傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
「──今の話は、どういう、ことなんだ?」
震えを押し殺した声だった。恐る恐る振り返った俺の視線の先に、ユリウスが立っていた。
その声に反応でもしたかのように、バルコニーの外縁を埋め尽くしていた鳥たちが、一斉に翼を広げる。白、青、黒、斑。色も大きさもばらばらな鳥たちが、ひとつの合図を受けたように飛び立ち、夜の砂丘へ散っていった。
羽音が遠ざかる。残されたのは風の音と、ユリウスの視線だけだった。
入口を塞ぐように立つユリウスは、端正な顔に困惑と緊張を刻み込んでいた。彼の視線の先にいるのは、俺と、アナスタシアの体を借りた襟ドナ。
そして、今しがた交わされていた会話。スバルは何者なのか。フリューゲルなのか。アナスタシアの体を動かしているのは誰なのか。
どこから聞かれていた。その問いが湧き上がる。
「──今の話は、どういうことなんだ?」
ユリウスは、同じ言葉をもう一度繰り返した。一度目よりも、声音に力が戻っているのがかえって痛々しかった。
「あー、もう、ナツキくんたらあかんよ。そんな顔されたら、うちが悪いことしてたみたいに見えるやないの」
硬直した俺の胸元を、エキドナが軽く指先で小突いた。
口調は、アナスタシアのものだった。仕草も、表情も、呼吸の間さえも、アナスタシア・ホーシンをなぞっている。
けれども薄い。
いつものアナスタシアなら、もっと自然に相手の警戒をほぐしたはずだ。笑いながら、相手の疑問を別の場所へ流したはずだ。今のそれは、形だけを急いで被せた仮面だった。
「ごめんな、ユリウス。でも、仲間外れにしようとしてたわけと違うんよ。うちはただ、この塔から戻った後のことで、ちょこーっとナツキくんと大事なお話してただけ」
胸の前で手を合わせ、「堪忍な?」と小首を傾げる。
その仕草は可憐だったけれど、ユリウスには通じなかった。
「──アナスタシア様、ではないのだね」
静かな声だった。怒鳴るでもなく、剣を抜くでもなくただ、その一言だけでエキドナの仮面を剥がした。
「エキドナ。君の事情を話してもらいたい。事ここに至って、なお私に隠し立てを続けるほど、君も往生際が悪くはないはずだ」
「エキドナ」と、もう一度名を呼ばれて、彼女は完全に口を噤んだ。
アナスタシアの顔をした精霊は、俺の方を見る。浅葱色の瞳が諦めに揺れていた。俺にも、挽回する言葉は思いつかなかった。
「ユリウス……どこから聞いてた?」
「……鳥を追ってここへ来たところからだ。全てではない。だが、聞くべきではなかったものまで聞いた」
ユリウスの声は硬かった。
最初からではない。それでも十分すぎる。彼は聞いてしまったのだ。
襟ドナがアナスタシアを演じていること。
俺がそれを知っていたこと。
そして、俺がフリューゲルかもしれないという疑いを、襟ドナが口にしていたこと。
エキドナは観念したように目を伏せた。
「……プリステラでの魔女教との戦い以降、アナの精神は深い眠りについたままだ。肉体だけは生きている。だからボクが、彼女の体を動かしている」
淡々とした説明だった。
アナスタシアの精神が眠り続けていること。エキドナがそれを隠すために、今日まで彼女を演じてきたこと。あの二層で限界を超えた魔法を使ったのも、結果的にアナスタシアの体へ負担をかけたこと。
ユリウスは黙って聞いていた。その沈黙が、俺には恐ろしかった。
「何故、スバルには共有していた?」
問いは短いが、その一言にユリウスの感情が凝縮されていた。
「彼が最初に気付いたからだ」
エキドナは逃げなかった。
「正確には、疑われた。アナの振る舞いと、ボクの振る舞いの違いをね。だから話さざるを得なかった。彼は大罪司教の権能の影響を受けず、状況の混乱の外にいた。加えて、人工精霊であるベアトリスと契約を交わした精霊術師でもある。相談相手として不適切ではないと判断した」
「外部の人間であるスバルが気付けて、一の騎士を自任する私が気付けなかった、と」
「待て、馬鹿! お前、そういう受け取り方するなよ!」
たまらず俺は割り込んだ。
