勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。 作:激重感情
黒紫の闇が、魔王の剣から噴き上がった。
夕暮れの中央広場が、夜よりも濃い闇に呑まれていく。石畳の上を這う影が膨れ上がり、魔王像の足元から、黒い霧のようなものが溢れ出した。風は止まり、遠くの校舎のざわめきも消える。
世界から音が抜け落ちたようだった。
「ぐ、っ……!」
剣の柄を握った右手が焼ける。熱い。だが、同時に冷たい。燃えているようで、凍てつくようでもある。矛盾した感覚が腕を伝い、肩を越え、胸の奥へ突き刺さった。心臓の近くに、黒い釘を打ち込まれたような痛みが走る。
俺は歯を食いしばった。
「メルギドス……っ、これは……!」
『耐えろ』
半透明の骸骨魔王が、俺を見下ろしていた。巨大な角。紫の眼光。外套のように流れる黒紫の闇。その姿は薄く透けているのに、存在感だけはあまりにも重い。
『契約の刻印だ。魔王の剣と貴様を繋ぐ楔となる』
「先に言え……!」
『言ったところで痛みが消えるわけではあるまい』
「そういう問題じゃない!」
叫んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。制服の内側、心臓の近くが熱を持つ。皮膚の下で何かが這い回る。血管ではない。魔力でもない。もっと深いもの。魂そのものに黒い紋様を焼き付けられているような感覚。
俺は膝をついた。片手は魔王の剣の柄を握ったまま、もう片方の手で胸元を掴む。呼吸が乱れる。視界が黒紫に滲む。なのに、不思議と意識ははっきりしていた。
身体の奥底に眠っていた何かが目を開く。幼い頃から胸に沈んでいた屈辱。アリアに救われたあの日から、ずっと消えずに残っていた熱。守られる側で終わりたくないという願い。勇者に勝ちたいという執念。
それらが、黒い炎となって形を得ていく。
『よいぞ』
メルギドスが愉快そうに言った。
『実によい。貴様の内側には、これほど濃い闇が眠っていたか』
「人の、胸の内を……勝手に評価するな……!」
『評価せずにいられるか。勇者の光に焼かれながら、それでも消えなかった執念だ。これを面白いと言わずして何と言う』
「面白がるな……!」
『無理だな。我は魔王だ』
胸元から、黒紫の光が漏れた。制服の布の下。心臓の近く。そこに、紋様が浮かび上がっていく。
歪な王冠のような形だった。角にも見える。剣にも見える。翼にも見える。いくつもの意味を孕んだ黒い印が、俺の胸に刻まれていた。
魔王印。
なぜか、そう理解できた。これは外から押しつけられた烙印ではない。俺の中に元々あったものが、魔王の剣によって形を与えられただけだ。
「……これが、契約か」
『そうだ』
メルギドスは満足げに頷く。
『今この瞬間より、貴様は魔王の剣の契約者となった』
「契約者、ね……」
『そして、我が育てる魔王候補だ』
「勝手に候補にするな」
『ならば、最高の魔王予定者と言い換えよう』
「悪化している」
『細かい男だ』
「お前にだけは言われたくない」
言い返した瞬間、少しだけ痛みが引いた。
胸の熱は残っている。だが、先ほどまでの焼き尽くされるような感覚は薄れていた。
俺は荒い息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がる。手の中には、魔王の剣があった。さっきまで石畳に突き立てられていたはずの剣。長い年月、誰にも気にされず、ただの飾りとしてそこにあった剣。
それが今、当たり前のように俺の手に収まっている。
重い。木剣とは比べものにならない。だが、不思議と持てない重さではなかった。むしろ、手に馴染む。まるで、初めから俺が握ることを待っていたかのように。
そこで、ようやく我に返った。
