傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
不審な鳥を追いかけたその先で。
「────」
監視塔のバルコニーと呼ぶべきその開放的な空間で、風に紫の髪をなびかせるアナスタシアと、そんな彼女の周りを囲む、無数の鳥たちが待つ光景があった。
想定外の光景を前に、俺は唖然と瞠目するしかなかった。
黒い空には満天の星空が広がり、視界の端では夜の砂丘が濃い藍色の闇に沈んでいる。ここが地上数十メートルなんて生易しい高さではなく、百メートル単位の高所にあるのだと、肌を刺す冷たい風が否応なく教えてくれた。
足元は石造りの床。少し先には、人間の腰ほどの高さしかない外縁の塀。その向こうは、夜の底へ真っ逆さまだ。
普通なら、足がすくむ。
というか、すくんだ。
すくんだが、それ以上に俺の神経を逆撫でしたのは、そこにいる鳥たちの方だった。
「──ナツキくん?」
掠れた俺の息を聞きつけ、風に髪をなびかせる人影がこちらへ振り返った。
薄紫のウェーブがかった髪をそっと手で押さえる少女──浅葱色の丸い瞳をした可憐な容姿の持ち主、アナスタシアだ。もっとも、今その中にいるのはアナスタシアではなく、その契約精霊だが。
「……夜の散歩にはうってつけの絶景スポットだな」
出だしの驚きを舌の裏に隠して、俺は肩をすくめてみせた。
正直、心臓はまだ早鐘を打っている。だがここで素直に騒げるほど、俺の人生は素直なイベントだけで構成されていない。
「そうやね。ここからやと、星がよう見えるんよ。カララギでも、なかなかここまで空が広い場所はないわ」
アナスタシアは小さく笑い、のらりくらりと、この高層階からは星がよく見えるという話を紡いでいく。だが、景色の良さよりも、俺の目を引いて離さないものがあった。
「──で、この状況の言い訳は?」
俺は顎をしゃくって、彼女の背後に控える観衆を指し示した。
バルコニーの外縁部に留まり、羽を休める鳥の数は、どう見ても五十を下らない。白い鳥、青い鳥、黒い鳥、斑の鳥、種類も大きさも雑多で統一感のない鳥たちが、まるで誰かに命じられたように一揃いに集まっている。
それ以上に不気味だったのは、これほど多くの鳥がいるというのに、鳴き声どころか身じろぎする羽音一つ聞こえてこないことだった。
生き物らしいざわめきはなく、ただ無数の黒い目だけがこちらを見ている。
「夜、塔の中をふらふらーっと散歩しててん。そしたら鳥が飛んどるやないの。それ、何かなーって追いかけたらここに……なんて、信じてくれん顔やね?」
両手で鳥を模して空を泳がせていたアナスタシアが、いたずらっぽく目を細める。当然、納得のいく説明ではない。
「いや、俺と同じ経緯をそんな偶然みたいに言われると、こっちの立場がなくなるんだが」
「ほな、ナツキくんも夜の鳥さんに誘われてここへ?」
「招待状も案内係も不親切すぎたけどな。壁を四つん這いで抜ける羽目になるとは思わなかったよ。俺の威厳が床に擦り減った」
「ナツキくんに威厳があったかどうかは、審議が必要やね」
「初手から俺の尊厳に審議入りするのやめろ」
軽口を叩きながら、俺は視線だけは鳥の群れから外さなかった。
この鳥たちが何なのか。
どうやって塔の中に入り込んだのか。
なぜ、アナスタシア──いや、襟ドナの周囲に集まっているのか。
わからないことが多すぎる。
俺が厳しい視線を崩さないでいると、彼女は、
「本当に困ってるんよ」
と額に手をやり、やれやれと悲嘆に暮れる素振りを見せた。
「安心し。そんな回りくどいこと考えてないし、うちにナツキくんへの敵意はない。この塔の、他の誰にも……あ、試験官らは別やけど」
「シャウラとレイド、か」
「────」
名前を出した途端、彼女は苦い顔で押し黙った。その反応を見て、俺は彼女がまだはっきりとは『棒振り』の正体を知らないのだと気づいた。
「あいつ、初代『剣聖』らしいぞ。レイド・アストレア。過去から呼ばれて出てきたのか、複製みたいなもんなのか、そのへんはまだわからねぇけどな」