「状況が悪かったんだよ! プリステラであれだけのことがあって、お前自身だって名前を奪われて、みんなから忘れられて、それでアナスタシアさんの変化まで全部見抜けって……そんなの、いくらなんでも無茶だろ!」
「無茶でも、私は気付くべきだった」
ユリウスは揺れない。いや、揺れていないように見せているだけだ。
「偶然を拾い上げ、確かなものにすることが、一の騎士の務めだ」
「何が一の騎士だ……! だったらそんな面倒な肩書き──」
「捨ててしまえ、などと言わないでいてくれ」
遮る声はひどく静かだった。その静けさに、俺は言葉を失った。
「私は今、私から何か一つ取りこぼすことさえ恐ろしい」
何か一つ。
その重みを、俺は理解してしまった。
名前を奪われ、周囲の記憶から消えた。主君であるアナスタシアも、彼のことを忘れている。そんな男が、最後に握りしめているものを、俺は「面倒な肩書き」と切り捨てかけたのだ。
ユリウスは、ゆっくりとエキドナへ視線を戻した。
「君の目的は何だ」
「アナに体を返すこと。それが最優先だよ」
「そのために、アナスタシア様の体を危険に晒したのか」
「二層で魔法を使ったことなら、判断として軽率だったとは認める。ただ、あの場でユリウス、君を失うことは避けたかった。戦力的にも、精神的にもね」
「精神的、か」
ユリウスの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
「私がアナスタシア様に覚えられていないことを、君は知っている」
「……ああ」
「それでも、私を残すことが必要だと判断した」
「そうだ」
エキドナは静かに頷いた。
ユリウスは、その答えを理性的に受け止めたように見えた。
「……わかった。今後は軽挙を慎んでほしい。他でもない、アナスタシア様のために」
「心得たよ」
「なっ!? 今の話で、なんで納得がいくんだよ……!」
俺は思わず声を上げた。
納得できるはずがない。
アナスタシアの体を勝手に動かしていた。その体を使って無茶をした。ユリウスはずっと、そのことを知らされていなかった。
それを、そんな簡単に処理できるわけがない。
「スバル、私は納得したわけではない」
ユリウスは、俺を見た。
「ただ、今ここで感情をぶつけても、アナスタシア様は目覚めない。エキドナの説明も変わらない。ならば、今すべきことは状況を把握し、今後の危険を減らすことだ」
「だからって……!」
「そして、もう一つ」
ユリウスの視線が、俺へ向く。
その紫紺の瞳の奥に、痛みがあった。
「君がフリューゲルかもしれない、という話だ」
「……それは」
「私は、君を疑いたいわけではない。そもそも、仮にフリューゲルと呼ばれた存在であったとしても構わないとすら思っているよ。君と私との間の出来事は、君の正体とは無関係なのだからね」
ユリウスはきっぱりと言った。
「だが、今の話を聞いてしまった以上、聞かなかったことにはできない。シャウラ女史が君を『お師様』と呼ぶこと。四百年前の魔女であるフランダースが、君を親しげに呼ぶこと。君の素性が不明であること。そして、この塔が賢者フリューゲルに関わる場所であること」
一つ一つ、彼は言葉にしていく。そのたびに、俺の胸に重石が置かれていくようだった。
「君が否定したことも聞いた。君が知らないと、そう訴えたことも聞いた。だから私は今、君を断じない」
「ユリウス……」
「だが、スバル。君自身も、この疑いの重みを軽んじないでほしい」
その言葉に、俺は黙った。
「もし君が、本当にこの塔に深く関わる存在なら。あるいは、自覚なくそうであるなら。君の知らないところで、君の周囲の者たちが危険に晒される可能性がある。君が悪意を持っているかどうかとは、別の問題として」
その言い方は襟ドナのものに近かった。敵意ではないのだろう。疑念を整理し、危険を見積もる言葉。だが、ユリウスの口からそれを聞くのは、苦しかった。
「俺は……フリューゲルじゃねぇよ」
「そうであってほしいと、私も思っている」
ユリウスは静かに返した。
「だが、そう思いたいことと、確認しなくていいことは同じではない」
「……っ」
「そして、それを君一人で抱え込む必要もない。君が本当に何も知らないなら、なおさらだ」
その言葉が、胸に刺さった。俺はまた、抱え込もうとしていたのだろうか。