俺は反射的に周囲を見回す。中央広場に人影はほとんどない。だが、遠くの校舎にはまだ明かりが灯っている。寮へ向かう通路も完全に無人ではない。ここで黒紫の闇を噴き上げ、魔王の剣を握っているところを見られたら、どう考えても終わる。
「……まずいだろ、これ」
『何がだ』
「全部だ。場所も、剣も……この黒い魔力も」
『堂々としていればよい。魔王とはそういうものだ』
「俺は魔王じゃないし、ここは学園の中央広場だ!」
『だからこそ趣がある』
「趣で済むか……」
俺は魔王の剣を見下ろした。展示物が消えた。しかも、それを俺が持っている。これだけでも大問題だ。
「この剣、元の場所に戻せるのか」
『戻す必要があるのか?』
「あるだろ」
『それは元々、我の剣だ』
「だとしても、見つかれば盗難扱いされるのは俺なんだよ……」
メルギドスは愉快そうに嗤うだけだった。
駄目だ。こいつはこういう現実的な問題に一切関心がない。
「隠せないのか、この剣」
『当然隠せる。契約者が望めば、影に沈められる』
「先に言え!」
『聞かれなかったのでな』
「性格が悪い」
『魔王だからな』
俺は深く息を吐き、魔王の剣を握り直した。
隠れろ。そう念じた瞬間、剣の輪郭が黒い霧にほどけるように揺らいだ。次の瞬間、魔王の剣は俺の足元の影へ沈んでいく。手の中から重みが消えた。まるで最初から存在しなかったかのように。
「……本当に消えた」
『正確には影に潜ませた。呼べば現れる』
「ますます怪しいな」
『魔王の剣だからな』
「……魔王って便利すぎだろ」
俺は胸元に手を当てる。
魔王印の熱は、静かに脈打っている。見た目には隠れている。だが、消えたわけではない。契約は、確かに俺の中に刻まれていた。
「この力で、何ができるんだ?」
『今の貴様にできることは少ない』
「おい」
『事実だ。契約した直後の未熟者が、いきなり勇者を圧倒できると思うな。そんな都合のいい力などありはしない』
メルギドスの紫の眼光が不機嫌そうに揺れる。
見た目だけなら死を覚悟する場面だが、妙に会話が成立してしまうせいで恐怖が薄れる。それが良いのか悪いのかは、分からない。
『だが、基礎は教えてやる』
メルギドスが骨の指を上げた。
『闇の魔力には、いくつかの使い道がある。まずは黒装。闇を身体に纏い、肉体能力を引き上げる技術だ』
「身体強化か」
『そうだ。ただし、女神の祝福による強化とは性質が異なる。祝福が肉体を清め、導き、正しく動かす力ならば、闇は貴様の執念で身体を無理やり前へ進ませる力だ』
「……身体に悪そうだな」
『悪い』
「即答かよ……」
『代償なしに力が得られると思ったか?』
「思ってはいないが、もう少し夢を見させてくれよ」
『魔王に夢を求めるな』
俺はため息をついた。
だが、身体強化という方向性は分かりやすい。俺には女神の祝福がない。アリアのような圧倒的な聖なる身体能力も、クラウディアのような防護能力もない。
そこを補えるなら、十分すぎる。
『次に、反祝福』
メルギドスの声が少し低くなる。
『女神の祝福に干渉し、その流れを乱す力だ』
「祝福を乱す……?」
『勇者、聖女、聖騎士。奴らの力は、女神の祝福を通じて発現する。闇の魔力は、その祝福にとって異物だ。上手く扱えば、相手の聖魔法や身体強化を鈍らせることができる』
「それは……」
強い。
あまりにも強い。
アリアの祝福に干渉できるなら、勝機が生まれるかもしれない。そう思った瞬間、メルギドスが釘を刺すように言った。
『勘違いするな。今の貴様では、勇者の祝福には触れることすらできん』
「……だろうな」
『だが、いずれ届く』
その一言で、胸が熱くなった。
いずれ届く。今は無理でも。今は触れることすらできなくても。道はある。それだけで、剣を振る理由になる。
『そして最後に、畏怖だ』
「畏怖?」
『魔王は、ただ強いだけでは足りん。恐れられ、記憶され、心に傷を残す存在でなければならん』
