曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。)   作:黒雪ゆきは

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008 芽吹き。

 治療棟の朝はいつも静かに始まる。

 薬草の匂い。聖魔法に使う香油の柔らかな香り。白く磨かれた床に落ちる朝日。並べられた包帯と、磨かれた器具と、祈りの言葉が刻まれた白い壁。聖女科の生徒たちは、誰かの痛みを受け止めるために、誰よりも穏やかな顔を求められる。

 リーナ・セレナーデは、その穏やかさを嫌いではなかった。

 傷ついた者がここに来る。痛みに顔を歪め、あるいは無理に笑い、椅子に座る。その傷に手を添え、光を灯し、痛みを和らげる。治療が終わった相手が、少しだけ表情を緩める。その瞬間が、リーナは好きだった。

 だから、朝の準備も嫌いではない。

 包帯を整える。薬瓶の位置を揃える。治癒魔法に使う聖水の残量を確認する。訓練場で怪我人が出る時間帯を考え、すぐ使う道具を手前に置く。

 

 そして、いつものように一つだけ椅子を空けておく。――ユリス・アステルが座る椅子を。

 

「……」

 

 リーナは、その椅子を見つめる。

 昨日と同じ場所。窓からの光が差す、治療しやすい位置。彼は文句を言いながらも、結局そこに座る。右肩を痛めていることが多いから、リーナが手を添えやすいように、椅子の向きは少しだけ変えてある。

 それは、誰にも言っていない小さな習慣だった。

 ユリスは今日も来る。

 そう思っていた。

 

 怪我をしてほしいわけではない。

 むしろ、怪我などしない方がいいに決まっている。けれど、彼が剣を振る限り、彼は必ずどこかを痛める。右肩。左足。手首。背中。時には、本人が気づいていない古傷まで。

 だから、リーナは待つ。

 ユリスが無茶をして、アリアに負けて、悔しそうにしながら治療棟へ来る。その傷を癒やして、少し叱って、また明日も剣を振れるようにする。それが、リーナにとっての朝だった。

 

「リーナさん、包帯の補充、こちらで大丈夫ですか?」

 

 後輩の聖女科生徒が声をかけてきた。リーナは微笑み、頷く。

 

「はい。ありがとうございます。打撲用の湿布も、もう少し出しておいてください」

「今日も戦技科の実習がありますもんね」

「ええ。念のために」

 

 念のため。

 そう言いながら、リーナはまた椅子を見る。

 ユリスは、まだ来ない。

 朝の鐘が鳴った。廊下に生徒たちの足音が増えていく。治療棟にも、軽い捻挫をした生徒や、朝練で手を擦りむいた生徒がぽつぽつと訪れ始めた。リーナはいつも通り治療を行う。掌に聖なる光を灯し、傷口に触れ、痛みを和らげる。

 治せる。自分の光は、ちゃんと誰かを癒やせる。

 その事実に、いつもなら少し安心できた。けれど今日は、胸の奥が落ち着かなかった。

 

「リーナさん?」

「……はい?」

「顔色、少し悪くないですか?」

 

 後輩にそう言われ、リーナは慌てて微笑んだ。

 

「大丈夫です。少し寝不足なだけですから」

「無理しないでくださいね」

「ありがとうございます」

 

 心配される側になるのは、少しだけ苦手だった。

 リーナは、治す側でいたかった。傷ついた誰かに手を伸ばし、大丈夫ですと告げる側でいたかった。特に、ユリスに対してはそうだった。

 

 ――ユリスさんが明日も剣を振るなら、私はその傷を癒やせる聖女でいたいんです。

 

 昨日、自分はそう言った。

 その言葉に嘘はなかった。

 ユリスが傷ついてここへ来る。リーナは怒る。呆れる。心配する。けれど最後には治す。そうすれば、彼はまた立ち上がる。剣を振る。明日へ進む。彼がどれほど無茶をしても、自分が癒やせる。そう思っていた。

 そう思うことで、自分の中にある不安を抑えていたのかもしれない。

 

 けれど――もし、癒やせない傷だったら。

 

 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 リーナは思わず手を止める。治療を受けていた生徒が、不思議そうにこちらを見た。

 

「あ、すみません。もう大丈夫ですよ」

 

