曇りゆく勇者へ捧ぐ闇堕ちの美学(旧:勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。)   作:黒雪ゆきは

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009 光の外へ。

  時は、少しだけ遡る。

 アリアに背を向け、第三訓練場を出たその夜。

 俺は寮へ戻らなかった。

 戻れば、きっと足が止まる。寝台に腰を下ろし、昨夜までと同じ天井を見上げた瞬間、考えてしまう。

 明日の朝、第一訓練場へ行けばアリアがいるかもしれない。治療棟へ行けばリーナがいるかもしれない。第三訓練場へ行けばエルネアに記録されるかもしれない。第二訓練場の方を通れば、クラウディアに見つかるかもしれない──と。

 

 そうなれば、俺はきっと迷う。

 アリアの顔が、脳裏に焼きついて離れなかった。血の気を失った顔。震える声。俺を助けたいと言った時の、泣きそうな瞳。

 胃が痛い。ひどく痛い。

 それでも、俺は進む。もう戻らない。

 

『クク、随分と足が重いではないか』

 

 胸の奥で、メルギドスの声が響いた。

 

「……黙っていてくれ」

『選択の正しさを思案することほど無意味なことはない。この我でさえも、分からんのだからな』

「…………」

『正しかったかどうかなど、後の者が勝手に決めればいい。選んだ者にできるのは一つだけだ』

「……何だよ?」

『進め。そして、己の選択を正しかったことにしろ』

「おい……まさかとは思うが、励ましているのか?」

『教育しているのだ。魔王となる者が、選んだ道の前で膝を折るな』

「だから、魔王になんてならねぇんだよ……」

 

 俺は人通りの少ない回廊を進む。

 夜の学園は、昼間とは別の顔をしていた。白亜の校舎は月明かりを受けて青白く沈み、聖紋の刻まれた壁は静かに光を返している。どこも美しい。どこも清らかで、整っていて、女神の祝福を掲げる学び舎に相応しい。

 その清らかさが、今は少しだけ息苦しかった。

 俺の胸には魔王印がある。足元の影には魔王の剣が眠っている。アリアには見られた。中央広場の剣が消えていることも、いずれ誰かが気づくだろう。

 

 ──メルギドスの言う通り、進むしかない。

 

 だが、まずは知りたい。

 俺は何と契約したのか。この力について。

 メルギドス・ノクスヴェルトという魔王が、歴史の中で何を成したのか。

 向かったのは、学園の片隅にある古い資料棟だった。

 王立聖戦学園には、講義棟や訓練棟とは別に、古い記録を保管する資料棟がある。魔法史、聖戦史、魔物分類、禁忌指定前の古い術式、魔王戦役に関する断片的な記録。普段ここへ来るのは、賢者科や魔法史を専攻する生徒がほとんどだ。……少なくとも、戦技科の男子生徒が夜に訪れる場所ではない。

 

 だからこそ、今は都合が良かった。

 資料棟の扉は、施錠されていなかった。

 しかし、完全に無警戒というわけではない。入口には簡易の認証術式が組まれている。とはいえ、学園の生徒であれば閲覧自体は可能だ。禁書庫に入るわけではない。一般閲覧可能な古文書なら、時間外でも記録は残るが読むことはできる。

 

 俺は学生証を認証盤に当てる。

 小さな光が走り、扉が重い音を立てて開いた。

 中は、古い紙と埃の匂いがした。

 高い天井まで伸びる書架。月明かりを受けて細く光る窓。長机の上に置かれた魔灯。誰もいない資料棟は、息を潜めた墓所のように静かだった。

 

『悪くない場所だ』

 

 メルギドスの声が聞こえた。

 

『古い記録には、死者の声が残る。嫌いではない』

「……いや怖いこと言うなよ」

 

 俺は魔灯に火を入れ、資料検索用の索引盤へ向かった。賢者科の生徒がよく使っているものだ。指で文字をなぞると、関連資料の棚番号が浮かぶ。

 検索語は決まっていた。

 

 ──『メルギドス・ノクスヴェルト』

 

 その名を入力した瞬間、索引盤の光がわずかに揺れた。該当資料は多くない。いや、正確には、閲覧可能な資料が少ないのだろう。いくつかの棚番号と、閲覧制限付きの記録名が浮かび上がる。

 その中で、一般閲覧可能なものを選んだ。

 

 魔王戦役概説。

 黒き魔力に関する事実と考察。

 封印遺物目録、第三分類。

 旧魔王領および黒域に関する地理記録。

 

 最後の一つに、わずかに目が留まった。──黒域。

 魔王印が微かに熱を帯びた気がした。

 

