傲慢の魔女『フラン』   作:オド・ラグナの対義語

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『大図書館プレイアデスへ』

 ──視界が、爆発的なマナの明滅と共に反転する。

 

 第四層の居住区。その石床に着地した刹那に放たれた、シャウラの最大出力の針の熱線。まともに喰らった私の首から上は、一瞬にして消し飛んだはずだった。だが、私の肉体に刻まれた再生の呪いは、束の間の停滞すらも許さない。

 

「ふぅ! お師様以外のゴミ虫を、また一匹綺麗に片付けたっス! 我ながら完璧な射撃っスねー!」

 

 螺旋階段の前にそびえる重厚な扉の奥から、そんな勝ち誇ったシャウラの声が響いてきた。扉から飛び込んできて、首の無い私の体を満足そうに見下ろしている。

 

 だが、打ち抜かれた私の体は、ピクリとも傾ぐことなく、その場に堂々と直立し続けていた。

 

 ドクン、と首の断面が大きく脈打つ。

 

 そこから溢れ出たのは無数の紅い肉線と、白く輝くマナの光糸だ。それらがまるで狂った機織り機のように超高速で絡み合い、砕かれた骨を瞬時に編み上げ、千切れた血管を繋ぎ直し、白磁の皮膚を猛烈な勢いで張り直していく。

 

 パチ、と皮膚の再生が完了し、新たな両の睫毛が持ち上がる。

 

 瞬きをするほどのほんの僅かな時間の合間。

 五体満足で何事もなかったかのようにそこに立ち、驚異的な熱量の湯気を頭部から盛大に吹き上げながら、めちゃくちゃ冷たく据わった紅い眼で自分を凝視している私の顔を見て、シャウラは顔中のパーツがひっくり返ったような表情で硬直した。

 

「げ、げぇぇぇっ!? め、雌獅子っスか! な、なんで生きてるんスか!? 今のは確実に頭を消し飛ばしたはずっス──」

 

「──相変わらず、お行儀が悪いね」

 

 喚き散らすシャウラの言葉の残りを、私は問答無用で叩き潰した。

 

 体重と流法を乗せた、容赦のない重い拳骨。

 

 ──ゴガァンッ!!!

 

 鈍く、しかし確実に頭蓋の芯へと響く凄まじい衝撃音が、四層の空間に響き渡った。

 

「い、痛いっス~ぅぅ!! 鬼! 悪魔! 雌獅子! お師様にもぶたれたことないのに! ──嘘っスそんなこと無いっス!! マジ痛いっスゥううう!」

「うるさいなぁ。誰が雌獅子だって? 認識阻害のローブを着てたとはいえ、人の区別くらいマナの波長でつけなよ。それとも、四百年であんたの頭はすっかりボケちゃったの?」

「無茶言うなっス! そもそもフランダースだと分かんなかったんスよ! そんなダッサイローブ着てるから──」

 

 頭を抱えて涙目で地面を転がるシャウラを、私は冷徹な目で見下ろす。頭部への直撃のせいで、真新しかった灰色のローブのフードはズタズタに引き裂かれ、私の顔が完全に露出してしまっていた。

 

 と、その時だった。

 

「シャウラ! いきなり侵入者がどうとか言って飛び出して、一体何が──」

 

 ドタドタと騒がしい足音と共に、四層の扉の奥から息を切らせた一団が姿を現した。

 

 先頭で声を張り上げたのは、私にとって今の世界で一番特別な少年──黒髪に三白眼の、愛おしいナツキ・スバルだ。その後ろには、白髪のハーフエルフの娘に、整った顔立ちの騎士、そしてカララギの商人娘が続いている。

 

 どうやら彼らは、シャウラが私の気配を察知して扉の奥へ向かったのを、慌てて追いかけてきたらしい。

 

 そして、たどり着いた彼らの目に映ったのは、頭から盛大に白煙を吹き上げながら、星番の頭を小突いている私の姿だった。

 

「……え?」

 