「……初代『剣聖』。あの、レイド・アストレアが?」
「本人の態度は歴史上の偉人ってより、下品と暴力を煮詰めた何かだったけどな」
「聞くだけで頭が痛くなる設計やね、この塔。……創造主は、何を考えていたのやら」
彼女は呆れたようにコメントし、その最後に、低く呟いた。その瞬間、彼女の口調からカララギ弁の訛りが完全に抜け落ちたのを、俺の耳は聞き逃さなかった。
「創造主、ね」
「……何かな、ナツキくん」
「フランから聞いたんだ。プレアデス監視塔を作ったのは、『強欲の魔女』エキドナだって」
「────」
アナスタシアの顔をした少女の瞳が見開かれる。
「……強欲の魔女、エキドナ」
「お前の創造主、なんだろ。少なくとも、お前は前にそう言ってた」
「正確には、君からそう聞いた。ボク自身に、彼女の記憶があるわけじゃない。僕はただエキドナという名前を持っていただけ」
襟ドナの声から、完全にアナスタシアの柔らかさが消える。
「けれど、否定できる材料もない。ボクは、自分の造物主のことすら、君やベアトリスほどには知らない。……それでも、ここに彼女の影があると聞かされれば、無視はできないな」
アナスタシアの顔で、襟ドナは自嘲するように笑った。
「嫌なものだね。自分の始まりに関わる名が、こんな悪趣味な塔の創造主として出てくるのは」
「……それで、アナのフリを続けたまま誤魔化す気かよ」
「そう見えるかい? なら、仕方ない」
襟ドナは小さく息を吐いた。
「ここで、こうして二人きりで言葉を交わすのは、確かに初めてだったね」
瞬間、彼女を取り巻く雰囲気が一新された。
姿形は変わらないけれど、明らかに対峙する存在感が変質する。浅葱色の瞳に宿った冷徹な知性が、音もなく切り替わっていた。アナスタシアを演じていた人工精霊エキドナが、ゆっくりとバルコニーの外縁へ向かい、申し訳程度の高さしかない塀にそっと腰を乗せる。
高所でそんな座り方をするな、と言いかけて、俺は言葉を呑み込んだ。
彼女は危うい場所にいるが、その危うさを恐れているようには見えない。むしろ、危うい場所に身を置いていることそのものが、こちらとの距離を測る仕草のように思えた。
「──ここで、こうして二人きりで言葉を交わすのは、確かに初めてだったね」
彼女は儚げに微笑み、すぐ傍らに佇む白い小鳥の頭を優しく撫でた。小鳥は鳴かない。撫でられても羽を震わせるだけだ。生き物らしさと作り物めいた無機質さが、気味悪いぐらい同居している。
「君の疑惑を否定させてもらう前に……ボクからも、一つ尋ねさせてもらいたい。アナになりきっていたつもりだったから、これまでは冗談に紛れ込ませていたけれどね」
襟ドナは小鳥から手を引くと、膝の上に両手を置き、静かに、けれど逃げ場を塞ぐような目で俺を見つめた。
「──ナツキ・スバル。君は何者なんだ?」
「何者って……」
声が詰まった。本来なら、ここは軽口で逃げるべき場面だ。
ナツキ・スバル、十八歳。趣味はエミリアたんの騎士、特技は土壇場での悪あがき。好きな食べ物はマヨネーズ。嫌いなものは死ぬほど痛い目に遭うことと、好きな人たちを苦しめること。
そんな馬鹿げた自己紹介を並べて、相手の追及の矛先を鈍らせる。いつもの俺なら、そうしていた。
「俺はただの一般庶民出身、現エミリアたんの一の騎士兼便利屋兼問題児だけど?」
「便利屋と問題児の肩書きは否定しないけれど、ボクが聞きたいのはそういうことじゃない」
「ですよねー」
逃げ道は初手で塞がれた。
襟ドナは一歩も引かない目を俺に向ける。その瞳の奥には怒りとは違う、もっと冷静で、だからこそ厄介な警戒が宿っていた。
「一年前、君が白鯨討伐と『怠惰』の討伐を成し遂げた論功式のあとだ。アナは君の素性を調査した。けれど君の過去は完璧なまでに空白で、素性不明の新人騎士──それが君への評価だった」
「田舎から出てきた苦労人ってことで、一つ」
「その田舎の名前は?」
「あー……大瀑布の向こう側? 異世界?」
