傲慢の魔女『フラン』   作:オド・ラグナの対義語

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『暗中模索』

 石の冷たさが、膝から骨へ染み込んでいた。いつからそこに座り込んでいたのか、スバルには分からない。ただ、気付けば周囲には全員がいて、全員がこちらを見ていた。

 

 エミリア。

 ベアトリス。

 ラム。

 ユリウス。

 エキドナ。

 メィリィ。

 シャウラ。

 

 その視線の数だけ、皮膚の上に針を置かれているような気がした。これまでの説明はした。たぶん、したのだと思う。

 

 記憶がないこと。自分は彼女たちの知る『ナツキ・スバル』ではないこと。目覚めたときから、この塔に放り込まれていたこと。口にできる範囲のことだけを、震える声で吐き出した。口にできないことは、全部、喉の奥で詰まった。

 

 死んだこと。

 戻ったこと。

 螺旋階段から突き落とされたこと。

 フランダースに拷問のような責め苦の後に殺されたこと。

 黒い女に心臓を握られたこと。

 

 言おうとするだけで、胸の奥にあの指の感触が蘇る。心臓を撫で、握り、潰そうとする黒い指。だから、言えない。

 

 言えないまま、スバルは喋った。中身の抜けた声で。もはや自分でも何を言っているのか分からない。精神が肉体から剥離してしまっているように遠かった。

 

 そのたびに、周囲の空気が少しずつ硬くなっていった。

 

 エミリアの顔から血の気が引き、ベアトリスの瞳が揺れる。ラムの薄紅の目が、痛いほど細くなる。ユリウスは言葉を選び損ねたように沈黙し、エキドナは思考を巡らせる者の目でこちらを見ている。

 

 その全部が怖かった。

 

 誰かが一歩近づけば、殺される気がした。誰かが一言優しくすれば、その優しさの裏で刃を研がれている気がした。違う。違うはずだ。

 

 エミリアは心配している。

 ベアトリスも本気で案じている。

 ラムの言葉が痛いのは、レムという少女を守りたいからだ。

 

 分かっている。分かっているのに、頭が信じない。心が、もっと奥にある何かが、信じることを拒んでいる。

 

「……見ないでくれ」

 

 そう呟いたつもりだった。けれど、声になっていたのかは分からない。ただ、誰かが息を呑んだ気配だけがあった。結局、スバルは緑部屋へ戻された。戻された、というより、収められた。壊れ物を箱へ戻すように。危ない獣を檻へ入れるように。あるいは、まだ処分の決まっていない何かを、一時的に保管するように。

 

 今のスバルにはそうとしか思えなかった。

 

 蔦に覆われた緑色の部屋。岩の寝台。部屋の隅に控える黒い地竜。そして、レムという青髪の少女がいなくなった空白。

 

 ラムが連れていったのだ。

 

 自分と一緒には置いておけない、と。その判断に怒る資格が、自分にあるのかどうか分からない。だが、胸の奥に黒いものは溜まった。

 

 レム。

 名前だけ知っている少女。昨日までの『ナツキ・スバル』が、命を懸けて守ったかもしれない少女。その少女から、自分は遠ざけられた。

 

 当然だ。今のスバルなんて信用できないから。危ないから。

 

 ニセモノだから。

 

 そう考えた瞬間、喉の奥からひゅっと笑いのようなものが漏れた。笑ったのか、泣いたのか、自分でも分からなかった。べアトリスだけは、最後まで部屋に残ろうとしていた。記憶を戻す方法を探す、と震える声で言った。一人で蹲らせない、と強がるように言った。

 

 その小さな手が伸びかけた瞬間、スバルの肩は勝手に跳ねた。

 

 触られる。

 

 その恐怖だけで、身体が拒絶した。

 

 ベアトリスの瞳が傷ついたように揺れた。それを見て、胸が痛んだ。しかし今のスバルには謝れなかった。ただ目を逸らすだけだ。

 

 彼女が部屋を出ていくまで、スバルは顔を上げられなかった。どれほど時間が過ぎたのか。緑部屋の中は静かだった。

 

 静かすぎた。

 

 静けさの中で、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。心臓の音がうるさい。胸の奥で、まだ黒い指が心臓の表面を撫でている気がする。

 

