傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
断続的に、そして延々と灼熱と極寒の波が交互に押し寄せ、ナツキ・スバルという存在の輪郭を容赦なく塗り潰していく。
熱と冷気が同時に爆ぜる。
焼かれながら凍るという矛盾した責め苦が、頭蓋を、手足を、胴体を、内臓を、血肉の隅々まで支配していた。
肉体を構成するありとあらゆる組織が、内側から別の悍ましい何かへ作り変えられていくような、狂おしい磨滅の感覚。
だが、それすらまだ表面の痛みに過ぎなかった。
殴られる、斬られる、砕かれる。そういった、知っている範疇の苦痛ではない。心臓より深く、骨より内側。普段は意識することすらない、自分を自分の形に留めている名前のない領域。
そこを掴まれた。
肉でも骨でもない芯に、細い指──人肌の温かみが無い、無機質な──が容赦なく食い込んでくる。皮膚を裂かれたわけではないのに、全身の表皮が裏返るような錯覚が走る。骨の中へ熱した針を流し込まれたような幻痛が、身体の奥底からのたうち回らせる。
見えない弦のように張り詰めた神経を、一本ずつ爪で弾かれる。弾かれるたび、脳の裏側で白い火花が爆ぜ、視界も、聴覚も、呼吸も、すべてが痛みの叫びへと変わっていく。
中心が、裂ける。無理やり爪を立てられ、左右に抉り開かれ、その深淵を覗き込まれる。
見ないでくれ。
やめてくれ。
叫ぶ喉は与えられず、身体は指一本動かない。
自分は偽物じゃない。
俺は俺だ。
菜月昴だ。
そうであってくれ。
そんな必死の祈りさえ、その蹂躙の前では無慈悲に引き裂かれるだけだった。
脳裏に焼き付いて離れないのは、フランの瞳だ。さっきまで優しく冗談を拾ってくれたはずの紅い瞳が、今は氷よりも冷たく自分を見下ろしている。
──違う。
──偽物。
──フーちゃんを返せ。
その拒絶の刃が、どんな爪よりも深く、スバルの奥底へ突き刺さっていた。今の自分を見てほしくて縋った相手に、誰よりも深く見られた上で否定された。
その絶望が、何よりも恐ろしかった。
もう、何も分からない。
何が痛いのか。どこが裂けているのか。どこまでが身体で、どこからが心なのか。自分の境界線すら、痛みの中で溶けていく。思考は痛みに沈み、記憶は痛みに焼け、感情は痛みに凍る。怒りも、悲しみも、恐怖も、助けてほしいという切望すら、ぐちゃぐちゃに混ざり合い、元の形を失っていく。
ただ、痛みだけがあった。
痛みだけが世界の形をしていた。痛み、ただ痛みだけが、自分がまだ消え切っていないことを証明していた。
終わらない。
終わるはずがない。
そう絶望した瞬間、その無限の痛苦が唐突にスバルを手放した。
「──ああああああああああああああああッッッ!!」
喉を引き裂くような絶叫と共に、意識が強制的に覚醒する。
引き裂かれた自分を守ろうと、ばらばらにされたはずの身体を抱え込む。手足を振り回す。だが、皮肉にも肉体は何食わぬ顔で動いた。確かに壊され、裂かれたはずなのに。ここにある身体は、まだ滑らかに動いてしまう。
その五体満足であるという事実そのものが、今のスバルには狂おしいほどに恐ろしかった。拒絶反応を起こした身体がバランスを崩し、短い浮遊感のあとで床へ叩きつけられる。
「──ッッッ!」
縄を敷き詰めたような蔦の感触が、全身に絡みついた。
それが、さっきまで内側を這い回っていた見えない指の名残に思えて、スバルはさらに狂ったように暴れた。酸素を求めて肺が激しく伸縮し、焼けただれたような喉が悲鳴を上げる。堪え切れずに胃液を吐き散らし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、力なく額を床に打ち付けた。
「う、ぼぇっ! げぇっ! げほっ! がほっ!」
まだ痛い。
まだ内側に、あの指が残っている。
喉も、胸も、手足もある。
なのに、自分の奥底だけが開かれたまま戻らない。
「──ぁ」
何度も床に額を打ち付けるうち、ようやく気付く。全身を苛んでいたあの激痛が、掻き消えていることに。そして遅れて、蹲る自分の背中を、誰かが優しく掌で撫でている温もりに気がついた。
