傲慢の魔女『フラン』   作:オド・ラグナの対義語

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『お友達』

 

 

 

 ──女、一人の女がいた。

 

 女は飢えていた。女は乾いていた。女は、終わりのない空腹の底にいた。

 棺に縛られ、目を塞がれ、見えぬ世界でただ、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。

 

 世界は喰い物に満ちていて、けれどどれもこれも、女を真に満たしはしない。

 

 ある時、産み落とした子供たちが、荒野の泥の中から、一つの『餌』を拾ってきた。

 ずるずると引きずられて転がされたのは、小さな、ひどく小さな人の子供。

 

 ふがふがと、女は虚空の匂いを嗅いだ。

 

 それは酷く擦り減った臭いだった。

 誰かに齧られ、削られ、踏み潰され続けたような臭い。

 骨は太そうで、肉は引き締まっている。生まれが良さそうだ。普通の人間なら、女の子供たちに牙を剥かれた時点で、泣いて、諦めて、肉塊になるのを待つだけ。

 

 けれど、その子供は違った。

 

 ボロボロのくせに。今にも壊れそうな器のくせに。

 内側から噴き上がる、狂いそうなほどの熱を孕んでいる。

 自分を囲む子供たちを、どうやって『噛み砕いてやろうか』という、凶暴な生の匂い。

 貪られるだけの命の分際で、世界を貪り返そうとする、ドス黒い生存への執着。

 

 ──あぁ、とっても、美味しそうだ。あぁ、とっても、美味しそうだ。

 食べてしまいたい。

 でも、食べてしまったらいなくなってしまう。

 それは少しだけ寂しい。

 

 気だるげな魔女の心が、歪な歓喜にチリりと動く。

 この子供を、どれくらい美味しくできるか。女は試したくなった。

 悪戯っぽく、顔を覆う目隠しを横へとずらす。

 

 むき出しになった金色の瞳。世界を飢餓で焼き尽くす、呪いの魔眼。

 

 見つめられた者はみな、あまりの飢えに理性を失い、己の指を噛み千切り、己の肉を貪り、自らを喰らい尽くして滅びる。それが世界の理。

 

 だが、その子供は、自分を喰べなかった。

 

 女が与えた圧倒的な『飢え』は、子供の身体を焼いていた『熱』と、奇跡のように噛み合った。最悪な二つの理不尽が、内側で激しく燃焼し、相殺される。

 子供は己を呪う代わりに、熱から変わった異常な怪力を解き放ち、隣の魔獣の首筋へと猛然と食らいついた。

 

 小さな牙が肉を裂き、温かい血を啜り、硬い骨をごりごりと噛み砕く。

 女の呪いを、周囲の命を喰らうことで強引にねじ伏せてみせる、凄絶なまでの生の暴虐。

 

「あは! あははははは! すごいですねえ、あなた!」

 

 歓喜した。棺の中で、女は無邪気に喉を鳴らして破顔した。

 自分を喰べないで、女の可愛い子供たちを喰べてしまうだなんて。

 気が合います。とっても、気が合います。

 

 目隠しは再び元の位置へと戻され、金色の瞳は闇へと隠れる。

 地に伏し、血まみれで荒い呼吸を繰り返す、愛おしい、泥まみれの子供。

 

「この子、ダフネのお友達にしますう」

 

 尽きぬ飢餓を抱える魔女の旅路に、初めて『お友達』ができた。

 女は子供たちを従え、その幼く未だ為らぬ傲慢を伴って、再びお腹を満たす美味しいものを探す歩みを進める。

 

 ──『暴食の魔女』は、自らを喰らわぬ歪な飢餓を愛おしみ、共に世界を貪るために歩き出す。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 ──『暴食』の魔女ダフネ。彼女の残した残滓がこのアウグリア砂丘を跋扈する。

 

 見上げる視界の先、アウグリア砂丘の全貌は、相変わらず不細工にねじれ曲がっていた。

 通常の網膜であればただの激しい砂嵐にしか映らない光景。だが、私の『傲慢の権能』が捉える視界において、この世界の空間はまるで熱に炙られた硝子細工のように歪み、いくつもの『目』が不自然に反転して結界を形作っている。なるほど、これではどれほど真っ直ぐ歩こうと、あのラインハルトでさえ永遠に目的地へはたどり着けないわけだ。

 

「面倒くさい土地だよねぇ、本当に」

 

 私は歩みを止めることなく、歪みの中心点へと右手を伸ばした。

 行使するのは『傲慢の権能』。空間の『目』をキュッと手のひらに収まる程度にまとめ、指先で強引に掴み取り、力任せにへし折る。

 

 ──バリバリバリッ!!!