 スバルの動きが、ピタリと止まる。その三白眼が、驚愕に大きく見開かれた。

 

「お前……なんで、ここに……。嘘だろ!? プリステラの水路沿いで、急に俺の背中に飛びついてきてわけわかんねえ東方ネタぶち込んできた、あの不審者ロリの──フランダース!?」

「久しぶり、フーちゃん。元気そうで何より」

「その登場の仕方で久しぶりって言えるメンタル、逆に尊敬するわ! いや、尊敬はしねぇけど!」

 

 スバルの声が、裏返るような驚きに震えていた。

 

 無理もない。

 プリステラの路地裏で突如絡んできた、前世のネット知識を共有する謎の自称転生者が、今、自分たちが命懸けで突破してきた前人未到のプレアデス監視塔の中に、後から追いかけてきて平然と立っているのだから。

 

「スバル、下がってかしら!!」

 

 スバルがパニックを起こした瞬間、彼の傍らにいた縦ロールの精霊──ベアトリスが、その小さな両手を広げて猛然と前に割り込んできた。その蝶々の瞳はこれ以上ないほど見開かれ、強烈な陰魔法の結晶を即座に展開して私を威嚇する。

 

「その容姿、そのふざけた態度……やっぱり、貴女なのよ! お母様のところにいたあの時の……『傲慢』の魔女! スバルに近づくんじゃないかしら! プリステラの時は偶然だと思っていたけれど、やっぱりおかしいのよ! またスバルとベティのそばに現れて……! 何のためにこの塔に来たのかしら!」

 

 ベアトリスの鋭い拒絶と同時に、その後ろに控えるユリウスの肌にも、凄絶な緊張が駆け抜けた。 シャラン、と硬質でありながら優雅な音が響く。ユリウスは一切の油断なく騎士剣を抜き放ち、その刃の切っ先を、明確な敵意として私へと向けた。

 

「スバル、下がれ。……話には聞いていたが、プリステラの一角で、あのラインハルトとまともに刃を交えて生還したとされる謎の存在。君の言う『フラン』が、この目の前の少女か」

 

「おい、ユリウス!」

 

 フーちゃんの抗議を横目に、ユリウスの視線は私から一瞬たりとも外れない。

 

「いくら君の奇妙な知り合いとはいえ、シャウラ女史を容易くあしらうほどの化物を、この塔で無条件に看過することはできない」

 

「化物だなんて失礼だなぁ。せめて可愛い化物って言ってよ」

 

「そこを訂正する時点で怖いんだよ、お前は!」

 

 向けられる剣先。放たれる明確な殺気。

 

 いくらスバルと奇妙な縁があろうとも、正体不明の魔女を前に、彼ら騎士や精霊が簡単に引き下がるはずがない。

 

 その冷徹なまでの拒絶の空気を、アナスタシアが、その底の知れない瞳で補強する。

 

「うちらがプリステラで生け捕りにした『憤怒』のシリウスを尋問した際、面白い情報があってな。今回は『傲慢』の魔女も五十年ぶりに『福音書』に従って現れたって、あの大罪司教がひどく不愉快そうに吐き捨てとった。大罪司教らと一緒に戦うたわけやないようやけど……福音書の記述を頼りに動いとる不確定要素。ましてや、魔女なんて呼ばれる存在。そんな怪物が、なんでここにいるん?」

 

 アナスタシアの、どこか年齢にそぐわないほど冷えた問い詰めに伴い、四層の空気は完全に一触即発のそれへと変貌した。

 

 エミリアやラムも、いつでも魔法を行使できるよう視線を鋭くしている。

 

「……スバルの知り合いなのは、分かったわ。でも、それだけで安心していい相手じゃないのも、すごーく分かった。フラン、あなたは敵なの?」

 

 エミリアが、真っ直ぐに問いかける。

 

 その瞳にあるのは敵意ではない。

 困惑と、警戒と、それでも相手の言葉を聞こうとする誠実さだった。

 

 だからこそ、少し面倒だった。

 