『そこまで辿るか』

「……何か知っているな」

『当然だ』

「説明する気は?」

『読め』

「性格が悪い」

『己で調べると言ったのは貴様だ』

「……それもそうだな」

 

 腹は立つが、間違ってはいない。

 

 俺は書架から資料を引き出し、長机に並べた。分厚い羊皮紙の綴じ本。古びた紙束。ところどころ擦り切れた地図。どれも長い時間を経てきたものだった。

 

 最初に開いたのは、魔王戦役概説だった。

 

 そこに記されていたのは、講義で習うよりもずっと生々しい魔王の記録だった。

 

 魔王メルギドス・ノクスヴェルト。

 

 女神の祝福に抗う黒き魔力を操り、聖王国を含む複数の国家と敵対した存在。彼の闇は単なる破壊の力ではなく、祝福の流れそのものを乱し、勇者や聖女の力を鈍らせたとされる。聖騎士の結界を侵し、賢者の術式を崩し、戦場に立つだけで兵の心を折った。

 記録の文字を追うほど、背中に冷たいものが走る。

 俺は、想像以上のものと契約していた。

 

「……本当に、ろくでもないな」

『概ね事実だな』

「概ね?」

『誇張もある』

「そうなのか……?」

『我は世界すべてを闇で覆ってなどいない』

「そこか」

『半分程度だ』

「……十分最悪だろ」

 

 低い笑い声が胸の奥で響く。

 ふざけている。だが、資料に記された内容は笑えなかった。

 メルギドスは、ただ強い魔王ではない。女神の祝福を前提に成り立つ世界そのものに対する異物だった。祝福を持つ者が人々を導き、祝福を持たぬ者が守られる。この国では当たり前の秩序。その秩序の外側から、闇を叩き込んだ存在。

 

 俺はページをめくる。

 

 勇者連合との最終決戦。

 複数の勇者、聖女、聖騎士、賢者による連合軍。戦場となった旧魔王領。メルギドスの肉体は討たれ、黒き魔力は崩壊した。だが、遺体は残らず、魔王の剣のみが回収された。

 

 ──魔王の剣。

 

 その記述を見た瞬間、足元の影がわずかに揺れた

 封印遺物目録を開く。そこには、魔王の剣についての分析記録があった。

 黒色の長剣。材質不明。聖魔法による浄化反応なし。物理損傷なし。魔王メルギドス・ノクスヴェルトが戦場で用いたとされる遺物。危険度は高いが、長期封印後に活動反応は確認されず。後世、魔王の脅威を忘れぬ戒めとして、王立聖戦学園中央広場の魔王像下へ移設。

 

「……本当に、学園が勝手に飾っていたのか」

『だから言っただろう』

「お前もよく黙っていたな」

『眠っていたからな。ほとんどは』

「ほとんど?」

『たまに目覚めては、若き勇者候補どもが我の前で恋愛相談をするのを聞いていた』

「最悪の目覚めだな」

『実に退屈だった』

「同情はしない」

 

 まったく気は緩まないが、少しだけ、息が抜けた。

 資料はさらに続く。

 魔王の剣は長い間、危険反応を示さなかった。だから学園側は、これを「象徴」として扱った。魔王の脅威を忘れないための戒め。勇者候補たちが日々通る場所に置くことで、過去の災厄を記憶させる。

 

 皮肉にもほどがある。

 魔王を討つ者たちを育てる学び舎の中心に、本物の魔王の剣が眠っていた。

 そして、それを俺が手にした。

 俺は思わず胸元を押さえる。

 魔王印は制服の下で静かに脈打っている。痛みはもうない。だが、熱は消えない。

 

「……この印は何だ? 時々、熱くなるんだが」

『魔王の剣と貴様を繋ぐ楔だと言っただろう』

「それは聞いたけど、資料には載っていない」

『当然だ。記録に残るはずがない』

「……どういう意味だ?」

『刻まれた者など、これまで一人もいない』

 

 その言葉に、嫌な重さがあった。

 

「……一人も?」

『剣に触れた者はいた。力を望んだ者もいた。闇に縋ろうとした者もいた。だが、我が美学を体現できると思えた者はいなかった』

「また美学かよ……」

『魔王とは、力を振るうだけの獣ではない。憎悪に呑まれるだけの愚者でもない。恐れられ、憎まれ、理解されず、それでもなお己の在り方を貫く者だ』

「……かっこよくまとめてるが、やっていることは最悪だろ」

『光栄に思え。このメルギドス・ノクスヴェルトが認めた初めての器だ』

「…………胃が痛すぎる」

『贅沢な男だ』

 

 俺は溜息を吐き、次の資料へ手を伸ばした。

 

 ――『黒き魔力に関する事実と考察』

 

