傲慢の魔女『フラン』   作:オド・ラグナの対義語

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『迂闊さの代償』

 彼女たちの足音が、カツン、カツンと階段の向こうへ遠ざかっていく。

 

 一つ、二つ、三つ。

 

 石段を叩く軽やかな音が遠のくたび、スバルの胃のあたりがぞわぞわと嫌な熱を帯び、冷や汗が噴き出した。

 

(ヤバい、ヤバいヤバいヤバい……!)

 

 頭の中で最悪の想像が無限ループする。

 

 誰かが下の部屋に辿り着いた瞬間、悲鳴が上がってゲームオーバーだ。あの物置みたいな部屋の、ガラクタの石塊の裏に乱暴に押し込んだ小さな身体。信じられないくらい冷たくなっていたメィリィの肌。その細い首に残った、俺の指の形そのままの青黒い絞殺痕。

 

 全員が集まって、俺を犯人だと決めつけた目で見下ろしてくる。メィリィの爪にこびりついた俺の皮膚と血を暴かれて、袖を力ずくで捲り上げられたら最後だ。そこに刻まれた、自分でつけたはずのない『ナツキ・スバル参上』なんてイカれた自傷の文字を突きつけられるのだ。

 

「────」

 

 想像しただけで胃液がせり上がり、スバルは必死で口元を手で押さえて悲鳴を噛み殺した。

 

 その瞬間、頭の奥で、カチリと何かが噛み合うような嫌な音が響く。

 

『お兄さんとわたしの関係を、知ってるみたいに聞こえなあい?』

 

「っ……!」

 

 静まり返った脳内に、直接打ち込まれるような甘ったるい声音。

 

 さっき死んだはずの、メィリィの声だ。

 

 本当に俺が彼女を殺したのか。記憶が飛んでいる間に、俺の中にいる別の『ナツキ・スバル』って奴が勝手に手を下したんじゃないのか。

 

 分からない。現代日本で不登校をやっていただけのただの高校生に、そんな理解不能なホラー現象の答えなんて出せるわけがない。分からないのに、声だけが嫌がらせみたいに頭の中にこびりついて離れてくれないのだ。

 

「──シャウラ、メィリィの捜索、頼めるか?」

 

 スバルは腕の中の本を抱え直し、震える声をどうにか作って隣のシャウラへ言った。

 

「リョーカイッス! お師様のお望みなら、あーしは何でもえーんやこらーッスよ!」

 

 シャウラは胸をドンと叩き、いつもの破天荒な笑顔を浮かべた。

 

 だけれど、その黒目勝ちで綺麗すぎる瞳の奥に一瞬だけ何か計算じみた光が過った気がして、スバルは背筋をぞくりと震わせる。

 

 笑っているのか。

 俺を疑っているのか。

 それとも、この居心地の悪い状況の全部を察した上で、わざとバカのふりをしてくれているのか。

 

「──ちゃんと、わかったッスからね」

 

 ポン、と自分の胸を叩きながら、シャウラは意味深すぎる笑みを残した。

 

 一体何が「わかった」って言うんだよ、と問い詰める間もなく、彼女は黒い長髪をなびかせて、踊るような足取りで階段を駆け下りていってしまう。

 

 通路に残されたのは、スバルとベアトリス、それに腕の中の一冊の本。

 あとは、スバルの脳内に粘りつく少女の幻聴だけだった。

 

「スバル、あんまり思い詰めたらダメなのよ。その本も、早く手放した方がいいかしら」

 

 袖口をきゅっと引っ張られて、スバルははっと下を見た。

 

 見上げてくるのは、くるくる変わる表情が可愛らしい小さな少女。不安を隠しきれない大きな瞳と、何の疑いもなく、当たり前のように自分へ差し伸べられている小さな手。

 

(クソッ……胸が痛え……)

 

 その真っ直ぐな信頼が、今のスバルには鋭利なナイフみたいに突き刺さる。

 

 この幼い精霊が信じ切っているのは、記憶を失う前の、誰かを救うために体を張ってきたカッコいい『ナツキ・スバル』なんだ。死体をガラクタの裏に隠して、自分の袖の爪痕を必死に隠して、バレないことにほっとしているような、今の惨めなニセモノの俺じゃない。

 

「……なんで、お前はそんなに優しいんだよ?」

 

「──。また、ずいぶんといきなりな質問なのよ。どうしたっていうのかしら」

 

 ベアトリスが不思議そうに縦ロールの髪を揺らして首を傾げる。

 

 その無防備な仕草を見た瞬間、また脳裏で濁った泡が弾けた。

 

『わたしが、教えてあげちゃおうかしらぁ?』

 

「スバル?」

 

『わたしに、そうしたみたいにねえ』

 

(──なっ!?)