「落ち着いた?」
涙に濡れた視界の先に、美しい銀髪と紫紺の瞳が映る。
心配そうに眉を顰めてこちらを覗き込む、エミリアの姿。それを認識した瞬間、スバルの喉がひゅっと引き攣った。
「うああああああああああ──ッ!!」
弾かれたように身をひねり、背中に触れていた白い手を乱暴に振り払う。
エミリアが驚愕に目を見開く。
だが、その顔を見る余裕などない。
触られた。
その事実だけで、精神が悲鳴を上げた。
二周目の最後、背中を押されて突き落とされた。
三周目の最後、唯一の味方だと思ったフランダースに首元を掴まれ、完膚なきまでに壊された。
彼女たちの向けてくる善意も心配も、すべては自分の皮を剥ぎ取り、偽物として処分するための罠にしか見えなかった。
「ひ」
逃げるように後ろへ跳ぶ。だが、足腰が立たず、無様に尻餅をついた。
その背後、やけにざらつく黒い質量に受け止められる。振り返れば、地竜パトラッシュの鋭い眼光と、凶悪な牙の群れが迫っていた。
「うあああああああ──ッ!!」
再び悲鳴を上げて前に転がり、立ちはだかる小さな影――ベアトリスを突き飛ばして、緑色の壁の切れ目へと飛び出した。
石造りの通路に飛び込み、勢い余って正面の壁に身体をぶつける。
鈍痛と共に視界が真っ赤に染まり、骨の砕ける幻聴と、内側を引き剥がされる幻痛が蘇った。
「ひいっ」
ぶつけた右腕は動く。
動くはずだ。動いている。本当に、動いているのか。確かめるように何度も壁へ打ち付ける。痛みが返るたび、悲鳴がひっくり返った。
「はっ、ひっ、あひっ……っ!」
涎をこぼし、脂汗を浮かべながら、壁伝いによたよたと走り出す。振り返れば、誰かが追ってきているという現実が確定してしまうように思えて。それが怖くて、何度も首を振った。
背中が怖い。自分の後ろにある空間すべてが、今にも手の形を取って背中を押してくる気がしてならない。裏で自分を値踏みする者たち。偽物と断じ、自分の奥を壊しにきた魔女。
見つかれば、今度こそ本物の『ナツキ・スバル』ではないと暴かれ、殺される。再び死が追ってくる。
あれほどの苦痛を与えられてもなお、人間は死にきれないのか。いっそ死んでいるべきだったのではないか。爆音のような心臓の鼓動が鼓膜を狂わせ、視界が明滅する。全てのものが恐怖の対象だった。
捕まれば命を奪われる。
その強迫観念だけを燃料に、壁を這うようにして必死に上へ、上へと足掻き続けた。まるで泥濘に足を取られどうにか沼から這い上がろうと、もがくように。そうして、果てしない階段を上り詰めた先で、スバルの足がぴたりと止まった。
否、止まったのは足だけではない。呼吸も、心臓も、血の流れすら、その場に満ちる圧倒的な暴力の気配に首根っこを押さえつけられたように凍りつく。
「……ンだ、その面」
低い声であった。粗く、乾いていて、それでいてやけに通る。聞いた瞬間、鼓膜ではなく骨の内側を殴られたような声。
そこにいたのは、赤い髪を持つ男だった。
片目を黒い眼帯で覆い、だらしなく立っている。姿勢に構えらしい構えはない。隙だらけにすら見える。
見えるのに、スバルは動けなかった。
その男の周囲だけ、空気の質が違う。刃物を詰め込んだ袋を乱暴に振り回しているような、近づくだけで皮膚が裂けそうな圧があった。
「オメエ、こんな朝っぱらから上がってきたのはいいが、随分と景気の悪い顔してやがンな。迷子か? それとも泣き場所でも探してたか、稚魚」
「────」
返事などできるはずがない。喉が貼りついている。まるで舌が石になっている。目の前の男が、自分を一息で壊せる側の生き物だと、本能が理解してしまっている。
男は、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「連れはどうした。銀の激マブ女も、子分も、あのエロい女もいねえたあ。まさか、そのへっぴり腰一つでここまで上がってきたわけじゃねえだろうなコラ。オメエ、オイ、オメエよ」
言いながら、男が一歩近づく。
その一歩だけで、スバルの膝が震えた。
逃げろ。逃げなければ。ここは、絶対に来てはいけない場所だ。獰猛な獣の檻に、裸足で踏み込んでしまったのだと分かる。
