傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
都市の脅迫者たる魔女教が撃退され、水門都市プリステラが勝利を収めたという放送が響き渡る中、スバルとエミリアは急ぎ足で都市庁舎へと向かっていた。ひとまずの全滅エンドを回避できた安堵を感じつつも、スバルは自身の胸の内に宿る不穏な感触に神経を尖らせていた。
──『魔女因子』。
魔女教とスバルを繋ぐ不純物の正体は、おそらくそう呼ばれるモノだ。
『怠惰』ペテルギウス・ロマネコンティを倒した直後にも、スバルは同じ不快感をその身に宿すことになった。その異物感の正体が『魔女因子』であると、最初に聞かされた相手はやはり『強欲の魔女』エキドナからだったはずだ。
そして──レグルスから引き継いだその『強欲』の冷たい不純物のすぐ隣に、さらにもう一つ、ペテルギウスの『怠惰』とも違う、奇妙な三つ目の異物感がかすかに紛れ込んでいることにスバルは気付く。
(……いや、待て。なんだこれ。もう一つ、あるのか……?)
胸の奥をチリチリと焦がすようなその不快感は、しかし、怠惰や強欲のそれに比べると、驚くほどに希薄で、小さかった。まるで、本来あるべき一つが分割されているような、ひどく不完全な、けれど確かに独立した意思を持つ不純物──。この魔女因子らしきものを、大罪の分類に当てはめようと思っても、すべて枠は埋まっているように思えた。怠惰、強欲──討伐済み、スバルが多分持ってる。色欲、暴食、憤怒の大罪司教、傲慢の魔女は生存している。そして、嫉妬の魔女は封印されている──なら、この因子はいったい何なのだろう。あるいは魔女因子に似た、別の何かだったりするのだろうか。
「七大罪があるなら七美徳とか……」
なぜ大罪司教を倒したわけでもないのに、自分がこんなものを持っていたのか。謎は尽きない。ただ、魔女因子は、大罪司教や大罪の魔女たちとも深い繋がりがある。あのフランダースを名乗る『傲慢の魔女』に──ベアトリス曰く──次に会った時、詳しい話を聞かなければならないかもしれない。
なんて、自身の不安はいったん脇に置く。
今は皆の無事を確かめなければ。
「とにかく、都市庁舎に急いで戻ろう。ちゃんとこの目で確かめねえと安心できねぇ」
スバルはエミリアと花嫁たちと帰路を急ぐ。
そうして、一行の目の前に崩壊した庁舎が現れ、絶望しかけるも──瓦礫の上から響くリリアナの歌声が救う。相変わらずの感動的な引き込みからの、最後は「あじゅじゅっしたぁ!」と盛大に舌を噛むお約束でスバルたちの毒気が抜ける。
「スバル! やっと戻ってきたかしら!」
「……ベアトリス?」
瓦礫の上のライブがなおも続く中、聞き慣れた少女の声にスバルは振り返った。
都市庁舎の跡地に集まる大勢の人々、その人垣を迂回するようにしてやってくるのは、ふわりとしたドレスの裾を持ち上げて歩くベアトリスだった。
彼女はスバルたちの下へ辿り着くと、その丸い瞳で二人を見やり、
「ん、二人とも大きなケガはないみたいなのよ。帰りが遅くて心配したかしら。もしベティーのいない間に大ケガでもしてたら、おちおちトイレもいかせられなくなるのよ」
「そこまで手がかかるって幼稚園児かよ……つか、ベア子、お前こそどうした? マナの使い込みが祟って、戦線離脱してたはずだったじゃねぇか」
「その、ベティーに非があるように聞こえる言い方やめるかしら! 大体、スバルの足があるのはベティーの献身のおかげなのよ! 感謝と抱っこが足りないかしら!」
「わかってるわかってるって」
ぷりぷりと怒り心頭のベアトリスを抱き上げ、スバルは親愛の頬ずりをする。そうしていると、膨れっ面のベアトリスも徐々に態度が軟化してくる。
「また俺の留守中に頑張ってくれてたのか。いつも悪ぃな、迷惑ばっかりかけて」
「スバルがベティーに迷惑をかけるのは当たり前だから、気にする必要ないのよ。……嘘かしら。やっぱりちょっとは気にするのよ。気にして、感謝かしら」
スバルの謝罪を受け入れ、ベアトリスは寛容を示しつつも注意を忘れない。それから、ベアトリスはエミリアの方にも向き直り、
