傲慢の魔女『フラン』   作:オド・ラグナの対義語

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お気づきの方もいると思いますが、原作の大幅なコピーと判断されたため、前話の『既視感』はコピーと思われてしまいそうな箇所はダイジェストにして再投稿しています。内容は同様のものです。


『虚々虚々』

 

「ひ、っ、が、あ──────ッ!?」

 

 喉が裂けた。

 

 そう思った。

 

 跳ね起きるより先に体の奥底からの悲鳴が出た。悲鳴というよりも、潰れた肺から無理やり押し出された言葉になってすらいない空気だった。息が吸えない。吸えない。吸ったら、落ちる。落ちて、割れて、砕けて、撒き散らして、戻らない。

 

「あ、あ、あ、あ……ッ!」

 

 両手が勝手に胸を叩いた。

 

 胸。

 ある。

 

 腹。

 ある。

 

 肋骨。

 折れていない。

 

 右半身。

 ある。

 ある。

 ある。

 

 指が震えて皮膚を掻き毟る。痛い。痛いなら、生きている。痛い。生きている。けれど、さっきまでの痛みとは違う。違うはずなのに、身体が理解しない。頭蓋が割れていないのに、脳味噌が零れていく感覚だけが残っている。腹が裂けていないのに、内臓がぶち撒けられた錯覚が消えない。

 

「っ、は、ぁ、は、はぁ……!」

 

 息が喉で詰まる。

 

 口の中に鉄の味がある気がして、何度も唾を吐こうとした。けれど出てくるのは、乾いた唾液だけだった。血ではない。血ではないのに、舌が勝手に血の味を覚えている。

 

 目の前がぐらぐらする。

 

 壁。

 床。

 天井。

 

 緑。緑。緑。

 

 蔦に覆われた部屋。

 見知った部屋。

 プレアデス監視塔の『緑部屋』。

 

 知っている。

 ここを知っている。

 

「なん、で……」

 

 声が掠れた。

 

 夢だと思った。一度目はそう思った。あまりにリアルな悪夢だと。二層の『試験』に怯えた自分の脳が、勝手に作り出した地獄だと。

 

 二度目は、予知夢だと思った。

 ピーキーすぎる未来予知。これから起こる最悪を回避するために、神様か何かが遅すぎる特典を寄越したのだと。

 

 違う。

 

 違う違う違う違う違う。

 

 あれは夢じゃない。

 予知じゃない。

 作り物じゃない。

 

 あの、右半身が粉々に砕け散った衝撃。階段に打ち付けられた身体が、自分の形を失っていく音。頭蓋が割れて、中身がこぼれ落ちていく感覚。口の中に溢れた血と、肺が潰れて空気を吸えなくなる恐怖。視界が赤と黒に潰れて、最後に何もかもが遠ざかっていく、あの奈落。

 

 あれが、脳の作った幻であるはずがない。

 

 俺は死んだ。

 

 螺旋階段から突き落とされて。人間ではなくなって。ただの肉塊になって。

 

 確かに、死んだ。

 

「死んだ、死んだ、死んだ……俺、死んだ、だろ……?」

 

 自分の声が、他人の声みたいに聞こえるのに、ここにいる。またここにいる。

 

 緑部屋。

 蔦のベッド。

 見覚えのある天井。

 見覚えのある空気。

 何もかもが、死ぬ前と同じ顔をして、平然とそこにある。

 

「なんで、戻って……なんで、また……!」

 

 歯が鳴るのが止まらない。

 

 両腕で自分の身体を抱き締めた。押さえつけないと、ばらばらに崩れてしまいそうだった。膝が震える。背中に冷たい汗が流れる。心臓がうるさい。鳴っている。鳴っているなら生きている。生きているのに、死んだはずなのに、生きている。

 

 意味が分からない。

 

 時間が巻き戻ったのか? 死ぬたびに、最初からやり直されるのか?