「黙ってンじゃねえよ。口はついてンだろォが。泣き声以外も出せるなら、使ってみせろ」
「ひ……」
「ひ、じゃねえ。聞いてンのか? アァン?」
気付けば、男の顔が目の前にあった。
瞬きをした覚えもない。距離が詰まった過程が分からない。ただ、先ほどまで遠くにいたはずの怪物が、今は息のかかる距離にいる。男の手には、いつの間にか細い木片が握られていた。枝とも棒ともつかない、箸のようなただの木切れ。それが、スバルの鼻先に軽く当てられる。
「──ッ!」
反射的に逃げようとし、背を向けたはずだった。なのに、次の瞬間には男の胸板に正面からぶつかっていた。
「は?」
理解が追いつかない。
逃げたはずなのに、離れたはずなのに、近づいている。何をされたのか分からない。額を木片で軽く押される。それだけで、スバルの身体はあっけなく後ろへ倒れ込んだ。
後頭部が床に打ちつけられ、視界に火花が散る。
痛い。また、痛い。
そのただの痛みが、フランに内側を引き裂かれた感覚を呼び起こす。胸の奥が勝手に開かれていく錯覚に、スバルの喉から情けない声が漏れた。
「あ、あ、ああ……」
「泣いてんのか」
男は見下ろしてくる。嘲るでもなく、慰めるでもなく、ただ目の前のものを検分するように。
「下で女に捨てられたか? まさか仲間にいじめられて逃げてきてンのか。そんな顔でこの場に立つンじゃねエ。湿気ちまうだろうが」
「ぐ、ひ、うう、うぅぅ……!」
「……ったく」
男は乱暴に頭を掻いた。
その仕草に、ほんの一瞬だけ、スバルは勘違いした。
乱暴だが、話を聞いてくれるのかもしれない。エミリアたちのように前の自分を求めず、フランのように偽物と断じず、ただ何も知らない他人として、自分を見てくれるのかもしれない。男はしゃがみ込み、仰向けのスバルを覗き込む。
「ほら、吐けよ。何があった」
「……う、ぁ?」
「ここまで逃げ込むぐらいだ。腹の中に溜め込んでるもんがあるンだろ。泣くだけ泣いて、喉が動くなら喋れ」
不機嫌な声だった。
けれど、少なくとも事情を知らない者の声だった。
ただの知らない誰か。
それだけで、今のスバルは縋りそうになった。涙にぼやけた視界の中で、男の顔が徐々に鮮明になる。そして、男は嗤った。
「――なあンて、聞くわけねえだろーが」
「え」
「腑抜けが」
木片が、スバルの胸元へ突き立てられた。
「ぎ、が、ぁぁあああああ!?!?」
肋骨の間に、細い先端が滑り込む。
するりと肉体の合間に入り込み、心臓を摘まむ。しかしスバルの恐怖を真に引き出したのはその痛み自体ではなかった。心臓を摘ままれた瞬間、スバルの中で別の痛みが爆発した。
フランに掴まれた、触れられるはずのない場所。内側からこじ開けられ、偽物として引き剥がされようとした、あの悍ましい感覚。それが、胸の痛みと重なった。
「や、め、やめろ、やめろおおおおおおッ!」
「やめろで止まる相手なら、最初から上がってくるンじゃねえよ」
男の声は冷たい。
「ここは喚いた奴が通れる場所じゃねえ。刃を向けられて、泣いて、許してもらえる場所でもねえ。立つなら腹を括れ。無理なら転がって帰れ」
「俺、は……俺は……!」
「知らねえよ」
木片が、さらに胸の奥へ押し込まれる。
「あがああああああああああああああッ!」
「名前も、事情も、泣き言も、全部知らねえ。俺が見るのは一つだけだ」
男の片目が、ぎらりと光る。
「斬る気があるか。殺す気があるか。前へ出る気があるか。それだけだ」
スバルは何も答えられない。
殺す気などない。
斬る気などない。
前へ出る気など、あるはずがない。
あるのは恐怖だけだ。
逃げたいという本能だけだ。
男は、それを一目で見抜いたように鼻を鳴らした。
「空っぽだな」
「────」
「剣もねえ。度胸もねえ。あるのは怯えだけ。そンなもん抱えて上がってくるな。目障りだ」
空っぽ。
偽物。
返せ。
空っぽ。
こいつもだ。
こいつも、自分の化けの皮を剥ぎ取りにきたのだ。
「いや、違う……俺は、俺は……!」
「下りろ」
男の足が、スバルの横腹を蹴り抜いた。
「が、は……!」
身体が宙に浮く。重力が消え、景色が横へ流れた。抵抗する暇などない。男は最後まで、スバルを見下ろしていた。