 リーナは微笑み、治療を終える。生徒が礼を言って出ていくと、治療室には一瞬だけ静けさが戻った。

 癒やせない傷。

 そんなもの、考えたくなかった。けれど、昨夜から胸の奥に引っかかっている。アリアが戻ってきた時の顔。勇者科主席の彼女が、まるで世界の終わりを見たような顔をしていたこと。問いかけても、アリアは上手く答えられなかった。ただ、ユリスの名を呼んでいた。

 そして今朝、ユリスは来ない。

 アリアも来ない。

 第一訓練場で怪我をしたなら、いつもならアリアが連れてくる。無茶をしたなら、リーナの前に座らせる。軽い打撲でも、念のために診てほしいと頼む。それが、いつもの流れだった。

 なのに、今日は誰も来ない。

 ユリスも、アリアも。

 まるで、いつもの朝だけが切り取られて消えてしまったようだった。

 

「……ユリスさん」

 

 リーナは小さく呟く。

 怪我をしたら必ず来てくださいと、昨日、そう言った。

 けれど、ユリスは来ない。

 最初は、ただ遅れているだけだと思った。

 朝練が長引いているのかもしれない。今日は珍しく怪我をしなかったのかもしれない。あるいは、アリアに叱られて、少し休まされているだけなのかもしれない。

 そう考えようとした。

 けれど、それならアリアが来るはずだった。

 いつものアリアなら、軽い打撲でも、念のために診てほしいと言ってユリスを連れてくる。ユリスが嫌がっても、肩を押さえ、背中を押し、困ったように笑いながら治療棟の扉を開ける。

 

 なのに、今日はアリアも来ない。ユリスだけではなく、アリアも。

 その事実が、リーナの胸に冷たく沈んだ。

 身体の怪我なら、ここへ来る。

 打撲でも、裂傷でも、捻挫でも、魔力疲労でも。ユリスがどれほど無茶をしても、最後にはこの椅子に座る。リーナはそこに手を添え、光を灯し、痛みを和らげることができる。

 けれど、もし、ユリスが来られない理由が、そういう傷ではないのだとしたら。

 もし、治癒魔法では癒せない傷を、彼が負っているとしたら。

 

 その時、自分の癒しは、彼に届くのだろうか。

 

 ユリスが傷つくことは怖い。

 それは本当だった。――しかし、それだけではなかった。

 

 ユリスの傷に、自分の光が届かないこと。ユリスが、自分ではない何かによって立ち上がってしまうこと。

 その想像が、なぜか胸を締めつけた。彼が立ち上がる時、そこに自分の光がない。想像しただけで、リーナの胸は冷たく沈んだ。

 

 もし、ユリスの傷が、光では届かない場所にあるのなら。

 もし、祈りでは、もう届かないのなら。

 その時、自分は――聖女でいられるのだろうか。

 

 傷ついてほしいわけではない。苦しんでほしいわけでもない。そんなこと、望むはずがない。聖女として、そんな願いを抱くはずがない。それなのに。

 ユリスが傷ついた時、自分の手が届かないことが怖かった。ユリスが苦しんでいる時、自分ではない誰かの光を求めることが怖かった。ユリスが自分の知らない力で、自分の治癒など必要ないと言うように立ち上がってしまうことが、どうしようもなく怖かった。

 

「……嫌、です」

 

 小さな声だった。

 誰にも聞こえないほど、小さな声。リーナ自身でさえ、今の言葉が何に向けられたものなのか分からなかった。

 ユリスに傷ついてほしくないのか。ユリスを癒やせない自分が嫌なのか。それとも、ユリスが自分の手を必要としなくなることが嫌なのか。

 答えは出ない。

 ただ、掌に灯るはずの聖なる光が、少しだけ頼りなく思えた。

 リーナは椅子を見る。

 今日も空いたままの、ユリスのための椅子。

 そこに彼が座り、また呆れたように笑って、少しだけ悔しそうに怪我を見せる。その傷に手を添え、光を流し、大丈夫ですと告げる。その当たり前が、ひどく遠いものに思えた。

 

「ユリスさんの傷を癒やすのは……」

 

 リーナは、胸の前でそっと手を握った。

 聖女として正しい願いなのかは、分からない。

 それでも。

 

