傲慢の魔女『フラン』   作:オド・ラグナの対義語

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『福音を待ち始めた日』

 人里から遠く離れた僻地に、雲を突くような峻険な山があった。

 山頂は常に厚い雲海に隔てられ、地上からその全貌を窺い知ることはできない。その麓には深く広大な森が広がり、よその土地とは比べ物にならないほど濃密なマナが、そこに根付く自然を異常なまでに発達させていた。

 

 その森は、ただ木々が生い茂るだけの場所ではなかった。

 踏み込んだ者の方向感覚を狂わせ、時には地形そのものを変え、まるで明確な意思を持つように侵入者を拒み続ける。人間の立ち入りを容易に許さない、文字通りの天然の要塞だった。

 

 しかし今、その危険極まりない不気味な迷いの森に、臆することなく踏み込む者たちがいた。

 フランダース・スカーレット。そして、ジュースが率いる魔女教の一隊である。

 

 かつて世界を救うために結成され、そして半ば失敗に終わって解散を余儀なくされた旅のパーティ。あの懐かしい仲間たちと離れ離れになって以来、フランの胸には、消えない寂しさが小さく燻り続けていた。

 だからこそ、ジュースたちの運搬隊がエキドナの館へ物資を届けると聞きつけた時、彼女は迷わずその同行を願い出たのだ。久しぶりに、大恩ある大好きな先生に会いに行きたい──その純粋な欲求だけが、フランの足を前へと動かしていた。

 

「ねーえ、この木、さっきも同じ場所になかった? 本当におもしろい森、だね!」

 

 そう言って、目印にしていた大木を容赦のないローキックでへし折ってしまったのは、他ならぬフランだった。

 彼女は跳ねるような軽快な足取りで、不気味にうねる巨木の間をすり抜けていく。黒を基調としたローブの裾が翻るたび、鮮烈な赤のインナーカラーがひらひらと美しく蝶のように舞った。

 

 その手と魂には、まだ獲得して間もない『傲慢』の魔女因子が宿っている。

 ありとあらゆる存在を等しく破壊する、絶対の破壊の権能。

 言葉にすれば物騒極まりない力だったが、今のフランにとってそれは、手に入れたばかりの目新しい玩具に近かった。もちろん、扱いを一歩誤れば、人も森も地形もまとめて跡形もなく消し飛ばしかねない、世界で最も危険な玩具ではあったが。

 

 だからこそ、力の加減を試す場所として、この迷い森は格好の舞台だった。

 人里から遠く離れ、踏み込む者など滅多にいない。多少派手に木々を吹き飛ばしたところで、迷惑を被るのは森自身くらいのものだ。もっとも、森の側もこちらを迷わせようと道を塞ぎ、時には怪植物まで差し向けてくるのだから、フランからすればお互い様という結論になる。

 

「お、見つけた」

 

 フランの紅い瞳が、行く手を遮るようにうねる怪植物の姿を捉えた。

 視線の先にあるのは、枝葉ではない。幹でもない。根でもない。彼女の目にだけ鮮明に映る、もっと根源的な奥の場所。

 

 その存在を存在たらしめている、命の小さな綻び──『目』。

 

 フランは、何もない空間へと無造作に手を伸ばした。

 目に見えないはずの場所を、まるで一本の糸でも摘まむようにして指先でフォースを使ったように引き寄せて捕らえる。そして、悪戯を成功させた子どものように、無邪気に白い歯を見せて笑った。

 

「えいっ」

 

 きゅっ、と、手元に引き寄せたそれを握り潰す。

 

 直後、怪植物の巨躯が内側から爆発的に弾け飛んだ。

 砕けるというよりは、そこに立っていられる現実の理由そのものを失ったかのように、幹も枝も葉もまとめて、一瞬にしてバラバラに虚空へと霧散していく。

 

「わあ、大成功! 跡形もなくなっちゃった!」

 

「フラン様、お見事な権能の冴えですが、どうかお怪我だけはなさらないでくださいね。義妹御の身に何かあればファルセイル様が気に病んでしまいますし、フリューゲル様にも申し訳が立ちません」

 

 後ろから重い荷馬車を引いてついてくるジュースが、穏やかで理知的な声音で制した。

 緑色の髪に丸い帽子をのせた彼は、どこまでも紳士的で生真面目な好青年の佇まいを崩さない。だが、その涼しげな視線はどこか落ち着きなく、跳ねるように森を破壊していく少女の背中を、ハラハラとした様子で追いかけていた。

 

