傲慢の魔女『フラン』   作:オド・ラグナの対義語

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さあ本番だ! 頑張ろう残骸君!








『コンティニュー』

 

 

 ──プレアデス監視塔、二層の『試験』。

 

 それが、次に俺たちが挑むべき壁であるらしい。

 

 詳しい内容についてはわからないが、どうやらとんでもない手練れの剣豪が待ち構えているらしい。昨日の時点で挑んだ一行が手ひどく跳ね返され、ユリウスが深く傷つき、エミリアでさえ難しい顔をせざるを得ない場所だということだけは分かった。

 

「問題は、記憶をなくした今の俺が、満を持して何の役にも立たねぇお荷物ってことだ」

 

 朝食の席ではみんなの不安を紛らわすため、「この塔をクリアするための斬新な現代知識の発想がバンバカ湧き出す」などと大口を叩いて吹聴したものだが、詳しく聞いた限り、二層の『試験』は単純な悪知恵や現代知識でどうにかなる類のものではなさそうだった。

 

 つまり、俺の見せ場は今のところゼロ。驚きの白紙状態である。

 

「小麦粉を部屋中にばら撒いて、火をつけて粉塵爆発でやっつける、とかの裏技はうまく機能しねぇかな……」

 

 お手軽最強の現代知識必殺技である『粉塵爆発』だが、あれも実際に現実の戦闘で発動しようとすると、密閉空間における粉塵の濃度や量に精密な微調整が必要だとかネットで聞いたことがある。そもそも、食料や物資が極めて貴重だと言明されたこの塔の状況下において、小麦粉をふんだんに無駄遣いしてばら撒くだけの度胸は、今の俺には微塵もなかった。

 

 大体、この塔の備蓄に小麦粉が存在するかどうかすら、今の俺には未知数であった。

 

「そうなると、いよいよ異世界召喚された俺の隠されたチート能力に期待したいとこなんだが……」

 

 そう呟いた瞬間、ふと灰色のローブの少女の顔が脳裏をよぎった。

 

 フラン。

 

 彼女曰く、転生者。

 

 彼女の言葉を信じるなら、この世界には俺以外にも地球と縁を持った存在がいる。しかも、そいつは四百年生きていて、魔法が使えて、弾幕も張れて、シャウラが昔から怖がるぐらいの規格外な存在らしい。

 

 そこまで盛られた設定の持ち主がいるなら、俺にも何か一つくらい、神様からの特典があってもよくないか。

 

「いや、むしろあいつが当たり枠で、俺がハズレ枠だった可能性が濃厚になってきたな……?」

 

 口に出して、胸が痛くなる。

 

 同じ異世界案件っぽい相手が、魔女だの四百年生きてますだの弾幕だの魔法だのを持っている一方で、俺は記憶を失っただけの一般高校生。あまりにもガチャ結果に格差がありすぎる。

 

「せめて、低レアでも使い道のあるスキルくらいくれよ」

 

 石造りの冷たい壁に右手を当てて、俺は「はぁぁぁ!」と心の中で謎の念動力を発動させてみる。

 

 が、特に掌から波動砲のような衝撃波が放たれることもなければ、石壁が粉々に砕け散るようなイベントも発生しなかった。ただ掌に石のざらついた冷たい感触が残り、どことなく虚しい気持ちが胸の中に込み上げてきただけである。

 

 残念ながら、俺に与えられた異世界チート能力は、分かりやすい肉体強化の類ではないらしかった。

 

 壁に手を当てたままの姿勢で、軽く身をよじって後方への蹴りを放ってみる。思いの外、身体のキレは良く、軽く上がった足が高い位置の壁に靴跡をつけた。

 

 だが、爪先がジンジンと痛い。

 

 これもチート能力ハズレだ。

 

「……せめて、周りの人間に恵まれたってことだけが、唯一無二の救いか」

 

 軽く右手の掌を開閉しながら、俺は深いため息と共にそんな感慨を抱く。

 

 たとえ一方的なものであっても、俺のことを心から知ってくれている人間がこれだけ周囲にいることは最大の救いだった。

 

 もしこれがなければ、俺は全く未知の異世界に、何の特殊能力も持たないただの一般人として放り出されるところだったのだ。正直、俺はそこまで寄る辺のない状態で一人で生き残れるほど、タフで器用な人間ではない。

 

 だから、今のこの状況は間違いなく救いだった。──誰かの顔を、深く沈ませていたとしても。

 