エキドナのことも。
フリューゲルのことも。
不確かな疑いも。
誰かを不安にさせるから、混乱させるから、今は黙っておいた方がいいと。
そうして、良かれと思って黙る。
その結果が、今のユリウスの顔だ。
「すまない。言葉が過ぎた」
ユリウスはわずかに目を伏せた。
「だが、事実だ。君が悪意ではなく、配慮と心遣いから私に事実を隠していたのはわかっている。逆の立場であっても、やはり私は君に黙っていただろう」
そこで、一度声が途切れた。
「──だが、それでも。知らされなかったことが、痛くないわけではない」
俺は、何も言えなかった。
ユリウスは全く、平静ではなかったのだ。
アナスタシアの体を動かしていたのがエキドナであること。
自分がそれに気付けなかったこと。
スバルがそれを知っていたこと。
そして、そのスバル自身にも、フリューゲルという疑惑が生まれたこと。
名前を奪われ、絆を失い、精霊との契約も揺らぎ、目の前には箸一本で自分を打ち倒す初代『剣聖』がいる。さらに、ラインハルトと渡り合う『傲慢の魔女』が塔の中を歩いている。
そんな状況で、自分がどれほど無力に見えるか。
その痛みを、ユリウスは声を荒げずに飲み込もうとしていた。
「中に戻ろう。アナスタシア様のお体とエキドナのことは、明日、エミリア様たちにも話さなければならない。スバルの件についても……少なくとも、無視はできない」
「ああ……わかったよ」
歩き出したエキドナの手を、ユリウスが取った。
ほんの一拍、迷いがあった。
それでも彼は、いつもアナスタシアにそうするのと寸分変わらない所作で、その手を取った。
中身が別の精霊であろうと、その体は主君のものだ。彼の忠節はその事実の前で曲がらない。たとえ、眠り続ける彼女が、ユリウスのことを完全に忘れていてしまっていても。
「ユリウス!」
その背中に、俺はとっさに声を上げていた。
忘れられても、忘れられない。
その想いだけを頼りに立っている男の背中が、あまりにも苦しかった。
いっそ、俺を罵ればいい。お前が黙っていたせいだと怒ればいい。それが俺自身の罪悪感を楽にしたいだけのワガママだとしても、耐えられなかった。
足を止めたユリウスは、エキドナを連れたまま、振り返らなかった。
「お前、俺に何か言いたいことねぇのかよ……!」
胸をかきむしるような問いだった。ユリウスは、ゆっくりと夜空を仰いだ。
「──あるさ」
「────」
「わかっている。君が、私を軽んじたわけではないことは。君なりに考え、私や皆を守ろうとして、言葉を選んだのだろうということも」
絞り出すような声だった。
「──だが、それでも」
背筋を限界まで伸ばしたまま、彼は最後にこう残した。
「私はアナスタシア様にも、君にも、騎士足り得ぬなどと思われたくなかった」
壁のまやかしを四つん這いで潜り、塔の中へ戻る道中、俺の頭の中はユリウスの最後の言葉で埋め尽くされていた。
悪罵をぶつけられるより、ずっと痛かった。彼の静かな棘は、胸の奥に刺さったまま抜けない。
アナスタシア様にも、君にも、騎士足り得ぬなどと思われたくなかった。
そんなこと、思っていない。
思っていないはずだ。
けれど、結果として俺は、ユリウスをそう扱ったのかもしれない。
あいつは世界から忘れられてしまったんだ。
受け止めきれないだろう。
今は言わない方がいい。
混乱させない方がいい。
そう判断した時点で、俺はあいつから、知る権利も傷つく権利も奪っていた。
「緑部屋には……戻れない、な」
あいつに合わせる顔がない。
かといって、竜車に戻って布団にくるまる気にもなれなかった。エミリアやベアトリスを起こして、今さらこの話を聞いてもらうのも。
当てもなく四層の通路を歩いていた、その時だった。
「──バルス?」
不意に声をかけられ、俺は足を止めた。振り返れば、通路の奥から姿を現したのは、桃色の髪をした少女──ラムだった。ラムは薄紅の瞳をわずかに見開くと、俺の様子を上から下まで眺め、露骨に顔をしかめた。
「ずいぶんとしょぼくれた顔ね。みっともない」
「会うなりいきなりだな。っていうか、ラムはこんな時間に何してんだ?」