 

 頭の中に突如として湧き上がってきたのは、おぞましい妄想だった。

 

 命を奪えば、その人間の本──死者の書が現れる。なら、ベアトリスの本当の気持ちが知りたいなら。この子がどうしてここまでナツキ・スバルを信じ切れているのか、その中身を全部暴きたいなら──メィリィのときみたいに、その華奢な首に手をかければいいんじゃないか。

 

「ちっちゃい、手だな……」

 

 口から漏れた言葉に、自分自身が一番ぞっとした。

 

「む……いきなり何を言い出すのよ。このミニマムさこそが、ベティーの愛らしさを際立たせているのよ。スバルも、前はそう言ってベティーを褒めてたはずなのよ」

 

 不満そうに頬を膨らませるベアトリス。

 

 スバルは背中に冷や汗を流しながら、必死で呼吸を整えた。

 

 いつも通りの会話。

 いつもの彼女のリアクション。

 

 それに心底救われると同時に、一瞬でも「首を絞めれば」なんて考えが頭を過った自分のイカれぶりに、魂の底から吐き気がした。

 

(落ち着け俺! 何考えてんだマジで!? 今の声は誰だ? 俺の思考か? それともメィリィの幻影に毒されてんのか!?)

 

「ひとまず、あの精霊のいる部屋に戻るのよ。その方がよさそうかしら」

 

「……あ、ああ。そうだな」

 

 引き攣った顔で首を縦に振る。

 

 ベアトリスが手元の本を整えようと動き、書架の影がゆらりと揺れた。あの魔女は、いつの間にか気配もなく姿を消していた。誰にも見られていない。それは一安心のはずなのに、暗がりからあの赤い瞳に見下ろされているような不気味な感覚が消えない。

 

『まあ、もう関係ないわよねえ。だってえ、お兄さんがわたしとお話したいんならあ、ずっとお兄さんの頭の中にいてあげてるんだしい』

 

「──っ。パトラッシュのところに行こうぜ。ラムもいるだろうし、早くさ」

 

「同感だけど、ベティーには心外な態度なのよ、まったく。スバルのパートナーはこのベティーかしら。それを忘れたらいかんのよ」

 

「わ、悪い悪い! 別に他意はないんだって! 忘れるわけねぇだろ、なぁ?」

 

「忘れる」という言葉が、喉の奥に棘みたいに引っかかる。

 

『本当に? お兄さんがホントは「ナツキ・スバル」じゃないって知っても、あの子はおんなじ風にお兄さんを助けてくれるのかしらあ?』

 

(黙れ……黙ってくれ頼むから……!)

 

『結局、お兄さんの味方なんて、だあれもいないんじゃないのお?』

 

「ほら、手を貸すかしら、スバル」

 

「あ、ああ……」

 

 差し出された小さな手に触れようとして、スバルの動きがぴたりと止まった。

 

 ベアトリスの視線が、スバルの手首──メィリィが最期の抵抗で刻んだ、生々しい爪痕の列に釘付けになっている。

 

「……ぁ、これは」

 

『どうするのお? もお、ここで始めちゃうのかしらあ?』

 

「──また、自分の手を引っ掻いてるのよ。悪い癖かしら」

 

「……え?」

 

「この位置は、よくないのよ。エミリアに見つかったら、なんて言い訳する気かしら。ベティーも、あまりひどくなるようだと目こぼしできなくなるのよ」

 

「────」

 

 都合よく、勘違いしてくれた。

 

 ベアトリスは、スバルの手首に残った痛々しい引き裂き傷を、ストレスによる自傷癖だと思ってくれたのだ。疑わずに、心配そうな顔で、俺を気遣ってくれている。

 

(助かった……!)

 

 そう思った瞬間、猛烈な自己嫌悪が襲いかかってきた。

 

 助かった?