 

 誰かが、俺の死をなかったことにしているのか。

 それとも、まだ死に続けているのか。

 

 分からない。

 分からない。

 分からない。

 

「スバル! ねえ、スバルってば、大丈夫なの!?」

 

 銀鈴の声が鼓膜を震わせた瞬間、スバルの全身が跳ねた。

 

「ひっ……!」

 

 反射的に、後ずさった。

 

 目の前に、エミリアがいた。

 紫紺の瞳が揺れている。心配そうにこちらを覗き込んでいる。手を伸ばしてくる。その横で、ベアトリスが今にも泣きそうな顔で、スバルの袖を掴もうとしていた。

 

 善意。

 

 心配。

 

 優しさ。

 

 それが心底怖かった。

 

 今のスバルには、あまりにも近すぎた。柔らかすぎた。温かすぎた。だから、耐えられなかった。

 

 脳裏に、別の声が蘇る。

 

『関係が白紙に戻ったバルスを信用できるかと言われれば、ラムは否定します。──信用する、根拠がない』

 

 冷たい声。

 

 大部屋の前で、盗み聞きしてしまった言葉。聞かなければよかった言葉。ラムの声。エキドナの理知的な言葉。ユリウスの理性的な肯定。それらが、目の前のエミリアとベアトリスの顔に、黒い影みたいに貼り付いていく。

 

 優しい。心配してくれている。──でも、それは誰に向けたものだ?

 

 俺か。

 

 それとも、俺の皮を被った『ナツキ・スバル』か。

 

 信じてもらえて当然だと思っていた。助けを求めれば手を伸ばしてもらえると、どこかで思っていた。けれど、違った。

 

 信用する根拠がない。

 何をしたか分からない。

 何をするか分からない。

 前の『ナツキ・スバル』と同じ形をしているだけの、空っぽの不審者。

 

「スバル……?」

 

 エミリアの手が、もう一度伸びてくる。

 

 スバルは、その手を見た。

 

 白い指が震えている。声音は優しく、驚かさないよう落ち着いている。心配している。間違いなく、自分を案じている。

 

 なのに。

 

 その手が、自分を掴んで引き戻すものに見えた。前の『ナツキ・スバル』の形へ、無理やり押し込める手に見えた。

 

「……あ」

 

 笑わなければ。

 

 笑え。

 今すぐ笑え。

 

 怪しまれるな怯えるな。全部を話すな。話したら終わる。

 また同じ流れになる。

 また階段から落ちる。

 また砕ける。

 また死ぬ。

 

「あ、いや。ごめん」

 

 口角を上げた。

 

 頬が引き攣り喉の奥が震える。それでもなんとか笑った。

 

「ちょっと、寝ぼけてただけだから」

 

 嘘の声がした。自分でも分かるほど、薄っぺらい声だった。

 

 スバルはベッドからずるりと這い出た。足の裏が床に触れた瞬間、螺旋階段の硬い石の感触が蘇って、膝が砕けそうになる。踏ん張る。倒れるな。倒れたら触られる。触られたらきっと拒絶してしまう。

 

 今回は言わないことにしよう。

 

 転落死のことも、未来を知っていることも、あの部屋の前で聞いてしまった会話も、死んで戻ったかもしれないことも。

 

 全部、胸の奥へ押し込める。

 

 同じ流れに乗れば、また誰かに背中を押され、また螺旋階段を転がり落ちる。また、俺は俺の形をなくす。

 

 なら、先に動くしかないだろう。誰にも言わずに、誰にも頼らずに、出し抜いてでも。

 

「スバル、本当に何ともないかしら? なんだか、顔色がすごーく悪いのに、ベティーたちに隠し事をしてるみたいで落ち着かないのよ」

 

 ベアトリスの声が震えていた。

 

 胸が痛んだ。けれど、その痛む余裕が邪魔だった。

 

「気のせい、気のせい!」

 

 声が裏返りかけ、慌てて咳払いで誤魔化した。

 

「ちょっと記憶がすっからかんでパニくってるだけだからさ。ほら、エミリアちゃんたちもそんなに深刻な顔しないでくれよ。俺まで、もっとビビっちまうだろ?」

 

 記憶喪失の事実だけは、最低限の言い訳として出した。

 

 エミリアが目を見開く。

 ベアトリスが息を呑む。

 二人の顔が一瞬で青ざめる。

 

 驚き。

 動揺。

 心配。

 それでも、どうにか気力を立て直そうとする健気さ。

 

 その全部を、スバルはどこか遠くから俯瞰して眺めていた。

 

 最低だと思った。俺は最低だ。

 