「エミリアも、無事で安心したのよ。お前に何かあったら、にーちゃが悲しむかしら」
「うん、そうよね。ベアトリスも、心配してくれてありがとう。スバルとラインハルトがきてくれたおかげでへっちゃらよ」
力こぶを作り、健在をアピールするエミリアにベアトリスが「ふんっ」と顔を背ける。ほんのり頬が赤くて、照れを隠し切れていない。可愛い。
「で、可愛いベア子に質問だ。リリアナがああしてるってことは、こっちの大勝利で間違いないんだろうが……他のみんなは? ちゃんとビル崩す前に避難させたか?」
「え? これってベアトリスが壊しちゃったの? お小遣いで弁償できるかしら……」 「神妙な面して何を言い出すのよ! ベティーがやったわけじゃないかしら! この建物はベティーが出てったあと、勝手に残骸になったのよ!」
「冗談だよ、冗談」
濡れ衣を着せられたベアトリスの弁明にスバルが笑い、エミリアが「え? どっちなの?」と混乱中。だが、こうしてベアトリスが益体のない話に付き合ってくれているのだ。
「つまり、ベア子が落ち着けてるぐらいにはみんな大丈夫だったってことで……」
「──そそ。ちゃーんとうちらも脱出してるから、心配せんでええよ」
「とと、その声は……あれ?」
スバルの推測に同意するおっとりとしたカララギ弁が響き、三人は一斉に声の主へと顔を向けた。
崩壊した建物の残骸やごった返す群衆を避けるようにして歩み寄ってくる、見覚えのある小柄なシルエット。しかし、その姿にスバルが奇妙な違和感を抱いたのは、彼女の印象を決定づけるはずの色彩が、記憶にあるものと全く異なっていたからだ。
「アナスタシアさん、か?」
「なんやの、その確認……って、あぁ、そやったね。うち、今は髪の色が違うくなってるから」
いつもの上品な薄紫色の髪が、いまは鮮やかな深緑色へと大胆に変貌を遂げている。
それだけの変化で劇的に雰囲気を変えたのは、お馴染みの着物をまとうアナスタシア・ホーシンだった。彼女は無事に出会えたスバルたち三人の姿を視線で捉えると、安堵したように、はんなりとした笑みを浮かべて頷いてみせる。
「ん、ナツキくんもちゃぁんとエミリアさんを連れ帰ったみたいやね。剣聖さんから聞いてたから、そこまで不安視はしてへんかったけど」
「ラインハルト、ちゃんと合流しててくれたか」
「ビューンって空飛んできよったよ。……ただ、なんちゅーか、あの完璧な騎士様にしては珍しく、ひどく放心したような、思い詰めたツラしとったわ。衣服もあちこちボロボロでなぁ」
「逃がした……? ラインハルトが、敵を取りこぼしたってのか?」
スバルが信じられないと息をのむ。あのラインハルトが。
「大罪司教とは別の、金髪赤目の少女──自らを『傲慢の魔女』と名乗る規格外の手練れが乱入してきたらしいわ。ラインハルトの話やと、その魔女は一番街で凄まじい破壊の権能を振るって、あまつさえハインケルさんを人質に取ってラインハルトと正面から死闘を演じた末に、夜闇に消えたそうや。……信じられんけど、あのラインハルトに一度は致命傷を与えて、正面から退けた化け物が、まだこの世界におったんやね。今はフェリスさんを連れて避難所を巡りつつ、その魔女や、魔女教の残党を警戒しとるいうんが実際のところやね」
「──金髪、赤目の……『傲慢の魔女』?」
アナスタシアの口から告げられたその特徴に、スバルの脳裏に、あの昼間の大水路沿いで自分の背中に弾むように飛びついてきた少女の姿が、鮮烈にフラッシュバックした。
「スバル……もしかしなくとも、あいつのことかしら」
隣にいたベアトリスも、丁寧に巻かれた縦ロールの頭を微かに震わせ、薄桃色の蝶々の瞳に驚愕を宿してスバルを見上げてくる。
間違いない。あの、自らを『だいたい四百歳のフランダース・スカーレット』などとふざけた偽名で呼び、元の世界のネタや悪ノリを嬉々として口にしていた、あの東方ファンのロリっ子だ。
(やっぱり……アイツ、あのラインハルトを正面からボコボコにして退けるような、とんでもねぇ危険人物だったのか……!?)