 ここにいれば安全だ。たぶん、そうなのだろう。けれど、安全な場所とは、見張られている場所の別名ではないのか。

 

 誰かが扉の向こうで聞き耳を立てているかもしれない。エミリアたちが、優しい顔で自分を閉じ込めているのかもしれない。ラムがレムを守るため、次に自分を始末する算段を立てているのかもしれない。フランダースがまた自分の奥を覗き込み、違うと言うのかもしれない。

 

 ここにいる方が、殺される。

 

「……俺には、そんな目に遭う理由なんかねぇよ」

 

 呟く。

 

 返事はない。

 

 部屋の隅で、黒い地竜が小さく鳴いた。スバルはびくりと肩を震わせ、すぐに首を振る。

 

「……お前も、見張りか?」

 

 地竜は何も答えない。ただ、静かにこちらを見ている。その沈黙が、逆に怖かった。

 

「違う。違うよな。いや、分かんねぇよ。分かるわけねぇだろ……」

 

 自分で問い、自分で否定し、自分でまた疑う。馬鹿みたいだ。だが、止まらない。誰が味方か分からない。誰が敵か分からない。誰が自分を殺したのか分からない。異世界なのだ、テイマーとか獣操者みたいな能力があったって驚かない。二度、螺旋階段で死んだ。あの時、背中を押された感触はある。

 

 エミリアか。

 ベアトリスか。

 ラムか。

 ユリウスか。

 エキドナか。

 メィリィか。

 シャウラか。

 

 分からない。

 

 パトラッシュは……さすがに地竜に押されていれば感触でわかるだろう。あれは人の手だった。

 フランダースは違う。あれは隠れて刺すような殺し方をしないはずだ。彼女のチート能力なら正面から、スバルの奥を裂いて壊してしまえる。この身で嫌と言うほど味わってしまったのだから、確信できた。あまりにも明確に、あまりにも残酷に。

 

 だから除外できる。

 

 そんな理屈が頭に浮かんだ瞬間、スバルは自分で自分が嫌になった。

 

「……何考えてんだよ、俺」

 

 それでも、身体は動いた。

 

 壁に背を預けて立ち上がる。情けないことに膝が震えた。右の剥がれた爪は、緑部屋の効果で少し塞がり始めている。だが、痛みは残っている。痛みがあるから、まだ現実なのだと思えた。

 

 スバルは扉へ近づいた。

 

 地竜が、また鳴いた。か細い声だった。引き止めるようにも聞こえた。だが、スバルは振り返らない。

 

「餌なら誰かが持ってくるだろ。俺に構うな」

 

 そう言い捨て、扉を開ける。左右を見渡しても廊下には誰もいない。

 

 右。

 左。

 天井。

 背後。

 

 何度も確認する。誰もいない。見られていない。そう分かった瞬間、スバルは息を殺して歩き出した。

 

 水と食料の場所は知っている。

 

 一度目の世界で、ラムに連れられて歩いた。食料のある部屋も、塔の構造も、断片的には頭に残っている。これまでの記憶がないのに、死んだ記憶だけは増えていく。

 

 その事実に、吐き気がした。

 

 スバルは食料を袋に詰めた。どれぐらい持てばいいのか分からない。分からないから、手が勝手に動く分だけ詰め込んだ。携帯食料の味などどうでもいい。腹に入ればいい。生き延びられればそれでいい。

 

 水筒にも水を満たす。

 

 水音がやけに大きく響いた。誰かに聞かれるのではないかと、何度も振り返る。

 

 誰もいない。

 

 次に、砂漠用の外套を探した。

 棚に掛けられていた一枚を引っ掴み、羽織る。首元を引き上げると口元まで覆えた。まるで、最初からスバルが外へ出ることを知っていたみたいに、都合よくそこにあった。

 

 そのことに、また疑念が湧く。仕組まれているのではないか。この逃亡すら、誰かが望んだ筋書きなのではないか。

 

「だったら、なんだよ……」

 

 呟き、首を振る。ここに残れば殺される。外──砂漠へ出れば死ぬかもしれない。どちらも死ぬなら、まだ自分で選んだ死の方がマシだ。

 

 

 

 

 螺旋階段へ近づくにつれて、足が重くなった。

 

 あそこだ。

 