 優しくしてくれる相手を疑っている。泣きそうな顔をしている子どもみたいな少女に、平気なふりをして嘘をついている。今にも手を伸ばしてくれそうな人たちから、逃げる算段ばかりしている。

 

 胸の奥に、ざらざらした自己嫌悪が溜まっていく。けれど、背に腹は代えられない。

 

 綺麗に振る舞えるほど、もはや余裕がない。善人でいられるほど、まだ菜月昴は強くない。死の感触が、身体から剥がれてくれない。

 

 会わなければならない。

 

 エミリアでも、ベアトリスでも、ラムでも、ユリウスでもない。灰色のローブの下にあの赤のワンピースをまとった、フランドール・スカーレットのコスプレ少女。地球を知っている少女。

 

 フラン。

 

 二度目の最後、死の直前に思い出したのは、エミリアたちの顔ではなかった。

 

 白い書庫の片隅で、からっぽの俺の冗談を理解して、笑った少女。同じように、過去の重さに負けて、死者の本を探していた少女。別れ際、一瞬だけ、俺の奥を見ようとした紅い視線。

 

 あいつなら、あいつなら、前の『ナツキ・スバル』の形へ、俺を押し戻そうとはしないかもしれない。今の俺を、からっぽなまま見てくれるかもしれない。

 

 都合のいい願望で、勝手な期待だと思う。分かっている。それでも、今のスバルには、その細い糸に縋るしかなかった。

 

「わりぃ。ちょっと話の途中なんだけどさ、俺、トイレ行ってきていい?」

 

 無理やり明るく軽妙な声を出す。

 

「ほら、緊張すると近くなるタイプだからさ! 記憶喪失でも膀胱は元気! いや、元気って言い方も変だけど!」

 

 冗談が滑る。自分でも分かるが止まれない。

 

「え? あ、うん、それは構わないけど……本当に一人で大丈夫?」

 

「大丈夫だって! 迷子になったら大声で叫ぶから!」

 

 エミリアがまだ何かを言おうとする。ベアトリスが袖を掴みかける。しかしスバルは、それより一瞬早く身を引いた。

 

 触られたくなかった。

 

「すぐ戻る! たぶん! いや、戻る戻る、絶対戻るから!」

 

 言葉だけを置いて、スバルは緑部屋を飛び出した。廊下に出た瞬間、走った。

 

 足がもつれ、壁に肩をぶつける。それでも走る。

 

 背後から呼び止める声が聞こえた気がした。聞こえないふりをした。

 

 狡い。薄汚い。最低だ。優しくしてくれる彼女たちを騙して、出し抜いて、逃げている。けれど、精神的に限界を迎えている今のスバルに、綺麗な行動を取る余裕なんて、ひとかけらも残っていなかった。

 

 死にたくない。

 

 もう、あんなふうに死にたくない。

 

 その恐怖だけが、ぐちゃぐちゃになった頭の中で、唯一はっきりとした形をしていた。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 長い階段を駆け上がり、三層『タイゲタ』の書庫へと滑り込む。

 圧倒的な質量で押し寄せる本棚の海。その白一色の空間の奥に、目当ての灰色のローブを見つけた瞬間、スバルの胸から、張り詰めていた安堵の息が漏れた。

 

 フランはいつも通り、本棚の奥で熱心に本を漁っていた。

 スバルの足音に気づいた彼女は、ひょいとフードの奥から顔をこちらへ向けると、いつも通り気だるげに、からかうような笑みを浮かべた。

 

「来たんだ、フーちゃん。今度はエミリアちゃんたちの手、振り切ってきたの?」

 

 内心でぎくり、と心臓が跳ねる。けれど、その口調には悪意も警戒もなかった。

 

「お、お前なぁ。人聞きが悪い言い方すんなよ。俺はちょっと、お前なら何か分かる気がして、大急ぎで走ってきただけだっつの」

 

「ふーん。私を便利な占い師みたいに扱わないでよ」

 

「占い師っていうか……同郷っぽい怪しい魔女?」

 

「怪しいは余計。失礼だなあ」

 

 くすくすと、いつも通りに笑うフラン。

 その軽やかな笑い声を聞いているだけで、エミリアたちの前で檻に閉じ込められているようだった息苦しさが、じわじわと解けていくのが分かった。ラムの突き刺さるような言葉も、ベアトリスの掴んでくる小さな手の重みも、ここにはない。前の英雄ではなく、今の、中身がからっぽで無様な高校生でしかない俺の言葉に、こいつだけは反応してくれる。