「……大瀑布の向こう側、異世界か。ずいぶんと壮大な田舎だね」
あからさまに眉をしかめる襟ドナ。
異世界出身だと打ち明けた相手の中で、すんなり信じてくれたのはエミリアぐらいだ。ベアトリスでさえ半信半疑だったそれを、疑われている状況で信じてもらえるはずもない。
「言っといてなんだけど、今のは忘れてくれ」
「忘れられる種類の冗談ではないよ」
喉の奥が乾く。
彼女の言葉は、刃物のように鋭くはない。むしろ、丁寧に積み木を積むような、理屈の積み上げだ。だからこそ反論が難しい。
「君は白鯨を討ち、『怠惰』を討ち、大兎をも討伐した。そしてプリステラでは全体を指揮し、ラインハルトと共に『強欲』を討ち果たした。しかも、そのどれもが偶然や幸運だけでは説明がつかない。もちろん、君に才覚があることは認めるよ。無謀さと紙一重の行動力も、交渉力も、仲間を巻き込む奇妙な求心力もね」
白鯨。
怠惰。
大兎。
強欲。
並べられると、自分でも他人事みたいに聞こえた。
そのどれもが、俺一人の力でどうにかしたものじゃない。むしろ、俺一人なら最初の一歩で踏み潰されていたものばかりだ。『死に戻り』の力が無ければ、俺はこんな場所まで辿り着けていない。
「褒めてる?」
「分析しているんだ」
「褒めてるより怖いぜ、それ」
軽口を挟むが、襟ドナの表情は緩まない。
「この監視塔に来て、ボクの君への恐れは確信に変わりつつある。塔の創造主に強欲の魔女エキドナの名が出てきて、管理者であるシャウラが君を『お師様』と呼び、さらに四百年前の魔女であるフランダースが君を親しげに呼んでいる。偶然で片付けるには、四百年前の名が君の周囲に集まりすぎている」
「エキドナはちょいと事情が複雑でな。本人が生きてる間にあったことはねえよ。シャウラは勝手に俺をお師様扱いしてるだけで……」
「生きている間、というのは引っかかるが……シャウラのその
襟ドナの声は静かだった。責めるというよりも確認するような風情の声音。けれど、その静けさがかえって逃げ道を塞いでくる。
「シャウラは、この塔の管理者だ。四百年もの間、外界と隔絶されたこの塔を守ってきた存在。その彼女が、君を見るなり『お師様』と呼び、長く待ち続けていた相手として振る舞った。君がどう受け止めているかは別として、塔の側が君を知っているように見える。そう考えるのは、不自然かな?」
「……不自然じゃ、ないな」
不自然じゃない。
むしろ、俺が逆の立場なら絶対に疑う。突然現れた素性不明の男を、四百年前から塔を守っていた女が『お師様』と呼んで飛びついてくる。冷静に考えれば怪しさの役満だ。ロン。俺の人生、またしても放銃。
「加えて、三層の『試験』だ。君は偶然とは思えない速さで謎を解き明かした。もちろん、君の発想力が優れているという見方もできる。けれど、それだけでは片付かないものがある」
「勘が冴えてたんだよ。俺、追い詰められるとたまに変な方向に頭が回るから。故郷の星の知識だって説明もしただろ?」
「異世界という、大瀑布の向こうの? まあ、知識の出所はいったん置いておこう。今ここでそれを掘り返すと、話が余計にややこしくなる」
「お互いのためにそうしてくれ」
「そして──あの子だ」
そこで、ついに話の矛先が変わった。
いや、違う。
襟ドナの話は最初から、そこへ向かっていたのだ。
「あの子って……フランのことか?」
「そう。四百年前の『傲慢の魔女』を自称する、あのルグニカ王族の色彩を持つ少女だ」
夜風が吹く。
バルコニーに集まった鳥たちの羽が、音もなく揺れた。
「シャウラだけなら、まだ偶然や錯誤で片付ける余地もあったかもしれない。けれど、そこに彼女が加わる。四百年前から生きる魔女を名乗る存在が、君の隣に当然のようにいる。しかもプリステラでの報告が事実なら、あのラインハルトでさえ仕留めきれなかった存在だ」
「招き入れたっていうか、勝手についてきたっていうか……」
「その言い方で済ませられる存在ではないだろう?」