 二度、スバルが落ちた場所。

 肉が砕け、骨が折れ、頭が割れ、人間の形を失った場所。

 

 階段の縁が見えた瞬間、全身から汗が噴き出した。息が止まる。膝が折れそうになる。耳の奥で、落下の風音が蘇る。

 

「……来るな」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

 

 スバルは振り返った。

 

 誰もいない。伸ばされる手もない。背中を押す影もない。それでも、恐怖で背中は冷たかった。今にも、見えない手が肩甲骨の間に触れる気がした。

 

「来るな、来るな、来るな……!」

 

 祈るように呟きながら、階段を下りる。

 

 一歩。

 一歩。

 また一歩。

 

 足元を見る。

 背後を見る。

 足元を見る。

 背後を見る。

 

 その繰り返しで、少しずつ下へ進む。

 

 滑稽だった。

 惨めだった。

 だが、死ぬよりはいい。

 

 死ぬよりは、ずっといい。

 

 やがて、五層へ辿り着いた。

 

 広い空間だった。

 

 上階の部屋割りとは違い、そこには圧倒的な空白が広がっている。そして、その奥に巨大な扉があった。見上げるほどの高さ。塔の内と外を隔てる、馬鹿げた大きさの門。その隙間から、砂の匂いを含んだ風が入り込んでいる。

 

「……外だ」

 

 喉が鳴った。

 

 砂漠で死ぬかもしれない。

 魔獣に食われるかもしれない。

 水も食料も足りないかもしれない。

 

 だが、それでも。

 

「ここで殺されるよりは、マシだ」

 

 スバルは扉に両手を当てた。

 

 押す。

 

 重いはずの扉は、拍子抜けするほど滑らかに動いた。まるで、巨大な機械が内側で力を貸しているように。その動きが不気味で、スバルはすぐに手を止める。全開にすれば、さすがに誰かに気づかれるかもしれない。身体が通れるだけの隙間を作り、そっと外を覗く。そこには砂の海が広がっていた。

 

 夜の気配を帯びた砂漠。

 見渡す限りの砂。

 人の気配はない。

 建物もない。

 道もない。

 

 それでも、そこには塔の外の空気があった。父と母の待つ家へ続く道などあるはずがない。分かっている。それでも、外へ出れば、何かが変わるかもしれないと思った。この塔の中にいるよりは。この檻の中で、誰かに殺されるのを待つよりは。

 

「行くしか、ねぇだろ」

 

 スバルは扉の隙間を抜けた。靴裏が、砂を踏む。柔らかく頼りない感触。石床とは違う、不安定な地面。その感触を踏みしめた瞬間、ほんの少しだけ息が軽くなった。

 

 そして──。

 

「──え」

 

 足元が、爆ぜた。

 

 砂が弾け視界が跳ねる。身体が宙へ放り上げられる。何が起きたのか理解するより早く、スバルは背中から砂の上へ叩きつけられた。肺の空気が抜け、口の中へ砂が入り込む。

 

 目を開けるとそこにいた。

 

 夜の砂漠を背にして、巨大なミミズの化け物が、スバルを見下ろしていた。十メートルではきかない巨体。手足のないぬめる胴。開いた口の中に並ぶ牙。その異容にスバルの頭が真っ白になる。

 

「こ、の……」

 

 毒づきかけた声は、震えていた。

 

 塔へ戻るには、あの巨体を抜けなければならない。外へ逃げるには、砂漠を走らなければならない。どちらも不可能に見えた。

 

「逃げる選択肢なんか、最初からなかったってのかよ……!」

 

 ミミズが身を震わせる。

 

 来る。

 

 そう思った瞬間、スバルの身体が勝手に動いた。スバルがそう考えて動いたわけではない。記憶にない身体が、勝手に反応した。

 

 踏み込む位置。

 転がる角度。

 砂を噛むタイミング。

 

 昨日までの『ナツキ・スバル』が積み重ねた何かが、今のスバルを生かそうとしている。

 

「──しぃっ!」

 

 巨体が砂を抉る。衝撃で身体が転がる。痛い。痛いということはつまり生きている。まだ死んでいない。

 

「このまま……!」

 

 塔の入り口へ走る。

 