最強の騎士と戦い逃げおおせただけでなく、衣服をぼろぼろにするほどの実力者。ラインハルトがエルザ相手に見せた超級の剣戟やレグルスを手玉に取った戦闘技術を思い返しても、そんなことが可能だとは思えなかった。背筋に冷たい戦慄が駆け巡る。
だが──スバルは思わず、昼間に交わしたあの他愛のない、妙に小気味よいやり取りの温度を思い出していた。
『ネロとパトラッシュ』のツッコミに「あはは!」と無邪気に破顔し、ベアトリスの髪をわしゃわしゃと楽しそうに撫で回し、どこか寂しげに笑いながら「死んじゃったら、私も悲しいからさ」と言い残していった、あの佇まい。
(……いや、でも。あの三人で話した時の感触じゃ、エキドナのあの底の知れない不気味さとも、大罪司教たちの会話すら成立しない本物の狂気とも、決定的に違ってたはずだ。あいつがそんなに悪いやつには見えなかった)
「ナツキくん? ベアトリスちゃんも、どうしたん? なんか心当たりでもあるようなツラして」
「あ、いや……何でもねぇよ。ちょっと、その魔女ってのがどんだけデタラメなのかと思ってさ」
そうして話を戻し、アナスタシアから憤怒攻略組の無事や、『色欲』の大罪司教カペラがアナスタシア扮するクルシュを襲撃したものの、アルの活躍もあり追い返したこと、そして。
「全員、無事に戻ってきとるよ。欠員なしや」
──この一言で、スバルはひどく安心した。
怪我人と医療従事者がせわしなく行き交う、さながら野戦病院の様相を呈した避難所へ移動したスバルたち。そこで待っていたのは、全身を青黒い打撲傷で満たしながらも、役割を全うした自信から晴れ晴れとした顔をしたガーフィールだった。スバルと彼が互いの健闘を称え合って力強く拳を突き合わせたのも束の間、側から
「どんどこどーん!」
という文字通りの衝撃と共に、小さな影が突撃してくる。
かろうじて快方に向かったばかりのミミが、ガーフィールを派手に床へ押し倒し、その胸の上に跨って「男は尻に敷くもの」とお嬢の受け売りを嬉々として自慢し始めたのだ。しかし、案の定治りたての体ではしゃぎすぎたせいで、包帯の隙間からたちまち血がドバドバと溢れ出す。説教を垂れながらも顔を真っ青にして、ミミを救護所の奥へと慌てて担ぎ込んでいくガーフィールの姿に、スバルたちは呆気にとられるしかなかった。
遠ざかる二人を見送りながら、エミリアが
「あの調子なら、ガーフィールが一人で悩む暇もなさそうね」
と、男女の機微を感じさせる大人びたコメントを口にする。スバルの熱烈な告白には「まだよくわからない」と保留にし続けている彼女が、他人の恋愛模様を的確に分析してみせたことにスバルは驚愕し、
「俺の知らない間に大人の階段を上っちまったのか!?」
と取り乱すが、花嫁衣装を動きづらいからとためらいなく引き裂いたエミリアの中身は、良くも悪くも相変わらずのピュアさだった。その様子をベアトリスが
「お子様たちが揃って背伸びをしているかしら」
と余裕の呆れ顔で総括するが、その不遜なコメントに、ベッドの陰から過剰なツッコミを入れた男がいた。
「一番見た目が幼いベアトリスちゃんに言われると、形無しですよねえ」
「なんだ、いたのかよ、オットー」
「最初からいましたけど!?」と、包帯ぐるぐる巻きの腕を痛々しげにさすりながら恨めしげな声を上げたのは、すぐ横の簡易ベッドで横になっていたオットーだった。満身創痍の内政官は、スバルたちが自分の病床の周りで勝手にお喋りを展開していたことに抗議しつつも、主戦力が不在だった庁舎を襲った悪夢のような夜を振り返り、深く重いため息を吐き出す。