 問答無用で敵扱いされた方が、こちらとしてはやりやすい。けれど、彼女はそうしない。まずは問いかける。その甘さは危うく、同時に強さでもあるのだろう。

 

「敵じゃないよ」

 

 私はユリウスの剣先を冷ややかに一瞥し、スバルの胸元を見つめた。

 

「私はただ、探したいものがあるからここに来ただけ。大罪司教なんてどうでもいいし、魔女教の味方でもない。それに、私はフーちゃんの敵じゃない。ベティだって、私が昔、先生と話してあげてた時、おもちゃみたいに扱ったことなんてないでしょ?」

 

「う、うるさいかしら! 髪をわしゃわしゃ撫で回したのは玩具扱いなのよ!」

 

「可愛かったから」

 

「理由になってないかしら!」

 

「ベア子の昔話ってだけで情報量が暴力なんだけど、そこ掘っていいやつ? 駄目なやつ?」

 

「ダメに決まってるのよ!」

 

 ベアトリスが顔を赤くして手足をバタバタさせる。その様子を見て、スバルは頭を掻きむしりながら、必死に思考を回転させていた。

 

「くっそ、待て……おい、ユリウス、エミリアたん、一回剣を引いてくれ! こいつが頭のおかしい常識外れな奴だってのは事実だけど、プリステラで俺を殺すチャンスなんていくらでもあったのに、わざわざ警告だけ残して消えたんだ。それに……『四百年前』ってベア子の話、マジだったのかよ。お前、本当にあの時代の魔女なのか……?」

 

「フーちゃん、そこは()()()()()()、を削ってくれてもいいんだよ」

 

「削れる要素がなかったんだよ!」

 

 スバルの困惑と、ベアトリスの証言。実質的に私たちが敵対関係にないこと。そして何より、私が戦う構えを一切見せないこと。

 

 それでも、ユリウスは剣を収めなかった。

 

「スバル。君の判断を軽んじるつもりはない。だが、彼女は危険だ。私の騎士としての感覚が告げている。こちらに害意がないと主張するだけならば、言葉はいくらでも飾れる」

 

「じゃあ、どうするの? 縛っておく? この私を?」

 

 私は首を傾げた。

 

 その瞬間、空気が一段冷える。

 

 私は笑っている。

 けれど、その問いかけだけは冗談ではなかった。

 

 ユリウスの剣先が、ほんのわずかに上がる。ベアトリスの陰のマナが濃くなる。エミリアの足元に白い冷気が薄く広がり、ラムの指先にも風が集まる。

 

 シャウラが、頭を押さえたまま青ざめた。

 

「あ、あーしを挟んで喧嘩しないでほしいっス! 雌獅子とお師様のお友達がガチると、塔が壊れるッス! 塔が壊れたらお師様が帰っちゃうッス! あーしが困るッス!」

 

「心配の優先順位が最低なのよ、シャウラ」

 

「でも正直でいいじゃん」

 

「よくないかしら!」

 

 私は薄く笑ったまま、両手を軽く上げる。

 

「分かったよ。塔の中では、フーちゃんの許可なく誰も殺さない。死者の本を壊さない。試験の邪魔もしない。これでいい?」

 

「さらっと『殺さない』を条件に入れるあたり、本当に信用したくないんだが」

 

「フーちゃんが好きそうな誓約にしてあげたのに」

 

「俺が好きなのは平和な約束であって、殺害禁止の明文化じゃねぇ!」

 

 スバルは叫び、それからユリウスへ向き直った。

 

「ユリウス。頼む。完全に信用しろなんて言わねぇ。でも、今ここで戦うのはまずい。シャウラが今、塔が壊れるってわりと真顔で言ってた。真顔で言うシャウラの言葉が信用できるかは別として、たぶんシャレにならない」

 

「お師様、あーしのこと信用してるんスかしてないんスか!?」

 

「状況による!」

 

「ひどいっス!」

 

 ユリウスは長い沈黙のあと、ゆっくりと息を吐いた。

 

 そして、剣を収める。

 