「大丈夫大丈夫! 私が森に怪我させることはあっても、森が私に怪我させるのは難しいと思うよ? あ、次はあの大きな岩で試してみよーっと!」

 

 自信満々に笑うその声には、他者への悪意など欠片も含まれていない。

 ただ、自分が壊される側ではなく、壊す側にいることを微塵も疑っていないのだ。その恐ろしいほどの無邪気さこそが、彼女に宿った因子の名を思えば、ひどく似つかわしくもあった。

 

 フランは再び手を伸ばし、巨岩の『目』を掴もうと試みる。しかし、今度は引き寄せるタイミングが一瞬だけズレてしまい、岩の表面が微かにひび割れるだけで、破裂にまでは至らなかった。

 

「あら? 失敗しちゃった。掴む角度が悪かったのかな。でも、次は絶対いけるもんね!」

 

 失敗しても決して落ち込むことなく、フランは天真爛漫な笑い声を響かせる。そうして無邪気に権能の検証を重ね、天然の要塞である難所を切り抜けた先に、世界から隔絶された山頂の開けた場所が広がっていた。

 

 そこに、目指す魔女の館は静かに佇んでいた。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 重い館の扉を開けると、懐かしい温もりが一行を優しく迎えた。

 もっとも、館の主であるエキドナ自身も、ひと月ぶりにこの居城へと帰還したばかりだったのだが。

 

「いつもすまないね、ジュース」

 

 白いローテーブルには淹れたての温かい紅茶が置かれ、ソファにはジュースが長旅の疲れも見せず、端正な姿勢で腰掛けている。その頭頂部には、室内にもかかわらず例の丸い帽子──実はその帽子の下には、きれいに()()された頭頂部が隠されているのではないかと密かに疑っているフランであったが──を律儀にのせ、尊敬できる人物を前にした、穏やかな微笑みを浮かべていた。

 

「いえ、お気になさらず。これは私のやるべき使命ですので」

 

 ジュースが実直に応じると、その隣から言葉を遮るようにして、ツンと尖った声が響いた。

 

「そうなのよお母様。ジュースにはジュースの役目があるかしら。わざわざ礼なんて言う必要ないのよ」

 

 ぱたん、と読んでいた分厚い本を閉じ、そう言い放ったのはベアトリスだ。特徴的な金髪の二本のドリルを不機嫌そうに揺らして、ジュースのことをキッと睨みつける。睨む、というのは少々言い過ぎかもしれないが、お母様を独占したい子供らしい独占欲が透けて見える視線だった。

 そうして言い終わると、プイ、と言わんばかりに分かりやすく目をつむって顔をそむけてしまった。

 

「ベアトリス?」

 

 エキドナが優しく咎める。おいたをした最愛の子供を優しく嗜めるような、そんな母親の声音だった。しかし、ベアトリスが何か反論をするより先に、ジュースがこれをにこやかに制した。

 

「良いのです、エキドナ様。ベアトリス様のおっしゃる通りですので」

 

「やれやれ、あまりこの子を甘やかさないでくれ」

 

 困ったように肩をすくめるエキドナを見て、彼女の隣に腰掛けたフランが嬉しそうに声を弾ませる。

 

「あははは。ジュースってば相変わらず堅いんだから! 先生、私も久しぶり! 先生に早く会いたくて、森の障害物をいっぱい壊しながら来ちゃった!」

 

 フランの底抜けに明るい声に、エキドナは慈愛と呆れの入り混じった視線を向けた。

 それから、隣に腰掛けた少女の小さな頭に、そっと愛おしそうに手を置く。白い指先が銀の髪を優しく撫でる仕草はどこまでも柔らかかった。けれど、紅い瞳を覗き込む彼女の瞳の奥は、ただ再会を喜ぶ者のそれだけではなかった。

 

 安堵と、懸念。そして、抑えきれない純粋な知識欲。

 それらが白い睫毛の奥深くに、複雑に絡み合って揺れている。

 

「おかえり、フラン。久しぶりだね。無事で何よりだよ」

 

「うん、ただいま、先生!」

 

「……数日前に報せを受けたときは、さすがのボクも肝を冷やしたよ。テュフォンが死んだことも、彼女の因子が君に宿ったことも、どちらも軽く受け止められる話ではないからね」

 

「先生……」

 

 フランの笑顔が、ほんの少しだけ翳りを見せる。

 それはほんの一瞬のことだった。彼女はすぐにいつものように笑おうとしたが、エキドナの手はその頭の上に置かれたまま、愛おしむように少しだけ動きを止めていた。

 

