勇者に勝ちたいだけなのに、魔王の剣が闇堕ちした宿敵ムーブを強要してくるせいで周りが曇り始めた。 作:黒雪ゆきは
時は、少しだけ遡る。
アリアに背を向け、第三訓練場を出たその夜。
俺は寮へ戻らなかった。
戻れば、きっと足が止まる。寝台に腰を下ろし、昨夜までと同じ天井を見上げた瞬間、考えてしまう。
明日の朝、第一訓練場へ行けばアリアがいるかもしれない。治療棟へ行けばリーナがいるかもしれない。第三訓練場へ行けばエルネアに記録されるかもしれない。第二訓練場の方を通れば、クラウディアに見つかるかもしれない──と。
そうなれば、俺はきっと迷う。
アリアの顔が、脳裏に焼きついて離れなかった。血の気を失った顔。震える声。俺を助けたいと言った時の、泣きそうな瞳。
胃が痛い。ひどく痛い。
それでも、俺は進む。もう戻らない。
『クク、随分と足が重いではないか』
胸の奥で、メルギドスの声が響いた。
「……黙っていてくれ」
『選択の正しさを思案することほど無意味なことはない。この我でさえも、分からんのだからな』
「…………」
『正しかったかどうかなど、後の者が勝手に決めればいい。選んだ者にできるのは一つだけだ』
「……何だよ?」
『進め。そして、己の選択を正しかったことにしろ』
「おい……まさかとは思うが、励ましているのか?」
『教育しているのだ。魔王となる者が、選んだ道の前で膝を折るな』
「だから、魔王になんてならねぇんだよ……」
俺は人通りの少ない回廊を進む。
夜の学園は、昼間とは別の顔をしていた。白亜の校舎は月明かりを受けて青白く沈み、聖紋の刻まれた壁は静かに光を返している。どこも美しい。どこも清らかで、整っていて、女神の祝福を掲げる学び舎に相応しい。
その清らかさが、今は少しだけ息苦しかった。
俺の胸には魔王印がある。足元の影には魔王の剣が眠っている。アリアには見られた。中央広場の剣が消えていることも、いずれ誰かが気づくだろう。
──メルギドスの言う通り、進むしかない。
だが、まずは知りたい。
俺は何と契約したのか。この力について。
メルギドス・ノクスヴェルトという魔王が、歴史の中で何を成したのか。
向かったのは、学園の片隅にある古い資料棟だった。
王立聖戦学園には、講義棟や訓練棟とは別に、古い記録を保管する資料棟がある。魔法史、聖戦史、魔物分類、禁忌指定前の古い術式、魔王戦役に関する断片的な記録。普段ここへ来るのは、賢者科や魔法史を専攻する生徒がほとんどだ。……少なくとも、戦技科の男子生徒が夜に訪れる場所ではない。
だからこそ、今は都合が良かった。
資料棟の扉は、施錠されていなかった。
しかし、完全に無警戒というわけではない。入口には簡易の認証術式が組まれている。とはいえ、学園の生徒であれば閲覧自体は可能だ。禁書庫に入るわけではない。一般閲覧可能な古文書なら、時間外でも記録は残るが読むことはできる。
俺は学生証を認証盤に当てる。
小さな光が走り、扉が重い音を立てて開いた。
中は、古い紙と埃の匂いがした。
高い天井まで伸びる書架。月明かりを受けて細く光る窓。長机の上に置かれた魔灯。誰もいない資料棟は、息を潜めた墓所のように静かだった。
『悪くない場所だ』
メルギドスの声が聞こえた。
『古い記録には、死者の声が残る。嫌いではない』
「……いや怖いこと言うなよ」
俺は魔灯に火を入れ、資料検索用の索引盤へ向かった。賢者科の生徒がよく使っているものだ。指で文字をなぞると、関連資料の棚番号が浮かぶ。
検索語は決まっていた。
──『メルギドス・ノクスヴェルト』
その名を入力した瞬間、索引盤の光がわずかに揺れた。該当資料は多くない。いや、正確には、閲覧可能な資料が少ないのだろう。いくつかの棚番号と、閲覧制限付きの記録名が浮かび上がる。
その中で、一般閲覧可能なものを選んだ。
魔王戦役概説。
黒き魔力に関する事実と考察。
封印遺物目録、第三分類。
旧魔王領および黒域に関する地理記録。
最後の一つに、わずかに目が留まった。──黒域。
魔王印が微かに熱を帯びた気がした。
『そこまで辿るか』
「……何か知っているな」