 

 大気が激しく震動し、耳元で何千枚もの分厚い硝子が一斉に叩き割られたような凄絶な破壊音が轟いた。強引に剪定され、辻褄を合わせざるを得ない空間が悲鳴を上げる。ねじれていた『目』が断ち切られ、私の一歩のためだけの捻れの無い、真っすぐな道が砂海に抉り取られた。

 

 一歩、また一歩。

 歪みを見つけるたびに、私はその『目』を掴んでは引きちぎり、空間を力任せに破壊していく。バリバリと硝子の砕ける音が何度も砂丘に木霊し、法則そのものを破壊しながら突き進むこと十数回。

 

 不意に、視界を遮っていた濁った黄砂のカーテンが途切れ、目の前にあり得べからざる鮮烈な色彩が広がった。

 

 風向きが変わった。

 砂と瘴気しか存在しないはずの世界で、不意に甘ったるい花の香りが鼻を刺す。

 砂漠に花が咲くはずがない。

 まして、このアウグリア砂丘に。私は眉をひそめた。

 

 花の香りは一種類ではなかった。

 甘ったるい蜜の匂い。青臭い若葉の匂い。夜に咲く花特有の濃密な芳香。本来なら心を落ち着かせるはずのそれらが、この砂丘ではひどく不快だった。

 

 なぜなら、それは生命の匂いだからだ。

 普通の生き物が存在してはいけない場所で、生き物の気配だけが濃密に満ちている。砂の海のあちこちで色鮮やかな花弁が揺れている。風に吹かれているわけではない。呼吸している。その花の根元が──地中に潜む巨大な肉塊が。

 

「ああ……」

 

 砂嵐を抜けた先。そこに広がっていたのは、三メートル近い巨躯の背中に色鮮やかな大輪の華を咲かせた魔獣──『花魁熊』の群れが蠢く、異様な花畑だった。

 地中に深く潜み、背の華だけを地上に出して獲物を誘う悍ましき食人獣ども。それらが、私の足音と気配を察知した瞬間、一斉に砂を跳ね上げて咆哮を轟かせた。地平を埋め尽くすほどの魔獣の波が、牙を剥いて押し寄せてくる。

 

「数だけは、相変わらずダフネの子供らしいや」

 

 あの魔女は空腹だった。

 世界そのものを喰い尽くしたいほどに。だからこそ、生き物を作った。

 喰われるために。──喰うために。

 

 あの日。

 泥の中で魔獣を噛み砕いていた私を見て、ダフネは本気で嬉しそうに笑っていた。

 

「ちょっと嫌になるね」

 

 私は小さく毒突くと、その中空へと右手を差し向けた。

 

「──おいで、レーヴァテイン」

 

 呼びかけに応じるように、中空に突っ込んだ手の平の内に熱が集まる。

 冷えた金属が熱されていく。マナの奔流が私のオドから一気に引き出され、手の内に握り締めた宝剣、その刀身に炎が纏わりつく。中空から顕現した『忌剣レーヴァテイン』。

 握りしめた瞬間、私の身体を巡るマナのすべてが凶悪な燃料へと変貌し、刀身から溢れ出た赫炎が、まるで巨人とすら思える圧倒的な質量をもって天へと立ち上った。周囲の砂が一瞬で融解し、ドロドロとした硝子の沼へと変わっていく。

 

 私はその赤く燃え盛る大剣を、横一文字に、ただ無造作に振り抜いた。

 

 ──ゴオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!