オットー曰く、叡智の書を回収しに向かう道中、遭遇してしまったのは『暴食』の大罪司教、ライ・バテンカイトス。子供の皮を被ったその化け物は、オットーが『言霊の加護』で襲わせた水竜をなぎ倒し、鉄の牙の団員の記憶を奪い、蹂躙していったという。もしもベアトリスの加勢がなければ自分は間違いなく『暴食』に食べられていた、と青ざめるオットー。
フェルトによって生じた隙をミーティアで打ち抜いたは良かったが、『ルイ・アルネヴ』と名乗る新たな『暴食』により、引かざるをえなかったという。非戦闘員をも容赦なく標的にする大罪司教への憤りを新たにするスバルに、オットーはさらに声を潜め、隣の避難所にプリシラたちによって捕縛された『憤怒』が厳重に転がされていることを告げるのだった。
オットーの言葉に促され、スバルは避難所に向かう。頑丈な鉄の扉を押し開けて、冷え切った石造りの一室へと足を踏み入れた。カビの匂いが漂う部屋の中央では、左目以外のすべてを包帯でくまなく覆われた異形の怪人──『憤怒』の大罪司教シリウス・ロマネコンティが、自身の鎖にがんじがらめにされて身動きを完全に封じられていた。
見張りを引き受けているアルが「耳が腐りそう」と吐き捨てる通り、シリウスは狂ったように頭を振り乱し、ペテルギウスへの歪んだ愛呟き続けていた。魔封じの拘束具で範囲は狭められているものの、室内に響き渡るシリウスの『怨樂』は、聴く者の脳髄を直接かきむしるような悍ましさに満ちている。結局、ロクな収穫はなく、ただただ大罪司教とは相容れない存在なのだと理解した一幕だった。
どれほど言葉を尽くそうとも、最後の最後まで決して分かり合えることのない、絶対的な邪悪。その救いようのないおぞましさを骨の髄まで理解したスバルは、これ以上の滞在は無意味だと背を向け、冷たい密室を後にする。
耳の奥にこびりつく耳障りな歌声を振り払うように頭を振り、アルに別れを告げて避難所の喧騒へと戻っていく道すがら──スバルは、人々の再会の輪から離れた静かな片隅で、物言わぬ灰の包みを愛おしそうに抱き抱える、あの老剣士の姿を発見するのだった。
「──スバル殿ですか」
「……はい、そうです」
声をかけるのをためらっていたこちらの気配を察したのか、静かに瞼を持ち上げた老剣士がスバルを見据える。その双眸に宿る、すべてをやり遂げたような、凪いだ水面に輝く光に触れて、スバルの胸中にあった余計な緊張感はすっと霧散していった。
冷たい石壁に身を寄せ、気配を消すように佇んでいたヴィルヘルム。スバルはそっとその横へと歩み寄り、肩を並べるようにして老人の様子を盗み見た。
全身に刻まれた無数の傷跡が、先ほどまで繰り広げられていた死闘の凄まじさを無言で物語っている。
無防備な軽装の隙間から覗く肌には幾重もの斬撃の痕があり、いつもなら端正にまとめられているはずの白髪は、結び目が解けて痛々しく背中で揺れていた。何より痛々しいのは脇腹に固く巻かれた血濡れの包帯だったが、幾度となく死の境界線を渡ってきたスバルの目から見ても、辛うじて命の灯火を脅かすほどの致命傷は免れているように見えた。
だが、そんな老剣鬼の満身創痍な姿よりも、スバルの視線を強く釘付けにしたものがある。
彼のすぐ足元に、まるで壊れ物を扱うかのように大切に置かれた、丸まった上着の包みだ。
「ヴィルヘルムさん、それは……」
「────」
尋ねて良いものか迷いながらも、視線だけでその正体を問いかけてしまう。スバルの視線に気づいたヴィルヘルムは、静かにその包みへと目を落とした。