「……いいだろう。ただし、私は彼女を監視する。少しでも不審な動きがあれば、即座に対応する」

「うちらも同意や。フランさん、あんたの目的とやらが本当かどうかは、これから見せてもらうわ」

 

 アナスタシアの言葉に、私は笑って頷いた。

 

「……なるほど。大精霊たるベアトリス女史の旧知であり、プリステラにて魔女教の脅威を君に警告していた存在、か」

 

 ユリウスは剣を収めながらも、目は一切警戒を解かない。

 

「君の神輿に担ぐ幼女使いとしての格は、いよいよ天井知らずの領域に達しているようだ」

 

「幼女使い言うな!」

 

「では、幼女に縁のある男」

 

「ほぼ同じだろそれ!」

 

「幼女縁者」

 

「熟語にするな!」

 

「スバル、なんでそんなに幼い女の子ばっかり知り合いなのかしら……?」

 

「エミリアたん、今それを純粋な目で聞かれるのが一番きついって!」

 

 脱線し始めた会話に、ラムが冷ややかに息を吐く。

 

「バルスが幼い外見の女性にばかり拾われる体質なのは今さらでしょう。問題は、その体質がついに四百年前の魔女まで釣り上げたことよ」

 

「姉様まで乗るな!」

 

「事実確認よ」

 

「事実じゃねぇ!」

 

 私はにんまりと悪戯な笑みを浮かべる。

 

「フーちゃん、モテモテだね」

 

「お前が言うと本気で危ない意味に聞こえるからやめろ!」

 

 最低限の利害の一致。

 不信と警戒に満ちた仮初めの休戦。

 

 私は、プレアデス監視塔への滞在を許されたのだった。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 フーちゃんの大手柄によって、三層『タイゲタ』の『試験』は見事に突破されていたらしい。

 

 私はユリウスやアナスタシアの突き刺さるような猜疑の視線を感じながらも、一向に気に留めることなく彼らに同道した。

 

 私たちの眼前に出現したのは、石造りで円筒形の部屋と、壁際まで所狭しと並べられた無数の書架だった。

 

 構造自体は元の塔の延長線上に戻り、先ほどまで果てが知れなかったほどの空間がただの錯覚だったのだとわかる。部屋には円形の段差がいくつもあり、私たちのいる中央が一番低く、外に向かうにつれて段差が高くなっていく。背の高い本棚には無数の本がぎっしりと詰め込まれており、単純な本の数だけで言えば、かつて目にした先生の書庫や禁書庫を物量で圧倒していた。

 

「目的の本を見つける、検索コンピュータが欲しくなるな」

 

「禁書庫の中なら、どこに何の本があるのかベティーは完璧だったのよ」

 

「すげぇな、お前。天才か」

 

「当然かしら。ベティーはお母様に作られた特別な人工精霊なのよ」

 

 ベティの密かな自慢にフーちゃんが感嘆している。

 

「ちなみに、検索コンピュータってのは、膨大な情報の中から目的のものを探す文明の利器だ。異世界に持ち込みたい便利道具ランキング、俺の中では上位」

 

「ちなみに一位は何なの?」

 

「ウォシュレット」

 

「お師様、何を真顔で言ってるんスか?」

 

「シャウラ、そこは突っ込まないでくれ。俺の故郷の文明レベルを語る上で避けて通れない問題なんだ」

 

 私は彼らから少し離れた段差の上の書架に背を預け、灰色のローブに身を包んだまま、その賑やかなやり取りを静かに眺めていた。ベティはいつもより少し早口で、瞳を輝かせながら興味深げに書庫を見回している。四百年を禁書庫で過ごした彼女にとって、本に囲まれる空間はやはり特別なものを想起させるのだろう。

 

 手近な本棚に歩み寄ったエミリアが、躊躇いもなく一冊の本を抜き出し、ぺらぺらと中身に目を通した。

 

「んー、普通の本……かしら。スバル、どうしたの?」

 