 

 放たれた赫炎の波動は、押し寄せる魔獣の群れを正面から完全に蹂躙した。

 視覚を焼き尽くす圧倒的な赤。そして嗅覚を襲ったのは、花魁熊の肉と骨が消し炭にされる凄絶な悪臭と、奴らの背に咲き乱れていた花畑が、死の間際に放った植物の甘く濃密な香りが混ざり合った、吐き気を催すほどの生々しい死の匂いだ。

 ほんの一振り。それだけで、視界を埋めていた魔獣の半数が文字通り一瞬で炭化し、塵となって消滅した。

 

 私は炭化していく肉塊の隙間をすり抜け、すでにこの先には目立った空間のねじれが存在しないことを確認した。標的は遥か彼方にそびえ立つ、白い三本の巨大な石柱。そのてっぺんは雲に隠れ、その全容を窺うことはできない。

 

 プレアデス監視塔。

 四百年という歳月を経てもなお風化を拒み続ける、常識外れの塔。初めて見た時から思っていた。

 

 馬鹿みたいに高い。

 馬鹿みたいに頑丈で、馬鹿みたいに悪趣味だ。

 

 けれど、それを作った連中を私は知っている。あの時代を生きた者たちは皆、少しばかり頭のねじが外れていた。世界を救うためなら神話じみた建造物の一つや二つ、本気で作ってしまうような連中だった。

 あのエキドナとフリューゲルが中心となって作り上げた、謂わば合いの子。そう言ってしまったら、きっと彼女も怒りだしてしまうだろうか。

 

 そんな世界を救う旅の一行が建てた塔。

 だからこそ、今なおそこに立ち続けている。

 

 

 

 

 

 

 私はプレアデス監視塔に向けて、ただ一直線に砂の海を爆走し始めた。

 

 地平の彼方から、あの白く禍々しい塔の巨躯が急速に近づいてくる。

 だが、距離を詰めれば詰めるほど、その建造物がまとう尋常ならざる()()()が、肌を刺すような悪寒となって五感を蝕み始めた。

 

 プレアデス監視塔の全域を取り巻くようにとぐろを巻いているのは、吐き気を催すほどに濃密な『嫉妬の魔女』の瘴気だ。この世界のどこよりも濃く、深く澱んだ闇の気配。

 

 この瘴気を知らない者は恐怖し、思考は悪い方へ進み、肉体は瘴気に侵され狂っていく。

 

 だが私は知っている。この匂いを。あの人が泣きながら伸ばした手を。世界中を壊しながら、拒絶されながら、それでもフーちゃんを愛してしまった少女を。

 

 この瘴気こそが、サテラを乗っ取った『嫉妬の魔女』の封印が、すぐ目と鼻の先にあることの決定的な証拠だった。

 

 同時に、奇妙なまでの静寂が辺りを支配し始める。生き物の気配が、一切、無い。さっきまであれほど我が物顔で跋扈していた砂蚯蚓も、花魁熊の息遣いすらも、この領域には爪痕一つ遺されていない。鳥もいない。虫すらもいない。

 まるで世界そのものが、底知れぬ恐怖によってあの塔を避けているかのような、完全なる死の無音空間。

 

 それは平穏ではない。死だ。

 

 生態系そのものが塔を中心に切り取られたような、不自然な空白。

 本能的に理解できる。この場所の支配者は、砂蚯蚓でも花魁熊でもない。この塔の頂にいるたった一人の星番こそが、この周辺一帯の生殺与奪を握っている。だから魔獣たちですら近づかないのだ。生き残るために。

 

 その張り詰めた静寂の糸が限界まで引き絞られた、まさにその時──私の網膜の端で、パッと、凶悪な極光が弾けた。

 

 キィィィィィィィンッッ!!!

 

 遙か上空、監視塔の最上層から放たれた、一筋の白い閃光。超音速で大気の壁を突破し、地上のすべてを蒸発せんと襲いかかる紅蠍の光線──狙撃の針。

 

「まったくもう! シャウラは人の区別もつかないんだから!」

 

 迫り来る死の光線を前に、私は悪態をつきながら、手中のレーヴァテインを斜め上方へと跳ね上げた。

 

 ガッ!!

 

 激しい金属音と、天を割るような強烈な火花が散る。

 一歩も足を止めることなく、私は超音速の光線を刃の上で完璧に滑らせ、弾き飛ばした。

 ドガァン! と、逸らされた光線が真横の砂丘に直撃し、その砂を爆発させるがその衝撃波の余波すらも、私の足取りを狂わせるには至らない。

 

 さらに一射。二射。三射。四射。

 

 間髪入れず降り注ぐ白光の雨が、砂丘を次々と吹き飛ばしていく。

 着弾のたびに大地が爆ぜ、巨大な砂煙が噴き上がる。

 もはや狙撃というより砲撃だ。

 

「あー! 相変わらず加減ってものを知らない、ねっ!」

 