それは、否定できなかった。
フランは味方だ。少なくとも、俺に敵意はない。そう信じている。信じているが、信じていることと説明できることは別問題だった。
「君の知るボクの造物主と同じ『魔女』の名を冠する存在を、君はどこから連れてきて、何のためにここにいる?」
「フランの目的は聞いた通り、義兄の本を探すことだ。ルグニカの、昔の王族──ファルセイル・ルグニカの死者の書を探してる。それは本人が言ってただろ」
「本人がそう言っている。だから信じる、と?」
「……俺は、あいつが俺たちに敵対するつもりはないって信じてる」
「敵対するつもりがないことと、危険ではないことは同じではないよ」
襟ドナの声は静かだった。静かだったからこそ鳥肌が立った。
「君は彼女を恐れていない。少なくとも、恐れを理由に距離を取ろうとはしていない。あのラインハルトが警戒し、ボクが本能的に危険だと判断する存在を、君は『フーちゃん』と呼ばれるほどの距離に置いている」
「そこは俺が呼ばれてる側だ」
「問題はそこじゃない」
「わかってるよ……」
わかっている。わかっているから、言葉が出ない。
フランの正体。彼女の由来。彼女がなぜこの世界にいて、なぜ俺を気に入っているのか。俺が知っていることもある。彼女は異世界転生者で、俺と同じ地球の出身だ。でもそれを説明して何になる? それだけでは説明できないことの方がずっと多い。
襟ドナは、そこで一度言葉を切った。鳥たちの黒い目が、俺を見ている。夜風が、皮膚の表面を冷たく撫でていく。
「ナツキ・スバル」
襟ドナは、俺の名前を丁寧に呼んだ。
「君は、フリューゲルなのかい?」
「…………は?」
間の抜けた声が出た。
出たが、笑えなかった。
質問が馬鹿げているからではない。むしろ、あまりにもこの塔の状況に噛み合いすぎていて、笑い飛ばすための反射が遅れたのだ。
「待て待て待て。なんでそうなる。どういう連想ゲームだよ。俺の名前はナツキ・スバルだぞ。フリューゲル要素どこだよ」
「要素なら、今まで挙げた通りだよ」
襟ドナは、淡々と告げる。
「君の過去は、王都に現れる以前がほぼ完全に空白だ。出自も、経歴も、故郷も、確認できない。突然現れ、短期間で白鯨、『怠惰』、大兎、『強欲』に関わり、それらの攻略に中心的な役割を果たした。本人には目立った武力も魔法の才もない。にもかかわらず、君の周囲では不可能に近い攻略が成立する」
「それを全部、俺が賢者だからって話にするのは飛躍しすぎだろ」
「もちろん、飛躍はある。けれど、仮説としては成立する」
襟ドナは、小鳥の頭にそっと指を置いた。
「この世界には、四百年もの間、封印されている存在の前例がある。わかるだろう、嫉妬の魔女だ。ならば、賢者フリューゲルもまた死んだのではなく、何らかの形で封印されていた可能性を考えることができる」
「……」
「四百年の時を経て、その封印が解けた。あるいは、何らかの手段で姿を変え、現代に現れた。それがナツキ・スバルという少年なのだと仮定すれば、説明のつくものが増える」
「説明がつくって……」
「シャウラが君を『お師様』と呼ぶこと。君がこの塔の試験に対して、偶然とは思えない発想を見せたこと。傑出した力を持たないにもかかわらず、魔女教や三大魔獣を相手に結果を出してきたこと。そして、四百年前の魔女であるフランダースが、君を『フーちゃん』と呼んでいること」
そこを突かれて、俺は言葉に詰まった。
フーちゃん。
それは、あいつが勝手につけた呼び名だ。俺はそう思っていた。だが襟ドナから見れば違う。
「それだけじゃない」
襟ドナの声が、さらに低くなった。夜風が吹き抜ける。彼女の周囲に集まった鳥たちの羽が、音もなく揺れた。
「今しがた、君は言ったね。この塔の創造主が、強欲の魔女エキドナだと。フランダースからそう聞いた、と」
「……それが、なんだよ」
「以前、ボクが君に、エキドナとは何者なんだ、何故君はそれほどボクの造物主に詳しいのか、と聞いたことがあったね。君はあのとき、好感度云々と言い、はぐらかした」