「いや、いいんだけど、エミリアたんのクソ度胸に驚き惚れ直しただけ。大丈夫じゃないかなーって言ったの俺だけど、むしろ俺だよ?」

 

「だって、スバルが大丈夫じゃないかなーって言ったんだもの」

 

「信用の仕方が全力すぎて俺の方が怖くなっちゃう! うれしすぎるけど」

 

 呆れるフーちゃんを他所に、他の面々も次々と本に手を伸ばし始める。ベティが本の背表紙を不満げな顔つきで見つめ、小さな声を漏らした。

 

「見たところ、本の規格は統一されてるかしら。でも、タイトルは全部違うのよ。これは『ノア・リベルタス』。こっちは『リブレ・フエルミ』。……並べ方も無茶苦茶な風に見えるかしら」

 

「この本のタイトルだけど……ひょっとして、全部、人の名前か?」

 

 ベティが読み上げた二冊目のタイトル──『リブレ・フエルミ』。その名が鼓膜を震わせた瞬間、私の脳裏にかつての戦場の泥の匂いが蘇る。

 

 リブレ・フエルミ。

 

 四十年前の亜人戦争において、大参謀バルガ・クロムウェルと双璧を成す亜人軍の中核であり、大英雄と称えられた男。最終的には『剣鬼』ヴィルヘルムに討たれたというが、私も実際に会ったことのある人物だ。

 

 『毒蛇』の名の通り、戦術の絡め手を使うこともあったが、真っ向勝負でも十分に私を楽しませてくれるだけの実力を持った強者だった。

 

「私は知ってるけど……目的の人じゃないしパスかなぁ」

 

 棚の背表紙を指先で弾きながら、私が何気なくそう呟くと、すぐ近くで本を改めていたアナスタシアがピクリと肩を揺らした。彼女の襟巻きに潜む狐の精霊が、その底知れない瞳を細めて私を凝視してくる。

 

「……リブレ・フエルミって、あの亜人戦争の『毒蛇』のことやろ? あのヴィルヘルムさんが若き日に命懸けで討ち取ったはずの死者の名前が、なんでこんなところにあるん。……それに、それを『知ってる』やなんて。フランさん、あんたの時計は四十年前どころか、やっぱりもっと前から動いとるんやねぇ」

 

「さあね。でも、真っ向勝負でも結構強い良い男だったよ。まあ、今の私には必要ない本かな」

 

 歴史上の大英雄を雑に切り捨てる私の態度に、ユリウスが驚愕と警戒の入り混じった複雑な視線を向けてくる。

 

「リブレ・フエルミを、そのように評するとは……。亜人戦争の記録において、彼は王国史を語る上で避けて通れない存在だ。現存する軍記にも記述の揺れが多く、戦場での実像には謎が多い。ヴィルヘルム殿が語った話は残っているが……君は、彼と直接相対したというのか?」

 

 ユリウスの目が、わずかに輝いた。この騎士、どうやら思った以上に歴史の話が好きらしい。

 

「ユリウス、お前、今ちょっと楽しそうだな」

 

「楽しそうではない。知的関心が刺激されているだけだ」

 

「それを世間では楽しそうって言うんだよ」

 

「スバル。歴史とは、現在を形作る過去の積層だ。ましてや、数百年前を生きた当事者の証言となれば、その価値は計り知れない」

 

「わかった。お前、めちゃくちゃ楽しいんだな」

 

「否定はしない」

 

 ユリウスは咳払いを一つして、騎士らしい平静を取り戻そうとした。けれど視線は、明らかに私へ向いている。

 

 私はそんな視線など柳に風と受け流し、フーちゃんへと視線を戻した。

 

 フーちゃんは私の指摘に納得したように、手元の書棚の背表紙に目を走らせていた。確かに、そこに記されているのは奇妙な響きの人名ばかりだ。「私の知る限りで他に見知った名前はないな」とユリウスが首をひねり、フーちゃんは人工精霊の宿るアナスタシアにも確認を取るが、やはり誰も見覚えがないようだった。

 

