傲慢の魔女『フラン』   作:オド・ラグナの対義語

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『未視感のタイゲタ』

 目を覚ましたスバルは、眼前の美少女と美幼女を見て大きく口を開け、叫んだ。

 

「異世界召喚ってヤツ──ぅ?!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の名前は菜月昴。

 幼馴染で同級生の女の子と遊園地へ遊びに行ったわけではなく、黒ずくめの男の怪しげな取引現場を目撃したわけでもない。

 取引を見るのに夢中になっていた俺は、背後から近づいてくるもう一人の仲間に気づかなかった、ということもない。

 俺はその男に毒薬を飲まされるなんて劇的なことはなく、ただコンビニから帰る途中、目を擦ったら……。

 

 菜月昴としての十七年の人生、その最新の記憶である『コンビニ帰りの一瞬』は呆気なく消し飛ばされ、気がつけば俺は見知らぬ異世界の、巨大な塔の中にいた。

 

「スバル……よね。ごめんね。なんだか、ちょっと変な風に見えたから」

 

 目の前にいたのは、世界中の芸術家が揃って筆を折るほど美しい銀髪の少女、エミリア。そして、俺を『契約者』と呼んで袖を引く、縦ロールの幼女ベアトリス。

 彼女たちの語る『ナツキ・スバル』の足跡は、引きこもりのクズだった俺の耳にはまるで他人のファンタジー小説を聞かされているようで、右腕に刻まれたグロテスクな黒い斑の紋様だけが、空白の時間に残された唯一の証拠だった。

 

 朝食の席で待っていたのは現実に立ち向かう同行者たちとの対面だ。

 誰も覚えていない、緑部屋で眠り続ける少女『レム』を繋ぎ止めるため、廊下で胸倉を掴みながら「お願いだから、全部話して」と悲痛な声を絞り出す桃髪のメイド、ラム。

 顔を蒼白にしながらも、騎士としての気品を保とうとする紫髪の青年、ユリウス。彼は俺を見るたびに何かを言いかけ、けれど結局、言葉を飲み込むような顔をした。俺が記憶を失っていることへの同情なのか、それとも別の理由があるのか、今の俺には判別できない。

 アナスタシアという少女の肉体を借り、彼女の命、オドを削りながら顕現し続けているという人工精霊エキドナの、残酷な正体の告白。

 全身から圧倒的な好意を向けてくる美女シャウラと、かつて俺を殺しにきたという暗殺者の少女メィリィ。

 

「考え方を変えてみろよ。今の俺なら、余計なしがらみに囚われない斬新なアイディアが湯水のように湧き出すかもしれねぇぜ」

 

 これ以上の沈没を避けるため、俺は必死に空元気を絞り出して場を盛り上げた。

 エミリアは「スバルはやっぱりスバルなんだ」と微笑み、ユリウスも「君が勇猛と無謀の区別がつかない一声を上げるところは変わらない」と、刺々しくもどこか信頼の滲む苦笑を返してくれる。エキドナの告白を受け止めつつも、一見すれば、全員が前を向いてこの窮地を乗り越えようとする、温かく心強い団結の空気がそこにはあった。

 

 ──だが、だからこそ、からっぽの俺にはその『期待』が痛かった。

 

 彼女たちが向けてくれる信頼も、交わしてくれる軽口も、すべては数々の修羅場を潜り抜けてきたという、完璧で勇敢な『ナツキ・スバル』へ向けられたものだ。みんなが前向きに、俺の活躍を信じて微笑めば微笑むほど、中身がただのひきこもりの高校生でしかない『菜月昴』の胸の奥には、目に見えないプレッシャーがじわじわと澱のように積もっていく。

 

 彼女たちの語る『ナツキ・スバル』の足跡は、引きこもりのクズだった俺の耳には、まるで他人のそれなのに、その()()の名前で呼ばれるたび、俺は反射的に顔を上げてしまう。

 

 コ○ン風の前口上でも考えてなきゃ気がおかしくなりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 ややあって俺たちは、『タイゲタ』と呼ばれる書庫へと移動を開始した。目的地にたどり着く前段階から、俺にとっては心労の連続だった。

 

 それというのも、理由の大部分は左右を固める二人の存在にある。

 

「あの、エミリアちゃん? どうして俺の手をそんなにガッチリとホールドしていらっしゃるのでせう」

 

「え? だって、スバルから目を離すとどこかに行っちゃいそうで心配なんだもの。手の届く範囲にいてもらわないと不安だし……それなら、最初から繋いでいればいいかなって」

 

「そのストレートな結論自体はめちゃくちゃ嬉しいんだけど、こう、男としては結構以上に恥ずかしいというか何というか!」

 

 自分の顔面が急速に熱くなっていくのを自覚しながら、俺はエミリアにしっかりと握られた右手を持ち上げてみせた。

 ほっそりとしていて驚くほど柔らかい少女の指先。一切の悪意なくただ純粋な心配から向けられるその握力に、俺は自分の手汗が彼女に不快感を与えていないか本気で気をもむ羽目になる。

 

 そんな俺のジタバタとした様子に、エミリアは「もう」と不満げに形の良い眉をひそめた。

 

「そんなこと言って、ベアトリスとも反対側の手で繋いでるんだから一緒じゃない」

 