 

「……でも、フーちゃんが一人でここに来るなんて珍しいね。いつもはもっと、過保護な銀髪ちゃんたちに囲まれてるのに」

 

 会話の最中も、彼女は完全にはスバルだけを見ていなかった。

 視線は横の書架へと向けられ、その細い指先は淡々と本の背表紙をなぞっている。『ファルセイル・ルグニカ』の名を探す、底の知れない欲望。

 それを見て、スバルは二周目と同じ、奇妙な同質感を抱く。

 

 こいつも、過去に囚われている。自分と同じだ。

 だからこそ、胸の内に溜まっていた澱が、不用意に口から漏れ出た。

 

「あのさ……俺、たぶん一回死んだんだ」

 

「……え?」

 

 フランは最初、それをただの悪質な冗談だと思ったのだろう。指を止め、不思議そうに首を傾げた。

 

「フーちゃん、死にやすいもんね。でも、生きてるじゃん」

 

「いや、そういう軽いやつじゃなくてさ……。本当に、螺旋階段から落ちて、身体がバラバラになって、そんで気づいたら──」

 

 話そうとした、その瞬間だった。

 

 ──世界から、一切の音が消失した。

 

 ドクン、と心臓がひときわ大きく脈動する。次の瞬間、スバルの視界の端から、光を貪り喰うような漆黒が噴出してきた。影だ。影で編まれた、悍ましくも細腕の、紛れもない『女の腕』だった。──女の腕だと、スバルは直感した。

 

 それは次元の隙間から這い出るようにして、音もなくスバルの胸元へと伸びる。

 

 フランは何も気づいていない。

 彼女の時間が停止した中、その漆黒の手はスバルの衣服を、皮膚を、肋骨を容易く透過し、直接──その『心臓』へと到達した。

 

「が、──っ」

 

 肺の空気が強制的に吸い出され、喉の奥にセメントでも流し込まれたようにガチガチと締め上げられる。

 

 冷たい。

 いや、熱い。

 

 心臓の肉を、ぬめりを持った黒い指先が、まるで愛おしい愛玩物を弄ぶように優しく撫でまわす。ぞっとするほどの狂気と執着が、その手触りだけで頭の中へ流れ込んでくる。そして次の瞬間、愛撫は一転して無慈悲な抱擁へと変わり、心臓そのものを外側からぐわし、と握り締めた。

 

「あ、う、あ、つ、あ──────」

 

 声にならない絶叫が漏れる。

 

 言おうとすればするほど、心臓を圧殺する漆黒の五指に力がこもり、肉の爆ぜる幻痛が全身を駆け巡る。スバルは自身の喉を掻きむしり、白目を剥きながらその場に崩れ落ちた。

 

 脳が恐怖で焼き切れそうになりながらも、スバルは理解した。

 

 これは死んで戻ってきたことを話そうとしたペナルティだ。未来を知っていることを口にしようとした瞬間に、あの存在を刺激した。元の『ナツキ・スバル』が仲間にこの異能を打ち明けなかったのではない。

 

 ──打ち明けることなど、この漆黒の手の持ち主が絶対に許さなかったのだ。

 

「……言えないことがあるんだ」

 

 声にならないはずの呻きの代わりに、ようやくそれだけを絞り出す。その瞬間、世界に音が戻った。

 

「──フーちゃん?」

 

 フランの声が、すぐ近くで跳ねた。

 

 スバルが膝から崩れ落ちるのと、フランの手から本が滑り落ちるのはほとんど同時だった。乾いた音を立てて死者の書が床に落ちる。だが、フランはそれを見もしなかった。

 

「ちょっと、フーちゃん。今の、何?」

 

 いつもの調子が消えていた。フランは一瞬でスバルのそばに膝をつき、伸ばしかけた手を、寸前で止める。その紅い瞳が、スバルの顔ではなく、胸元を見ていた。

 

「……嫉妬の匂いがする」

 

「は、ぁ……っ、な、に……」

 

「濃い。さっきまでよりもずっと」

 

 呟く声には、明らかな緊張があった。

 