「また傷を残す話か」
『当然だ。勇者の魂に傷を残せぬ魔王など、ただの強い不審者だ』
「……強い不審者」
『貴様がそうなりたくなければ、我の指導を受けよ』
メルギドスは構わず続ける。
『闇の魔力は、畏怖によって増幅する。敵が恐れれば恐れるほど、貴様の存在は濃くなる。貴様が勇者の宿敵として認識されればされるほど、魔王印は育つ』
「つまり、人に怖がられろと?」
『端的に言えばそうだ』
「嫌すぎる……」
『だが必要だ』
メルギドスの声には、やけに確信があった。
『貴様が目指すのは、ただの強者ではない。勇者アリア・ルミナスの前に立つ宿敵だ。勇者の光が人々に希望を与えるなら、貴様の闇はその希望に影を落とさねばならん』
俺は頭を抱えたくなった。力の方向性は理解できる。身体強化。祝福への干渉。畏怖による増幅。どれも、勇者に届くためには必要なものなのかもしれない。
だが、その先にあるものが問題だった。
俺はアリアに勝ちたい。アリアに本気で見られたい。けれど、アリアを傷つけたいわけではない。泣かせたいわけでもない。ましてや、彼女の光に影を落としたいわけでもない。
『それを甘いと言っている』
「読むな」
『読まずとも分かる。貴様は顔に出る』
「顔に出ていない」
『出ている。勇者を傷つける想像をして、胃が痛くなっている顔だ』
「……なんで分かった」
否定したかった。
だが、実際に胃のあたりが重くなっているのは事実だった。
メルギドスは愉快そうに眼窩の炎を揺らす。
『──曇らせとは、実に美しいものだ』
耳を疑った。
あまりに突拍子がないことであったために、まったくもって理解が追いつかなかった。
「……今、なんて言った?」
『聞こえなかったか。曇らせとは、美しいものだと言った』
「最低の発言を荘厳な声で言うなよ……」
魔王が低く嗤った。
『ククク……人の魂が最も鮮烈に輝くのは、幸福の中ではない。信じていたものが揺らぎ、大切なものに傷つけられ、それでもなお手を伸ばさずにはいられない時だ』
メルギドスは、まるで聖典を読み上げる司祭のように言った。
その内容は、聖典とは程遠いものだったが。
『勇者が勇者であるためには、光だけでは足りん。迷い、痛み、後悔、執着。それらを抱えてなお剣を取るからこそ、勇者は美しい』
「それを魔王が言うなよ」
『魔王だからこそ言うのだ。勇者の光に影を落とす者。それが魔王だ』
紫の炎が、愉快そうに細まる。
『貴様が勇者の前に立てば、アリア・ルミナスは曇るだろう。なぜ、と問う。どうして、と縋る。救いたいと願いながら、剣を向けねばならなくなる』
「……悪趣味だ」
『ああ、悪趣味だとも』
メルギドスは否定しなかった。
『だが、美しい。幼馴染が宿敵となり、守るべき男が魔王となる。勇者の魂に刻まれる傷として、これ以上のものがあるか?』
「俺はアリアを傷つけたいわけじゃないんだが……」
『知っている。だから良いのだ』
「いや良くないだろ!」
『傷つけたい者が傷つけるのは、ただの加害だ。傷つけたくない者が、それでも己の願いを貫くからこそ、物語になる』
その言葉に、俺は何も返せなかった。こいつは最低だ。間違いなく、最悪の魔王だ。けれど、俺の中にある矛盾を、誰よりも正確に見抜いている。
『ユリス。貴様はアリアを大切に思っている。だが、彼女に勝ちたい。傷つけたくない。だが、本気で見てほしい。守られたくない。だが、彼女に救われたことを否定したくない』
「……」
『その矛盾ごと抱えろ』
胸の魔王印が、熱を持つ。
『魔王とは、醜い願いから逃げぬ者だ』
その言葉は重かった。いつもの面倒くさい魔王美学ではない。冗談でもない。メルギドスは、本気で俺にそう言っていた。
俺は胸元を押さえた。魔王印の熱は消えない。この印は、俺の中の矛盾を焼き固めたものなのかもしれない。