「いや、幼女と手を繋ぐことと、国宝級の美少女と手を繋ぐことの間には今日も冷たい雨が降るというか、月とすっぽん、いや幼女と美少女の越えられない壁があるんだよ」

 

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

 

 テンパりながらあれこれと並べ立てた言い訳も、エミリアにはすげなく撃墜される。ひとたび放置すれば、たちまち自分の記憶をどこかへ落っことしてくるという特大の前科を作ってしまった以上、彼女たちの監視の目は容赦なかった。すべては記憶を無くした前の俺のせいだ。マジで呪うぞ、過去の自分。

 

「今のスバルの発言は聞き捨てならないけれど、エミリアの言う通りなのよ。スバルは余計な色気を出さずに、ベティーとエミリアに手厚く保護されていればいいかしら」

 

「そうは言ってもな。ベアトリスが真ん中にいて、それを両側から俺とエミリアちゃんで挟み込むような、いわゆる若夫婦スタイルなら大歓迎なんだけど、これじゃ俺だけ両脇を固められた宇宙人みたいでカッコ悪くない?」

 

「スバルはカッコ悪くなきゃスバルじゃないのよ」

 

「それ、俺への評価として色々と致命的すぎない!?」

 

 エミリアとは反対側の左手をしっかりと握るベアトリスからも、容赦のない言葉を喰らう始末だった。

 

 だが、そんな二人の気遣いを筆頭に、周囲の人間からささやかな配慮が絶え間なく注がれることが、今の俺にはどうしても引っかかってしまう。

 集団の先頭を行くユリウスは、こちらを気にかけるように何度も振り返り、それに続くエキドナは曲がり角を通るたびに塔の内部構造を丁寧に解説してくれる。

 口を開けば辛辣な言葉ばかりを投げてくるラムも、そのピンと張った背中を見るだけで、彼女が見かけ以上に深い苦しみを抱えていることが伝わってきた。廊下で彼女の悲痛な叫びを聞いた俺だからこそ、それを知っている。けれど、彼女の抱える重すぎる事情を誰に尋ねるべきなのか、今の俺には全く判断がつかなかった。

 

 そうなると、自然と集団の最後尾で気楽にじゃれ合っている二人の存在だけが、今の俺にとっては精神的な逃げ場になっていた。

 

「あの二人が何かの役に立つかと言われると、そんな気はしないが……」

 

「……なんだか、すごおく失礼な偏見を抱かれてなあい? お兄さん」

 

「お師様の脳みその中身はいつもそんな感じッス。まともに気にするだけ脳細胞の無駄遣いッスよ。いっぺん解剖して覗いてみたら、一面ピンク色でぶっちゃけドン引きするレベルっす。桃色脳ッス、破廉恥学園ッス」

 

「破廉恥でも学園でもねぇよ。お前、その微妙に古い日本のサブカル知識はどこから仕込んできたんだよ」

 

「お師様由来ッス! あーしの持ってる知識は、上から下まで丸っと全部、お師様から叩き込まれたものッス!」

 

 会話を交わすだけで、別の意味で頭が痛くなってくる。だが、その頭痛すら、周囲の重苦しい期待から解放される心地よさに思えるのだから、俺も大概に重症だった。

 

 

 

 

 

 道中にそんなやり取りを交わしつつ、俺たちは長い階段を上がり切り、三層『タイゲタ』と呼ばれる空間へと足を踏み入れた。

 移動距離や時間の割に、まるで一日中全力疾走したかのような精神的な消耗を自覚しながら、俺は目の前の光景に呆然と立ち尽くす。

 

「ここが、『タイゲタ』……本当に、見渡す限り本だらけだな」

 

 圧倒的な質量で押し寄せる本棚の海を見回し、俺の口から感嘆の息が漏れた。

 俺も元の世界ではなかなかの読書家を自負していたが、これほど膨大な書籍に全方位を囲まれた経験はついぞない。元の世界の巨大な図書館と比べれば、蔵書数だけなら上には上があるのかもしれない。だが、この空間が放つ異様な厳かさは、単なる本の数では測れないものだった。

 

 そして、その圧倒的な光景が意味するところを考えた瞬間、胸の奥が冷たく冷えていく。

 

「ここにあるのは全部『死者の書』って話だったよな……? つまり、この本の数だけ、この世界で死んでいった人間がいるってことになるわけだ。……歴史の始まりから延々と記録し続けてるんだとしたら、文字通り、気が遠くなるような場所だな」

 

 この異世界の人口規模や歴史の長さは分からないが、死んだ人間の記録が余さずこうして書籍化されているのだとしたら、その総数は天文学的な数字になるはずだ。その中から目的の本を探し出そうとしても、到底見つけられるとは思えなかった。

 

「今の時代の図書館なら、電子検索機能とかが必須レベルだと思うんだけど、ここにはそういう便利なシステムはないのか?」

「その、でんし検索機能とやらの仕組みは分からないかしら。ただ、残念ながらここにはベティーのような優秀な司書は存在しないのよ。自分たちの手探りで、一冊ずつ確かめていくしかないかしら」

「砂漠の真ん中に落とした百円玉を、裸眼で探し出すような無茶振りだな……」

 

 げんなりとした気分になりながらも、俺は手近な本棚にあった一冊へ何気なく手を伸ばした。

 本棚に収まるその背表紙や外見を眺めてみても、特にこれといった特殊な装飾やラノベでよくある魔力的な輝きは感じられない、いたって平凡な本だ。極めてシンプルな造りといえるだろう。ただ、致命的な問題があるとすれば、