 フランはスバルの肩に触れようとして、しかしその指先をわずかに引っ込める。触れた瞬間、そこに残った何かを刺激してしまうのではないか。そんな躊躇いが見えた。

 

 けれど、次の瞬間には迷いを振り払うように、彼女はスバルの背中へそっと手を添えた。

 

「息できる? できないなら、無理に喋らないで。吐くなら横向いて。まだ変な感じする?」

 

「は、ぁ……っ、は……っ」

 

「うん。聞こえてる。大丈夫、聞こえてるよ」

 

 フランの声は柔らかかった。それが、ひどく申し訳なかった。

 

「悪ぃ……。本当に、ちょっと頭がバグっててさ。ガチャで大ハズレ引いた一般人としては、これくらい小出しにバグってかねぇとやってらんないというかさ」

 

 変身ポーズの確認をしていた時の、いつものような軽口。現状への、ささやかな愚痴のつもりだった。

 

 だが、声は掠れていて、笑おうとして、失敗していた。

 

 フランはすぐには返さなかった。今の彼女は笑わなかった。スバルの背に添えていた手を離さないまま、紅い瞳でじっと彼を見ている。

 

「……フーちゃん」

 

 呼び方はいつも通りだった。

 

「今の、言えないことなんだね」

 

「……まあ、そんな感じ」

 

「言おうとしたら、ああなる?」

 

「たぶん」

 

「そっか」

 

 フランは小さく息を吐き、胸に手を当てる。

 

 怒るでも、問い詰めるでもない。ただ、スバルの苦痛の理由を一つ拾って、胸の奥へしまい込むような仕草だった。

 

「じゃあ、聞かない。今は」

 

「……助かる」

 

「助かってない顔してるけど」

 

「そこは、ほら。顔面の演技力がログアウトしてるだけだから」

 

「うん。全然ログインできてないね」

 

 ようやく、少しだけフランが笑った。

 

 それはいつもの軽い笑みではなかった。心配を隠すために、無理やり薄く作った笑みだった。その笑みの奥で、紅い瞳だけが静かに細くなる。スバルがあまりにも苦しそうだから。彼女が『嫉妬』と呼ぶものの匂いが、あまりにも濃くなったから。

 だから心配になって、もう一度ちゃんと見る。

 

 そんな、優しさに近い視線に思えた。

 

 けれど、その一瞬が致命的だった。フランの視線が、スバルの顔をなぞる。

 

 引き攣った頬。

 乾いた唇。

 汗に濡れた前髪。

 笑おうとして失敗している口元。

 喉元に残った、爪で掻きむしった赤い痕。

 そして、さっきまで黒い手が触れていたはずの胸元。

 

 そこまではただの観察だった。

 

 だが、次の瞬間、その紅い瞳の焦点がふっと深く沈みこんだように見えた。

 

 表情の奥へ。

 肉体の奥へ。

 魂の奥へ。

 

 スバル自身でさえ手を伸ばしたことのない、もっと深い場所へ。

 

「────」

 

 空間から、一切の音が消えた。

 

 フランの手が、スバルの背中からゆっくりと離れる。

 

 柔らかい笑みが、その白い顔から完全に消え去っていた。

 

 ほんの少し前までスバルを支えていた指先が、今は宙で止まっている。

 触れていいのか、触れてはいけないのか。

 その判断すら一瞬で塗り替えられたように。

 

「……フラン、ダース……?」

 

 嫌な予感がした。体中の毛穴が一斉に逆立っていく。前回にも感じた、冷たい視線が身体の内側を無遠慮に眺め回していくような、あの不気味な感覚が戻ってくる。彼女は、何も言わなかった。

 

 ただ、見つめていた。

 

 スバルのもっと深い、皮膚を透過し、骨を突き抜け、肉体の奥の奥にある何か。自分でも名前を知らないその領域を、フードの奥で爛々と輝き始めた紅い光が、ゆっくりと執拗に暴き立てていく。

 

 怖かった。

 

 さっきまで心配してくれていた相手が、同じ目で、まったく違うものを見ている。その落差に、心臓が見たこともない速度で警鐘を打ち鳴らす。

 

「お、おい……。そんなマジな顔で見つめられると、さすがの俺でも照れるんだけど。俺の顔に、何かついてる?」

 