 あと少し、あと十数メートル。そう思った瞬間、砂が割れた。ミミズの尾が地面から跳ね上がり、スバルの足元を薙ぐ。

 

「お、ぁ」

 

 また、身体が宙へ投げ出された。眼下には、大きく開いた口がある。汚れた牙。湿った口腔。自分を丸ごと呑み込むための穴。

 

「いや、だ」

 

 嫌だ。

 

「嫌だあああああああ!!」

 

 夜空へ手を伸ばす。

 

 だが、星は見えない。薄雲に隠れた空は、どこまでも無関心だった。

 

 落ちる。

 

 その絶望の瞬間、白が走った。光、と呼ぶには鋭すぎる何かが、ミミズの頭部へ突き刺さる。

 次の瞬間、巨大な頭が内側から歪み、汚い肉片と体液を撒き散らして爆ぜた。

 

「──ッ!?」

 

 スバルの身体は、吹き飛んだミミズの残骸へ叩きつけられる。

 

 ぬめり。

 悪臭。

 潰れた肉の感触。

 

 吐き気を催す不快感が、皮肉にもクッションになった。さらに白い閃きが幾つも走る。ミミズの身体が、見えない銃弾で切り刻まれるように千切れていく。

 

 何かが、スバルを助けた。スバルは砂の上に投げ出され、仰向けになった。頭上には星の見えない空がある。

 

「俺に……どうしろってんだよ……!」

 

 顔を覆い、誰もいない空へ怒鳴る。

 

「答えがあるなら、教えてくれよ……!」

 

 叫びの余韻が消える。そのとき、脳裏に情けない声が過った。

 

 ──答えろよ、ナツキ・スバル。

 

 その声に反応するように、ほんの少し身を捩った。その動きが、スバルの命を救った。──耳元を白い線が掠める。

 

「づっ!?」

 

 右耳が削がれた。熱い痛みが走り、遅れて血が頬を伝う。砂に突き刺さった白い針のようなものが、次の瞬間には塵へ崩れて消える。

 

「これ……」

 

 考える暇はなかった。周囲の砂が、足元から崩れ始める。

 

「う、ぁ、あああぁ!」

 

 蟻地獄に呑まれる虫のように、スバルの身体は砂の底へ引きずり込まれていく。

 

「誰か、誰か、助け……!」

 

 言葉は最後まで形にならなかった。砂が口へ入り、視界を塞ぎ、喉を潰す。

 

 そして、スバルは深い闇の底へ落ちていった。そこはひどく暗かった。何も見えない。スバルは四つん這いになり、地面と壁を頼りに進むしかなかった。

 

「痛ぇ……クソ、痛ぇ……」

 

 再生しかけていた右手の爪が、砂に擦れるたびに焼けるように痛む。欠けた右耳も、鼓動に合わせて熱を持っている。

 

 だが、その痛みすら今は遠い。

 

 暗闇があった。

 

 誰もいない。

 誰も見ていない。

 誰も触らない。

 誰も偽物だと言わない。

 

 暗闇は、スバルを責めない。暗闇は、スバルを見なかった。だから、安心できた。それは救いに似ていた。生温い泥濘に沈み込むような、息のしやすい腐敗だった。

 

 見られないことに安堵すればするほど、自分が人間の形を少しずつ失っていく気がした。それでも、構わなかった。見られて壊されるくらいなら。見えない場所で腐っていく方が、まだマシだった。

 

 いつの間にか、持ち出した食料を食い荒らしていた。

 

 口の中に乾いた味が残っている。腹に何かが入っている。食べた記憶はない。

 

「……は」

 

 笑いが漏れた。

 

 きっと、錯乱しているのだ。まともな人間は、食べたことを忘れない。まともな人間は、暗闇に安心しない。まともな人間は、自分が腐っていくことを救いだと思わない。

 

 だったら、自分はもうまともではない。その方が、むしろ分かりやすかった。

 

 

 どれだけ這い回った後だったのか。

 

 這い進んでいくうち、暗闇の中に奇妙なものが現れた。それは扉だった。地下の壁にあるべきではない、冷たい面。手で触れた瞬間、それは白い光を散らして消えた。

 

「……は?」

 

 一枚目。

 二枚目。

 三枚目。

 