「────」

 

 息を詰め、俺はその場に屈伸を繰り返す。肉体の調子、魔法の調子、特殊能力の有無の確認はすべて終えた。二層へ上がる前の、降って湧いたようなわずかな空き時間。

 

 エミリアたちが二層の壁を突破するための準備を整える間、俺は自分の身体に何らかの特殊なアドバンテージが備わっていないか、その確認に余念がなかった。

 

 壁を叩き、壁に念じ、魔法の才能が完全に枯渇した事実に憤然としたり、ちょっと塔内の通路を駆け回ってみたりして、様々な方面から検証を重ねた結果、俺の中で一つの残酷な結論が出る。

 

 それは──、

 

「これ、もしかして神様から何も特典をもらってないな……」

 

 通路を全力疾走して、微かに呼吸を弾ませながら、俺はその事実を静かに受け止める。ただそれでも記憶の高校生の頃の自分よりも体力がついている気がする。壁を蹴りつけたときも、股関節の柔軟性は見違えるようだった。

 

 しかしそれは全身に刻まれた無数の傷や、右腕のグロテスクな状態と同じで、この記憶にない一年間の活動の中で、スバルという人間が泥臭く培ってきた努力の成果に過ぎないのだろう。親の期待にもまともに応えられなかった凡人が、相応の死線と努力の末に勝ち取った程度の実力。そこに、いわゆる異世界転生ものの『神様』から賜わったような、特別なチート能力の恩恵は微塵も感じられなかった。

 

「一応、一人で色んな変身ポーズまで試してみたんだけどなぁ……」

 

 ウルトラの戦士的だったり、仮面のライダー的だったり、はたまたプリティでキュアキュアしてみたり、セーラー服を纏った美少女戦士風なポーズも一通り試したが、効果は一切なかった。

 

 やはり、俺は身一つでファンタジー世界に投げ出されたタイプの、最も不親切な異世界渡航者ということだ。

 

「あとは、本番の絶体絶命のピンチで脳汁が出て覚醒する可能性に賭けるしかねぇな。……クソが」

 

 ガリガリと自分の頭を乱暴に掻いて、俺は胸中に湧き上がってくる不安の種を強引に噛み殺した。エミリアたちの前では多少なり、虚勢を張って気を張ることで何とか誤魔化せていたかもしれないが、こうして一人になって改めて状況を俯瞰してみれば、俺の立場には底知れない不安しかない。

 

 記憶がなくなったこと。

 

 それはもはや疑う余地のない事実だろう。

 

 信じるべき周囲の証拠が多すぎるし、正直なところ、今は『信じたい』という気持ちの方が圧倒的に強かった。それを信じられなくては、どうしてこの場に今も留まっていられるものか。

 

 ここにいたい。

 

 ここしか、今の俺には居場所がないのだ。だからこそ、そのための確かな力が欲しかった。

 

「結局のところ、自分では覚えてもいない『絆』ってやつに全面的に縋り付くしかないってわけだ。情けなくて泣けてくるぜ」

 

 もらうばかり、他人の好意を消費してばかりの在り方は、異世界にきても何一つ変わらない。

 

 エミリアたちが真剣に、俺の身を案じてくれていることが伝わってくるほど、俺は借り物の立場にあやかってぬくぬくとしている自分が呪わしくて仕方がなかった。

 

「二層にいって、今の俺に何ができるってわけじゃないだろうけど……」

 

 エミリアたちから置いてけぼりにされること、一人だけ留守番に残されることを心が強く拒んだのは、まさにそれが理由だった。

 

 二層の説明をしてくれたあと、エミリアたちの間では、『次の試験』にスバルを同行させるべきか否か、明確に意見が真っ二つに割れたのだ。

 

 連れていくことに大きな不安がある、と一番強く主張したのは他でもないエミリアであり、他の面々もエミリアほど極端ではないが、スバルの二層同行には基本的に反対の様子だった。

 

 同行したところで、記憶喪失の今のスバルが二層の攻略に役立つ可能性が極めて低いと考えられたことと、話に伝え聞く二層の試験官の横暴な気性が、今のデリケートなスバルの精神には毒だと判断されたらしい。

 

 故に、そのままであれば俺は四層に一人だけ置き去りにされていた可能性が高かったが──、

 

「──それでも、絶対に一緒にいくって駄々をこねて言い張ったのは、俺自身だからな」

 