 

「しまった。タイトルが全く読めねぇ」

 

 背表紙に書かれた、そのタイトルとおぼしき文字が、俺の目にはミミズののたくったような奇怪な文様にしか見えないことだった。

 エミリアたちの説明では、本のタイトルにはその『死者』の名前が記されているという。それが自分と接点のある故人のものであれば、生前の記憶を追体験できるらしいが、そもそも文字がこれでは、俺には読むことすら叶わない。──もっとも、記憶がすべて吹っ飛んでいる今の俺に、その接点などあるのかどうかも怪しいところだが。

 

 そんな残念感を前にして、俺がふと視線を横へ逃がした、その時だった。

 本棚の深い隙間、白一色の空間にひときわ異彩を放つ、灰色のローブをすっぽりと被った小柄な少女の姿がそこにあった。朝食の席でラムが言っていた、書庫に1日引きこもっているという『傲慢の魔女』──フランだ。

 

 彼女は小さな音を立てながら、熱心に本を漁っていたが、俺の気配に気づいたのか、ひょいとフードの奥から顔をこちらへ向けた。

 

「あ、フーちゃん。エミリアが言ってたけど、本当に全部忘れちゃったんだ。ふーん、じゃあ今は私のことも『薄気味悪いローブの不審者』って感じ?」

 

「フーちゃんって俺の事? いや、不審者だとは思ったけど……っていうか、フラン、フランねぇ。その見た目でその名前、完全に某紅魔館の悪魔の妹なんだけど。裏ボス的な意味で、ここから弾幕ごっこを仕掛けてきたりしないよな?」

 

 とっさに口を突いて出たツッコミ。だが、その言葉を聞いた少女は、一瞬だけ丸い瞳を瞬かせると、どこか楽しげにくすりと笑ってみせた。

 

「やっぱりそこは覚えてるんだね、フーちゃん。うん、弾幕も張れるし、異世界ファンタジーらしい魔法も得意だよ。このフランダース・スカーレットは」

 

「……え? お前、今、俺の言ったこと普通に通じたな? てかフランダース・スカーレット!? パチモンじゃねえか!」

 

 思わず声が上擦った。

 

 この世界に来てから、俺の口をついて出る元の世界の言葉は、だいたい空振りするものだった。エミリアたちは首を傾げるし、ベアトリスには呆れられるし、ラムに至っては聞き流す前に罵倒が飛んでくる。

 

 なのに、目の前の灰色ローブの少女は、俺の冗談を冗談として理解した。

 

 それだけで、胸の奥のどこかに引っかかっていた孤独が、ほんの少しだけ緩む。

 

「そっち側っていうか、こっち側に長く居すぎたそっち側っていうか。俗にいう転生者っていうか。まあ、細かいことは気にしなくていいよ、フーちゃん」

 

「いや、気にするわ! めちゃくちゃ気にするわ! 今の俺の精神状態において、同郷っぽい単語が通じる相手の出現はイベント重要度が高すぎるんだよ!」

 

「同郷……?」

 

 ぽつりと呟いたのはエミリアだった。

 

 振り返ると、彼女は俺とフランを交互に見て、少しだけ困ったように眉を寄せている。ベアトリスは俺の袖を掴む手に力を込め、エキドナは一歩離れたところで、細めた浅葱色の瞳をこちらへ向けていた。

 

 しまった、と遅れて気づく。

 

 俺にとっては救いみたいな会話でも、周囲から見れば、記憶を失った俺が得体の知れない『傲慢の魔女』とだけ妙に通じ合っているように見える。

 それは、どう考えても安心材料ではない。

 

「いや、違う違う! 同郷っていうのは、その、心の故郷的なアレであって、実際に同じ村出身とかそういう話じゃなくてだな!」

 

「フーちゃん、誤魔化すの下手だね」

 

「お前が話をややこしくしてんだよ!」

 

「スバル」

 

 エミリアの声に、俺は肩を跳ねさせた。責める声ではない。ただ、不安そうな声だった。

 

「フランダースのこと、スバルは思い出したの?」

 

「……いや。思い出したわけじゃない。思い出したわけじゃないんだけど」

 

 言葉が詰まる。思い出したわけじゃない。

 でも、通じた。

 

 この世界で誰にも届かなかったはずの言葉が、彼女には届いた。

 

 それが今の俺にとって、どれだけ大きいことなのか。説明しようとしても、きっと上手く伝わらない。フランはそんな俺たちの空気を気にした様子もなく、ひらひらと手を振った。

 

「大丈夫だよ、エミリアちゃん。今のフーちゃんを取って食べたりしないから」

 

「今の、って何だよ。前の俺なら食ってたみたいな言い方やめろ」

 

「前のフーちゃんも食べてないよ。食べたかったことはちょっとあるけど」

 

「安心材料が秒で消滅した!」

 

 俺の叫びに、フランはくすくすと笑う。

 その笑い声だけが、この書庫の重苦しい空気の中で妙に軽かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うーむ、これは本格的に難しいかも……って、うわっ!?」

 

「スバル!」

 

 途方に暮れた気分でいた俺は、突然背後からかけられた鋭い声に飛び上がらんばかりに驚いた。

 次の瞬間、俺が手にしていたはずの本が、ひったくるような勢いでもぎ取られる。それを行った張本人であるエミリアは、奪い取った本を自らの胸に強く抱きかかえたまま、大きく後方へとステップを踏んで飛びのいていた。