「――私で、ありたいんです」

 

 その言葉は祈りに似ていた。

 だが、胸の前で組まれた手とは裏腹に、リーナの瞳には、聖女らしい柔らかな光が宿っていなかった。

 

 ◇

 

 第三訓練場の端には、一人の少女が立っていた。

 エルネア・フィル・グリモワールは、いつもの記録板を抱えたまま、空の訓練場を見つめていた。

 朝露を含んだ空気は冷たい。石畳はまだ夜の名残を残し、訓練人形の影は細く長く伸びている。いつもなら、ここには音がある。木剣が空を切る音。足裏が石を踏む音。呼吸を整える声。五百回を数える、低くて少し意地っ張りな声。

 だが、今日は何もない。

 記録できるものがなかった。

 

「……異常」

 

 エルネアは小さく呟き、記録板に文字を書き込む。

 

 早朝訓練、未実施。

 対象者、未確認。

 理由、不明。

 

 そこで筆が止まった。

 不明。その二文字が、やけに気に入らなかった。

 エルネアは事実を好む。曖昧な推測よりも、観察できる数値を好む。感情よりも、変化量。印象よりも、記録。ユリス・アステルという人間も、彼女はずっとそうやって見てきた。

 

 剣速。

 踏み込み速度。

 反応時間。

 疲労回復にかかる時間。

 右肩の可動域。

 左足への荷重。

 魔力量。

 負荷後の呼吸の乱れ。

 

 ユリスは、数値にすると分かりやすかった。祝福を持たない戦技科の男子生徒としては、異常なほど伸びている。無茶は多い。自己評価は低い。アリア・ルミナスと比較するせいで、自分の成長を正しく認識できていない。

 だから、エルネアは言った。

 貴方は弱くない。成長の仕方が違うだけだと。

 それは正確な評価だった。

 正確なはずだった。

 

「……」

 

 エルネアは訓練場の中央へ歩く。

 昨日までユリスが立っていた場所。石畳に、微かな傷が残っている。木剣によるものではない。もっと鋭く、もっと重い力が、何かに触れたような痕跡。

 視線を上げる。

 訓練人形の胴体に、大きな亀裂が入っていた。

 

「これは……」

 

 エルネアは近づき、膝をつく。

 亀裂の深さ、角度、木材の割れ方。通常の木剣では不可能。戦技科の訓練用短剣でも難しい。強化魔法の痕跡は、少なくとも表面上は見当たらない。

 だが、何かが残っている。

 魔力の痕跡。だが、聖属性でも、火、水、風、土でもない。

 既存の分類に当てはまらない、黒い残滓。

 エルネアの指先が、亀裂の手前で止まった。

 触れない。本能ではない。

 それは極めて理性的な判断だった。

 危険性が未評価のものには触れない。未知の術式、未知の魔力、未知の痕跡。賢者科の基礎だ。

 なのに、胸の奥だけが妙にざわつく。

 

 未知。

 それは、本来なら興味を引く言葉だった。

 けれど今日だけは、不快だった。

 なぜなら、その未知の中心に、ユリスがいるかもしれないからだ。

 

「昨日の午後以降に発生。対象はユリスの訓練位置と一致。周囲に他生徒の痕跡は少ない。武器痕は木剣ではない。魔力分類……不明」

 

 エルネアは淡々と口にする。

 言葉にすれば、思考は整理される。いつもそうだった。だが、今日は違う。言葉にしても、胸のざわつきが消えない。

 私は、ユリスを見ていた。

 そう思っていた。誰よりも正確に、とは言わない。

 だが、少なくとも、周囲の生徒たちよりは見ていた。男なのに頑張っている、という曖昧な評価ではなく、具体的な成長として観察していた。アリアと比べるのではなく、ユリス本人の変化として記録していた。

 そのはずだった。

 なのに、昨日の彼に何が起きたのか、私は知らない。

 その事実が、エルネアの胸に小さな棘のように刺さった。

 

「……不快」

 