「途方に暮れるには早いか。木を隠すには森の中……ひょっとしたら重大な情報の詰まった本が、この書架のどっかに埋まってるかもしれねぇとしたら嫌だなぁ」

 

 フーちゃんがそう零しながら、諦め混じりに書架へ向き直る。並ぶ人名タイトルを、彼が一つずつ指先でなぞっていく。

 

 その時だった。

 

「……?」

 

 なぞる途中、ふいに掠めたタイトルにフーちゃんが指を止めた。ぎっしりと詰まった書棚から、その一冊を傾けて引き抜く。なんとなしに彼が本を開き、その中身に目を落とした──直後、フーちゃんの身体が硬直した。

 

 彼の網膜の奥から、急速に光が失われていく。

 本から漂うそれは、私の知る『傲慢』の気配。本から発される気配は、ひどく懐かしいものだった。

 

(……フーちゃん?)

 

 私が眉をひそめて一歩を踏み出そうとした瞬間、横合いからエミリアが鋭く踏み込み、その手刀でフーちゃんの手首を激しく叩いた。

 

「スバル!」

「づぁ──ッ!!」

 

 べりべりと、音を立てるような錯覚を伴って、フーちゃんの意識が現実に帰還する。彼の掌から落ちた本が床へ逆さに転がり、フーちゃんはよろよろと本棚に寄りかかって荒い呼吸を繰り返した。走ったわけでもないのに心臓を激しく脈打たせ、魂を引き剥がされた痛みに耐えるように胸を押さえている。

 

 ベティが床の本を拾い上げ、そのスバルの剣幕に訝しげな顔のままタイトルを読み上げた。

 

「──テュフォン。スバルは知ってる名前なのかしら?」

「テュフォンは、過去にいた『魔女』の一人だ。『傲慢の魔女』で、見た目はベア子ぐらいの褐色ロリ。ただ、無邪気の残酷って言葉が具現化したみたいな子だった」

 

 その名がフーちゃんの口から飛び出した瞬間、私の胸の奥がチリ、と微かに爆ぜた。

 

 テュフォン。

 

 私より前にその大罪の席に座っていた、あの可哀想で、どこまでも純粋に歪んでいた褐色肌の女の子。水門都市プリステラには彼女の遺骨が眠るとされており、私が魔女教の福音書に従ってあの街へ潜入していた理由の一つでもあった存在。

 

 その彼女の生い立ちやルーツが、この本の中に刻まれていたということだろう。

 

 『天秤』の構成員に知らせたら、きっとそれこそ死に物狂いで読みに来るだろう代物だ。彼女から見た、まだ未熟だった時代の私の姿がどう描かれているかも、少しだけ気になるところだけど。

 

「他人の記憶を追体験する本……言い換えれば、過去を手繰る手段でもあるかしら」

 

 ベティがぶつぶつと思考を巡らせる途中、今度は別の書架から苦鳴のような音が響いた。

 

 目を向ければ、本を手にしたまま激しく動揺し、膝を突くユリウスの姿があった。傍らに寄り添うアナスタシアが驚き顔で彼の肩を揺すり、本を奪い取る。

 

「ユリウス? ユリウス、しっかりしぃ!」

 

「……心臓に悪い体験ではありました」

 

 冷や汗を拭いながら強がる騎士から、フーちゃんがさっと手を伸ばしてその本を奪い取った。背表紙に記されたタイトルは──『バルロイ・テメグリフ』。

 

「その名前、ウチは覚えあるなぁ。確か……ヴォラキア帝国の将軍にそんな名前の人がおらんかった?」

 

「──正しくは、元将軍です。事情を明かすことは禁じられていたのと、私自身にとっても苦い記憶でね。……彼の命を奪ったのは他でもない、私でした」

 

 ユリウスが観念したように白状した内容を聞き、フーちゃんが自分でその本を開いて中身に目を走らせる。だが、フーちゃんには何の衝撃も訪れない。彼は静かに本を閉じ、ユリウスを見つめた。

 