老いた求道者は愛おしげにその塊を見つめ、それから、長年の呪縛から解き放たれたような静かな声で、唇を動かした。
「……お察しの通り、妻です」
「────」
「息絶えた刹那、その身体は光の粒子のように灰へと還りました。冷たい夜風にさらしたまま残していくのはあまりに忍びなく、不格好ではありますが、こうして私の衣類で包み込んだのです。……せめてこの残滓だけでも、静かな墓所へと連れて帰り、正しく弔ってやりたいと考えております」
愛する者の骸を強制的に駆動させ、戦道具として利用する魔女教の邪悪な秘術。その契約が切れた最果てが、物言わぬ灰の骸なのだとスバルは理解した。
死者に鞭打つような底なしの冒涜であり、残された者へ与える精神的な残酷さは筆舌に尽くしがたい。ヴィルヘルムがどれほどの痛みを堪えてその灰を集めたのかを想像するだけで、胸の奥が引き裂かれるような義憤が湧き上がる。
「申し訳ありません。……最後の最後まで、私は妻のこととなると見苦しく取り乱し、分を弁えぬワガママを通そうとする男のようです」
「そんなこと!」
「────」
己の深い愛を見苦しい執着と自嘲するような老人の言葉に、スバルは我慢できずに強い声を張り上げていた。
感情の高ぶりを抑えきれないまま、スバルはヴィルヘルムの正面へと回り込んでその目を真っ直ぐに見つめる。ヴィルヘルムも予期せぬ強い反論に、僅かに目を丸くして少年を見返した。
「俺は、白鯨のときだって今夜だって、ヴィルヘルムさんが間違ってるなんて一度も思ったことないです! 誰よりも格好良くて、心の底から尊敬してます! 命を懸けて大事な人を想い続けることの、どこがワガママなんですか! 恥じることなんて絶対にないし、そんな風に自分を責める方が間違ってます!」
「スバル殿……」
「ヴィルヘルムさんは、本当に凄くて、立派な人です。奥さんを……ちゃんと自分の手で看取って、お墓に入れてあげたいって願うのは、人として絶対に正しいことです。うまく言葉にできないけど、俺はそう信じてます!」
一滴の偽りもない、スバルの魂からの叫びだった。
この胸の熱量だけは、誰に否定されようとも譲れない本音だ。
かつての霧の化け物との戦いも、今夜の残酷な再会も、運命はいつだってこの老剣士に過酷な試練を突きつけてきた。それでも剣鬼は決して折れず、自らの意地と刃だけで不条理を切り裂き、その愛を貫き通してみせたのだ。
どれほど歪で切ない幕引きだったとしても、その生き様が間違っているはずがない。己のすべてを捧げて一人の女性を愛し抜いたヴィルヘルムの軌跡は、何よりも気高く、正しいはずなのだと。
「見苦しいなんてこと、絶対にありません。お墓、心を込めて作ってあげてください。……もし、いつか機会があって、俺なんかがお邪魔じゃなければ、その時は俺にもお墓参りをさせてくれませんか」
「────」
「俺は、そうやって奥さんに手を合わせたい。ヴィルヘルムさんは、それだけのことを成し遂げた誇り高い人だって、俺が一番よく知ってますから」
感情に任せて捲し立てたせいで、言葉の辻褄が合っているかも怪しい。自分勝手な熱意の押し付けに呆れられるかもしれない、余計なお節介だと突っぱねられるかもしれない──そんな気恥ずかしさに襲われるスバルに対し、老剣士の唇が、ふっと柔らかく綻んだ。
固く張り詰めていた表情が解きほぐされていく。哀しみと決着を受け入れた横顔に、今度は心からの温和な光が灯った。そして、
「……ええ、ぜひともお願いします、スバル殿。あなたにも、妻の眠る場所へ言葉を届けにきていただきたい。他ならぬ、あなたにこそ」