 

「え、ええと、エミリアちゃん?」

 

「迂闊なことをしちゃダメじゃない! スバル、自分が何をしたのか分かっているの? スバルはきっと、昨日の夜、この部屋で何かをしたから記憶を無くしちゃったかもしれないのよ!」

 

「いや、いくら何でもそんな大げさな……」

 

 血相を変えて詰め寄ってくるエミリアの形相に、俺は引きつった苦笑いを浮かべながら自分の頭を掻くことしかできない。

 しかし、この事態を楽観的に受け止めているのは、どうやらナツキ・スバルただ一人であるらしかった。

 

「大げさじゃないかしら!」

 

 ベアトリスまで声を尖らせたことで、俺はようやく自分が本格的にやらかしたらしいと理解した。だが、その緊張した空気の中で、ただ一人だけ、まるで温度の違う声が響く。

 

「その本なら大丈夫だと思うけどな」

 

 フランだった。彼女は本棚の隙間からこちらを覗き込み、エミリアが抱え込んだ本の背表紙をちらりと見やる。

 

「知らないおじさんの本だし。フーちゃん、その人のこと知らないでしょ? だったら、開いてもたぶん何も起きないよ」

 

「たぶん、で済ませていい話じゃないのよ!」

 

 ベアトリスの叱責に、フランは不思議そうに首を傾げた。

 

「そう? 死者の本なんて、読む相手を間違えなければただの追体験じゃない? 間違えたら……まあ、ちょっと大変なんだろうけど」

 

「そのちょっとの基準が、ラムたちとは違いすぎるわね」

 

 ラムが冷たい声で吐き捨てる。

 

 俺は、フランの横顔を見た。

 彼女にとって、この場所は危険な禁忌の書庫ではないのかもしれない。いや、禁忌だと分かった上で、それでも踏み込む場所なのだろう。

 

「スバル、ラムとエミリアの言う通りなのよ。自分の直感だけで勝手に動くのは絶対に控えるかしら」

 

「私も彼女たちの意見に同意せざるを得ない。軽挙な行動は厳に慎むべきだろう」

 

「う……」

 

 ベアトリスとユリウス、両者からの容赦のない追撃の説教を受け、俺は言葉に詰まって喉を鳴らした。

 胸の中に湧き上がってきたのは反発の感情ではなく、己のうかつさを突きつけられたバツの悪さと、恥ずかしさの感情だった。

 確かに彼らの言う通り、今の俺の行動はあまりにも緊張感に欠け、迂闊が過ぎたかもしれない。

 

「ぷぷーっ! お師様が盛大に怒られてるッス! これ以上ないくらいしょんぼりしてるッス! でもでも、あーしはそんな情けなくて悪ガキっぽいお師様でも全然カマンッスよ!」

 

「うるせぇよ。人が素直に反省の意を示しているところを茶化すんじゃない」

 

「こらこら、二人とも。またそうやって不毛なやり取りで話の腰を折られては困るよ。実際、ナツキくんの行動はやや軽率ではあったが……これによって、新たに判明した事実もある」

 

 口元を手で押さえながら、俺の凡ミスを盛大に笑い飛ばしてくるシャウラ。そのシャウラに対して俺が噛みつこうとするのを、間に割って入ったエキドナが言葉で遮った。

 それから彼女は、自らの襟巻きをそっと細い手で撫で付けながら、鋭い知性を感じさせる瞳をこちらに向ける。

 

「ナツキくんは、本の題名が全く読めなくなっていた。……そうだね?」

 

「──? あ、ああ、そうだな。ミミズがのたくった跡にしか見えなかった」

 

「ここから導き出される仮説は一つ。彼のように記憶を一時的に喪失した場合、脳の識字能力──もしくは高次の認識能力に重大な支障をきたすということだ」

 

「残念だけど、スバルが文字の勉強を始めたのはロズワールの屋敷にきてからなのよ」

 

「────」

 

 エキドナがベアトリスの無慈悲な突っ込みを受けて完全に閉口した。そんなエキドナのフリーズ具合にはお構いなしに、ベアトリスは短い腕を組んでフンと鼻を鳴らす。

 

「屋敷にくるまでのスバルは、イ文字の読み書きすら一切できなかったかしら。そのことは、当時の教育係だった姉妹の姉もよく知っているのよ」

 

「ええ、ベアトリス様の仰る通りです。元々、バルスは文字の読み書きもままならないただの無知蒙昧でしたので、ラムが献身的に教育を施してあげました。……今の体たらくを見るに、そのすべての努力が無駄に終わったようですが」

 

「悪かったよ! そんな涙ぐましい努力の過去エピソードがあるなんて、こっちは知る由もなかったんだからな!」

 

 説明を引き継いだラムからの辛辣な恨み節に、俺は声を裏返らせて全面降伏の謝罪をする。そんな俺たちのやり取りを横目にしながら、エキドナは気まずそうにコホンと咳払いをした。

 

「ボクの意見は的外れだったようだね。今の推論は忘れてほしい」

 

「いや、完全に的外れというほどのものではないよ。少なくとも、これでスバルの記憶が失われたのが、この国──ルグニカにやってきて以降の期間であることは証明された」

 