「────」
喉が、ひくりと鳴った。
覚えている。確かに、そんなやり取りをした。
襟ドナが、自分の造物主であるエキドナについて尋ねてきた時。俺は、聖域で出会った強欲の魔女のことを、まともに説明しなかった。できなかった、と言った方が近いかもしれない。
あの茶会。
白い空間。
こちらの弱さも、罪悪感も、死に戻りの果てに擦り切れた心さえも、好奇心の対象として覗き込んでくるような、あの白い魔女の黒瞳。
あれを、どう説明すればよかったのか。
「君は、ボクの造物主について知っていた。ボクよりも、ベアトリスよりも、あるいはこの時代の誰よりも詳しくね。しかも今、その名はこの塔の創造主としても現れた」
襟ドナは、俺を見据えたまま続ける。
「ボクは、強欲の魔女エキドナをよく知らない。自分の始まりに関わる名でありながら、ボクには彼女の記憶がない。だから、君が語った彼女像を手掛かりにするしかなかった」
「……」
「けれど、君がフリューゲルなら話は別だ。四百年前、賢者フリューゲルが強欲の魔女エキドナと関わっていたのなら、君が彼女について妙に詳しいことにも説明がつく。ボクの問いをはぐらかした理由にも、説明がつく」
彼女の浅葱色の瞳が、細くなる。
「──それは、そういうことなんじゃあないのかな」
「違う」
反射的に否定した。
早すぎる否定だった。自分でもそう思った。
「違う。フランは俺を昔の誰かと勘違いしてるわけじゃない。あいつは俺を俺として見てるはずだ。エキドナのことだって、俺は……俺は、あいつと会っただけだ。四百年前じゃない。『聖域』で、あの女と話しただけだ」
「そうだとしても、その根拠をボクは知らない」
襟ドナは静かに首を振る。
「ボクに見えているのは、四百年前の因縁を持つ者たちが、君の周囲に集まっているという事実だけだ。塔の管理者であるシャウラ。四百年前の魔女であるフランダース。そして、この塔の創造主として名の挙がった強欲の魔女エキドナ。そこに、君がいる」
「……っ」
「もし君がフリューゲルなら、シャウラの言葉を信じる限り、この塔は君のものだ。あるいは、君と『強欲の魔女』エキドナが共に関わったものかもしれない。君は塔の仕組みを知り尽くしているはずだ。試験の意味も、攻略法も、二層にいるレイド・アストレアのことも、その先の一層のことだって、死者の書のことも、本当なら知らないはずがない」
襟ドナの目がわずかに細められる。
「それなのに、君は知らないふりをしている。それがボクには危険に見える」
「俺が知ってるなら、こんな苦労してねぇよ」
声が低くなった。
「知ってるなら、ユリウスをあんな目に遭わせてねぇ。アナスタシアさんの体を、お前にあんな無茶させてねぇ。変態レイドの野郎がエミリアたんにセクハラするのを黙って見るわけねえし、そもそもアウグリア砂丘であんなに苦戦してねぇ」
「それは、君の主観でしかない」
「主観で悪いかよ。俺は俺の中身しか知らねぇんだ」
感情が声に滲む。
しまった、と思った。襟ドナの問いは理屈だ。理屈に感情で返せば、こちらの旗色が悪くなる。過去なんどやってきた過ちだろうか。
だが、そこだけは黙っていられなかった。
「俺はフリューゲルじゃない。賢者でもない。塔の仕組みなんか知らねぇ。知ってたら、もっとマシなやり方を選んでる」
「記憶を失っている、という可能性もある」
「便利すぎる仮説だな。否定しようがねぇじゃねぇか」
「だからこそ、怖いんだよ」
襟ドナは、静かにそう言った。
「君が嘘をついているのか、記憶を失っているのか、本当に無関係なのか。ボクには判別できない。けれど、君がフリューゲルである可能性を捨てられない以上、聞かずにはいられない」
彼女は、俺を真正面から見据えた。
「君は何が目的なんだ? もし君がこの塔に繋がる存在なら、なぜ今、ここへ来た? シャウラをどうするつもりだ。死者の書をどう扱うつもりだ。フランダースを連れてきたのは偶然か、それとも必然か。『強欲の魔女』エキドナの名を知る君が、この塔に来たことも、本当に偶然なのか」