「俺も、一方的に知ってる名前になったから読んでみたけど、何もこないな」

 

「わかった気がするのよ。つまりここにある本は、読んだ人間が『見知った相手』の過去を追体験する本かしら」

 

 故人の過去を、人生を、その魂の軌跡を丸ごと追体験する書。読んだ人間が、その生前の姿を『見知っている』ことだけが発動の鍵となる、奇跡の書庫。

 

「おおよそ、書庫の本の意味はわかった。わかったけど、ウチの怖い話してええ?」

 

 アナスタシアが、両手を広げて書庫の全域を示しながら、酷薄とも言える響きを乗せて言った。

 

「ここにある本、過去から今に至るまでの世界中の人間の名前があるんとちゃう? そうやとしたら……目的の誰かの本を探そなったら、どれだけかかるんやろね?」

 

 ──なるほどね、先生。

 

 私は誰にも気づかれないように小さく唇を歪めた。過去から現在に至るまで、この世界で命を落としたすべての有象無象の記録が、この気が遠くなるような書架の海のどこかに埋もれている。

 

 死者の過去を、人生を、最期を知ることができる本。

 見知った相手ならば、その魂の軌跡を追える本。

 

 ならばここには、ある。ファルセイル・ルグニカの死者の書も。

 

 私は、息を止めていた。

 

 忘れていたわけではない。

 忘れられるはずがない。

 

 ただ、見ないふりをしていただけだ。

 四百年、触れれば戻れなくなると知っていたから、ずっと目を逸らしてきただけだ。

 

 でも、今。

 その名前を隠してきた箱の蓋が、内側から軋む音を立てていた。

 

「どれだけ時間がかかろうと、関係ないよ」

 

 私が凛とした声で遮ると、書庫の重苦しい空気が一瞬で霧散した。全員の視線が、段差の上に立つ私へと集まる。私は俯かせていた顔をゆっくりと上げ、その紅い瞳に明確な、揺るぎない決意の光を宿した。私はいま、本当にその本を探したいと思い始めていた。

 

「だって、ここに『絶対にある』って分かっちゃったんだもん。私が四百年もの間、ずーっと見ないふりをして、それでも忘れられなかった、たった一つの未練の在処がさ」

 

「……? フラン、お前が探してるのって、一体誰の本なんだよ」

 

 フーちゃんが怪訝そうに三白眼を細めて問いかけてくる。私はその愛おしい姿を見つめ、どこか切なげに、けれど誇るように微笑んだ。

 

「ファルセイル・ルグニカ。四百年前に死に別れた、私の最愛のお義兄様。あの日、あの一番最期の時。ファル義兄が何を思って逝ったのか、ルグニカの王様として何を遺そうとしたのか……その真実が記された『死者の書』が、この膨大な海のどこかに必ず存在しているの」

 

「ファルセイル・ルグニカ……!?」

 

 その高貴なる御名が私の唇から紡がれた瞬間、歴史の徒たるユリウスが、この日一番の衝撃を受けたように騎士剣の鞘を握る手を震わせた。

 

「神竜ボルカニカと盟約を交わし、獅子王国ルグニカを親竜王国ルグニカへと変革した、王国史における最大級の転換点を担った人物……! 盤石なる礎を築いたとされる、伝説の『最後の獅子王』……! まさか、その名をこの場で、しかも君の口から聞くことになるとは……!」

 

 ユリウスの声は、明らかに上ずっていた。警戒は解いていない。解いていないが、それ以上に歴史への好奇心が抑えきれていない。

 

「フランダース。君は、ファルセイル王を義兄と呼んだのか? 血縁ではなく、義兄と。であれば、当時の王家周辺に君のような存在がいたということになる。しかし、現存する王国正史に、君の名は──いや、秘匿された王族、あるいは王家に保護された……? いや待て、四百年前の混乱期ならば記録の欠落もあり得る。だが、ファルセイル王と個人的な関係を持つほど近い立場でありながら、記録から消えているとなると──」

 