「つまり、今のバルスがこの書庫において、何の役にも立たない完全なお荷物であるという事実ね」

 

 ユリウスの冷静な確認を、ラムがこれ以上ないほど冷酷に補足する。もはや何を言っても藪蛇になるだけなので、俺は一切の言及を放棄したが、ユリウスは「ラム女史の言葉は一理ある」と顎を引いて続けた。

 

「言い方はともかく、だ。いずれにせよ、スバルに昨夜の行動をここで再現させるわけにはいかない。ここは安全を期して、彼以外の我々で手掛かりを捜索すべきだろう」

 

「うん、それが一番安全だろうね」

 

「異存はありません。エミリア様とベアトリス様も、それでよろしいですか?」

 

 己の肘を抱きながら淡々と告げるラムの言葉に、ベアトリスは「わかったかしら」と頷いた。そして、エミリアはひどく真剣で、どこか悲痛なほどに真っ直ぐな瞳を俺へと向けてくる。

 

「スバル、お願いだから、あそこに大人しく座って待っててね。きっと、スバルがなくしちゃった大事な記憶、私が……私たちが絶対に見つけてあげるから」

 

「お、おお、わかった。何もできずにお荷物になってるのはめちゃくちゃ歯痒いけど、ここはエミリアちゃんたちを全面的に信じて、大人しく待機させてもらうぜ」

 

「本当に大人しく待てる? 私が目を離した隙に、勝手に動いたりしない?」

 

「ものすごい勢いで念押ししてくるね!? 大丈夫だって、俺だって五歳児じゃないんだから、大人しく待つくらいお安い御用だよ。約束してもいいぜ」

 

「そうやってわざわざ約束を持ち出すってことは、やっぱり大人しくしてないつもりなんじゃ……」

 

「どういう偏見!? 俺の信用度、初手からマイナス突破してんだけど!?」

 

 安心させようと意気揚々と約束を提案したはずが、かえって余計な不信感を買うという理不尽な結果に終わる。

 何事かと周囲を見回してみれば、ユリウスとエキドナの二人はともかく、ベアトリスとラムの二人は「さもありなん」と言わんばかりに揃って肩をすくめていた。前の俺は一体どれだけフリーダムに動き回っていたんだ。

 

 

 

「というわけだから、スバルは大人しく端っこで待っててね」

 

 エミリアからの真摯な最後の訴えを受け、俺は仕方なく書庫の最も隅っこにある壁際へと移動し、体育座りの姿勢で待機することになった。

 膝を抱えながら、何となしに彼らの捜索作業を遠目に見守れば、エミリアたちは二つのグループに分かれて書庫を別々に調べ始める模様だった。組み分けは、エミリア・ベアトリス・ラムの女性陣トリオと、ユリウス・エキドナのコンビ。

 俺にはまだイマイチ理解しきれていないが、エミリアとエキドナがそれぞれ、この急造の凸凹チームのリーダーとして機能しているらしかった。

 

「みんなで探しているのは、お兄さんみたいに一人で勝手に自爆しないための保険みたいねえ。お兄さんってば、本当にトラブルを持ち込むのだけは天才的なんだからあ」

 

「記憶はねぇけど、その記憶がないこと自体が今の最大のトラブルなわけだから、俺には何も言い返せねぇ……いや、待て、やっぱり元とはいえ殺し屋の少女にだけは言われたくはねぇぞ」

 

「ふふ、つまらないことばかり気にするんだからあ」

 

「つまらないことじゃないと思うよ!? 大体な……」

 

 声高に突っ込みを入れ、小さく舌打ちをしてから俺は視線を横へと向けた。

 壁際、本棚から完全に離れた待機スペースで、俺のすぐ隣に同じように壁に寄りかかっているのは、三つ編みにした濃い青髪の少女──メィリィだ。

 彼女はその幼い年齢にはおよそ不相応な、どこか艶っぽい流し目をこちらへ送りながら、

 

「なあに?」

 

と小首を傾げてみせる。

 

「さっきから気になってたんだが、お前はあっちの捜索活動には加わらないのか?」

 

「うん、加わらないわあ。だって、わたしってお兄さんやお姉さんたちのちゃんとした『お仲間』ってわけじゃないものお」

 

「ちゃんとした仲間じゃないってのは……」

 

「言ったでしょお? わたしは殺し屋……あ、失敗したから、今は元殺し屋かしら。元々、ここにはちょっとした案内役のお手伝いで来てるだけだものお。それ以上の難しいことは何も知らないわあ」

 

「つまり、執行猶予の保釈条件みたいな感じで同行してるってことか。……それにしても、元であれ現役であれ、殺し屋を味方に引き連れてこんな危険な塔を冒険するなんて、前の俺はなかなか思い切った、というか狂った判断をしたんだな」

 

「──。ええ、ホントにそうねえ。ホントに、どうかしてると思うわあ」

 

 口元に小さな手を当てて、メィリィはくすくすと楽しそうに笑い、そこで会話を区切った。

 そんな彼女の掴みどころのない態度に、俺は鼻から大きく息を吐き出す。

 

 そして目線を斜め右に動かすと、その本棚の奥で灰色のローブが揺れているのが見えた。

 

 フランだ。

 

 彼女は俺たちの賑やかなやり取りにはほとんど混ざらず、ただ黙々と本の背表紙を確かめ、違うと分かればまた視線を移す。それを何度も、何度も繰り返していた。

 