「ここは泣き虫の逃げ場じゃねえ。死にたくなけりゃ、二度とその面を見せるな、稚魚」
ゴミのように蹴り出された身体が、広い空間の外へ転がっていく。その先にあったのは、二周目で転がり落ちた奈落の階段だった。いや、それはただの幻視で、実際には違う。しかしスバルにはもはやその想像は止め処無かった。
「い、やだぁぁぁ……ッ!」
転落の恐怖が、脳を焼いた。
落ちる。
また落ちる。
砕ける。
肉塊になる。
死ぬ。
それだけは嫌だ。
スバルは本能だけで石床に指を立てた。
爪が床を噛む。
次の瞬間、嫌な音がした。
中指と薬指の爪が、根元からべきりと剥がれる。
「ぎ、ぃぃぃぃッ!」
剥き出しになった神経から、灼けるような激痛が噴き上がる。
血が床に散る。
指先が熱い。
痛い。
痛い。
痛い。
だが、身体は落ちなかった。
スバルは荒い息を吐きながら、爪の剥がれた右手を左手で握り込む。圧迫しても痛みは引かない。むしろ鼓動に合わせて、赤熱した杭を指先に打ち込まれているように痛む。
それでも、落ちなかった。
落ちなかったことだけが、今この瞬間のすべてだった。
血の跡を床に残しながら、スバルはどうにか階段の上に身を起こす。
背後を振り返る勇気は、もう残っていなかった。
「なん、で……」
なぜ、自分はこんな目に遭わなければならないのか。
砕け散ったはずなのに、ここに戻される。
奥底まで磨り潰されたはずなのに、まだ息をしている。
すべてが質の悪い悪夢であればよかったのに。
「死に……戻り……なんて」
あまりに壮絶な代償。
徒労感と喪失感の泥沼の中で、悪い思考ばかりが頭を巡る。
ほんの数時間前まで、自分はぬくぬくとした倦怠の日々にいたのだ。
父と母の視線から、ただ顔を伏せて逃げていればよかったあの場所に。
こんな思いをするくらいなら、いっそ、あの時ちゃんと――。
「……いってきますって、言えばよかった」
家を出る時、母がかけてくれた「いってらっしゃい」の声を無視した。
台所のコップを洗うのが面倒だった。
ただ、それだけの理由で。
エミリアたちには裏で値踏みされ、唯一縋ったフランには偽物と断罪され、出会った男には稚魚として嬲られる。
自分の言葉を聞いてくれる奴なんて、この世界には最初から一人もいなかったのだ。
知っている者が誰もいないこんな場所で、自分はただの汚い血の塊になって死ぬのだ。
「俺は、死ぬ。俺は、死ぬ。死ぬ、死ぬ、死ぬ……」
呟いたところで運命は変わらない。
死は変わらず、すぐ傍で嘲笑うように佇んでいる。
それが今は、はっきりと自分の顔を貼り付けた黒い影の形をして、震える自分を嗤っているように見えた。
「笑うな」
影を睨みつけ、どす黒い憎悪を込めて吐き捨てる。
「笑うな、やめろ。俺は死ぬ。お前に殺されるんじゃない。俺は死ぬ、確かに死んだんだ! 死んでここに戻って、だけど俺はお前には──」
殺されてやらない。
そう、明確に口にしようとした、その瞬間だった。
スバルが睨みつけていた幻影ではない。
もっと深く。
もっと近く。
もっと逃げ場のない闇が、世界の奥底から滲み出してきた。
「────」
世界から、一切の音が消える。
唇が凍りつく。
喉が塞がる。
手足が固まり、瞬きすら許されない。
完全に停止した世界の中で、ただ一つだけ、ゆっくりと蠢くものがあった。
「──愛してる」
それは、全身を黒一色で染め上げた、すらりと細い女の肢体だった。
輪郭は女のものだと分かるのに、その顔は闇の向こうに沈んで見えない。
いや、見てはいけないのだと、本能が全力で警鐘を鳴らしていた。
「──愛してる」
甘い、あまりにも甘い声音。
なのに、それを聞いた瞬間、全身の血液が凝固した。
スバルはこの声を知らない。
だが、この悍ましいほどの親密さを知っている。
皮膚の内側から直接触れられるような、狂気の手触り。
魂が、それを確かに記憶していた。
三周目、フランに死の事実を話そうとした瞬間。
次元の隙間から這い出てきて、直接心臓を握り潰した、あの漆黒の手。
「……あ」
あれだ。
あの手の持ち主だ。