「──! は、はい。その、光栄です」
それは単なる許しではなく、ヴィルヘルムの深い度量と信頼の証なのだと分かり、スバルは胸を熱くしながら頭を下げた。これ以上は、最愛の妻の残滓を抱く彼を煩わせるべきではない。静かにその場を離れるべきだ。
だが、最後にどうしても、これだけは自分の目で確かめておきたかった。
それは──、
「ヴィルヘルムさん。──奥さんとは、その、ちゃんと……伝えたいことを、伝えられましたか?」
「────」
十五の歳月を隔てた、あまりにも残酷な再会。その果ての立ち合いに、不本意な悔いなど残らなかっただろうか。世界でただ一人、彼にしか許されなかったその過酷な決着の果てに、剣鬼は何を見たのか。スバルは祈るような心地で、その答えを待った。
「妻とは……」
立ち止まり、振り返った少年の視線を受け止め、ヴィルヘルムが静かに口を開く。しかし、言葉はそこで一度途切れ、老剣士の視線が僅かにスバルから外れた。慈しむようなその目の先にあるのは、衣服に包まれた妻の遺灰。包まれた遺灰のぬくもりを確かめるように、そっと手を添える。
刹那、言葉には到底しきれないほどの深く、そして愛おしい記憶の光がその青い瞳を過り、彼は続けた。
「──はい。妻とは確かに、心ゆくまで言葉を交わしました。これ以上ないほどに、確かな別れを告げることができたのです」
スバルは、それはきっと、剣戟という名の比喩的な会話だったのだろうと解釈した。
かつて『剣聖』と呼ばれた女性と、その彼女を奪うために戦い続けた『剣鬼』。二人が極限の刃を交わし合ったことそのものが、彼らにとって至上の対話であり、その幕引きこそが、別れの挨拶だったのだと。
少年の誤解を、老剣士はあえて否定も肯定もしなかった。ただ、その胸の奥底に大切に仕舞い込まれた、あの今際の際に交わされた──本当に少女のようにはにかんだ彼女からの、運命の一目惚れの告白。その愛おしい妻の声音、表情、眼差しの尊さを静かに噛み締めるように、彼は満足げに目を細めた。
「私は妻を愛している。──その想いのすべてを、伝えることができました。あの日の、すべての始まりのことも含めて」
「……? そう、ですか」
静謐な、しかしあまりにも熱烈な老剣士の愛の宣誓。
その穏やかな声量とは裏腹に、胸を焦がすような純粋な熱量に圧倒され、スバルは深い感銘と共にそっと目をつむった。
「ようやく。ようやく前を向けそうです。これからは孫とも……ラインハルトの成長を見守れなかった分も向き合っていこうと思います」
ハッと、胸を打つ数々の感情を噛み砕き、再び目を開ける。
「ヴィルヘルムさん……ぜひ、そうしてあげてください。きっとラインハルトのやつも喜びます」
眼前に立つヴィルヘルムの顔には、最愛の者を失った寂しさのなかに、しかし一点の後悔も曇りもない、どこまでも満たされた男の笑みが浮かんでいた。これまで目をそらし続けてきた孫へ、またゼロから向き合う覚悟を。それを見たスバルもまた、報われた心地になって笑みを返した。
「ヴィルヘルムさん。お疲れ様でした」
「────」
「たぶん、またすぐに慌ただしくなるとは思うんですけど、それまでは休んでいてください。そっからは、また頑張ってください。特にラインハルトに。じゃあ、俺、もうちょっと周りに話とか聞いてきますから」
自分のかけた労いの言葉が適切だったのか確信が持てず、スバルは気恥ずかしさを誤魔化すように早口で捲し立てる。少し赤くなった頬を指先で掻きながら、背を向けて歩き出そうとした。