 その単調な動作が、妙に目に残る。

 

「……あいつ、ずっとああしてんのか?」

 

 俺の呟きに、メィリィがちらりとフランの方を見る。

 

「そうみたいねえ。お兄さんたちが騒いでても、全然こっちを見ないものお」

 

「探し物に夢中ってことか」

 

「死んじゃった家族の本、だったかしらあ。四百年前に死んじゃった人の本を探してるなんて、すごおく大変よねぇ」

 

 メィリィの口調はいつも通り間延びしている。けれど、その内容は笑って聞き流すには重すぎた。

 

 四百年。

 

 死んだ誰かの記憶を、四百年経ってもまだ見たいと思っているのか。

 

 俺は、自分の空っぽの頭に触れた。

 そこには、彼女たちが知っているはずの『ナツキ・スバル』の記憶がない。俺自身の時間が、途中からごっそり抜け落ちている。

 

 記憶をなくした俺と。

 記憶を探し続ける魔女。

 

 この書庫にいる俺たちは、どいつもこいつも、過去に縛られすぎている。

 

「……なあ、フラン」

 

 気付けば、俺は壁際から少しだけ身を乗り出し、書架の奥にいる灰色のローブへ声をかけていた。

 

 フランの指が、本の背表紙の上で止まる。

 

 遠目にも分かるほど、ほんの一瞬だけ彼女の周囲の空気が変わった気がした。

 

「四百年前って、どんなだったんだ?」

 

「急に大きな質問をするね、フーちゃん」

 

 フランは振り返らないまま答えた。

 

 声は軽い。

 けれど、さっきまでのからかうような調子とは少しだけ違っていた。

 

「いや、その……シャウラは俺をお師様って呼ぶし、お前は俺をフーちゃんって呼ぶし、レイドとかフリューゲルとか、エキドナとか、知らない名前ばっかり出てくるしさ。俺だけ、自分の話なのに何も知らないみたいで、気持ち悪いんだよ」

 

「自分の話、か」

 

 フランは小さく笑った。

 

 その笑い方は、いつもの甘いものではなかった。

 

「フーちゃんが聞きたいのは、四百年前の歴史? それとも、四百年前にいた誰かさんと、今の自分が同じなのかって話?」

 

「……両方」

 

「欲張り」

 

「記憶喪失者には優しくしろよ」

 

「優しくしてるよ。だから、全部は話してあげない」

 

「それ、優しさなの?」

 

「うん。今のフーちゃんに、四百年前を丸ごと背負わせるのは違うと思うから」

 

 その言い方に、俺は口を噤んだ。

 

 軽く言っているようで、線を引かれたのが分かった。

 ここから先は、今の俺が踏み込んでいい場所ではない。そう告げられた気がした。

 

 けれど、フランは完全に突き放したわけではなかった。

 

「でも、少しだけなら教えてあげるね」

 

 フランは、再び書架へ視線を戻した。

 

「シャウラちゃんは待ってた子だよ。四百年、たった一つの約束に縋って、この塔を守り続けた。馬鹿みたいに真っ直ぐで、可哀想なくらい健気で一途な子」

 

「……じゃあ、お前は?」

 

「私は待ってはないよ」

 

 その答えは、やけに早かった。

 

「四百年、ないふりをしてた。忘れられなかったくせに、忘れたふりをしてた。触れたら戻れなくなるって分かってたから、ずっと逃げてた」

 

「ファルセイル・ルグニカ、って人から?」

 

「うん。私の、大事な人。まあ、死んじゃったら終わりなんだから逃げるもなにも無い気はするけどさ」

 

 フランの声は軽かった。

 軽いのにひどく深いところから響いているように聞こえた。

 

「でも、この書庫に来ちゃった。死者の本があるって知っちゃった。だからもう、見ないふりはできない」

 

「……それ、読んだらどうなるんだよ」

 

「分かんない」

 

「分かんないって」

 

「うん。分かんない。読んで救われるのか、余計に壊れるのか、そんなの読んでみなきゃ分からないよ。自分の心だって解ってないのにさ」

 

 フランはそこで、ようやくこちらを見た。

 紅い瞳が細く笑う。

 

「でも、分からなくても手を伸ばしちゃうことってあるでしょ。フーちゃんにも」

 

「俺に……?」

 

「なくしたものを取り戻したい。知らないままじゃいられない。怖いけど、見ないわけにもいかない。そういうの、今のフーちゃんにはちょっと分かるんじゃない?」

 

「────」

 

 言い返せなかった。

 

 俺は何も覚えていないのに、周りの誰もが俺を知っている。エミリアも、ベアトリスも、ユリウスも、ラムも、シャウラも、そしてフランも。

 

 俺の中には何もないのに、周りだけが俺の過去を持っている。

 

 それが、どうしようもなく気持ち悪い。

 

「……俺は、お前みたいにはなれねぇよ」

 

「気にしないでいいよ」

 

 フランは、あっさりと言った。

 

「フーちゃんはフーちゃんでしょ。四百年前の誰かでも、昨日までの誰かでも、今の誰かでも。少なくとも、私にとってはね」

 

 その言葉は優しかった。

 

 優しかったが、だからこそ少し怖かった。

 

 あいつは、俺の知らない俺を知っている。そのうえで、今の俺を見ている。けれど、俺にはそれがどういう意味なのか分からない。

 

「お師様?」

 