理解が雷のように脳髄を貫いた瞬間、スバルの内臓が、血管が、骨の髄が、恐怖のあまりばらばらの方向へ逃げようと悲鳴を上げた。
近づくな。
来るな。
もう、そこには触るな。
全身で後ずさろうとするが、肉体は指一本分の猶予もくれない。
黒い女は、スバルの拒絶など初めから存在しないかのように、ゆっくりと細い黒の指先を胸へ伸ばしてきた。
「──愛してる」
その指先を見た瞬間、別の恐怖が脳内で弾ける。
フランの紅い瞳。
消え去った笑み。
魂の奥を摘まれ、左右にこじ開けられる破壊の感覚。
違う。
違う違う違う。
だが、目の前の女は違う。
怒っていない。
拒絶していない。
責めてもいない。
ただ、全霊で愛していると囁いている。
それが、フランの暴力よりもおぞましかった。
「──愛してる」
黒い指先が胸板に触れる。
皮膚には何の感触もないまま、指は肉を、骨を通り抜け、何の抵抗もなく心臓へと到達した。
スバルの中で恐怖が限界を超えて爆発する。
やめてくれ。
そこに触られると、俺はまた俺でなくなってしまう。
心臓を握られているのか。
内側を裂かれているのか。
黒い女に抱かれているのか。
フランに偽物として壊されているのか。
もう、何もかもが分からなかった。
ただ、自分だけのものであるはずの場所に他人の指が侵入し、当然の権利のように掴み、好き勝手に形を変えようとしてくる。
「──愛してる」
慈しむように心臓を撫でられるたび、血管の一本一本を舌でなぞられるような悍ましい嫌悪感と、狂信的な独占欲の濁流が脳へ逆流してくる。
転落の衝撃。
砕かれた右半身の痛み。
フランに内側を裂かれた傷。
魔女の手の感触。
すべてが同時に襲いかかり、スバルの中の時間が滅茶苦茶に崩壊していく。
いつの死なのか。
どの痛みなのか。
どこまでが今なのか。
分からない。
ただ、確かなことは一つ。
この女は、絶対に自分を逃がさない。
「──愛してる」
黒い指が、心臓をぐしゃりと握り潰した。
「────ッッッ」
絶叫すら形をなさず、身体を跳ねさせることすら許されないまま、痛みだけが先に来た。
黒い女の偏執的な愛と、フランの冷酷な拒絶が、スバルの中の同じ場所を激しく奪い合う。
愛している。
違う。
愛している。
偽物。
愛している。
返せ。
愛している。
逃げるな。
自分が愛されているのか、壊されているのか。
死に戻りを禁じられているのか、死ぬことすら許されていないのか。
分からないまま、スバルの意識は完全に圧殺された。
「──はっ」
解放は、唐突だった。世界に音が戻り、呼吸が戻る。スバルはその場に、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。肺が激しく空気を貪り、喉がひゅうひゅうと醜い音を立てる。涙がとめどなく溢れ、股の奥が熱くなる。
遅れて、自分が失禁していることに気付いた。
だが、恥じる余裕など微塵も残っていなかった。
「は、ぁ……っ、あ、ぁ……」
爪の剥がれた指から滴る血。
胸の奥に残る黒い指の残響。
スバルは両手で必死に胸を押さえた。
心臓を隠すように。もう誰にも触られたくないと、身体すべてで拒絶するように。
「俺を……」
続く言葉は形にならなかった。自分でも、自分が何を言おうとしたか分からない。
ただ、どこにも逃げ場などないということだけが真実だった。前にも後ろにも、どこにも逃げ道はない。それでも死ねず、死んでも戻され、口を開けば心臓を潰される。
「なん、なんだよ……これ……」
頭を抱える。視界の端で、自分の顔をした黒い影がまだ指を差して嗤っているように見えた。何も、誰も、自分の感覚すら信じられない。胸の奥に残ったあの黒い指の、おぞましい愛撫の手触りだけが、この世界で唯一の本物だった。
──いっそ、殺してくれ。
その願いは声にならない。遠くで、階段を駆け上がってくる誰かの靴音と、心配そうな声が響く。だが、それが誰なのかを確かめる気力すら、もう残されてはいなかった。
誰の言葉も届かず、誰一人として今の自分を見てくれない世界で。
『ナツキ・スバル』の偽物は、血に染まった指で胸を強く押さえたまま、愚かな子どものようにただ泣き続けることしかできなかった。