その背中に、
「スバル殿──」
「はい?」
遠ざかろうとした足を止め、呼ばれたスバルが振り返る。すると、ヴィルヘルムはすべてのトゲが綺麗に消え去った、どこまでも穏やかな老剣士の笑みを浮かべて、静かに頭を下げた。
「──感謝を。白鯨のときも、……羽衣亭での夜も、そして今夜も。あなたはいつだって、私たちの進むべき暗闇を照らし、道を整えてくれた。あなたとの出会いに、心からの救いと敬意を」
「あ、いや……そんな、俺なんて。……はい! それじゃ、またあとで!」
あまりにも真っ直ぐで濁りのない、至上の賛辞を正面から受け止め、スバルは顔を真っ赤にしながら今度こそ早足でその場を離れていった。
戻ってくるスバルの姿を見て、エミリアとベアトリスの二人が安堵の笑みを浮かべる。向かった時と今とでは、スバルの表情が劇的に和らいでいたからだろう。その変化には、スバル自身にも確かな自覚があった。
決して、死者との再会という現実そのものが喜ばしいわけではない。
それでも、ヴィルヘルムは自らの手で、何者にも邪魔されることなく正々堂々と決着をつけ、最愛の彼女を納得して看取ることができたのだ。それが成されたという事実が、少年にとって何よりの救いだった。
遠ざかっていく黒髪の少年の背中を、老いた剣鬼は目を細めながらジッと見つめていた。
その唇が、静かに、優しく結ばれる。
それは四十年にわたる永き旅路を終え、最愛の妻にすべての愛を伝えきった男の、完全なる満ち足りた静寂だった。
アストレアの家族が抱える不器用な確執は、未だそこにある。だが、今夜の戦場に最悪の破滅と決裂がもたらされなかった理由を、老剣士はその鋭い五感のすべてを以て明確に察していた。
大通りを隔てたあの場所で鳴り響いていた轟音、剣戟、刃と赫炎の輝き。
息子のハインケルが戦場に醜態を晒しにくることもなく、孫のラインハルトがその圧倒的な力で舞台を蹂躙しにくることもなかった、奇跡の裏。
遅れて合流した孫の衣服はボロボロに引き裂かれ、あの完璧な孫の『剣聖』にしては珍しく、かつてないほどに放心し、思い詰めた表情をしていた。
そして何より──一番街の冷え切った夜気の中に、微かに、けれど確かに残っていた、あの狂おしいほどの穢れたマナと焔の残痕。
四十年前、山間の岩陰で「諦めないで研ぎ澄まし続ければ、いつかは必ず届く」と不敵に笑い、自分に『剣鬼』としての呪いと祝福を授けた、あの金髪赤目の少女。
彼女が今夜、世界最強の天災をその身を挺して足止めし、自分たちの愛の幕引きを、文字通り命懸けで守り抜いてくれたのだと。
かの『傲慢の魔女』とは浅からぬ縁がある。あの、忌々しい傲慢の大罪司教との関係についてや、なぜ自分たちを見守ってくれたのか。自分の剣技はあれから、貴方から見ても成長しているのか。聞きたいことは山ほどあった。
そして、彼女を討つべき邪悪な魔女として冷徹に追わねばならぬのが、世界最強たる孫の義務なのだとしたら。
「……フランダース殿」
口の中だけで、誰にも聞こえない囁くような掠れた声で、恩人の名を剣鬼は呼び、
「──ありがとうございました」
音にされなかったその感謝と恩義は、決して誰にも聞かされることはない。
「いつか。再び剣を交えましょうぞ」
最強を敵に回してでも、自分たちの終わりを死守してくれた、あの小さくも傲慢な魔女の存在を、決して世界に明かさない。それこそが、助けられた老剣鬼が彼女へと捧げる、生涯最大の不文律であり固き誓いだった。
そんなことだけは決して、剣鬼は自らに破ることを許さなかった。