「それはそっくりそのままお返しするわ。どうせまたレムに聞かせても仕方のない愚痴をこぼしていたのでしょう。いくらラムの妹が可愛くて寛容でも、無理難題ばかり押し付けるのはやめなさい」
いつものラムらしい物言いに、俺は自嘲気味に苦笑した。
どうやら俺がレムの部屋から戻ってきたところだと思っているらしい。その普段通りの辛辣さに、少しだけ救われる。額をラムの指先でぴしりと弾かれながら、俺は彼女が歩いてきた方の通路へ目を向けた。
「……二層への階段か?」
「────」
「まさか、上にいってたんじゃねぇだろうな。一人で」
「安心なさい。そこまで無謀じゃないわ。階段の途中で引き返した。そのぐらい、あれは規格外の化け物よ。ガーフが可愛く見えるわね」
ラムは鼻で笑うように答えた。
だが、その横顔には、隠しきれない焦りがあった。
「……いっそ掴めるものなら、書庫に引きこもっているあの『傲慢の魔女』の襟首でも掴んで、二層へ放り込んでやりたいくらいだわ。化け物同士で潰し合ってくれれば、ラムたちも苦労しないのだけれど」
「それは塔ごと自爆するから駄目だって、昼前に釘刺されたわ……」
「冗談よ。あの手の連中が、タダでラムたちの都合よく動くとも思っていない。こちらが手段を選ばなくなれば、向こうも手段を選ばなくなるだけ」
ラムは吐き捨てるように言った。
その言葉の奥にあるものは、冷静な判断だけではない。レムを取り戻すために、今すぐ何かを掴みたい焦りだ。
俺には、それが痛いほど分かった。
「そろそろ寝ないと明日に差し支えるわね。竜車に戻るわよ」
「あー、うん。その、俺は……」
「好きになさい。もし、寝不足が理由で足を引っ張るようなことがあったら、ねじ切るわよ」
ひらひらと手を振り、ラムは下層へ下りる階段の方へ去っていった。
一人、通路に取り残される。
緑部屋には戻れない。
竜車にも戻りづらい。
ユリウスの言葉。
アナスタシアの眠り。
エキドナの秘密。
ラムの焦り。
そして、俺自身へ向けられたフリューゲルという疑い。
それらが頭の中で、ゆっくりと重なっていく。
──もし君がフリューゲルなら、シャウラの言葉を信じる限り、この塔は君のものだ。
そんなわけがない。
俺はこの塔のことなんて知らない。レイドのことも、シャウラのことも、死者の書のことも、何一つ知らなかった。
知らなかったはずだ。なのに、その否定は俺の中で、妙に心細かった。知らないことを証明する方法なんて、どこにもない。悪魔の証明だ。
なら、知るしかない。
この塔に何があるのか。
レイド・アストレアとは何者なのか。
フリューゲルが、この塔で何をしたのか。
その手がかりがあるとすれば──。
昼間、タイゲタの書庫でフランが残した言葉が、ふと蘇る。
『もしかしたら、この大書庫のどこかにレイドの『死者の書』でもあれば、本人が自分でも忘れてるような、くだらない癖ぐらいは見つかるかもね』
レイドの死者の書。
あの男の過去を見られるなら、二層の攻略の手がかりが得られるかもしれない。
それだけではない。
初代『剣聖』レイド・アストレア。
四百年前を生き、フリューゲルやシャウラと関わっていたはずの男。
その記憶の中には、賢者フリューゲルの姿もあるかもしれない。
俺が何者なのか。
少なくとも、俺がフリューゲルではないと笑い飛ばせる材料が、そこにあるかもしれない。
「……行くか」
声に出すと、少しだけ頭が冷えた。
これは賭けだ。都合のいい答えがある保証なんてない。そもそも、レイドの本を見つけられる保証もない。
それでも、今の俺にできることは、目の前の不明点を一つずつ潰すことだけだ。
レイドを知る。
塔を知る。
フリューゲルという存在を知る。
それがユリウスのためになるのか、レムのためになるのか、俺自身のためになるのかは分からない。
ただ、何もしないまま朝を待つよりは、ずっとましだ。俺は『タイゲタ』の書庫へ向かった。夜の監視塔に、独りきりの靴音が響く。階段を上り切り、大書庫の重い扉に手をかける。ゆっくりと押し開けると、夜とは思えないほど明るい空間が広がった。
無数の死者の名が並ぶ、書架の海。
そのどこかに、レイド・アストレアの名がある。もしかすると、その奥に、フリューゲルの影もある。俺は息を吐き、後戻りのできない一歩を踏み出した。