 不快。

 彼女は自分の感情に名前をつける。

 不安ではない。焦燥でもない。

 少なくとも、今はそう分類したくなかった。けれど、記録板を握る指にいつもより力が入っていることには気づいていた。

 未知だから知りたいのではない。

 ユリスのことだから、知らないままでいたくなかった。

 彼が何に傷つき、何を選び、何を捨てたのか。その全てを知らないまま、理解していたつもりでいた自分が、不快だった。

 誰かが知っているのだろうか。

 アリアは何かを見たのだろうか。

 リーナは何かを聞いたのだろうか。

 クラウディアは何かに気づいているのだろうか。

 自分だけが知らない。

 自分だけが、ユリスの変化を見落とした。

 そう考えると、胸の奥に生まれた棘が、少しだけ深く刺さった気がした。

 

「……観測し直す必要がある」

 

 小さく呟く。

 理解できていないなら、理解すればいい。記録できていないなら、次は記録すればいい。未知ならば、既知に変えればいい。

 やることはいつもと変わらない……はずだった。

 なぜか、エルネアは記録板を胸に抱えたまま、しばらく動かなかった。

 数値では測れないものがある。

 そんな当たり前のことを、彼女は今さらのように思い知らされていた。

 

 ユリスの剣速は記録できる。

 踏み込みの癖も記録できる。

 疲労の蓄積も、怪我の傾向も、魔力量の変化も、記録できる。

 だが、彼が何を呑み込んでいたのか。どんな屈辱を抱え、どんな怒りを押し殺し、どんな願いのために剣を振っていたのか。それは、記録していなかった。

 私は、何を見ていたのだろう。

 エルネアは唇を引き結ぶ。

 知らないままではいられない。もう、見落としたくない。

 ユリスがどこへ行ったのか。何を選んだのか。何故、いつもの朝から消えたのか。それを誰かの言葉で聞くだけでは足りない。誰かの解釈で知ったつもりになることも、きっと違う。

 彼のことは、自分の目で見なければならない。

 自分の手で記録しなければならない。

 そして、理解しなければならない。

 今度こそ。

 

「ユリス・アステルという人間の全てを……私は知りたい」

 

 それは探究心だった。そう分類した。

 少なくとも、エルネア自身はそう思った。

 

 ◇

 

 第二訓練場では、聖騎士科の朝練が始まっていた。

 盾を構える音。足並みを揃える声。防御陣形の確認。朝日を受けた白い外套が、整然と動いていく。

 クラウディア・レインベルは、その中にいた。

 背筋を伸ばし、盾を構え、教官の号令に合わせて一歩踏み込む。呼吸は乱れない。動作に無駄はない。守る者として、前に立つ者として、彼女の所作はいつも通り整っていた。

 だが、視線だけが、何度も第三訓練場の方へ向かう。

 そこには、いつもなら一人の男子生徒がいる。

 無茶をする。忠告を聞かない。怪我をしても軽いと言い張る。危険に対する自己評価が低すぎる、手のかかる同級生。

 ユリス・アステル。

 今朝、その姿は見えなかった。

 

「クラウディア」

 

 教官の声が飛ぶ。

 

「はい」

「集中が乱れている」

「……申し訳ありません」

 

 クラウディアはすぐに姿勢を正した。

 聖騎士科の訓練中に余所を見るなど、本来ならあってはならない。守る者は、目の前の対象から意識を逸らしてはならない。どんな状況でも冷静に、正確に、護衛対象と敵の位置を把握する。

 それが、聖騎士科で叩き込まれてきた基本だった。

 それなのに、今朝のクラウディアは乱れていた。

 理由は分かっている。ユリスがいない。

 ただ、それだけだ。

 けれど、その「それだけ」が、思った以上に大きかった。

 訓練が一区切りつくと、クラウディアは盾を下ろした。額に汗が滲んでいる。呼吸を整えながら、やはり第三訓練場の方を見る。

 

「……何をしているんだ、私は」

 

 小さく呟く。

 昨日、彼に言った言葉を思い出す。

 

 ――戦いは、私たちに任せてくれ。

 

 君が無理に前線へ出なくても、守る者はいる。

 それは本心だった。侮辱ではない。軽視でもない。クラウディアは、ユリスの努力を認めていた。何度敗れても立ち上がる姿勢も、戦技科で積み重ねてきた技術も、尊いものだと思っていた。祝福を持たない身で、それでも剣を手放さない彼の意地を、軽んじたつもりはなかった。

