 骸骨の魔王は、楽しげに眼窩の光を揺らした。

 

『大いに違う。操れば、それは我の答えになる。導けば、それは貴様の答えになる』

「……言い方で誤魔化してないか?」

『誤魔化してなどいない。選ぶのは常に貴様だ。剣を取るのも、捨てるのも、勇者の後ろに戻るのも、勇者の前に立つのも』

 

 黒い剣が、俺の手の中で静かに脈打った。

 

『我は道を示す。力を与える。闇の使い方を教える。だが、足を踏み出すのは貴様だ』

「……都合のいいことを言う」

『当然だ。魔王だからな』

「そこで開き直るなよ」

『だが、嘘は言っていない』

 

 その声は、不思議なほど静かだった。

 

『ユリス・アステル。貴様が我の美学を拒むなら、それでいい。剣を捨て、何も聞かなかったことにし、明日も勇者に守られる少年として生きればいい』

 

 胸の奥が、わずかに軋んだ。

 

『だが、望むなら教えてやる。勇者の前に立つための闇を。守られる側で終わらぬための力を』

「……」

『選べ。これは命令ではない』

 

 メルギドスが、嗤う。

 

「お前の美学とやら……本当に信用していいのか?」

『我の美学は常に正しい』

「その自信はどこから来るんだ……」

『我が魔王だからだ』

「……」

 

 どういう理屈だ。

 俺は深く息を吐いた。

 

 もう、分かっている。

 この出会いは、きっと俺にとって取り返しのつかないものになる。

 この剣を手にした瞬間から、俺は今までの場所には戻れない。

 アリアの後ろで、守られる側として笑っているだけの俺ではいられない。

 朝の訓練場で、いつものように倒され、いつものように手を差し伸べられ、いつものように悔しさを飲み込むだけの俺ではいられない。

 

 それでも。

 操られるのではない。選ばされるのでもない。誰かの物語に流されるのでもない。

 俺が選ぶ。

 俺自身の意思で、アリア・ルミナスの前に立つ。

 戻れない道だからこそ、進む価値があるのかもしれない。

 

「――分かった」

 

 俺は魔王の剣を握り直す。

 

「契約してやる」

『よい返事だ』

「ただし、俺は俺だ。お前の都合で動く駒になるつもりはない」

『構わん』

「俺が欲しいのは、アリアに勝つ力だ。世界征服にも、人類滅亡にも興味はない」

『構わん』

「なら、お前は何を求める」

 

 メルギドスは、そこでひどく楽しそうに嗤った。骸骨の顎が裂け、紫の炎が眼窩の奥で揺れる。

 

『決まっている』

 

 嫌な予感がした。

 

『貴様には、闇堕ちした宿敵ムーブをしてもらう。それも、完璧にな』

 

 世界が静止した様だった。

 

「……は?」

 

 思わず、間抜けな声が出た。

 

『勇者の前に立つなら、ただ強いだけでは足りん』

 

 メルギドスの声が、妙に重々しく響いた。

 

『登場、沈黙、目線、台詞、背の向け方、剣の抜き方、別れ際に残す余韻。そのすべてが、宿敵として完成されていなければならん』

「急に何を言い出すんだ……」

『最重要事項だ』

「今までの話の中で一番軽く聞こえるんだが」

『愚か者』

 

 骸骨の魔王は、心底呆れたように言った。

 

『勇者の魂に傷を残すには、演出が要る』

「傷を残すな」

『残せ』

「嫌だ」

『ならば刻め。契約の項目に加える』

「加えるな!」

 

 思わず叫んでいた。

 魔王の力。闇の魔力。勇者の前に立つための契約。

 そこまでは、まだ分かる。

 いや、分かりたくはないが、理解できないこともない。

 

 だが、登場、沈黙、目線、別れ際の余韻……?

 

 なんだそれは。

 こいつは本気で、俺を強くするだけではなく、勇者の宿敵として仕立て上げるつもりらしい。

 

『よいか、ユリス・アステル』

 

 メルギドスは、やけに厳粛な声で告げた。

 

『力だけの敵は、いずれ忘れられる。だが、魂に刻まれた敵は消えん。勇者が剣を握るたび、貴様の名を思い出す。光の道を進むたび、背後に貴様の闇を見る。そうなってこそ、宿敵だ』

「……本当に、最悪な育て方をしようとしてるな」

『最高だろう』

「最悪だ!」

 

 怒鳴った瞬間、中央広場に声が響いた。

 当然、返事はない。他人から見れば、俺は一人で魔王像の前に立ち、飾りの剣に向かって怒鳴っているだけだろう。

 その事実に気づき、俺は頭を抱えたくなった。まずい。俺はとんでもないものと契約しようとしているのではないか。力は欲しい。だが、こいつは面倒くさい。

 間違いなく、面倒くさい。

 

『案ずるな、ユリス・アステル』

 

 メルギドスが、荘厳な声で告げる。

 

『我が必ず、貴様を勇者の前に立つ最高の魔王へ育ててやる』

 

 その言葉だけは、不思議なほど重かった。ふざけた調子が消え、そこには確かに、かつて魔王と呼ばれた者の威厳があった。

 俺はゆっくりと息を吐く。胸の奥で、黒い熱が脈打っている。もう、後戻りはできない。いや。きっと俺は、あの日からずっと戻る気などなかったのだ。勇者に救われた日から。誇りを失った日から。俺はずっと、この瞬間に向かって剣を振っていたのかもしれない。

 メルギドスが片手を差し出す。骨と闇でできた、半透明の手。

 

『契約しろ、ユリス・アステル』

 

 紫の眼光が、俺を射抜く。

 

『我が貴様に、勇者へ届く闇を授けよう』

 

 俺はその手を睨みつけた。そして、笑った。

 

「いいだろう」

 

 魔王の剣が、俺の掌の中で低く震える。

 

「契約するぞ、魔王メルギドス。俺はこの力をものにし――勇者に勝つ」

 

 その瞬間、黒紫の闇が剣から噴き上がった。

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