「俺は……」
答えは、決まっているはずだった。
エミリアを王様にしたい。レムを目覚めさせたい。みんなでこの塔を攻略して無事に帰りたい。ただ、それだけだ。
だが、襟ドナの積み上げた仮説は、俺の言葉をそのまま通してはくれない。
賢者フリューゲル。
シャウラの笑顔。
お師様、と呼ぶ声。
フランの「フーちゃん」。
『強欲の魔女』エキドナ。
死者の書。
初代『剣聖』。
四百年前。
それらが、まるで一本の糸で繋がっているように見えてしまう。気持ち悪い。自分の知らない自分を、他人の理屈で作られていくような気持ち悪さだった。
「……俺に言えるのは、一つだけだ」
「聞かせてもらおう」
「俺は、エミリアたんを王様にしたい。そのために今まで歩んできた。お前の口車に乗ってプレアデス監視塔に来たのは、レムを起こしたいからだ。ユリウスも、アナスタシアさんも、みんな無事に連れて帰りたい」
そこまで言って、俺は一度息を吸った。
「フランについては……俺にもほとんど説明できない。でも、少なくとも今は、俺たちの敵じゃない」
「今は、か」
「未来永劫絶対安全ですって保証できるほど、俺は偉くねぇし、強くもねぇよ」
自分で言って苦笑する。未来の保証なんて、俺が一番できない。未来はいつも、俺の想定を最悪の方向へ裏切ってきた。
「でも、あいつが俺を信じてくれてるなら、俺もできる限り信じたい。それだけだ」
襟ドナは、しばらく俺を見つめていた。鳥たちが鳴かないせいで、沈黙が妙に重い。夜風の音だけが、俺たちの間を抜けていく。
やがて、襟ドナは小さく息を吐いた。
その視線は、先ほどまでの分析の延長線上にあるものだった。値踏みするような、測るような、そして――ほんのわずかに、距離を取るような色が混じっている。
やがて、襟ドナは小さく息を吐いた。
「……はあ。そうだね。ここで君を問い詰めても、答えは出ないか」
「──ぁ?」
襟ドナはすぐには肩の力を抜かなかった。むしろ、ほんの一瞬だけ、こちらから視線を外し、バルコニーの外――夜の闇へと目を向ける。その仕草は思考を切り替えるためのものというより、距離を測り直すためのものに見えた。
それからようやく、彼女はふっと肩の力を抜き、両手を広げる。
だが、その動きはどこかぎこちない。先ほどまでの緊張を、完全には解いていないのが見て取れた。
「こうして夜更けに二人、誰の目もない空間で一緒にいることに不安を覚え、警戒したとしてもそれは仕方のないことと許してほしい。ボクだって、君の底知れなさにビビっている一介の人工精霊に過ぎないんだからね」
軽口めいた言い回しの裏で、浅葱色の瞳はまだ俺を観察している。冗談に逃がしているだけで、警戒そのものは解いていない――そんな温度だった。
「……お前、よく言うぜ」
「事実だよ。人工精霊にも恐怖心はある。特に、理解できないものに対してはね」
その言葉にもわずかな間があった。言葉を選んだ、というより――どこまで踏み込むかを測ったような間だ。
「理解できないもの筆頭みたいな顔してる奴に言われたくねぇ、な」
「お互い様、ということにしておこうか」
そう言って、襟ドナはようやく視線を外した。
だがそれは、完全に気を緩めたというより――これ以上踏み込めば危ういと判断して、一歩引いたような引き際だった。ため息を吐きながら俺が応じると、襟ドナは精霊としての部分へと話を戻した。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけほどけたように感じた。その時、僅かに俺たちの静寂を切り裂くように、不意に背後から冷たい羽音が響いた。それは、新たに一羽の鳥がバルコニーへと舞い降りてきた音だった。
──だが、その羽音は、監視塔の『内側』から響いていて。
「──今の話は、どういう、ことなんだ?」
震えを押し殺した声だった。
振り返った俺の視線の先に、愕然と立ち尽くすユリウスの姿があった。