「勘違いしないでくれ。君が無事だったことは、心から嬉しいんだ。だが、魔女因子は決して祝福ではない。少なくとも、安易に受け入れていいものではないんだよ」

 

 静かに言いながら、エキドナはフランの内側の本質を探るように目を細めた。

 

「肉体的な拒絶反応はなさそうだね。精神の濁りも、今のところ極端なものは見られない。……ふむ。傲慢の因子が、君という特殊な器にどう適応したのか。実に興味深いよ」

 

「興味深い?」

 

「興味深い、などと言うべきではないのだろうね。テュフォンを悼む気持ちと、君を案じる気持ちと、それでも真実を知りたいと思ってしまうボクの性分は、どうにも仲が悪いらしい」

 

 自嘲するように肩をすくめて、エキドナは小さく息を吐き出した。それから、今度はフランの首元、手首、そして魂の深淵を見定めるように視線を滑らせていく。

 

「それに、呪いの方もずっと気がかりだったんだ。識ってはいたが……君にかけた不死の呪いは、正直に言えばボクの本領ではないからね。術式として破綻はさせなかったつもりだが、ボクは呪術に関しては専門外だ。君の肉体にどう馴染むか、ずっと気になっていたんだよ」

 

「でも、先生がそうしてくれたから、私は今こうして元気だよ」

 

「そう言ってもらえるのは嬉しいが、ボクは決して万能ではないよ」

 

 エキドナは優しく苦笑する。その声は軽やかだったが、フランを見つめる目は、ひどく真剣そのものだった。

 

「呪いは単純な足し算ではないんだ。重ねればそれだけ強くなる、などという安易なものではないからね。贄として刻まれた呪い、君の内側に残る飢えの呪い、そしてボクの施した不死の呪い。どれか一つでも噛み合わせを誤れば、君の魂か肉体のどちらかが、先に耐えきれずに歪んでいてもおかしくなかったんだよ」

 

「つまり、私は大丈夫ってこと?」

 

「ああ、今のところはね。どうやら、かつて君に刻まれていた過酷な呪いと、ボクの施した不死の呪いは、奇跡的にうまく釣り合ってくれたようだ」

 

「じゃあ、やっぱり先生のおかげだ!」

 

 フランはぱっと顔を上げ、白い歯を見せて無邪気に笑った。

 その笑顔はあまりに眩しく、先ほど一瞬だけ落ちた影など、最初から存在しなかったかのように見える。けれどエキドナは、その笑顔の作り方に何も気づかないほど鈍い魔女ではなかった。

 

「……君は昔から、そういうところがあるね」

 

「そういうところ?」

 

「痛い話を、笑って先へ進めようとするところだよ」

 

 エキドナの指先が、もう一度だけ愛おしそうにフランの髪を撫でた。

 

「けれど今は、それでいい。君がそうして笑えるのなら、ボクはそれを喜ぶことにしよう」

 

「うん!」

 

 フランは大きく頷いた。その返事はいつも通り明るかったが、ほんの一瞬だけ、紅い瞳の奥に小さな、深い影が落ちる。けれど、それもすぐに霧散して消えた。

 

 フランはぱっと顔を上げると、白いローテーブルの上の紅茶と焼き菓子へ、再び純粋に目を輝かせる。

 

「ねえ先生、このお菓子、食べていい?」

 

「もちろん。君のために用意したものでもあるからね」

 

「やった!」

 

 重くなりかけた空気を、フランの弾むような声が軽やかにほどいていく。

 その見事なまでの切り替えの早さに、エキドナは呆れたように、しかし確かに深く安堵したように微笑んだ。悲しみを忘れたわけではない。痛みが消え去ったわけでもない。それでも、この子が今ここで笑えるのなら、それは何よりも守るに値するものなのだと、そう思えた。

 

 エキドナが視線を戻すと、ジュースは少しだけ気遣わしげにこちらを見守っていた。その隣で、ベアトリスは本を閉じたまま、まだ不満げに頬を膨らませている。どうやら、先ほどの真面目なやり取りが終わるのを静かに待っていたらしい。

 

 エキドナが小さく肩をすくめる。それを合図のようにして、ジュースが先ほどの微笑ましい話題を、穏やかに拾い直した。

 

「……甘やかしているつもりはございませんよ」

 

「いつもそういう。君らしいけれどね」

 

「ふんだ、かしら」

 

 結局、ベアトリスはまた顔をそむけてしまった。

 しかし、仕切り直すように再び声を上げたのも、またベアトリスだった。

 