『当然だ』
「説明する気は?」
『読め』
「性格が悪い」
『己で調べると言ったのは貴様だ』
「……それもそうだな」
腹は立つが、間違ってはいない。
俺は書架から資料を引き出し、長机に並べた。分厚い羊皮紙の綴じ本。古びた紙束。ところどころ擦り切れた地図。どれも長い時間を経てきたものだった。
最初に開いたのは、魔王戦役概説だった。
そこに記されていたのは、講義で習うよりもずっと生々しい魔王の記録だった。
魔王メルギドス・ノクスヴェルト。
女神の祝福に抗う黒き魔力を操り、聖王国を含む複数の国家と敵対した存在。彼の闇は単なる破壊の力ではなく、祝福の流れそのものを乱し、勇者や聖女の力を鈍らせたとされる。聖騎士の結界を侵し、賢者の術式を崩し、戦場に立つだけで兵の心を折った。
記録の文字を追うほど、背中に冷たいものが走る。
俺は、想像以上のものと契約していた。
「……本当に、ろくでもないな」
『概ね事実だな』
「概ね?」
『誇張もある』
「そうなのか……?」
『我は世界すべてを闇で覆ってなどいない』
「そこか」
『半分程度だ』
「……十分最悪だろ」
低い笑い声が胸の奥で響く。
ふざけている。だが、資料に記された内容は笑えなかった。
メルギドスは、ただ強い魔王ではない。女神の祝福を前提に成り立つ世界そのものに対する異物だった。祝福を持つ者が人々を導き、祝福を持たぬ者が守られる。この国では当たり前の秩序。その秩序の外側から、闇を叩き込んだ存在。
俺はページをめくる。
勇者連合との最終決戦。
複数の勇者、聖女、聖騎士、賢者による連合軍。戦場となった旧魔王領。メルギドスの肉体は討たれ、黒き魔力は崩壊した。だが、遺体は残らず、魔王の剣のみが回収された。
──魔王の剣。
その記述を見た瞬間、足元の影がわずかに揺れた
封印遺物目録を開く。そこには、魔王の剣についての分析記録があった。
黒色の長剣。材質不明。聖魔法による浄化反応なし。物理損傷なし。魔王メルギドス・ノクスヴェルトが戦場で用いたとされる遺物。危険度は高いが、長期封印後に活動反応は確認されず。後世、魔王の脅威を忘れぬ戒めとして、王立聖戦学園中央広場の魔王像下へ移設。
「……本当に、学園が勝手に飾っていたのか」
『だから言っただろう』
「お前もよく黙っていたな」
『眠っていたからな。ほとんどは』
「ほとんど?」
『たまに目覚めては、若き勇者候補どもが我の前で恋愛相談をするのを聞いていた』
「最悪の目覚めだな」
『実に退屈だった』
「同情はしない」
まったく気は緩まないが、少しだけ、息が抜けた。
資料はさらに続く。
魔王の剣は長い間、危険反応を示さなかった。だから学園側は、これを「象徴」として扱った。魔王の脅威を忘れないための戒め。勇者候補たちが日々通る場所に置くことで、過去の災厄を記憶させる。
皮肉にもほどがある。
魔王を討つ者たちを育てる学び舎の中心に、本物の魔王の剣が眠っていた。
そして、それを俺が手にした。
俺は思わず胸元を押さえる。
魔王印は制服の下で静かに脈打っている。痛みはもうない。だが、熱は消えない。
「……この印は何だ? 時々、熱くなるんだが」
『魔王の剣と貴様を繋ぐ楔だと言っただろう』
「それは聞いたけど、資料には載っていない」
『当然だ。記録に残るはずがない』
「……どういう意味だ?」
『刻まれた者など、これまで一人もいない』
その言葉に、嫌な重さがあった。
「……一人も?」
『剣に触れた者はいた。力を望んだ者もいた。闇に縋ろうとした者もいた。だが、我が美学を体現できると思えた者はいなかった』
「また美学かよ……」
『魔王とは、力を振るうだけの獣ではない。憎悪に呑まれるだけの愚者でもない。恐れられ、憎まれ、理解されず、それでもなお己の在り方を貫く者だ』
「……かっこよくまとめてるが、やっていることは最悪だろ」
『光栄に思え。このメルギドス・ノクスヴェルトが認めた初めての器だ』
「…………胃が痛すぎる」
『贅沢な男だ』
俺は溜息を吐き、次の資料へ手を伸ばした。
――『黒き魔力に関する事実と考察』