 フランダースは、笑わなかった。

 

 見てほしくてここへ来たはずだった。エミリアたちのように前の英雄を押し付けるのではなく、今のからっぽな俺を見てほしくて、縋りに来たはずだった。けれど──本当に『見られる』ことが、これほどまでに毛の逆立つような恐怖だなんて、思ってもみなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フランダースの口から漏れ出た第一声は、地を這うように低かった。

 

「……違う」

「え……? 違うって、何が──」

 

 答えない。彼女が、一歩、前へ足を踏み出す。

 

 その瞬間、書庫の空気が一変した。

 本の紙の匂いが、肺を腐らせるような凄絶な瘴気によって瞬時に塗り潰される。彼女の足元から、薄暗い闇のようなマナが文字通り溢れ出し、白い石床を侵食していく。

 

 本能的な死の恐怖に背中を蹴られ、スバルは無様に後ずさった。

 

「フランダース……!?」

「お前、誰だ?」

 

 息が止まった。

 その問いは二周目の死の直前、意識が途絶える寸前に脳裏で囁かれた、知らない幼女の声と同じだった。

 

 ──オマエハ、ダレダ。

 

 その拒絶の言葉が今度は、唯一の拠り所だと思った魔女の口から、明確な不信を孕んで突きつけられる。

 

「何、言って……! 俺は、スバルだ! ナツキ・スバルで──」

「違う」

 

 今度の否定は、刃物のように鋭かった。

 フランダースの紅い瞳が、細く、深く、凄絶なまでの冷徹さへ固定される。

 

「私たちのフーちゃんに、何をしている」

 

「待て、違う! 俺は俺だ! 記憶がないだけで、中身は何も──」

 

「正体を現しなよ、偽物」

 

 言葉での弁明は、一切通じなかった。

 

 この四百年を生きる魔女だけは騙せなかった。

 彼女が何を見たのか、スバルには分からなかった。ただ、分かったことが一つだけある。フランダースはもう、スバルの言葉を聞いていない。

 

 記憶を失っているとか、混乱しているとか、そういう説明が入り込む余地はどこにもなかった。彼女の紅い瞳は、スバル自身ですら触れたことのない、もっと奥深い場所へ突き刺さっている。

 

 そこに、何かがあったのだ。

 

 スバルには見えない何か。

 スバルには分からない何か。

 けれど、フランダースの中にあった温度を一瞬で凍りつかせるには、十分すぎる何かが。

 

 その言葉は、あまりにも静かだった。

 

「返せ」

 

「何を……」

 

 問い返そうとした言葉は、最後まで形にならなかった。一瞬だった。視界から灰色のローブが消えたと思った次の瞬間、首元を凄まじい力で掴まれていた。

 

「がふっ!?」

 

 息が詰まる。

 

 喉を潰されたのかと思った。

 実際には、フランダースの細い指が襟首を掴んでいるだけだ。たったそれだけのはずだった。なのに、そこに込められた力は、人間の少女のものでは断じてない。足が床から浮き、次の瞬間、背中が本棚へ叩きつけられた。

 

 肺の中の空気が、悲鳴になる前に全部押し出される。棚が軋み見知らぬ誰かの本が何冊も落ちた。乾いた音が、やけに遠くで聞こえる。

 

「フーちゃんを返せ」

 

 その声は、静かだった。静かだからこそ、そこにはもう交渉の余地がなかった。

 

「ま、待て……俺は、俺は……!」

 

「黙って」

 

 短く告げられた。それだけで、喉が凍りついたように動かなくなる。

 

 フランダースは怒鳴らない。取り乱さない。泣きもしない。ただ、紅い瞳の奥で、何かが完全に燃え尽きたみたいな顔をしている。

 

 それが怖かった。

 

 怒り狂っているなら、まだ分かる。激情に呑まれているなら、まだ言葉が届く余地があるかもしれない。けれども今の彼女は違った。怒っている。間違いなく怒っている。けれど、その怒りは外へ爆ぜる炎ではなく、相手を確実に焼き殺すために温度だけを上げ続ける炉のようだった。

 

「俺はスバルだ! ナツキ・スバルで、記憶がなくて、それで、だから──」

 

「違う」

 

