傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
白い部屋に音はなかった。
壁も、床も、天井も、そこにあるものすべてが白い。あまりに白すぎて、輪郭という概念すら溶けてしまいそうな空間の中で、細い指先だけが、宙に見えない線を描いている。
その指先は震えていた。
怒りではない。
悲しみでもない。
あるいは、そのどちらでもあった。
『フランダース・スカーレットは死んでいない』
鈴の鳴るような声が、白い部屋に落ちた。
聖女のように清らかで、優しく、ひどく澄んだ声だった。
だからこそ、その響きはどこか壊れて聞こえた。
『彼女は今、自身の館で紅茶を嗜んでいる。陽の差し込む窓辺で、気だるげに頬杖をつきながら、甘い焼き菓子に文句をつけている』
何も変わらない。
白い部屋は、白いままだった。
『フランダース・スカーレットはプレアデス監視塔にはいなかった。あの子は、プレアデス監視塔になど向かっていない。砂丘を横切った灰色の影は、見間違いだった』
何も変わらない。
『彼女が見つけた本は目的のものではなかった。古い王の名などそこには刻まれていない。ページは開かれず、記憶は覗かれず、死者の沈黙は守られたままだった』
白い指先が、宙を撫でる。
『小鳥が斬られたのは見間違い。小鳥はまだ飛んでいる』
その言葉に応じるように、白い空間の片隅で、何か小さなものが羽ばたく幻が生まれかけた。
だが、次の瞬間、音もなく断たれた。
羽根の形をしていた白い何かが、真ん中から綺麗に裂け、光の粒になって消える。
『小鳥は、まだ飛んでいる』
もう一度。
しかし、何も戻らない。
『金の髪に赤い瞳の青年は、そこにいなかった。マナの身体など、初めから編まれていない。彼は眠ったまま。死者は死者のまま、静かに本の中で夢を見ている』
白い声が、わずかに揺れた。
『フランダースは、その青年を抱きしめてなどいない』
沈黙。
『彼女は誰かを庇ってなどいない。あの子が、あんな風に、最後の最後で誰かの前に立つはずがない。あの子はずっと傲慢で、ずっと気まぐれで、ずっと自分勝手で……』
そこで、声が途切れた。
白い指先が、何度も何度も宙をなぞる。
まるで、そこにいない誰かの輪郭を確かめるように。
『斬られていない』
短く、断定する。
「『彼女は斬られていない。あの剣は届かなかった。届くはずがない。だって、あの子は強い。とても、とても強い』私の虚飾を破壊できる。壊れるはずがない。見間違えただけ」
何も変わらない。
『斬られたのは空間。斬られたのは、影。斬られたのは、ただの空気。斬られたのは、私の使い魔。斬られたのは、あの子ではない』
白い部屋の中に、細い罅が入るような音がした。
それが現実の音なのか、彼女の中で何かが軋む音なのかは、誰にも分からない。
『フランダース・スカーレットは、死んでいない』
また、同じ言葉。
しかし今度は、少しだけ声が低かった。
『彼女は自分の館で紅茶を嗜んでいる。退屈そうに本をめくりながら、こちらの気配に気づいて、嫌そうな顔をしている。「また来たの」と、いつものように呆れている』
白い指先が、空中に小さな円を描く。
『私はそれに笑って答える。「ええ、また私です。貴女に会いに参りました」と』
何も変わらない。
「……何故」
初めて、問いの形をした声が落ちた。
「何故、変わらないのですか」
白い部屋は、白いままだった。
失われた小鳥は戻らない。
裂けた羽根は繋がらない。
開かれた本は閉じない。
薄い燐光を零して消えた青年は、もうそこにいない。
そして、灰色のローブの魔女は、最後に誰かを抱きしめた姿のまま、斜めに断たれていた。
「……斬ると決めたものを、斬る」
ぽつりと、白い声が呟く。
その響きには、ほんのわずかな理解と、理解したくないという拒絶が混ざっていた。
「ああ。そういうことですか」
白い指先が止まった。
何度も、何度も、世界を言い換えようとしていた手が、空中で静止する。
「貴方は、そういう剣なのですね」
楽しげでも、悲しげでもない声だった。
ただ、白かった。
「……ひどい方」
その一言だけが、子どものように小さく落ちる。
それきり、彼女は何も言わなかった。
白い部屋に、音はなかった。少女は目を伏せ、迫りくるモノに身をゆだねる。
隔絶された白い部屋に、黒々とした紫が侵食する。
やがて宙に残っていた見えない輪郭も、指先の震えも、すべてが深紫の中へ沈んでいく。
そして、沈黙だけが残った。