 エミリアたちが俺を残していこうとしたのは、すべては俺の身の安全を最優先で案じたからだ。そうして無条件で優しく扱われることが、今の俺にとっては、嬉しくも極上の猛毒だった。記憶を失う前のナツキ・スバルなら、きっと何の問題もなく彼女らに同行しただろうし、彼女らも同行させるか否か、わざわざ会議をして話し合うことなんてなかったに違いない。

 

 記憶のあるなしが、スバルの肉体的なスペックに影響を与えたとは考えにくい。つまり、知識や記憶の有無を除けば、今の俺でも記憶をなくす前とまったく同じ働きができるはずなのだ。

 

 そのためにあれこれと自分の身体の機能を模索してみてはいるのだが、目に見える成果は一向に上がっていなかった。

 

「無理を言ってベアトリスに頼み込んで、一人にしてもらったってのに、これじゃ先が思いやられるぜ」

 

 俺を一人にすることに対して、最後までひどく渋い不満そうな顔をしていた縦ロールの幼女の顔が脳裏に思い出される。

 

 さすがに、ティーンエイジャーの男が人前でいくつもの特撮ヒーロー風のポーズを真剣に試すのは、恥ずかしさで死ねるレベルの行為だった。もちろん、ベアトリスはかなり強硬にその場に食い下がり、俺と彼女の間で一進一退の激しい攻防が繰り広げられたのだが。

 

『スバルを一人にすると、またどっかに記憶を落っことしてきたり、碌なトラブルを引き起こさないのよ! ベティーは梃子でもここから動かないかしら!』

 

『その気持ちはめちゃくちゃ嬉しいしありがたいんだけど、これからちょっと、人様には絶対に見せられない神聖な儀式をするから!』

 

『スバルとベティーの深い間に、そんな水臭い気遣いなんて一切いらないのよ!』

 

『いや、最悪の場合、服を全部脱いで裸になったりするから! ムーンライトなパワーでメイクアップするから!』

 

 と、最後はわけのわからない力押しで訴えかけ、とにかく熱意だけで彼女の頑なさをへし折った形だった。

 

 最終的にベアトリスからは、「絶対に余計な無茶はしないで必ずすぐに合流すること」という、強い強い厳命を受けることでどうにか話はまとまった。

 

「契約者って言われても今でもイマイチピンとこないけど、あの様子を見る限り、ベアトリスとは相当うまくやってたみたいだな。俺らしくもない。……本当に、それは俺自身だったのかよ」

 

 唇を不満げに曲げて、俺は自分の腰の裏──そこに初期装備として備え付けられていた一本の鞭を抜き取ると、何となしに振るって、近くの壁にその先端をピシャリとぶつけてみた。

 

 そのまま引き戻す。──思い切り、自分の右足の脛を直撃した。

 

「ぐおっふう……!? こ、こういう武器の技術って、頭じゃなくて肉体が勝手に覚えてるもんじゃねぇのかよ……! それとも何だ、ただのカッコつけの飾りで、記憶をなくす前の自分も実は大して使いこなせてなかったのか……?」

 

 脛のあたりを自爆で強打され、俺は涙目になりながらその場にしゃがみ込んで足をさする。

 

 そもそも、自分の愛用の武器にわざわざ『鞭』なんていうマイナーな代物を選んでいるところからしてどうなのか。剣や銃といった王道の武器ではなく、あえて鞭を選ぶあたりに、他人と違うことをしてカッコいいと勘違いしている、俺自身の痛い中二病気質がひしひしと感じられる。

 

「もし前の俺がこれを完璧に使いこなせていたんだとしたら、本当になくなったのは頭の中身だけってことじゃないか?」

 

 足を痛そうにさすりながら、跪いた姿勢のまま俺はそんな最悪の可能性を考える。そして、考えたあとで、そのあまりにも救いのない可能性に頬を歪めた。

 

 仮に、今の俺の推論が完全に正しかったとしたら、何と無様なモノだけがここに残されてしまったのか。

 

 記憶をすべて失い、一緒にいたはずの大事な人たちに多大な心配をかけ、これまでに積み上げてきたはずの実績も技術もなくして完全な役立たずになった挙句、身体に刻まれた歴史と装備だけは一丁前に残して、ガワだけ完璧に整えてある。

 

 ただの、中身のないハリボテではないか。

 

「は」

 

 軽く自虐的な息を吐いて、俺はその場に立ち上がった。

 