 否定は刃物よりも鋭かった。フランダースの紅い瞳は、スバルの顔を見ていなかった。もっと、おぞましいほど別の場所を見ている。

 

 皮膚の下、骨の内側、心臓よりも深い場所。自分自身でさえ存在を知らない、名前のない暗がりの領域を、じっと見据えている。その網膜に映る光の正体が、スバルにはまるで理解できなかった。

 

「待てよ……待ってくれよ。記憶がないんだ。だから、そう見えるだけで……俺は、俺は本当に──」

 

「じゃあ」

 

 フランダースの指が、ゆっくりとスバルの胸元へ触れた。

 

 服の上、肉の上から。ただ、軽くトン、と置いただけ。それなのに、全身の産毛が一斉に逆立った。

 

「中を見れば分かるよね」

 

「なか……?」

 

 その言葉の意味を脳が咀嚼するより早く、内側で決定的な『破綻』が起きた。

 

 骨ではない。筋肉でもない。血管でも、神経でもない。

 ──もっと、取り返しのつかない領域。

 自身の輪郭のさらに奥、魂の芯とでも呼ぶべき場所に、目に見えない無慈悲な指先が直接突き刺さり、容赦なくかき混ぜられた気がした。

 

「──ッ!? あ、が、ぁっ」

 

 声が出なかった。

 痛い、という平易な概念では到底言い表せない狂気が全身を奔る。

 

 腹を裂かれた痛みとも、階段に全身を砕かれた痛みとも違う。肉体の外側から与えられる苦痛ではない。自分という存在の根底にある『個』の境界線を力任せに引き裂かれ、中身を強引に引きずり出されるような感覚。

 

 思い出そうとしていない記憶の残滓が激しくざわめく。見たことのない黄金の景色。知らないはずの誰かの笑い声。白い何もない空間と、それを侵食する影の腕。青い瞳。落ちる感覚。血の味。死。死。死。死死死死死死死──ッ!

 

 違う。やめろ。そこは、俺の場所じゃない。俺にも分からない場所だ。

 

「やめ……っ、やめろ、フランダース……!」

 

 懇願の声は情けなく裏返った。だが、フランダースの指先はスバルの胸元から離れない。触れているだけなのに、まるで内臓ごと掴まれている。ゆっくり、ゆっくりと、自分から自分を引き剥がそうとする猛悪な力が膨れ上がっていく。

 

「フーちゃんはどこ?」

 

「俺だ! 俺がここにいるだろ!」

 

「違う」

 

「違わない!」

 

「違う」

 

 対話が、最初から成立していない。

 彼女にはスバルの声が届いていないのではない。最初から、スバルという存在の声をノイズとして弾いているのだ。その決定的な断絶の事実が、激痛よりもずっと怖かった。

 

「正体を現しなよ、偽物」

 

「違う! 偽物じゃない! 俺は、俺は──!」

 

 言い返そうとした瞬間、胸の奥で何かが限界を超えてねじ切られた。

 

「ぎ、ぁ──ああああああああああああああッ!!」

 

 絶叫が書庫に跳ね返る。

 

 魂が直接灼かれ、同時に極寒の氷が食い込んでいく。熱と冷たさが交互に自我を侵食し、どこが破壊され、どこがまだ自分の形を保っているのかすら識別できない。

 スバルの膝が折れた。だが、首元を掴まれているせいで倒れることすら許されない。ぶら下げられたまま、爪先が無様に白い床を擦る。

 

 息ができない。涙と唾液が勝手にこぼれる。惨めだ。けれど、そんなことを羞じる余裕もない。

 

 怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。

 死ぬことより、自分が自分でなくなっていくことの方が、何百倍も恐ろしいのだと、スバルは初めて知った。

 

「や、め……俺、が……俺、だ……!」

 

「フーちゃんの声で、そう言わないで」

 

 フランダースの声が、ほんの少しだけ震えた。その震えの理由を推し量る余裕など、今のスバルには一欠片も残されていない。ただ目の前の魔女の紅い瞳が、至近距離で悍ましく燃えていることしか分からなかった。

 

「フーちゃんの顔で怯えないで。フーちゃんの言葉で命乞いしないで。フーちゃんの記憶の欠片を使って、私に縋らないで」

 

「記憶なんか……っ、俺には、ない……!」

 

「だから怒ってるんだよ」

 