「契約の条件を確認する」
『よかろう』
メルギドスは少し満足げに頷いた。
「俺は勇者の前に立つ」
『そうだ』
「自分の欲望を偽らない」
『そうだ』
「畏怖される存在になる」
『そうだ』
「闇堕ちした宿敵ムーブを果たす」
『最重要だ』
「……やっぱりそこだけ軽い」
『何よりも重い』
俺はため息をついた。
「具体的には何をさせる気だ」
『まず、台詞だ』
「台詞?」
『勇者と対峙した際、第一声が重要となる。そこで印象の八割が決まる』
「……面接か?」
『似たようなものだ』
「似ていないだろ!」
頭が痛くなってきた。
『たとえば、久しぶりだな、アリア、などと決して言う出ないぞ』
「え、なんで? 普通に言いそうなんだが……」
『駄目だ。幼馴染感が出すぎている。宿敵としては落第点だ』
「落第するのか……宿敵」
『する。厳しい世界だ』
「知らなかった」
メルギドスは威厳たっぷりに続ける。
『良いか。再会時は、まず沈黙だ』
「沈黙……」
『三秒だ。短すぎれば軽い。長すぎれば気まずい。三秒沈黙し、勇者の目を見ろ』
「めんどくさ過ぎる……」
想像してしまった。
久しぶりに再会したアリアの前で、何も言わずに三秒間見つめる俺。
……駄目だ。宿敵以前に、ただの様子のおかしい幼馴染だ。
『その後に言え。勇者よ、随分と遅かったな――と』
「言いたくない」
『言え』
「絶対に嫌だ!」
『毎回、我が採点する』
「採点!?」
『採点は必要だ。成長には評価が伴う』
その言い方に、妙な既視感があった。
冷静に観察し、分類し、評価し、改善点を並べてくる知り合いが一人いる。
「エルネアみたいなことを言うな」
思わず名前を出した瞬間、メルギドスの眼窩に宿る光がわずかに細まった。
『エルネア。賢者科の小娘か』
「……お前、本当に見ていたんだな」
『断片的にな。貴様を観測し、分類し、理解したつもりになっている娘だろう』
「言い方が悪い」
『だが、間違ってはいまい』
否定しようとして、言葉に詰まった。
エルネアは、俺をよく見ている。
俺の癖も、戦い方も、無理をする瞬間も、たぶん俺自身より冷静に把握している。
けれど、それをメルギドスの口から言われると、妙に嫌な感じがした。
『面白い娘だ。理性で感情を囲っている。ああいう者ほど、一度崩れるとよく曇る』
「曇らせるなよ……」
『我が曇らせずとも、貴様が隠し事をすれば勝手に曇る』
「やめろ……妙に現実的なことを言うな」
胃が痛くなってきた。
契約したばかりなのに、既に後悔の気配がある。だが、胸の奥では闇の魔力が脈打っている。この力を手放せるかと問われれば、答えは否だった。
『さて、まずは黒装の初歩だ』
メルギドスが告げる。
『右腕に闇を纏え』
「……ここでか?」
『何か問題があるか』
「あるに決まっているだろ!」
俺はもう一度、周囲を見回した。
中央広場に人影はない。だが、ここは学園の中心だ。誰かが通りかかる可能性は十分ある。今でさえ、俺の胸には魔王印が刻まれている。これ以上、広場で妙なことをするのは危険すぎる。
「第三訓練場へ戻る」
『怖じ気づいたか』
「違う。目立ちすぎる」
『ほう』
メルギドスの眼窩が、わずかに愉快そうに細まった。
『衝動だけで動く馬鹿ではないか』
こいつがやらせようとしたくせに、なんでこんな偉そうなんだ……。
俺は胸元を押さえ、中央広場を離れた。第三訓練場へ戻る道のりは、妙に長く感じた。誰かとすれ違うたび、心臓が跳ねる。今の俺は普通に見えているのか。闇の魔力は漏れていないか。胸の魔王印は見えていないか。足元の影から、魔王の剣が勝手に顔を出したりしないか。
いちいち気にしてしまう。
『挙動が怪しいぞ』
「誰のせいだと思っている!」
『我か?』
「そうだよ」
『魔王とは、人心を乱すものだからな』
「開き直るな」