 文句を言いながらも、私の口元は僅かに緩んでいた。

 この無茶苦茶な歓迎の仕方には覚えがある。

 

 降り注ぐ光の豪雨をすべて剣光で叩き落としながら、私は真っ直ぐに塔の正面へと突入した。

 

 と、その時。私の網膜が、後方の空を不自然に埋め尽くす影を捉えた。

 いつの間にか私の背後を追尾するように飛んでいた、色とりどりの不自然な鳥たち。パンドラが放った、鬱陶しい監視の目。

 

「挨拶なら、もう済ませたはずじゃん。しつこい女は嫌われるよ、ドラちゃん」

 

 私は走りながら、振り返ることすらせず左手を後ろへと突き出した。

 行使するのは、重ねて『傲慢の権能』。

 上空に展開する数十羽の鳥たち、その肉体が依って立つ存在の核を、広範囲にわたって一斉に掴み取り、まとめて一気に破壊する。

 

 パキパキパキパキパキパキパキンッ!!!

 

 硝子細工が連鎖的に砕け散るような、短く不機嫌な破砕音が天に響き渡った。

 存在の核を同時に破壊された色とりどりの鳥たちは、羽一枚、血の一滴すら残すことを許されず、地面へと辿り着く前にその肉体をマナへと還元され、世界から解け、一斉に消え失せた。

 

「ふん」

 

 背後の虚空を鼻で笑い、私はそのままの勢いで、監視塔の第五層にある巨大な入口の扉を蹴り開けた。内部に足を踏み入れた瞬間、外の砂嵐の音が遮断され、代わりに不気味な瘴気の静寂が鼓膜を包む。

 

 塔の内部は妙に清潔だった。四百年もの歳月を経ているはずなのに、埃はほとんど積もっていない。崩落の気配もない。まるで昨日建てられたばかりの建造物のような異様な保存状態。人の営みだけが失われている。

 

 だから余計に不気味だった。

 誰もいないはずの場所に、誰かが今も住み続けているような気配だけが残っている。

 

 だが、立ち止まる時間などない。

 

 私は人間離れした爆発的な身体能力を解き放ち、中央を貫く巨大な螺旋階段の壁面を、対角線へと交互に飛び移りながら、垂直に急上昇し始めた。一段ずつ登るなどという微温い真似はしない。ただ重力を置き去りにした跳躍の連続だけで、居住区である第四層へと一瞬で肉体を押し上げる。

 

 そうして、居住区の床へと私の両足が着地した、まさにその刹那だった。

 

 ──完璧な、死角からの奇襲。

 

 大質量を乗せた跳躍から着地へと移行する、肉体の慣性が残るわずか一瞬。着地姿勢を取ろうとする私の意識の隙を、闇が正確に捉えていた。

 網膜がその光を認識するよりも早く、熱線は文字通り目の前で炸裂する。防御に回ることも、避けることも、思考を挟むことすら物理的に不可能な至近距離。

 

 速い。

 そう思った。

 いや、違う。

 

 速いのではない。早い。予想されて、待ち構えられていた。

 近すぎた。

 

 シャウラ。

 

 ──お前、本気で撃ったな。

 

 第四層の闇の狭間から正面突破で放たれた、シャウラの最大出力の光線が、私の頭部へと寸分の狂いもなく直撃した。

 

 グシャ、と。

 

 超高温の白い熱線が視界のすべてを、世界を、私の存在を丸ごと呑み込んでいく。

 肉が爆ぜ、皮が焼け、頑強に鍛え上げていたはずの頭蓋が内側からの高圧で粉々に砕け散る悍ましい衝撃。脳髄のすべてが分子レベルで一瞬にして沸騰し、蒸発していく凄絶な感覚。

 思考を形作る器官そのものが熱量によって瞬時に消し飛ばされ、首から上が完全に消失していく圧倒的な喪失感。

 

 私という個体は、一瞬だけ世界から切り離された。

 

 音もない。

 光もない。

 

 ただ圧倒的な空白だけがある。

 

 ──だが。

 

 私は知っている。これでは終われない。終わらせてもらえない。

 

 この呪いは、そんな生易しいものではないのだから。

 

 肉が肉を求める。血が血を呼ぶ。失われた頭部を取り戻そうと、私の首から溢れた肉が飢えた獣のように蠢き始めた。

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