 その返答の意味が、スバルの掠れた思考では理解できなかった。

 ないから、何だというのだ。ないから、俺は殺されなければならないのか。

 

「ないなら、返して」

 

「何を……」

 

「フーちゃんを」

 

「だから、俺が──」

 

「違う!」

 

 初めて、フランダースが感情を爆発させて声を荒げた。

 同時に、彼女の足元から黒い瘴気が津波のように噴き上がる。薄暗いマナが床を這い、空気そのものを物理的な質量で押し潰す。

 

 死の恐怖。書庫全体が、彼女の怒りに合わせて軋んでいるようだった。

 

「私を馬鹿にしないで。私が、フーちゃんを見間違えると思った?」

 

 その問いに、スバルは何も答えられなかった。ただ焦りだけが口を動かす。

 

「やめろ、やめろフランダース! 紅魔館だろ!? 弾幕がどうとか、お前とだけは話が通じたじゃないか! 俺だ、俺なんだよ!」

 

 必死だった。

 今の自分を証明してくれる、唯一の絆だったはずの地球の知識。この世界の誰にも届かなかった、フランだけが笑ってくれたくだらない冗談。その細い糸に、プライドも何もかも捨てて縋りついた。

 

 だが、それを聞いたフランダースは、顔の造形が歪むほどに冷酷な拒絶の笑みを浮かべた。そして、一切の容赦なく、スバルを床へと叩きつけた。

 

「が、はっ!」

 

 背中から激突し、肺が潰れ、視界が白く弾ける。

 すぐに身体を起こそうとするが指一本動かない。いつの間にか、黒い瘴気が齎す圧力がスバルの四肢を、首を、胸を完全に縫い留めていた。柔らかいのに鉄より硬く、触れられている場所から自身の肉体が溶けていくような不気味な感覚が走る。

 

「フーちゃんの言葉を覚えて、フーちゃんの声で喋って、フーちゃんの思い出まで使って命乞いをするんだ。……偽物。いい加減、正体を現しなよ。それ以上、その声で私の名前を呼ぶな」

 

 完全な断絶。

 スバルにとっては剥き出しの本物の叫びが、この魔女にとってはニセモノにしか見えていない。その認識のズレが、絶望となって首を絞める。

 

「が、あァ……あ、れ……俺は、誰、なんだ……?」

 

 記憶を失った自分は誰だ。そして、誰よりも俺を見るはずの者が俺を「偽物」と断じてすり潰しにくるなら──俺は本当に、何のために生まれてきたどこの誰なんだ。

 

 分からない。分からない。分からない。

 恐怖と激痛で、自我の形が完全に崩壊していく。

 エミリアたちを信用できず、フランダースの元へ逃げてきた。しかし彼女は、誰よりも「正しく」見たからこそ、スバルを完膚なきまでに排除しにかかる。

 ここにあるのは、逃げ場のない完璧な理不尽だった。

 

「────ッ! ────ッ!」

 

 声にならない悲鳴が漏れる。

 フランダースの何かが、スバルの内側へさらに深く侵入し、ないはずの何かを乱暴に引っ掻き回す。

 

 やめてくれ。俺を見てくれ。俺を否定しないでくれ。

 そう叫びたかった。けれど、それが無意味なのだと魂が理解していた。彼女は最初からスバルを見た上で、その存在自体を拒絶したのだから。

 

 あまりの激痛に耐えかねて、自我の奥底から何かが逃げ出そうとした感覚がした。だが、それすら逃がさないとばかりに、フランダースのマナが爆発的に膨れ上がる。

 

 視界が完全な黒に塗り潰される。

 

「逃げるな」

 

 その声が、タイゲタの空間すべてを氷結させた。

 逃げるな──それが誰に向けられた言葉なのか、もうスバルの擦り切れた意識では判別できなかった。

 

 痛み。恐怖。完全な否定。存在を粉砕される感覚。

 すべてが滅茶苦茶に混ざり合う暗闇の底で、最後に耳の奥に優しく残ったのは、彼女の声だった。

 

「ごめんね、フーちゃん」

 

 それが誰に対する謝罪なのか、何も分からないまま、世界のすべてに拒絶されて。

 

 ──ナツキ・スバルは記憶を失ってから、三度目の死を迎えた。

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