 内心、自分の脳内に浮かんだその『ハリボテ』という四文字の言葉が、馬鹿笑いしたくなるくらいにくだらなかった。

 

 ハリボテなどという自覚、今さら何を言っているのだ。

 

 ──俺のこれまでの十七年の人生において、ナツキ・スバルが中身のないハリボテでなかった瞬間など、一体いつあったというのだ。

 

「あー、やめだやめ! アホらしい! 自分で自分のモチベーションを下げてどうすんだよ……」

 

 自分の額に強めの拳骨を一つ入れて無理やり思考を切り替え、俺はため息をつきながら鞭をまとめる。そのまとめ方のコツすらよく分からず、四苦八苦しながら何とか腰の後ろへと戻した。

 

 その際、自分の掌にある無数のマメ──竹刀の素振りでできるそれとは明らかに違った、この異世界の一年間での泥臭い積み立てを感じさせるそれを凝視する。

 

 何となしにそれを舌でなぞってみた。ひどく硬くて、苦かった。

 

「こんな万が一のときのために、やってきた出来事の日記とかメモ帳でも残しておけよ、過去の俺。本当に使えねぇな」

 

 理不尽極まりない苛立ちを記憶がなくなる前の自分自身へとぶつけ、俺はゆっくりと歩みを再開した。

 

 チート能力の存在は確認できなかったが、ある意味では、確認できなかったこと自体が大きな収穫といえた。これで、存在もしない不確かな力を頼りにして無謀な行動を起こす、という最悪の選択肢を消すことができたのだから。

 

 それも、いささかネガティブすぎるポジティブ思考ではあったが。

 

「おっとっと、こっちの道じゃねぇや」

 

 思考に没頭するあまり一本、曲がるべき道を折れ間違えてしまい、俺は全く別の広いフロアへと出ていた。

 

 正面、視界の先に大きく広がっていたのは螺旋階段──塔の下の階層へと向かうための、異常なほど巨大な空洞を持つ螺旋階段のフロアだった。

 

 六層からなるとされるこのプレアデス監視塔において、最下層から今いる四層まで上がってくるのには、おそらくは百数十メートルもの圧倒的な高さを、すべて階段で自力で上がってくる必要がある。

 

 山登りの労力と比べれば、整備されている分だけ楽かもしれないが、塔の内部にはどこか陰鬱として重たい空気が常に満ちていることもあり、見た目の数字以上の労力が肉体に求められるに違いなかった。

 

「そう考えてみると、この塔も本当に妙な造りをしてるな……まあ、魔法だの何だのがあるファンタジー世界において、今さら建築様式に突っ込むのも野暮な話か」

 

 中にいるだけで勝手に人間の傷を治療してくれる草花が群生しているような世界だ。

 

 それに、元の地球の世界にだって、古代の人知を超えたとしか思えない建造物は多く存在していた。エジプトのピラミッドなどもその代表格だろう。そうして客観的に考えてみると、この監視塔とピラミッドの間に、本質的な差はそれほどないようにも思えてくる。

 

「元の世界との共通点を必死に探す、みたいなダサいことは、記憶をなくす前の俺もやっぱりやったのかね」

 

 前の俺、という三人称のような表現を自分で口にして、何だか奇妙なおかしさが込み上げてくる。

 

 記憶をなくす前と後で、まるで自分の人生の歯車が完全に狂ってしまったかのような気分だ。本来であれば、自分の『以前』も『以後』もない。過去も現在も、俺という人間は一本の線で地続きに繋がっているはずなのだ。

 

 だから、この異世界にきてもナツキ・スバルは──、

 

「──お?」

 

 ふと、そんな感傷的な思索を振り切るように大きく首を振った俺は、不意に息を抜くような声を漏らした。それは本当に、何気ないただの吐息だった。思いがけない衝撃を受け、思わず口からこぼれ落ちたものだ。

 

 それ以上でも、以下でもない。

 

「────」

 

 その、それ以上でも以下でもない吐息をこぼした次の瞬間──世界の天地が、一瞬でひっくり返ることになった。

 

「ぁ?」

 

 足の裏が、確かに踏みしめていた地面を完全に離れていた。──否、離れたのは足だけではない。俺の身体そのものだ。

 

 身体ごと地面から引き剥がされ、宙へと投げ出され、完全に上下左右を見失い、猛烈な浮遊感の中に一気に呑み込まれる。浮遊感に脳を支配されながら、ナツキ・スバルの存在が、どこまでも落ちてゆく──。

 

