勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。 作:激重感情
「……ユリ……ス?」
アリアの視線は、俺の顔ではなく右手に向いている。
当然だった。そこには、魔王の剣がある。中央広場の魔王像の足元に、ずっと突き立てられていたはずの黒い剣。誰も本物だと思っていなかった、ただの古びた飾り。入学式の時に説明され、それ以降は誰の記憶にも残らなくなった、学園の景色の一部。
それを今、俺が握っている。
しかも刀身には、消えかけとはいえ黒紫の靄が絡みついていた。訓練人形には大きな亀裂が走っている。俺の胸には、制服越しでもまだ熱を感じる魔王印が刻まれている。
どう見ても、言い逃れできる状況ではなかった。
『クク……見られたな』
「……黙れ」
思わず低く呟いた瞬間、アリアの肩が小さく震えた。
「……誰と、話してるの?」
その声は、いつものアリアではなかった。
俺を心配する時の柔らかい声でもない。模擬戦の後に笑う声でもない。喉の奥に恐怖を押し込めたような、細い声だった。
俺は一瞬、言葉を失う。メルギドスの姿はアリアには見えていない。声も聞こえていない。つまり今の俺は、誰もいない場所で一人、魔王の剣を握りながら「黙れ」と呟いた男である。
最悪だった。
かなりまずい。
『実に良い。勇者の顔が曇っているぞ』
「ユリス……?」
アリアの顔がさらに青ざめる。
胃のあたりが重くなった。
違う。今のはお前に言ったわけじゃない。そう説明すればいい。説明すればいいのだが、説明内容が終わっている。魔王の剣に宿っていた魔王メルギドスと契約した。闇の魔力を得た。ついでに勇者の宿敵ムーブを指導されることになった。
誰が信じる。
信じられたとしても終わりだ。
「アリア、これは……」
『言い訳するな』
メルギドスの声が胸の奥に沈んだ。
さっきまでの愉快そうな響きが消えている。
『勇者の前に立つのだろう。ならば、取り繕うな。隠すな。縋るな。貴様が選んだ力を、貴様のものとして見せろ』
「簡単に言うな……」
『簡単ではない。だから価値がある』
アリアが一歩、訓練場の中へ入った。
その動きに、俺は反射的に魔王の剣を握り直す。敵意があったわけではない。ただ、身体が勝手に動いた。
けれどアリアは、それを見て足を止めた。蒼い瞳が揺れる。
ああ、と思った。
今の仕草だけで、十分だったのだ。
俺はアリアに対して、剣を握り直した。彼女の中で、それがどう見えたのか。考えなくても分かる。
「その剣……中央広場にあった、魔王の剣だよね」
アリアは震える声で言った。
「どうして、ユリスが持ってるの……?」
真っ当な問いだった。俺は答えられない。答えれば、すべてが変わる。答えなくても、もう変わり始めている。
「ユリス、何があったの? その黒い魔力は……何? さっき、中央広場の方で変な気配がして、それで……」
アリアは言葉を探すように視線を彷徨わせる。俺の右手。魔王の剣。亀裂の入った訓練人形。俺の顔。そして、また剣。
「まさか、その剣に触れたの?」
「……ああ」
嘘はつけなかった。アリアの唇が震える。
「駄目だよ!」
その一言は、ひどく優しかった。
「そんなの、絶対に駄目だよ! だって、それは魔王の剣なんだよ? 本物かどうか分からないって言われてたけど、でも、そんな黒い魔力が出てるなら……危ないに決まってる!」
アリアは俺を見る。
泣きそうな顔だった。
「ねえ、ユリス。手を離して。今すぐ」
手を離す。その言葉に、俺の指がわずかに動いた。
アリアは俺を助けようとしている。危険なものから遠ざけようとしている。あの日と同じだ。魔物の前に立った時と同じ。俺が傷つく前に、壊れる前に、彼女は手を伸ばしてくれる。
優しい。
どうしようもなく、優しい。
だから、胸が軋んだ。だが――
「――嫌だ」
俺の口から出た声は、自分でも驚くほど静かだった。
アリアの目が見開かれる。
「え……」
「この剣は離さない」
「どうして……?」
「俺が選んだ」
言った瞬間、胸の魔王印が熱を持った。メルギドスが、どこか満足げに嗤う気配がした。
「俺が、この力を選んだ」
アリアが息を呑む。
「力って……何を言ってるの? ユリスは、そんなもの使わなくていいよ。危ないなら、私が――」
「それだ」
声が、思ったより鋭く出た。アリアの言葉が止まる。
俺は彼女を見た。陽光のような金髪。蒼い瞳。女神に選ばれた勇者候補。俺をずっと見てくれていた幼馴染。何度負けても笑って受け止め、傷つけば手を伸ばし、危険があれば前に立とうとする少女。
俺にとって、一番大切な相手。
そして、一番勝ちたい相手。
「私が守る。私が助ける。私が何とかする。……アリアはいつもそう言う」