「それでなのよ、ジュース」

「はい?」

「前に言ってたあれは、まだかしら」

 

 期待を隠し切れないそわそわとした様子で、座ったまま前のめりに尋ねるベアトリス。

 ジュースは待っていました、と言わんばかりにすぐさま嬉しそうに頷き、窓の外を大きな掌で恭しく指し示した。

 

「それでしたら、もちろんあちらに」

 

 ジュースが示した直後、ベアトリスはソファを蹴って窓辺に飛びついた。

 そして眼下には、荷台いっぱいに様々な古書や教典が積まれた木製の荷車が佇んでいた。その周囲には、まるでベアトリスに見せびらかすように、三人の独特なローブ──黒基調に赤のインナーカラーが特徴的な、魔女教の服装に身を包んだ魔女教徒たちがこちらを見つめ、優しく微笑んでいた。

 

「はわあ~!!」

 

「わあ、本がいっぱい! おもしろそうなのばっかりだね!」

 

 フランもベアトリスの隣にぴたりと並んで窓の外を覗き込み、一緒になって目を輝かせる。

 

「確認されますか?」

 

 窓の外の知識の山に釘付けになっていたベアトリスに、ジュースが横から優しくうながした。

 

「お母様?」

「行っておいで。ジュースと一緒にね。──フランも、ベアトリスの邪魔をしないなら一緒に行っておいで」

「はーい! ベティ、一緒に見よう!」

「ハイ、なのよ! うふふふ、フランは大人しくしてるかしら!」

 

 別室の書斎へ移動したのは、ベアトリスとジュース、それから手を繋いで楽しそうに跳ねるように同行したフランだった。

 

 荷車から丁寧に運び込まれた本は、すべて大きな書斎机の上に並べられていく。古い革表紙の本、金具で留められた分厚い魔導書、シンプルで新しい装丁の本。どれもこれも、ベアトリスの目を釘付けにするには十分すぎるものばかりだった。

 荷下ろしを無事に終えた魔女教徒たちは静かに頭を下げ、邪魔にならぬよう、そそくさと部屋を出ていった。

 

「ふわああああああ」

 

「いかがでしょう。ご満足いただけそうですか?」

 

 夢中になって本を眺めていたベアトリスにジュースが声をかけると、ベアトリスははっとなって後ろを振り向いた。

 

「フン! まあ、満足には程遠いけど、ひとまず褒めてやるかしら」

 

「それはそれは光栄です」

 

 おどけるように言った後、ジュースはついに耐えきれないとばかりに、フフフフフと楽しそうに笑い出した。笑いをかみ殺そうとはしていたが、喜びのあまり全くできていない。

 

「何がおかしいのよ」

 

「いえいえ、何も」

 

「ふんだ、かしら」

 

「あっはははは! ベティってば顔真っ赤! 嬉しいなら嬉しいって言えばいいのに、本当に素直じゃないんだから!」

 

 フランがベアトリスのドレスの裾を引っ張って無邪気にからかうと、ベアトリスは「フランうるさいかしら!」と真っ赤になって頬を膨らませた。

 

 その響き渡る声はどこまでも賑やかで、幼くて、優しかった。

 世界を救い損ねた旅のあとに残された、ほんの小さな、奇跡のような日常の欠片。

 ジュースはそれを、眩しそうに、慈しむように見つめていた。

 

 しばらくして、ベッドの縁に腰かけて嬉しそうに本を読んでいたベアトリスが、ふと横目でジュースを見る。

 

「ジュース」

 

「はい?」

 

「お前もたまには本の一冊くらい読むべきなのよ」

 

「そうですね。ぜひ機会があれば、ベアトリス様の好きな本を教えてください」

 

「ベティの?」

 

「はい。今は忙しいですが、私も悠久の時を生きる身。きっといつか」

 

「あ、ずるーい! だったら私の好きなお話も、いつかジュースにいっぱい教えてあげるね!」

 

 フランがベッドの上で無邪気に両手を広げて約束に割り込むと、ジュースはどこまでも優しく、穏やかな笑みを深めた。

 

「ええ、楽しみにしていますよ、フラン様」

 

 うららかな光が優しく差し込む書斎の中で悠久を生きる精霊と、魔女と、生真面目な青年が交わしたささやかな約束は、紅茶の香りに混じって、温かな空気の中へ静かに溶けていった。

 

 その約束が果たされる幸福な日を、この時はまだ誰も、疑っていなかった。










元ネタ:Re:ゼロから始める休憩時間『福音を待つ日々』
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