 扉は、触れるたびに消える。

 まるで、スバルを奥へ奥へと誘っているみたいに。

 

 罠かもしれない。

 

 そう考えるだけの頭は残っていた。だが、疑う余裕はなかった。ここに留まっても死ぬ。戻る道は分からない。進める場所があるなら、進むしかない。

 

 だから、従った。

 何かがある。何かが変わる。そう信じる以外に、暗闇で息をする方法がなかった。

 

「これで、四枚目……」

 

 掠れた声で呟く。四枚目の扉も、触れた瞬間に消えた。

 

 そして、五枚目。

 

「──ぁ?」

 

 指先が、冷たい面に触れた。消えない。押しても引いても、叩いても爪を立てても扉はびくともしない。

 

「……冗談じゃ、ねぇ」

 

 喉の奥で、何かが切れた。ここまで来た。ここまで這った。暗闇に沈んで、砂を噛んでようやくここまで来た。それなのに。

 

「なんで、お前まで俺を邪魔すんだよ……!」

 

 額を扉へ叩きつける。

 

 鈍い音が響く。頭蓋の奥に痛みが跳ね返る。その痛みでも止まらなかった。痛みよりも怒りが先に来ていた。何度も、何度も、額を打ちつける。

 

「ふざけるな……ふざけるな、ふざけるな!」

 

 胸の奥から黒い感情が溢れ出す。

 

 エミリアたちが悪い。ラムが悪い。フランダースが悪い。あの赤毛の男が悪い。この塔が悪い。この世界が悪い。スバルをこんな場所へ放り込み、死なせ、戻し、また追い詰める全てが悪い。自分だけが悪いはずがない。

 

「悪いのは、俺じゃなくて……!」

 

 言い切ろうとした瞬間、白い光がスバルの身体を包んだ。

 

「な……っ」

 

 扉が光っているではない。スバルの体が光に飲み込まれていき、今度はスバルの方が消えようとしていた。

 

「ふざ……っ! てめぇ、冗談じゃねぇぞ……!」

 

 怒鳴り、もう一度扉へ頭を叩きつけようとする。──だが、届かない。振り上げた頭がぶつかるより早く、白い光が全身を呑み込んだ。

 

 不条理はいつだって、スバルの意見など聞かない。こちらの事情など一つも顧みず、ただ一方的に、そちらの都合を押しつけてくる。

 

「は──」

 

 一際強く白が瞬き、スバルは冷たい地下から弾き出された。

 

 

 

 

 

「────」

 

 呆けた顔つきで、スバルは自分の両手を見下ろした。砂が付着し、水分を失った手が見えていた。見える。当然だ。ここには光があった。色があった。自分の足下も、石造りの床なのが見える。──石造りの、床。

 

「──ッ」

 

 理解に及んだ瞬間、スバルはその場から飛びのき、周囲を見回した。そして、広い空間の中心に自分が立っていたことと、振り返った背後に見覚えのあるモノを発見し、この場所がどこなのか即座に思い知る。

 ──スバルの背後にあったのは、建物の内外を隔てている巨大な扉。プレアデス監視塔の五層に存在し、数時間前にスバルも利用した大扉だった。

 

「なんで、俺が逃げなきゃならない」

 

 逃げても駄目だった。

 外へ出ても駄目だった。

 地下へ落ちても、扉に拒まれた。

 どこへ行っても、自分を追い詰めるものが先回りして待っている。

 だったら、もう逃げる場所を探すのではなく、追ってくるものを殺すしかない。

 

 沸々と、濁りに濁った激情が沸き立ち、スバルは強烈な憎悪のままに上を見上げた。善人ぶる奴らへの、理不尽に取り上げられたことへの憎悪だった。容疑者のいずれかが当たりなら、当たりを引くまで叩き潰せばいい。

 

「ひは」

 

 凶笑が浮かび、口元を手で押さえる。手早く事を片付けるための得物を求め、足早に螺旋階段を最下層の六層へと向かって降りていく。しかし、そこで足を止めた。

 馬車のすぐ傍らに頭部が消し飛び、首から上をなくした巨大なトカゲの死体が横倒しになっていた。

 

「──針」

 

 ミミズを吹き飛ばしたあの謎の白い針の攻撃と印象が一致する。

 

「──正体を、隠すつもりをなくしたってことか」

 