 そこには、闇の魔力についての断片的な記述があった。

 女神の祝福とは別系統の力。聖魔法による分類不能。精神状態と密接に結びつき、執念、憎悪、屈辱、反抗心によって増幅すると推測される。使用者の肉体に強い負荷をかける。祝福の流れを乱す性質を持つ。

 文字を追うほど、喉の奥が乾いていった。

 そこに書かれているのは、知らない力の説明ではなかった。

 俺の中にあったものへ、後から名前を与えられているようだった。

 

 執念。

 屈辱。

 反抗心。

 

 どれも、覚えがあった。認めたくないほどに。

 女神の祝福を持たない男として見られるたび、胸の奥で燻っていたもの。アリアに守られるたび、感謝の奥で押し殺していたもの。

 何度倒されても、何度届かないと思い知らされても、それでも剣を手放せなかった理由。

 

 ──アリアに勝ちたい。

 

 ただ、その願いだけが、ずっと俺の中にあった。 

 そして今、その願いに『闇』という名前が与えられている。 

 それが、この力の源。

 そう書かれているようだった。

 

「……気分が悪いな」

『自分の醜さを記録で突きつけられるのは愉快ではあるまい。だが、目を逸らすな。貴様が掴んだ力は、そういうものだ』

「……分かっている」

 

 分かっている。

 だから、ここに来た。

 契約してしまった。力も得た。アリアも傷つけた。なら、今さら綺麗な言葉で誤魔化すことはできない。

 俺は資料を閉じ、最後の地理記録へ手を伸ばした。

 

 ──『旧魔王領および黒域に関する地理記録』

 

 黒域。

 また、その文字が目に入る。

 古い地図が挟まれていた。エウリア聖王国の北西、山脈と荒野の向こう。かつて魔王メルギドスが支配したとされる土地。現在は正式な国家として認められておらず、聖王国の統治も、教会の影響もほとんど及ばない。

 黒い魔力の残滓が地脈に残り、人類とは異なる種族――『魔族』と呼ばれる者たちの存在が確認されている危険地帯。

 

 女神の祝福の秩序が届かない土地。

 俺は、その一文から目を離せなかった。

 エウリア聖王国では、女神の祝福は女性にのみ宿る。勇者も、聖女も、賢者も、聖騎士も、女神に選ばれた者たちが人々を守る。持たざる者は、守られる。男は、特にそうだ。

 

 ──それが正しいとされている国で、俺はずっと剣を振っていた。

 

 守られる側でいたくないと願いながら。

 誰かの後ろに置かれることに耐えられずに。

 その果てに、俺は魔王の剣を掴んだ。

 

 ここに……ほんとうの俺の居場所はあるのか?

 

 勇者を育てる第一訓練場に。

 聖騎士が盾を構える第二訓練場に。

 戦技科が努力で前線に立とうとする第三訓練場に。

 治療棟の白い光の中に。

 エルネアの記録板の上に。

 アリアの優しい手の届く場所に。 

 

「…………」

 

 答えはでない。

 彼女達と過ごした時間を否定できるほど、俺は強くなかった。

 胸の奥で、メルギドスが笑う気配がした少しだけ意外だった。

 

『クク……よいぞ。全てを抱え闇へ堕ちるがいい』

「……なんてことを言うんだ」

『迷い、苦しみ、惜しみ、それでも光ではなく闇に堕ちることを選ぶ。──実に美しい』

「…………」

  

 こいつなら、もっと偉そうに言うと思っていた。

 黒域へ行け。光の学園を捨てろ。勇者の前に立つなら闇の地へ向かえ。そう命じてもおかしくない。

 だが、メルギドスは何も言わない。

 ただ、俺が資料を読み、考えるのを待っている。

 それが、かえって厄介だった。

 俺は自分で考えなければならない。

 自分で選ばなければならない。

 誰かの命令ではなく、誰かの期待でもなく、俺自身の意志として。

 

 俺は地図を見る。

 黒域までは遠い。聖王国の正規街道から外れ、山道を越えなければならない。危険な魔物も出る。祝福の影響が薄い土地なら、聖王国の常識も通じないだろう。

 だが、そこなら魔王の剣について何か分かるかもしれない。闇の魔力を隠さずに済むかもしれない。

 何より、そこは女神の祝福の秩序から外れた場所だった。

 俺が、守られる側へ戻されない場所。

 アリアたちの優しさに、身を焼かれない場所。

 そう思った瞬間、また胃が痛んだ。

 

 リーナの顔が浮かぶ。

 怪我をしたら必ず来てください、と言った声。

 エルネアの顔が浮かぶ。

 貴方は弱くない、と告げた平坦な声。

 クラウディアの顔が浮かぶ。

 戦いは私たちに任せてくれ、と真っ直ぐに告げた瞳。 

 そして、アリアの顔が浮かぶ。

 助けたい、と震えた声。

 