俺は誰にも見つからないよう、なるべく人通りの少ない通路を選んだ。第三訓練場に着く頃には、空はすっかり紫がかっていた。
訓練場には誰もいない。さっきまで俺が使っていた木剣が、壁際に立てかけられている。傷だらけの訓練人形も、いつもの場所に並んでいた。ここなら試せる。少なくとも、中央広場よりはずっとましだ。
『では、改めて始めるぞ』
メルギドスが告げる。
『右腕に闇を纏え』
「どうやって」
『願え』
「……雑だな」
『最初はそれでよい。勇者に勝ちたいと願え。その願いを右腕へ流し込め』
俺は眉をひそめる。だが、やるしかない。胸の魔王印を意識する。そこにある熱。黒い炎。アリアに勝ちたいという願い。守られる側で終わりたくないという執念。それを右腕へ流す。
すると、指先が熱を持った。黒紫の靄が手首に絡みつき、腕を覆っていく。手袋の上に闇が薄く纏わり、まるで影でできた籠手のような形を作った。
「……これが黒装」
『初歩の初歩だ。出力は低い。持続も短い。だが、悪くない』
俺は右手を握る。力が入る。普段よりも、明らかに強い。身体が軽いわけではない。むしろ、腕だけが異様に重い。だが、その重さを力で押し切れる感覚があった。
「魔王の剣は、呼べるのか」
『呼べ』
「本当に雑だな」
『最初はそれでよいと言っている』
俺は足元の影を見る。呼べ。そう念じた瞬間、影が揺れた。黒い霧が立ち上り、俺の右手に重みが戻る。次の瞬間、魔王の剣が手の中に現れていた。
黒紫の靄が、右腕から剣へと絡みついていく。ただ握っているだけで、心臓が脈打つ。木剣とは違う。これは、ただの武器ではない。俺の中の闇と繋がっている。
「……試す」
『よい』
俺は訓練人形の前に立った。傷だらけの木製人形。戦技科の生徒たちが何度も打ち込み、何度も修復されたものだ。魔王の剣を大きく振るつもりはなかった。今の俺に扱いきれる重さではないし、下手をすれば人形どころか床まで壊しかねない。
だから、刃を軽く当てる。ただ、闇を流す感覚を確かめるだけ。
そう思って軽く振り、剣先を訓練人形の胴に触れさせた。次の瞬間、黒紫の余波が走った。乾いた音が響く。訓練人形の胴体に、大きな亀裂が入った。
「……っ」
思わず息を呑む。ただ、軽く振っただけ。それなのに、亀裂が走った。今の一撃は、俺の通常の力では絶対に出せない。だが、魔王の剣だけの力とも違う。俺の腕。俺の願い。そこに、闇の魔力と魔王の剣が重なった。
つまり、この力は俺の技術を殺していない。
上乗せしている。
それが分かった瞬間、胸が震えた。これなら。これなら、届くかもしれない。
『よい顔だ』
メルギドスが言った。
『初めて道を見た者の顔だ』
「……ああ」
俺は自分の右腕と、手の中の魔王の剣を見る。黒紫の靄はすぐに薄れ、霧のように消えていった。
一気に疲労が押し寄せる。
「ぐ、っ……」
膝をつきかけた。
『今の貴様では数秒が限界だな』
「燃費が悪すぎる」
『貴様が未熟なだけだ』
「厳しいな……」
『甘やかしてほしいのか?』
「いや」
『ならば鍛えろ』
メルギドスの言葉は単純だった。
だが、今の俺にはそれが一番響いた。鍛えればいい。この力も、剣と同じだ。ただ手に入れて終わりではない。扱えるように鍛えればいい。今までと何も変わらない。
ただ、進む道が増えただけだ。
『ただし、今日の訓練は終わりだ』
「まだいける」
『いけん、愚か者』
逆らえない迫力があった。
俺は深く息を吐いた。身体は重い。だが、心は妙に軽かった。初めて、先が見えた気がした。届かないと分かっている壁に、ただ木剣を叩きつけているだけではない。
この闇を鍛えれば。この魔王印を育てれば。この剣を扱えるようになれば。いつか、アリアの前に立てる。本気で剣を向けさせることができる。
『ユリス』
「何だ」
『一つ忠告しておく』
メルギドスの声が低くなる。
『この力は隠せ』