 だが、それでも。――彼は男だ。

 

 エウリア聖王国において、男性は守られるべき存在だ。女神の祝福が女性にのみ宿る以上、それは感情ではなく秩序だった。

 強い者が弱い者を守る。祝福を持つ者が、持たぬ者を救う。

 クラウディアはその価値観を疑ってこなかった。疑う必要がなかった。守ることは正しい。守られる者を危険から遠ざけることは、善だ。そう信じていた。

 けれど、昨日のユリスの顔が脳裏に浮かぶ。

 

 ――いつか、お前にも本気で剣を向けさせる。

 

 冗談だと、彼は言った。

 クラウディアはその言葉を信じた。

 けれど、その言葉は、どうしても別の言葉を思い出させた。

 まだ互いの背丈も低く、剣より木の枝の方が手に馴染んでいた頃。泥だらけの顔で笑いながら、ユリスは彼女へ言った言葉。

 

 ――いつか、クラウディアの隣で戦えるくらい強くなるよ!

 

 その言葉を、クラウディアはずっと覚えていた。

 嬉しかった。胸の奥が、どうしようもなく温かくなった。

 幼い日の彼女にとって、それは祝福にも似た言葉だった。

 守る者としてではなく、隣に立つ者として、自分を見てくれた言葉だったから。

 けれど今では、その記憶は胸の奥で形を変えている。

 

 あの日のことを、クラウディアは今でも覚えている。

 アリアが勇者の祝福に覚醒した日。

 眩しいほどの光が、あの少女を選んだ日。

 そして、血まみれのユリスが運ばれてきた日。

 

 彼女はユリスを救ったのだ。あの日、アリアが勇者として覚醒しなければ、ユリスはきっと助からなかった。

 だから、感謝している。

 そう思っている。――思っているはずなのに。

 あの日から、ユリスは変わった。

 守られてよかったはずだった。生きていてくれれば、それでよかったはずだった。前に出なくてもいい。剣を握らなくてもいい。アリアが守り、クラウディアが守り、祝福を持つ者たちが守る。それが、この国では正しい形だった。

 けれど、ユリスはそう思わなかった。

 

 ――勇者に救われた少年。

 

 その言葉を向けられるたび、ユリスの中で何かが削れていったのだと、今なら分かる。

 そして、その中心にはいつもアリアがいた。

 アリアが悪いわけではない。

 分かっている。むしろ、アリアは正しかった。ユリスを救った。誰よりも眩しく、誰よりも強く、勇者として彼の前に立った。

 だからこそ、ユリスは彼女を追い続けてしまう。

 守られる側でいいと、受け入れてくれない。

 クラウディアには、それが怖かった。

 

 感謝なのか。

 羨望なのか。

 嫉妬なのか。

 怒りなのか。

 それとも、あの日その場にいなかった自分への罰なのか。

 

 分からない。

 ただ、血に濡れたユリスの姿と、勇者として輝くアリアの姿は、クラウディアの中でどうしても切り離せなかった。

 だから、昨日の言葉を冗談だと信じたかった。

 いつか、隣で戦えるくらい強くなる。そう言って笑った少年が、また自分を傷つけながら前へ進もうとしているのだと、認めなければならなくなる。

 だが、もし冗談ではなかったのなら。

 もし彼が本当に、守られる側にいることを拒んでいたのなら。

 

「私は……」

 

 彼を守ろうとしていた。

 だが、それは彼の意思を見ていたのだろうか。無茶を止める。怪我を確認する。休めと言う。危険から遠ざける。それは全て、正しい行為のはずだった。

 しかし、守るという言葉は、時に相手の進む道を塞ぐ。

 その可能性を、クラウディアは初めて考えていた。

 

「クラウー」

 

 同じ聖騎士科の生徒が声をかける。

 

「どうかしたのー? さっきから第三訓練場の方ばっか見てるけど」

「いや」

 

 クラウディアは一度だけ首を振った。

 

「少し、気になることがあるだけだ」

「ぷぷぷ〜、ユリス君でしょ?」

 

 その名を出され、クラウディアはわずかに反応する。

 

「もうほんと可愛いなクラウは〜。昨日も無茶してたもんねー。今日は休んでるんじゃない?」

「……それならいい」

 