 シャウラが不思議そうに俺の顔を覗き込む。

 

「いや……何でもない」

 

 何でもないはずがなかった。

 

 あの小さな背中が怖い。

 死者の記憶を淡々と探し続けるあの手つきが怖い。

 四百年もの間、見ないふりをしていた傷口へ、今さら自分から手を伸ばしてしまえることが怖い。

 

 けれど同時に、どうしようもなく目が離せなかった。

 

 もし俺が、このまま『ナツキ・スバル』の記憶を取り戻せなかったら。

 もし俺が、俺自身の過去を探し続けるだけの何かになってしまったら。

 

 その先にいるのは、もしかすると、ああいう姿なのかもしれない。

 

「お兄さん、顔色悪いわよお?」

 

「元から美白系男子なんだよ」

 

「嘘つき。さっきよりずっと怖い顔してるわあ」

 

 メィリィの指摘に、俺は言い返せなかった。

 

「……あいつって、前の俺とはめちゃくちゃ距離が近かったらしいじゃん」

 

「ええ、ホントにそうねえ。でもお兄さん、あの子、プリステラじゃあの『剣聖』ラインハルトと正面からやり合ってたのよお? あんな化け物を平然と引き受けるなんて、前のお兄さんは本当に頭のネジが全部吹き飛んでたわあ」

 

 くすくすと口元を押さえて笑うメィリィの横で、シャウラが「うひぃ」と本気で嫌そうな顔をして身を震わせる。

 

「お師様、あーしもメィリィの意見に大賛成ッス! 雌獅子は昔っからマジで怖いッス! 近づきすぎると尻尾踏んだみたいに怒るッス!」

 

「昔っから? てか雌獅子って、フランの事か?」

 

 何気なく聞き返した俺に、シャウラはきょとんとした顔をしたあと、当然のように頷いた。

 

「そッスよ? 雌獅子とは四百年前からの顔見知りッス。お師様と一緒になってからかったり、あーしがちょーっとドジったときに、めちゃくちゃ怒られたりしてたッス」

 

「待て待て待て。情報量が多い。お師様と一緒に? からかった? あのフランを?」

 

「そうッス! お師様が悪ノリして、あーしが乗っかって、雌獅子が怒るまでがいつもの流れッス!」

 

「最低の流れじゃねぇか。っていうか、お前の言うお師様って本当に俺のことなの? 俺、四百年前に悪ノリしてた覚えなんか一ミリもないんだけど」

 

「お師様が忘れてるだけッス!」

 

「記憶喪失に全部押し付けるのやめてくれない!?」

 

 俺が声を裏返らせると、シャウラはあっけらかんと笑った。

 

 その笑い方は底抜けに明るい。だが、その視線が本棚の奥で灰色のローブを揺らすフランへ向いた瞬間、ほんの少しだけ懐かしそうに細められる。

 

「でもまあ、雌獅子は怒ると怖いッスけど、怒ってないときも怖いッス。笑ってても怖いッス。黙って本を探してるいまなんか、もっと怖いッス」

 

「結局ずっと怖いんじゃねぇか」

 

「そッスね! でも、嫌いってわけじゃないッスよ。あーしが本当にやらかしたときは、ちゃんと怒ってくれたッスから」

 

 その言い方に、俺は少しだけ言葉を失った。

 

 怒られることを嫌な記憶としてではなく、どこか大切そうに語る。シャウラにとってフランは、ただの危険物ではないらしい。

 

「読み書きできないから何の役にも立たねぇのはあーしもお師様と一緒ッスけど、雌獅子はこの書庫の本を普通に読めるッス。だから、あーしよりずっと役に立つッスよ」

 

「珍しく素直に人を評価したな。珍しいかどうか知らんけど」

 

「ただし、役に立つかどうかと、近づいて安全かどうかは別問題ッス! あの子の不条理さは次元が違うッスからね! 本の内容とか、あーしはチンでプンでカンッスけど、雌獅子は読める上に壊せるッス! 怖いッス!」

 

「読める上に壊せるって、図書館に一番入れちゃいけないタイプじゃねぇか……」

 

 俺が引きつった顔で呟くと、シャウラはうんうんと大きく頷いた。

 

「でも、お師様は昔からそういうヤバいのに平気で手ぇ伸ばすッス。雌獅子にも、あーしにも、たぶん他の変なのにも。さすがはお師様、マニアックッス!」

 

「俺の交友関係、前世から倫理観どうなってんだよ」

 

「前世じゃなくて四百年前ッス!」

 

「なお悪いな!」

 

 フランの話題で妙に湿った空気になったのを嫌ったのか、あるいは単に何も考えていないだけなのか、シャウラは唐突に身を乗り出した。

 

 シャウラがあけすけに笑いながら手を伸ばし、俺の左腕をその豊満な胸元へとぐいと引き寄せた。あまりにもダイレクトに伝わってくる、柔らかくて温かい女性の感触。思わず、俺は心臓を跳ね上がらせてそれを力任せに振りほどいた。

 

「うおわっ! 何すんだお前!?」

 

「あーん、お師様ったら相変わらずいけずッス~」

 

「い、いけずとかそういう問題じゃねぇよ、やめろ! 女の子がそんなはしたない真似をするもんじゃない……そういうのは、自分が心から好きな男とかにだけ……いや、好きな男相手でも、いきなりそんなロケットダッシュ仕掛けられたら普通に引くからマジでやめとけ。お前のその過剰なスキンシップは、俺の精神衛生上、百害あって一利なしだ」