「……なぜだ?」
『今の貴様では、説明できまい。学園で、戦技科の男が黒紫の闇を纏った。しかも魔王の剣の契約者になっている。どう見ても面倒なことになる』
「それはそうだな」
『まあ、勇者には見せるのも一興だがな』
「……アリアに?」
『今見せれば、確実に曇る』
「だから曇らせる前提で話すな」
『事実だ。あの娘は貴様を守る対象として見ている。そんな貴様の中から闇が溢れたら、何を思うだろうな……クク』
想像してしまった。アリアの顔が青ざめる。何その魔力、と震える声で問う。俺に手を伸ばしかけ、けれど闇に怯えて止まる。胸が痛んだ。
「……隠せるんだよな」
『意識すればな。魔王印も剣も沈められる』
「なら、しばらくは隠す」
『しばらく、か』
メルギドスが含みのある声で言う。
「何だ」
『いずれ見せる日が来る』
「……」
『その時こそ、最初の闇堕ちした宿敵ムーブだ』
「胃が痛くなるから黙ってくれ……」
『胃痛もまた宿敵の資質』
「絶対に違う!」
そう言いながらも、俺は胸元に手を当てた。魔王印の熱は、静かに脈打っている。隠せる。だが、消えたわけではない。
俺はもう、契約してしまった。
メルギドス・ノクスヴェルト。かつて魔王と呼ばれた存在。その魂の残滓が宿る魔王の剣と繋がり、闇の魔力を得た。
これは後戻りできない道だ。
けれど、後悔はなかった。後悔できるほど、俺の願いは軽くない。
「メルギドス」
『何だ』
「俺はアリアに勝つ」
『知っている』
「そのために、お前の力を使う」
『よかろう』
「だが、俺は俺のままだ。お前の言いなりにはならない」
『構わん。むしろ、その方がよい』
メルギドスは楽しげに嗤った。
『我が見たいのは、我の模倣品ではない。ユリス・アステルという男が、自らの意思で勇者の前に立つ姿だ』
その言葉に、俺は少しだけ目を細める。こいつは危険だ。間違いなく危険だ。だが、少なくとも一点だけは信じられる。
メルギドスは、俺がアリアに勝ちたいという願いを、決して笑わない。
それだけで、今は十分だった。
夕陽は沈みかけている。第三訓練場の影が濃くなり、白亜の校舎は赤から紫へと色を変えていた。俺は亀裂の入った訓練人形を見つめる。
たった一度、触れただけ。けれど、それは確かに、昨日までの俺には出せなかったものだった。
胸の奥で、黒い炎が静かに燃えている。
『さて、ユリス』
「何だ?」
『明日から本格的な訓練を始める』
その言葉に、剣を握る手へ力が入った。
いよいよ、闇の魔力の扱いを学ぶのだろう。
怖くないと言えば嘘になる。
だが、今のままではアリアの前に立てない。
「闇の魔力の訓練か……?」
『それもある』
「他に何かあるのか?」
『まずは高笑いだ』
「……は?」
思考が止まった。
『魔王の高笑いは腹から出せ。喉だけで笑えば小物になる』
「絶対にやらない」
『勇者の心に爪痕を残すためだ』
「近所迷惑だ!」
『魔王が近所迷惑を気にするな』
やはり、とんでもないものと契約してしまったのかもしれない。俺は深く、深くため息をついた。だが、その口元は少しだけ緩んでいた。
力を得た。
道を得た。
そして、面倒くさい魔王を得た。
俺は夕暮れの第三訓練場で、胸に刻まれた魔王印を押さえる。黒い熱が、静かに脈打っていた。
この日、俺は初めて闇を手にした。
勇者に届くための、俺だけの力を。
右手には、まだ魔王の剣の重みが残っている。刀身には、消えかけの黒紫の靄が絡みついていた。
「……ユリ……ス?」
その時、背後から震えた声がした。
心臓が跳ね、息が止まる。
ゆっくりと振り返る。
――第三訓練場の入口にアリアが立っていた。
夕陽を背にした彼女の金髪が、淡く光を帯びている。
しかし、その顔からは血の気が引いていた。
『クク……見られたな』
メルギドスの愉快そうな低い嗤い声が、俺の中で響いた──。