 本当にそう思った。

 ただ疲れて休んでいるだけならいい。リーナに怒られて、今日は大人しくしているだけならいい。いつものように明日になれば第三訓練場に現れ、文句を言いながら木剣を振るなら、それでいい。

 だが、胸の奥がそうではないと告げている。

 守るべき相手が、自分の知らない危険へ向かっている。その予感だけが、どうしても消えなかった。

 そして、もっと嫌な考えが浮かんだ。

 危険へ向かっているのではなく。

 ユリス自身が、自分を危険へ投げ込もうとしているのだとしたら。

 

「……っ」

 

 クラウディアは息を呑む。

 その時、自分は何から彼を守ればいい。

 

 魔物か。

 敵か。

 それとも、ユリス自身か。

 

 答えは出ない。けれど、その問いは一度浮かんでしまえば消えなかった。クラウディアは拳を握る。

 守るとは、何だ。相手を危険から遠ざけることか。それとも、相手が危険へ進む時、その隣に立つことか。今までなら、迷わず前者だと答えられた。

 けれど今は、答えられない。

 ユリス・アステルという一人の少年が、彼女の中にあった正しさを揺らしていた。

 彼が自分の道を選ぼうとしていることは分かっている。

 だからこそ、止めたい。

 昨日そう思った。

 

 けれど、本当に止めるべきだったのだろうか。

 それとも、隣に立つべきだったのだろうか。

 分からない。

 だが一つだけ、はっきりしていることがある。

 

 ――もう二度と、ユリスが壊れるところだけは見たくない。

 

 たとえそれが、彼自身の選んだ道だったとしても。

 たとえそれが、自分の意思で傷つきに行くのだとしても。

 その先に、取り返しのつかないものが待っているのなら――

 

「……私は」

 

 クラウディアは盾の縁を強く握った。

 冷たい金属の感触が、掌に食い込む。

 ユリスを守れる者が必要だ。

 敵からだけではない。危険からだけでもない。彼が自分自身を傷つけるというのなら、そのユリスからも。

 その考えが正しいのかどうか、今のクラウディアには分からなかった。

 ユリスはきっと怒るだろう。君には関係ないと言うかもしれない。守られるために剣を振っているわけではないと、拒むかもしれない。

 それでも。彼が壊れるのを、ただ見ていることだけはできない。それだけは、聖騎士候補としてではなく、クラウディア・レインベルという一人の女として、許せなかった。

 

 もし、彼が休まないのなら。もし、彼が剣を手放さないのなら。もし、その剣が彼自身を傷つけ続けるのなら。その時、自分はどうするべきなのか。

 クラウディアは考える。取り上げるべきなのか。止めるべきなのか。

 押さえつけてでも、無理やりにでも、そこから遠ざけるべきなのか。

 そんな考えが浮かんだ瞬間、彼女は自分の思考に息を詰めた。

 それは守護なのか。

 それとも、支配なのか。

 分からない。

 分からないのに、否定しきれなかった。

 

 ――ユリスの望むものは、きっと全て与えられる。

 

 静かな場所も。

 傷つかなくていい時間も。

 温かい食事も。

 

 だが、剣だけは。

 その先を、クラウディアはまだ言葉にできなかった。できなかったからこそ、彼女は盾を握る。

 守る者の手にあるべきものを、確かめるように。

 

「ユリスを守れる者が必要だ」

 

 小さく、けれど硬い声で呟く。自分に言い聞かせるように。迷いを押し込めるように。

 

「たとえ、ユリス自身からでも」

 

 盾を持つ手に、力がこもる。

 

「その役目だけは、誰にも譲らない」

 

 ◇

 

 アリアが空の石畳を見つめていた。

 リーナが誰も座らない椅子を見つめていた。

 エルネアが亀裂の入った訓練人形を記録していた。

 クラウディアが、守るという言葉の境界を見失いかけていた。

 それぞれが違う場所にいた。だが皆、同じ朝を迎えていた。

 

 ユリスのいない朝を。

 

 ただそれだけで、彼女たちの朝は、昨日までとは別のものになっていた。

 そして、やがて知ることになる。

 ユリスはもう、王立聖戦学園のどこにもいないことを。

 彼女たちの手が届く場所にはもう、いないことを。

 

 

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