 スバルは寝床として扱われている馬車を荒らし、大振りのサバイバルナイフを見つけた。

 

「誰が敵だのか知らないが……」

 

 目に物を見せてやると、ナイフを手に上階へとゆっくり進んでいく。

 

「殺す、殺す、殺してやる。絶対に、殺して、やる……っ殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す……」

 

 呟きながら四層に辿り着いた瞬間、その光景に息が漏れた。甲高い音を立てて、手にしたナイフが硬い床の上に落ちる。

 溢れ返る血臭と戦闘の痕跡の奥に、頭の潰れたシャウラが、見るも無残な姿で床に倒れ伏していた。

 

「──は」

 

 大きなハンマーで叩き潰されたかのように四散した頭部。

 

「──ぶ」

 

 愕然としたスバルはその場に膝をつき、堪え切れない嘔吐感のままに、胃袋の中身を一気に床に吐き出した。

 

「うえ! おええっ、ごえっ、うぶ……」

 

 胃が絞られる痛みに耐え、床に体を投げ出す。人の死を初めて目の当たりにした衝撃。

 

「俺も、か」

 

 口元を拭い、壁を頼りにゆっくりと立ち上がる。

 

「とに、かく……」

 

 この塔内に潜む内患の存在を確信し、生き残った全員を殺せば安寧が手に入ると思考がねじれていく。

 

「そういう意味だと……邪魔なのは、ラムと、エキドナか。ユリウスの奴も、死んでくれてると楽だな……上にいる、あの、クソ野郎」

 

 あの赤毛の超越者の排除は不可能だと首を振る。落ちたナイフを拾い上げ、シャウラの亡骸を跨いで破壊の痕跡を辿るように奥へ進む。

 

 ──だが、角を曲がった先で、スバルは己の覚悟のすべてを打ち砕かれる光景を目にした。

 

 灰色のローブを纏った魔女が、死んでいた。傍らには紅く輝く長剣が転がっており、近くには白い鳥のようなものが斬られて二つに裂けて落ちている。

 

 彼女はフランダースだった。

 

 あれほど恐ろしかった魔女が。あれほど容易くスバルの内側をこじ開け、偽物と断じ、壊した女が。何もできずに、死んでいた。

 

 彼女は一人ではなかった。

 

 スバルの知らない青年を抱きしめていた。金髪に赤い瞳。不敵そうな顔立ちの、知らない男。けれど、その身体はフランダースの腕の中にあり、彼女はまるで最後の最後までそれを守ろうとしたみたいに、きつく、きつく抱きしめていた。

 

 その二人ごと、斜めに真っ二つに断ち切られていた。戦闘によって作られたと思われる、斬られた跡はどれも尋常ではなく、壁も床も防御も魔法もまとめて一線で断たれているに見えた。

 

「……誰だよ」

 

 掠れた声が漏れた。誰なんだよ。そいつは、誰なんだよ。

 

 俺には偽物って言ったくせに。

 俺の声で名前を呼ぶなって言ったくせに。そんなに『ナツキ・スバル』──フーちゃんに、執着してたんじゃないのか。最後にそんな顔で抱きしめる相手は、俺じゃないのかよ。

 

 そう思った直後、吐き気が込み上げた。

 

 何を考えているのだろう。死体を前にして、真っ二つに切られて、もう何も言えない相手を前にして。それでもなお胸の奥に汚い感情が湧いた。自分を壊した魔女が、自分ではない誰かを守ろうとして死んでいる。その事実がどうしてかスバルの中に残っていた何かを、また一つ、嫌な音を立てて折った。

 

 抱きしめられている青年の肉体からは、まるで命の残滓がほどけていくように、美しい燐光が静かに宙へと散り、消え失せようとしていた。彼の死体からは血がほとんど出ていないように見え、断面がグロテスクな肉ではなく、光の粒になって崩れていた。まるで死体というより、壊れた幻のようだ。

 

 スバルの背後から突然鳥の羽ばたく音が聞こえた。ハッと振り向くと、白い鳩が何十羽も群れをなして飛んでくる。底知れないゾッとしたものを感じ、スバルは追い立てられるようにその場を後にした。

 

 

「う、ぶ……はぁ、はぁ……」

 