「ま、え……?」

 

 ごう、と猛烈な暴風が吹き荒れるような爆音が、鼓膜の奥を容赦なく突き抜けていく。分からない。何もかもが分からない。今、ナツキ・スバルは確実に『落ちていた』。落ちている。

 

 くるくると宙を錐揉み回転しながら、真っ逆さまの姿勢で奈落の底へと落ちていく。

 

 落ちて、落ちて、落ちて、落ちていくその猛烈な加速の中で、ようやく俺の意識が現実に追いついた。

 

 俺は今、落ちているのだ。

 

「ま、て! 待て待て、待て──っ!」

 

 視界が高速で回転し、手足が虚しく宙を掻いて、投げ出されてから何秒が経過したのかすら完全に分からなくなって、ようやく俺は自分の身に起きた最悪の事態を正確に理解する。

 

 落ちている。転落している。墜落している。はるか高層の階から、はるか最下層の地上へと。

 

 螺旋階段の安全な内側を大きく外れ、大口を開けて待っている巨大な縦穴の黒い闇へと呑み込まれている。四方、必死に目を凝らしてみれば、飾り気のない無機質な石の壁が、高速で下から上へと流れていくのが見えた。

 

 ──否、壁が流れているのではない。

 

 俺自身が、凄まじい速度で流れ落ちているから、視界の景色が逆さに流れ去っていくのだ。身体を激しく振り回されるGの感覚、その凄まじい衝撃に伴い、胃の奥から強烈な嘔吐感が込み上げ、酸っぱい胃液が宙へとぶち撒けられた。

 

 急激な加速に呼吸が全く間に合わず、逆流した胃液によって気管が塞がれる。

 

「ふへ」

 

 酸味の混じった情けない最後のか細い呟きが漏れたのとほぼ同時に、ナツキ・スバルの意識は完全に失神した。

 

 意識の糸がぷつりと途切れ、感覚が曖昧になり、そして──。

 

 そして──。

 

 そして────。

 

 硬い衝撃が肉体を──。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

「──スバル! ねえ、スバルってば、大丈夫なの!?」

 

 再び目が覚めて、最初に俺の耳に飛び込んできたのは、あの美しい銀鈴の声音だった。

 

 自らの腕に触れている、細くて柔らかい指の確かな感触と、至近距離からダイレクトに感じる切実な息遣い。その生々しい感覚を唯一の頼りにして、俺の意識は深い泥の底からゆっくりと浮上し、重たい瞼をどうにか押し開けた。

 

 ──すぐ目の前に、恐ろしいほどに美しく整った、月の妖精のような少女がいた。

 

「じゃなくて……エミリア、ちゃん……?」

 

「ああ、スバル、よかった! 目が覚めたのね。すごーく、すごーく心配したんだからね!」

 

 俺の掠れた呼びかけに対して、目の前の少女──エミリアは心底から安堵した様子で、豊かな胸をなでおろした。その彼女のあまりの取り乱しぶりに目を丸くしながら、俺は自分の身体を起こし、ぐるりと周囲の景色を見回した。

 

 見覚えのある、緑色の蔦に一面を覆われた部屋。

 

 その蔦で編まれた卵型のベッドの上に、俺は仰向けに横たわっていた。安堵に胸をなでおろすエミリアと、そのすぐ隣に憮然とした態度で佇んでいる、縦ロールの美幼女の姿。

 

「エミリア、そんな最初から優しい態度を見せるからスバルはこれっぽっちも反省しないかしら。もっときつく言ってやらないと、ベティーたちの本気の心配がこの唐変木には伝わらないのよ!」

 

「そうよね。ほら、ベアトリスもこう言って怒ってるでしょ? スバルが朝からどこにも見当たらないって大慌てになって、この部屋のベッドで倒れてるスバルをようやく見つけたときなんて、ベアトリスったら今にも泣き出しそうな顔だったんだから……」

 

「余計なことまでいちいち口に出して言わなくてもいいかしら!」

 

 ベアトリスがみるみる顔を真っ赤に染め上げ、悪気の一切ないエミリアの暴露発言に対してぷんすかと両手を振って怒り出す。その、今朝と全く同じやり取りを正面から見ながら、俺はただ、自分の頭を大いにひねるしかなかった。

 

「え……? 何これ、夢……?」

 

「──?」

 

 その俺の呆けた発言に対して、エミリアとベアトリスは揃って不思議そうに首を傾げたのだった。

 

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