 

「ぶーぶーッス。またそうやって女子の品格とかいうお堅いお説教ッスか。お師様、記憶がなくなってもマジで変わんないッスねえ」

 

 不満げに唇を尖らせながら、シャウラが俺の頑なな態度に抗議の声を上げる。しかし、その彼女が何気なく口にした言葉に、俺は思わず鼻白み、視線を床へと落とした。

 

「お師様……?」

 

「お前も、俺のことが()()()()()()()と思うか……?」

 

 不思議そうに首を傾げるシャウラに対して、俺は胸の奥に澱んでいた本音を、ポツリと問いかけていた。

 ──変わっていない、という表現。

 それは、この塔で目を覚ましてからの数時間、様々な人間の口から何度も投げかけられた言葉だった。それはからっぽの俺にとって、かすかな救いであると同時に、ひどく重苦しい『呪い』のようにも思えたのだ。

 変わっていないことを周囲から喜ばれるのも、本当は中身がすっかり変わってしまっている自分を隠し続けなければならないことも、すべてがプレッシャーだった。

 

「うーん、正直あーしにはよく分かんねッス!」

 

 だが、そんな俺の繊細な葛藤や思い詰めた空気を余所に、シャウラは実にあっけらかんとそう言い放った。

 あまりの気の抜け方に、さすがの俺も呆気にとられて言葉を失うしかない。あるいは彼女のような底抜けに明るい人間に、こんなジクジクとした悩みの吐露をしたこと自体が、俺の間違いだったのかもしれないが。

 

「お前な……いや、お前に真面目に聞いた俺が馬鹿だったよ」

 

「むー、お師様は絶対に馬鹿じゃないッスよ! そんな悲しい言い方、たとえお師様自身の言葉であってもあーしが本気で怒るッス。お師様はものすごーく偉くて凄いお人なんスから、もっと堂々と胸を張ってほしいッス!」

 

「お前の俺に対する評価の基準、イマイチよく分かんねぇな……」

 

 落ち込む俺を指差してケラケラと笑ったかと思えば、俺が自嘲気味になれば今度は本気で怒り出す。彼女の行動の基準にあるのは、それが『ナツキ・スバル』に関わる話題であること、ただそれ一点だけのように思えた。

 そんな俺の疑問に対して、シャウラは自慢の豊かな胸をこれでもかと張り、腰に両手を当てて満面の笑みを浮かべる。

 

「お師様が変わったとか変わってないとか、あーしにとってはどーでもいいことッス! お師様がお師様の好きにしてくれたら、あーしはどこまでだってその後ろを付いていくだけッスもん!」

 

「──。その結果、俺のせいでとんでもないおかしな場所に辿り着くことになってもか?」

 

「ま! それで仮に行き止まりの変な場所に辿り着いちゃっても、あーしの力で壁ごと無理やりこじ開けるからノープロブレムッス! お師様はすっかり忘れちゃったかもしれないッスけど、それが昔からのお師様とあーしの関係性ッスよ!」

 

「────」

 

 次々と重ねられる、一切の裏表を感じさせない直球すぎる親愛の言葉。それを何度も真正面から叩きつけられ、俺は微かに息を呑んだ。気恥ずかしさと、胸の奥から湧き上がってくる熱い感情をごまかすように、俺はシャウラに顔を見られないよう、あわてて反対側へと顔の向きを変える。

 

「お兄さん?」

 

「──ッ!」

 

 だが、逃げた先にはニヤニヤとした笑みを浮かべたメィリィの顔があり、俺は再び大慌てでシャウラ側へと顔を向け直す羽目になった。

 

「お師様、さっきから一体どうしたッスか?」

 

「がぁぁ、もう、うるさいっ!」

 

 結局、左右どちらにも逃げ場を失った俺は、その場に深くしゃがみ込み、両腕で頭を抱え込むようにして床の白い石畳を睨みつけた。誰にも、今の自分の情けない顔を見られたくなかった。

 俺を間に挟んだまま、メィリィとシャウラが不思議そうに顔を見合わせている気配が伝わってくる。

 

 彼女らには、きっと分かるまい。──否、絶対に分かってほしくなかった。

 あんな、中身がからっぽで、論理的でも何でもない、隙間だらけのシャウラの無邪気な言葉に、今の俺がどれほど救われた気持ちになってしまっているかなど。

『お前はお前だから、どうあっても構わない』と、言葉よりも雄弁な態度で示された気がして、俺の胸の奥の強張りが、ほんの少しだけ解けていくのを感じていた。

 

「お兄さんったら、本当に変なのお」

 

「お師様が変でクレイジーなのは元からの仕様ッス! でも、あーしはそんなおかしなところも含めて、お師様のすべてを愛してるッスよ!」

 

 俺の頭上を飛び越えて交わされる、少女たちの賑やかなやり取りに、俺はもう何も言い返せなかった。

 ただ、この数時間ずっと俺の心を限界まで急き立てていた、目に見えない切迫感のようなものが、確実に和らいでいくのを自覚していた。

 

 ──俺が何とかその感情の揺れを受け流し、平然を装って立ち上がることができたのは、エミリアたちが()()()()という結果を携えて戻ってくる、ほんの数分前の出来事だった。

 

 

 

 

 

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