「ユリウス、戻ってこい。お前、今すごい早口だぞ」

 

「失礼。だが、これは歴史的に極めて重要な証言だ」

 

「目が本気すぎる」

 

「本気にもなる。神竜との盟約前後の王国史は、伝承と史実の境界が曖昧だ。ファルセイル王の人物像も、後世の潤色を多分に含む可能性がある。もし彼を直接知る者の証言が得られるなら、それは一級どころではない史料価値を持つ」

 

「歴史オタクって怖ぇな……」

 

「知的誠実さと言ってくれ」

 

 ユリウスはそこで、はっとしたように咳払いをする。

 

「……いや、今は詮索すべき時ではないな。失礼した。だが、フランダース。いつか機会があれば、ファルセイル王の実像について、ぜひ話を聞かせてほしい」

 

「やだ」

 

「即答……!」

 

「だって長くなりそうなんだもん」

 

「それは否定できないが」

 

 スバルがこめかみを押さえる。

 

「お前ら、死者の書庫で歴史講義を始めるな。いや、俺も気になるけど! ファルセイルさんが何した人なのか、異世界転生者に優しい三分解説とか欲しいけど!」

 

「三分で語れる人物ではない」

 

「じゃあ一分で」

 

「無理だ」

 

「そこをなんとか」

 

「ファルセイル・ルグニカは、神竜ボルカニカとの盟約を通じて今日のルグニカ王国の根幹を築いた王であり──」

 

「始まった! 止めろ、誰か! ユリウス先生の歴史講座が始まった!」

 

 ラムが淡々と言った。

 

「放っておけば、三十分は続くわね」

 

 ユリウスが珍しく頬を赤くした。

 

「ファルセイル……。お母様が、昔そんな名前の人間と一緒に旅をしたといっていたかしら」

 

 その言葉に、ユリウスが再び反応しかけたが、スバルが手で制した。

 

「待て。ベア子の爆弾発言に反応したら、話が戻ってこなくなる。俺は今、経験で分かる」

 

「スバル、賢明なのよ」

 

「賢明っていうか、脱線で遭難しかけてるんだよ俺たち!」

 

 私は小さく笑った。

 

「そう、ファル義兄。ねえ、フーちゃん。私は大罪司教みたいに自分の欲望で世界を荒らしたいわけでも、魔女教の陰謀に加担したいわけでもない。ただ、家族の最期の心残りを知りたいだけ。……だから、私がファル義兄の本を見つけるのを、邪魔しないでね?」

 

 言葉は、私自身でも驚くほど自然に口から出た。フーちゃんは私のどこか切実で、けれど覇気を秘めた瞳に気圧され、小さく唾を呑み込んだ。

 

 やがて彼は頭をガシガシと掻きむしると、あきらめたように息を吐き出した。

 

「ああ。お前がそんな顔して探してる歴史の超重要人物の本を、俺たちが力尽くで横取りする理由なんてねえよ。兄貴の生きた道を知りたいってならなおさらな。邪悪な目的じゃないなら、むしろ大歓迎だ。ただ、この本の山から見つけるのは死ぬほど骨が折れると思うけど……頑張れよ、フラン」

 

「うん! ありがとうフーちゃん! やっぱりフーちゃんは優しいね!」

 

 一瞬でいつもの甘い態度に戻って微笑む私を見て、ユリウスやエミリアたちも、ようやく私の塔における明確な目的を理解したようだった。

 

 私がただ純粋に家族の未練を手繰るためにここにいるのだと判明したことで、魔女という存在への根深い警戒こそ解かないまでも、その行動を否定はせず、一定の距離を保って私の書庫探索を容認してくれたのだった。

 

 少なくとも、彼らはそう思った。そして私自身もまた、その瞬間までは、そう思おうとしていた。方便は嘘ではなくなったけれど、真実になってしまった嘘ほど、厄介なものはない。タイゲタの書架の海を見上げながら、私は胸の奥で四百年触れずに済ませてきた名前が静かに息を吹き返すのを感じていた。

 

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