 俺は歯を食いしばった。

 会えば、揺らぐ。それだけは分かった。

 アリアに泣かれて、平気でいられるほど俺は強くない。リーナに傷を見られれば、きっと言葉に詰まる。エルネアに問い詰められれば、隠しきれない。クラウディアに止められれば、振り切る自信がない。

 

 だから、朝まで待てない。

 明日になれば、必ず騒ぎになる。中央広場から魔王の剣が消えたことに誰かが気づく。アリアはきっと動く。学園も動く。俺は説明を求められ、止められ、守られようとする。

 それは、優しさだ。だからこそ、危険だった。

 

「……今夜、出る」

 

 言葉にした瞬間、胸の魔王印が静かに熱を帯びた。

 

『決めたか』

「ああ。──黒域へ行く」

 

 俺は地図を見つめたまま答える。

 

「勘違いするな。お前に言われたから行くんじゃない」

『クク、分かっている』

「……俺が決めた」

『だからこそ、悪くない』

 

 メルギドスの声は、どこか満足げだった。

 

「必要なものを持って出る」

『荷物か』

「万全……とまではいかなくても、最低限は準備できる。金、地図、水、保存食。学園の制服は目立つが、今は替えがない」

『魔王の旅立ちにしては質素だな』

「……うるさい」

 

 資料を戻し、必要な部分だけ写しを取る。

 黒域の地図。旧魔王領への経路。危険地帯の注記。魔王の剣に関する記録の一部。魔王メルギドスの記録も、必要な箇所を書き写した。

 本人が横にいるのに記録を書き写すというのは、妙な気分だった。

 

『ククク、我の偉業を丁寧に書き写すがいい』

 

 メルギドスがうるさいが手は止めなかった。

 俺は選択した。闇に手を伸ばし、掴んだ。

 ならもう、メルギドスの言う通り進むしかない。

 

 資料棟を出る頃には、夜はさらに深くなっていた。

 校舎の灯りはほとんど消えている。遠くに見える寮の窓だけが、いくつか淡く光っていた。あのどこかに、アリアがいるのかもしれない。眠れているだろうか。いや、眠れているはずがない。

 

 胸が痛む。

 だが、足は寮へ向かなかった。

 寮に戻れば、誰かに見つかる可能性がある。荷物を取りに行くのも危険だ。幸い、財布と学生証、携帯用の水筒は持っている。保存食は購買棟横の非常備蓄から少しだけ持ち出すしかない。悪いことをしている自覚はある。だが、今さら行儀よく申請して出ていくわけにもいかない。

 

『なかなか堂に入った夜逃げだ』

「……夜逃げ」

『出奔か?』

「それも嫌だな」

『闇堕ちした宿敵の旅立ち、でどうだ?』

「……もっと嫌だ」

 

 小声で言い返しながら、俺は学園の外縁へ向かった。

 王立聖戦学園の敷地は広い。正門には夜間警備がいる。だが、外縁には物資搬入用の小門がある。戦技科の実習で使う道具を運ぶため、俺も何度か通ったことがあった。夜は閉じているが、内側からなら開けられる。もちろん、記録は残る。

 記録が残るなら、朝には気づかれる。

 

 それでいい。

 朝には、俺はもう学園の外にいる。

 小門の前で、俺は一度だけ振り返った。

 白亜の校舎。中央礼拝堂の尖塔。訓練場の影。治療棟の白い屋根。中央広場に立つ魔王像。

 昨日まで、俺の日常だった場所。

 

 傷ついて、癒やされて、記録されて、叱られて、挑んで、負けて、それでもまた立ち上がった場所。

 

 嫌いではなかった。

 むしろ、きっと好きだった。

 だからこそ──俺はここを去る。

 

「……行く」

『ああ』

 

 メルギドスは、それ以上何も言わなかった。

 俺は小門を開ける。古い金具が小さく軋んだ。夜風が頬を撫でる。学園の外へ、一歩踏み出す。

 その瞬間、何かが切れたような気がした。

 

 いや、違う。

 切ったのだ。

 自分で。

 

 歴史書の魔王は、世界を脅かした怪物だった。

 女神の祝福に抗い、勇者たちと戦い、黒き魔力で戦場を染めた存在。

 けれど、俺の胸の奥にいる魔王は、俺の傷を笑わなかった。

 だからこそ、危険だった。

 それでも俺は進む。

 

 光の学び舎ではない。

 勇者の隣でもない。

 守られるための場所でもない。

 かつて魔王が世界に影を落とした場所。

 

 黒域へ──。

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