そこには、闇の魔力についての断片的な記述があった。
女神の祝福とは別系統の力。聖魔法による分類不能。精神状態と密接に結びつき、執念、憎悪、屈辱、反抗心によって増幅すると推測される。使用者の肉体に強い負荷をかける。祝福の流れを乱す性質を持つ。
文字を追うほど、喉の奥が乾いていった。
そこに書かれているのは、知らない力の説明ではなかった。
俺の中にあったものへ、後から名前を与えられているようだった。
執念。
屈辱。
反抗心。
どれも、覚えがあった。認めたくないほどに。
女神の祝福を持たない男として見られるたび、胸の奥で燻っていたもの。アリアに守られるたび、感謝の奥で押し殺していたもの。
何度倒されても、何度届かないと思い知らされても、それでも剣を手放せなかった理由。
──アリアに勝ちたい。
ただ、その願いだけが、ずっと俺の中にあった。
そして今、その願いに『闇』という名前が与えられている。
それが、この力の源。
そう書かれているようだった。
「……気分が悪いな」
『自分の醜さを記録で突きつけられるのは愉快ではあるまい。だが、目を逸らすな。貴様が掴んだ力は、そういうものだ』
「……分かっている」
分かっている。
だから、ここに来た。
契約してしまった。力も得た。アリアも傷つけた。なら、今さら綺麗な言葉で誤魔化すことはできない。
俺は資料を閉じ、最後の地理記録へ手を伸ばした。
──『旧魔王領および黒域に関する地理記録』
黒域。
また、その文字が目に入る。
古い地図が挟まれていた。エウリア聖王国の北西、山脈と荒野の向こう。かつて魔王メルギドスが支配したとされる土地。現在は正式な国家として認められておらず、聖王国の統治も、教会の影響もほとんど及ばない。
黒い魔力の残滓が地脈に残り、人類とは異なる種族――『魔族』と呼ばれる者たちの存在が確認されている危険地帯。
女神の祝福の秩序が届かない土地。
俺は、その一文から目を離せなかった。
エウリア聖王国では、女神の祝福は女性にのみ宿る。勇者も、聖女も、賢者も、聖騎士も、女神に選ばれた者たちが人々を守る。持たざる者は、守られる。男は、特にそうだ。
──それが正しいとされている国で、俺はずっと剣を振っていた。
守られる側でいたくないと願いながら。
誰かの後ろに置かれることに耐えられずに。
その果てに、俺は魔王の剣を掴んだ。
ここに……ほんとうの俺の居場所はあるのか?
勇者を育てる第一訓練場に。
聖騎士が盾を構える第二訓練場に。
戦技科が努力で前線に立とうとする第三訓練場に。
治療棟の白い光の中に。
エルネアの記録板の上に。
アリアの優しい手の届く場所に。
「…………」
答えはでない。
彼女達と過ごした時間を否定できるほど、俺は強くなかった。
胸の奥で、メルギドスが笑う気配がした少しだけ意外だった。
『クク……よいぞ。全てを抱え闇へ堕ちるがいい』
「……なんてことを言うんだ」
『迷い、苦しみ、惜しみ、それでも光ではなく闇に堕ちることを選ぶ。──実に美しい』
「…………」
こいつなら、もっと偉そうに言うと思っていた。
黒域へ行け。光の学園を捨てろ。勇者の前に立つなら闇の地へ向かえ。そう命じてもおかしくない。
だが、メルギドスは何も言わない。
ただ、俺が資料を読み、考えるのを待っている。
それが、かえって厄介だった。
俺は自分で考えなければならない。
自分で選ばなければならない。
誰かの命令ではなく、誰かの期待でもなく、俺自身の意志として。
俺は地図を見る。
黒域までは遠い。聖王国の正規街道から外れ、山道を越えなければならない。危険な魔物も出る。祝福の影響が薄い土地なら、聖王国の常識も通じないだろう。
だが、そこなら魔王の剣について何か分かるかもしれない。闇の魔力を隠さずに済むかもしれない。
何より、そこは女神の祝福の秩序から外れた場所だった。
俺が、守られる側へ戻されない場所。
アリアたちの優しさに、身を焼かれない場所。
そう思った瞬間、また胃が痛んだ。
リーナの顔が浮かぶ。
怪我をしたら必ず来てください、と言った声。
エルネアの顔が浮かぶ。
貴方は弱くない、と告げた平坦な声。