 しばらく走るも、再び胃袋の訴えに敗北し、壁に寄りかかる。

 

「エキドナも、消えた……」

 

 痙攣する足を叱咤して進んだ廊下の奥で、右肩から左脇にかけてバッサリと斬られたエキドナの亡骸が転がっており、さらにその先で、背後から胴体を吹き飛ばされたラムの無残な死体を見つけた。

 

 朝の食事をした広間には、全身に殴打と裂傷の痕跡を残したユリウスと、傷を負って穏やかな顔で死んでいたメィリィの死体があった。そのたびに嘔吐をした。

 

「────」

 

 死体ばかりが転がっていた。

 

「エミリアと、ベアトリス……」

 

 見つからない二人のどちらかが、この態度の裏側に殺意を宿して凶行を成し遂げたのか。

 

「剣は……」

 

 折れた剣が目に入り、衝動的に手をとった。

 

 すでに惨劇から相当な時間が経過し、血は渇き切っていた。

 混乱の中、ふらふらと緑色の部屋に入った時、そこにいた黒いトカゲがスバルを見つけて嘶いた。

 

 

 

 

 

「は。トカゲが、なんだよ」

 

 渇いた笑みをこぼし、背を向けて部屋を出ようとするが、黒いトカゲがのしのしと後ろをついてこようとする。

 

「ついてくんな!」

 

「俺は、お前と遊んでる暇なんかねぇんだよ! この塔で、生き残ってる奴をぶっ殺さなきゃならねぇんだ! お前が邪魔するなら……」

 

 折れた剣を構えて睨みつけるが、トカゲの鋭い瞳はスバルの殺意を物ともせず、ただこちらを注視していた。

 

「う……」

 

 その姿勢がひどく不気味で、敵意を触発される。

 

「──てめぇ、ふざけるんじゃねぇ!!」

 

 折れた剣を振りかぶり、対峙するトカゲの左脇へと叩きつけた。刃は根本まで潜り込み、鮮血がこぼれる。

 

「これで……」

 

 だが、トカゲは微動だにせず、ただその瞳でナツキ・スバルの行いを見ていた。その目が恐ろしくなり、剣を脇に刺したまま後ろへ下がる。

 

「ぁ、う……」

 

「クソ……クソ、クソクソクソ! なんなんだ、なんなんだよ!」

 

「俺を殺そうとする奴は、どいつもこいつも殺してやる! 俺を頼ろうとする奴は、どいつもこいつも突き放してやる! 勘違いすんな! 調子に乗んな! 勝手に、馴れ馴れしくしてきやがって……冗談じゃねぇ!」

 

「お前らのことなんか、一人も知るもんかよ! お前らが何を思ってるかなんて、一つ残らず知ったことかよ! みんながみんな、自分の事情を押し付けやがって……! お前らが自分のことで手一杯なら! 俺だって、俺のことで手一杯なんだよ!」

 

 怒鳴り散らし、涙を流してその場に膝をつき、床に額を押し付けた。

 

「俺のことなんか、放っといてくれよ……一人ぼっちで、見捨てていてくれよ……」

 

 静かな通路に涙声が響く中、床を通じて微かな震動が迫ってくることに気付く。

 

「あ」

 

「────ッッ」

 

 顔を上げた瞬間、トカゲの大口がスバルの左肩をくわえ、そのまま一気に走り出した。肉が抉られる痛みに悲鳴が漏れる。

 

「う──!?」

 

「ぎ、ぁ! ひ、ひぃっ!」

 

 直後、寸前までスバルがいた通路が、おびただしい量の黒い靄によって真下から吹き飛んだ。

 

「影の、腕……お前……ッ!」

 

 トカゲはスバルをくわえたまま猛烈な速度で疾走し、とっさの判断で横道へ飛び込んで影を振り切ろうとする。しかし、飛び出した空間は、

 

「──っ! 螺旋階段……っ!」

 

 眼下、五層から四層へと上がってくる階段が、黒い影に呑まれ、沈んでいくのが見えた。

 

「下には逃げられない……だってのに、後ろも……」

 

 完全に追い詰められた状況で、自死の可能性が頭を過る。しかし、本当にやり直せる保証がない恐怖に全身が震え出す。

 

「あ、ひ」

 