「だって、私は――」
「分かってる。お前が俺を馬鹿にしていないことくらい分かってる。心配してくれているのも、助けようとしてくれているのも、全部分かってる」
だから苦しい。
そう続けることはできなかった。言葉にすれば、アリアを傷つけると分かっていたからだ。だが、もう遅かったのかもしれない。アリアの表情は、すでに揺れていた。
「なら、どうして……」
「俺は、お前に守られるために剣を振っているわけじゃない」
訓練場に、俺の声だけが落ちる。
「お前の後ろで生きたいわけじゃない。お前に庇われて、助けられて、次も頑張ろうねって笑われるために、毎日剣を振っているわけじゃない」
「そんなつもりで言ってない!」
アリアが初めて声を荒げた。それは、悲鳴に近かった。
「私は、ユリスに傷ついてほしくないだけだよ! ユリスが無茶して倒れるのを見たくないだけ! それの何がいけないの!?」
「悪くないさ」
俺は即答した。アリアが固まる。
「お前は何も悪くない。だから、俺が勝手に苦しいだけだ」
これだけは、言わなければならなかった。アリアは悪くない。アリアは俺を救った。支えてくれた。ずっと隣にいてくれた。
悪いのは俺だ。救われたことに感謝しながら、救われたまま終わることに耐えられない俺の方だ。
『よい、その歪みを隠すな』
メルギドスが低く呟いた。俺は魔王の剣を握る手に力を込める。
「――アリア」
名を呼ぶと、彼女はびくりと肩を震わせた。
「俺は、お前に勝ちたい」
「……知ってるよ」
「違う。たぶん、お前が思っているよりずっと、本気でだ」
アリアの瞳が揺れる。
「幼馴染としてじゃない。男なのに頑張ってる相手としてでもない。守るべき相手としてでもない。一人の戦士として、お前の前に立ちたい」
その言葉だけは、すぐに出た。
「お前はまだ、俺に本気で剣を向けていない」
「それは……!」
「俺が怪我をするからか? 俺が男だからか? 俺が、お前より弱いからか?」
アリアは答えられなかった。
それが答えだった。
胸の奥が痛む。けれど、目は逸らさなかった。ここで逸らせば、また全部が優しさに戻ってしまう。
勇者と少年。
守る者と、守られる者。
その関係に戻ってしまう。
「俺は、このままじゃ届かない。何年剣を振っても、お前は俺を守る対象として見る。俺が倒れたら手を伸ばす。俺が危ないものに触れたら、離してって言う」
「それは、当然でしょ……!」
「ああ。当然だ。お前は間違ってない」
だからこそ、苦しかった。
「お前が正しい限り、俺はずっと守られる側に置かれる」
黒い剣を握る指に、力が入る。
「だから俺は、お前の正しさの外へ行く」
「ユリス……」
「守られる側から出る。勇者に救われた少年のままでは終わらない。――そのために、俺はこの力を選ぶ」
アリアの視線が、魔王の剣へ落ちる。
「それが……その剣なの?」
「そうだ」
「魔王の力でも?」
アリアの顔が、ひどく歪んだ。泣く寸前の顔だった。
それを見た瞬間、胸が痛んだ。
『耐えろ、ここで目を逸らせば、貴様はまた守られる側へ戻る』
分かっている。
分かっているから、最悪だった。
「ユリス、お願い。そんな力、使わないで」
アリアは一歩近づいた。
アリアは一歩近づいた。
「私、ユリスが強くなりたいのは知ってる。ずっと見てきた。ユリスがどれだけ頑張ってるかも知ってる。だから、そんな危ないものに頼らなくても――」
「今のままでは届かない」
「そんなことない!」
「あるんだ!」
思わず、声が荒くなった。
「あるんだよ、アリア」
その言葉で、アリアは止まった。
俺の声が、きっと思ったよりも冷たかったからだ。
「お前は強い。これからもっと強くなる。女神の祝福を持っていて、それに甘えず努力もする。そんなお前に、俺が普通に剣を振るだけで届くと思うか?」
「私は……」
「思っていないだろ」
アリアは唇を噛んだ。否定してほしかったのかもしれない。でも、否定されたらされたで、きっと俺は傷ついた。
面倒くさい。
どうしようもなく面倒くさい感情だ。
それでも、これが俺だった。
――もう、偽るのはやめよう。
『そうだ。それでよい。美しくない願いから逃げるな』
俺は息を吐いた。
「俺は、お前の光に勝つために闇を掴む」
アリアの目が大きく見開かれる。
その言葉は、言ってはいけないものだったのかもしれない。だが、もう戻せなかった。
「ユリス……それ、本気で言ってるの?」
「ああ」
「魔王の力だよ?」
「分かっている」
「そんなの、絶対に危ないよ! 身体がどうなるかも分からない! 心が、変わっちゃうかもしれない! もし、ユリスがユリスじゃなくなったら……」
アリアの声が震える。
「私、どうしたらいいの……?」
その一言が、胸を刺した。