クラウディアの顔が浮かぶ。
戦いは私たちに任せてくれ、と真っ直ぐに告げた瞳。
そして、アリアの顔が浮かぶ。
助けたい、と震えた声。
俺は歯を食いしばった。
会えば、揺らぐ。それだけは分かった。
アリアに泣かれて、平気でいられるほど俺は強くない。リーナに傷を見られれば、きっと言葉に詰まる。エルネアに問い詰められれば、隠しきれない。クラウディアに止められれば、振り切る自信がない。
だから、朝まで待てない。
明日になれば、必ず騒ぎになる。中央広場から魔王の剣が消えたことに誰かが気づく。アリアはきっと動く。学園も動く。俺は説明を求められ、止められ、守られようとする。
それは、優しさだ。だからこそ、危険だった。
「……今夜、出る」
言葉にした瞬間、胸の魔王印が静かに熱を帯びた。
『決めたか』
「ああ。──黒域へ行く」
俺は地図を見つめたまま答える。
「勘違いするな。お前に言われたから行くんじゃない」
『クク、分かっている』
「……俺が決めた」
『だからこそ、悪くない』
メルギドスの声は、どこか満足げだった。
「必要なものを持って出る」
『荷物か』
「万全……とまではいかなくても、最低限は準備できる。金、地図、水、保存食。学園の制服は目立つが、今は替えがない」
『魔王の旅立ちにしては質素だな』
「……うるさい」
資料を戻し、必要な部分だけ写しを取る。
黒域の地図。旧魔王領への経路。危険地帯の注記。魔王の剣に関する記録の一部。魔王メルギドスの記録も、必要な箇所を書き写した。
本人が横にいるのに記録を書き写すというのは、妙な気分だった。
『ククク、我の偉業を丁寧に書き写すがいい』
メルギドスがうるさいが手は止めなかった。
俺は選択した。闇に手を伸ばし、掴んだ。
ならもう、メルギドスの言う通り進むしかない。
資料棟を出る頃には、夜はさらに深くなっていた。
校舎の灯りはほとんど消えている。遠くに見える寮の窓だけが、いくつか淡く光っていた。あのどこかに、アリアがいるのかもしれない。眠れているだろうか。いや、眠れているはずがない。
胸が痛む。
だが、足は寮へ向かなかった。
寮に戻れば、誰かに見つかる可能性がある。荷物を取りに行くのも危険だ。幸い、財布と学生証、携帯用の水筒は持っている。保存食は購買棟横の非常備蓄から少しだけ持ち出すしかない。悪いことをしている自覚はある。だが、今さら行儀よく申請して出ていくわけにもいかない。
『なかなか堂に入った夜逃げだ』
「……夜逃げ」
『出奔か?』
「それも嫌だな」
『闇堕ちした宿敵の旅立ち、でどうだ?』
「……もっと嫌だ」
小声で言い返しながら、俺は学園の外縁へ向かった。
王立聖戦学園の敷地は広い。正門には夜間警備がいる。だが、外縁には物資搬入用の小門がある。戦技科の実習で使う道具を運ぶため、俺も何度か通ったことがあった。夜は閉じているが、内側からなら開けられる。もちろん、記録は残る。
記録が残るなら、朝には気づかれる。
それでいい。
朝には、俺はもう学園の外にいる。
小門の前で、俺は一度だけ振り返った。
白亜の校舎。中央礼拝堂の尖塔。訓練場の影。治療棟の白い屋根。中央広場に立つ魔王像。
昨日まで、俺の日常だった場所。
傷ついて、癒やされて、記録されて、叱られて、挑んで、負けて、それでもまた立ち上がった場所。
嫌いではなかった。
むしろ、きっと好きだった。
だからこそ──俺はここを去る。
「……行く」
『ああ』
メルギドスは、それ以上何も言わなかった。
俺は小門を開ける。古い金具が小さく軋んだ。夜風が頬を撫でる。学園の外へ、一歩踏み出す。
その瞬間、何かが切れたような気がした。
いや、違う。
切ったのだ。
自分で。
歴史書の魔王は、世界を脅かした怪物だった。
女神の祝福に抗い、勇者たちと戦い、黒き魔力で戦場を染めた存在。
けれど、俺の胸の奥にいる魔王は、俺の傷を笑わなかった。
だからこそ、危険だった。
それでも俺は進む。
光の学び舎ではない。
勇者の隣でもない。
守られるための場所でもない。
かつて魔王が世界に影を落とした場所。
黒域へ──。