「嫌だ……死にたくない!!」

 

 泣き叫ぶスバルの声を受け、漆黒のトカゲが喉の奥で咆哮を爆発させた。

 トカゲは凄まじい加速で螺旋階段の空白へと身を躍らせ、その鋭い足の先端を傾ぎ始めた塔の壁に突き刺し、強引に踏みつけて駆け上っていく。

 

「お前──」

 

 押し寄せる濁流の攻撃をトカゲが身を翻して避けた瞬間、塔の壁に大穴が開いた。トカゲはその大穴へと身を滑り込ませ、外気の中へ飛び出していく。

 

「──う、ぁ!?」

 

 左肩の牙が抜かれ、スバルの体はバルコニーのような外壁のスペースへと投げ出された。

 

「あ、え……?」

 

 慌てて体を起こして下を覗き込むと、自分を投げ込んだトカゲが、その鱗よりなお黒い影に呑まれ、消えていく末路が目に飛び込んできた。

 

「トカゲ……っ!」

 

「なん、なんだ」

 

 バルコニーの外縁に一羽の白い鳥が止まり、感情のない眼差しでスバルを見ている。終わりが迫る感覚に脱力して座り込んだ時、背後に不意の気配が立った。

 

「……お前は、なんだよ」

 

 弱々しい声の問いかけに、背後に立った何者かが、聞いたことのない声で愉しげに笑った。

 

「──次、当ててみなよ、英雄」

 

 瞬間、風音がしてスバルの視界が高々と跳ね上がり、くるくると回転した。誰かが後ろから、自分の首を刎ねたのだと気付きながら、世界は暗黒へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

「──スバル! ねえ、スバルってば、大丈夫なの?」

 

 一瞬の出来事だった。蔦のベッドの上で目を覚ましたスバルの前に、エミリアの安堵の表情があった。

 

「えみ、りあ……」

 

「ああ、スバル、よかった。目が覚めたのね。すごーく心配したんだから」

 

 その細い首を見つめながら、スバルはそっと両手を伸ばし、その首を手の内に収めた。全力を込めれば簡単に折れてしまうのに、エミリアは拒否しようとせず目を丸くしている。

 

「スバル? どうしたの?」

 

「エミリア、どうやらスバルは寝惚けているみたいかしら。ベティーたちに心配をかけたわりに、悠長なことなのよ」

 

 傍らからのベアトリスの声に、スバルはハッとして首から手を離した。二人は、今しがたスバルがどんな狂気に囚われていたか、何も理解していない。

 

「──っ」

 

「半分、なんだか釈然としないのよ……」

 

「──つまり、ここは」

 

 自分が記憶をなくして目覚めた最初の瞬間へと、再び舞い戻ってきたのだ。

 スバルは微かな息遣いに振り返り、部屋の片隅に座り込んでいる黒い巨躯の姿を視界に捉えた。影に呑まれる寸前まで、自分のために命を懸けて奔走してくれたトカゲが、そこに悠然と佇んでいる。

 

 エミリアたちの会話が遠くなる。

 

 

 

 スバルはふらふらとベッドを降り、部屋の片隅に座る黒い巨躯へ近づいた。その存在だけは、焼き印のように胸に残っている。自分はこの竜を突き飛ばし、怯えた。牙を見て悲鳴を上げ、挙げ句の果てには、折れた剣を突き立てた。

 

 それでも、この竜はスバルを見捨てなかった。

 

 肩を噛み砕くようにくわえたのは、殺すためではなかった。影から逃がすためだった。自分が沈む最後の瞬間まで、スバルを外へ放り出すためだった。

 

「……ごめん」

 

 声が震えた。

 

「ごめん、俺……お前のこと」

 

 意味が通じるはずがない。相手は地竜だ。人間の言葉を理解しているわけがない。それでも、黒い瞳は静かにスバルを見ていた。責めない。疑わない。偽物だとも、本物だとも言わない。

 

 ただ、そこにいる。

 

 その沈黙に、スバルはとうとう耐えきれなくなった。黒い鱗に額を押しつけ、子どもみたいに泣き崩れる。この欺瞞と殺意に満ちた塔の中で、唯一、自分を傷つけず、命を懸けて守ってくれた存在に縋り付くように。

 

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