アリアは俺を責めていない。責めるより先に、失うことを恐れている。俺が変わることを。俺が遠くへ行くことを。俺が、自分の知らない何かになってしまうことを。その恐怖が、彼女の顔に浮かんでいた。
『今だ、突き放せ』
メルギドスが囁く。
「……ふざけるな」
『ふざけてなどいない。今の勇者に優しくすれば、貴様は止められる。泣かれ、縋られ、手を取られれば、貴様は折れる』
否定できなかった。
『ならば、折れぬように演じろ。宿敵とは、時に己の弱さを隠すための鎧だ』
闇堕ちした宿敵ムーブ。
馬鹿馬鹿しい言葉だと思っていた。けれど今だけは、その意味が少しだけ分かった。
このまま素直に話せば、俺はきっとアリアの手を取ってしまう。大丈夫だと言ってしまう。心配するなと笑って、剣を影に沈めて、いつもの俺に戻ろうとしてしまう。
それでは、何も変わらない。
俺はもう、変わると決めたのだ。
「アリア」
俺は彼女の名を呼んだ。できるだけ、静かに。
「俺はもう、お前に守られる俺じゃない」
「……ユリス」
「次に俺と剣を交える時は、本気で来い」
アリアが息を止める。
「でないと、お前は後悔する」
『良い。実に良いぞ!』
メルギドスの声が、腹立たしいほど嬉しそうだった。
アリアは小さく首を振る。
「そんな言い方、しないでよ……」
胸が痛む。
けれど、止まらない。
いや、止まってはいけなかった。
「──俺は、お前の敵になる」
言った。
言ってしまった。
その瞬間、アリアの顔から最後の血の気が引いた。訓練場の空気が、凍ったように静まり返る。俺の中で、胃が悲鳴を上げた。
『百点だ』
「……本当に黙れ」
俺が低く呟くと、アリアがまたびくりとする。
最悪だ。だが、もうどうしようもない。
「敵って……何?」
アリアの声は掠れていた。
「どういう意味……? ねえ、ユリス。そんなの、冗談だよね?」
「冗談じゃない」
「どうして……?」
アリアは一歩近づこうとした。俺は魔王の剣をわずかに上げる。刃を向けたわけではない。ただ、距離を示しただけだ。
だが、それだけでアリアは止まった。
その顔を、俺は忘れないだろう。
泣きそうで。信じたくなくて。
それでも、目の前の現実から逃げられない顔。
『曇ったな――実に、美しい』
メルギドスの声が、低く甘く響いた。
「黙れ……」
今度の呟きは、ほとんど祈りだった。
アリアが震える。
「ユリス……お願い。私、分からないよ。何があったのか、ちゃんと話して。魔王の剣のことも、その黒い魔力のことも、誰と話してるのかも。私、ユリスを助けたい」
助けたい。
その言葉が、最後の刃だった。
俺は笑った。たぶん、ひどく歪な笑みだった。
「もう、助けなくていい」
アリアの瞳が揺れる。
「俺はもう、助けられる側には戻らない」
それだけ言って、俺は魔王の剣を下ろした。刃が黒い霧にほどけ、足元の影へ沈んでいく。黒紫の靄も、胸の熱も、完全には消えない。ただ表面だけを隠す。
アリアはその一部始終を、呆然と見ていた。
「剣が……消えた……」
「今日は帰れ」
「ユリス」
「帰れ、アリア」
きつい声だった。自分でも分かる。アリアの肩が震えた。
「……嫌だ」
それでも、彼女は首を振った。
「嫌だよ。だって、このまま帰ったら、ユリスがどこかに行っちゃいそうで……」
胸の奥が握り潰される。
やめろ。
そんな顔をするな。
そんな声を出すな。
『ならば、背を向けろ』
メルギドスが言った。
『宿敵は、別れ際にすべてを語らぬ』
本当に最悪の助言だ……。
俺は奥歯を噛みしめた。そして、アリアに背を向ける。
「ユリス! 待って!」
悲鳴のような声が、背中に刺さった。足が止まりかける。
止まるな。
ここで振り返れば、全部終わる。
俺は前へ進んだ。
「待って! お願い、待ってよ!」
アリアの声が追いかけてくる。それでも、俺は振り返らなかった。第三訓練場の出口へ向かう。足元の影が、いつもより濃く伸びている。胸の魔王印が熱い。胃が痛い。喉の奥が苦しい。
けれど、足は止めなかった。
『よくやった』
「黙れ」
『勇者の心に、確かに爪痕を残した』
「黙れ……」
『これが宿敵の第一歩だ』
「黙れって!」
それ以上、メルギドスは何も言わなかった。ただ、愉快そうに嗤う気配だけが残る。
背後で、アリアの声が震えていた。
「ユリス……」
その声に応えなかった。応えられなかった。俺は第三訓練場を出る。夕陽はもう沈みかけていた。校舎の影が長く伸び、世界は赤から紫へと変わっていく。
この日、勇者は闇を見た。
けれど、彼女が見ていたのは魔王ではない。
魔王の剣を握り、震えながら前へ進もうとする、一人の少年だった――。
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