 俺はいま、ほっとしたのか?

 

 違う、これは俺が自分でつけた傷なんかじゃない。メィリィが殺される直前、必死で生きようとして、俺の腕に爪を立てて抗った最期の痕跡なんだ。それを、何も知らないベアトリスは優しく包み込もうとしてくれている。

 

『……つまんないのお』

 

 頭の奥で、舌打ちするようなメィリィの不機嫌な声が響く。

 ベアトリスの小さな指先が淡い桃色に光り、温かな治癒魔法が浸透してくる。皮膚を切り裂いていた爪痕がみるみる塞がり、メィリィが残した決定的な証拠が、世界から綺麗さっぱり消し去られていく。

 

(まただ……また俺は、この子の優しさに甘えて、最低なウソを重ねちまった……)

 

『あーあ。私を殺しちゃったのにこんな優しくされちゃって、嫉妬しちゃうわぁ』

 

「──っ! 俺は……!」

 

「す、スバル……? 手、痛いかしら……っ」

 

「──ぁ」

 

 はっと我に返った時、スバルはベアトリスの細い手首を、痛いくらい強く握りしめていた。

 

 折れてしまいそうなくらい華奢な手首。ちょっと力を込めるだけで、簡単に壊れてしまいそうな骨の細さ。その感触に、スバルは慌てて手を離し、後ろへ飛び退いた。

 

「大、大丈夫なのよ、へっちゃらかしら……! スバルこそ、傷の具合は良くなったはずなのよ?」

 

「あ、ああ……大丈夫だ。本当にごめん! 手、強く握りすぎた……ごめん、迷惑ばっかかけて……」

 

「それは言わない約束かしら」

 

 ベアトリスは手首をさすりながら、困ったように、でもどこか嬉しそうに胸を張った。スバルは頷くことしかできなかった。こんなズルくて汚い自分に、かける言葉なんて見つかるわけがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕食の時間になっても、メィリィが見つかることはなかった。

 

 誰も悲鳴を上げなかった。

 誰もスバルを疑わなかった。

 誰も、あの薄暗い部屋の裏側に転がっている死体に気づかなかった。

 

(よかった……バレなかった……)

 

 そんな最悪すぎる安堵を覚えてしまった自分自身が、心底ゴミみたいで、反吐が出そうだった。

 

 出された乾燥パンを口に放り込む。ぼそぼそして、何の味もしない。唾液がすっかり干からびていて、喉を通ってくれないのだ。

 

 食堂では、エキドナが淡々と「メィリィの捜索打ち切り」を提案していた。

 

 それにエミリアが「そんなのダメよ!」と反発し、ベアトリスが食ってかかり、ユリウスが重い口を開いてアナスタシアの身体とエキドナの秘密を明かしていく。

 

 オドの消費と削られていく命。

 肉体の借り物。

 いずれ返さなければならない肉体。

 

(外身だけ借りてて……中身が違う……)

 

 その言葉の一つ一つが、鋭い針になってスバルの胸を刺す。

 

 それはアナスタシアとエキドナの話のはずなのに、まるで自分のことを言われているみたいだった。『ナツキ・スバル』の身体に収まっている、中身が空っぽな俺。そして、その奥底に潜んでいる、おぞましい怪物。

 

「スバルも、それでいいかしら?」

 

「え? あ、ああ……いいと思う。その方が、メィリィだって浮かばれるっていうか……俺たちが立ち止まるのを望んでないと思うし……いや、なんで俺に意見聞くんだよ?」

 

「だって、スバルはメィリィの本──死者の書を読んだでしょう? あのあとのスバルの様子を見てたら……メィリィのこと、一番気にしてるのはスバルだと思ったから」

 

「──弔ってやりたいとは思ってる。でも、メィリィだって俺たちがここで立ち止まることを望んじゃいないはずだ」

 

 白々しい。

 

 吐き気がするほど、ペラペラと嘘が出てくる。

 

 自分を守るためだけに必死で絞り出したその言葉を聞いても、誰一人として俺の言葉に混ざる腐臭に気づかない。ただ、頭の中のメィリィだけが、お腹を抱えて笑っていた。

 

『うっわ、大役者ねえ、お兄さん! ()()()口が上手いんだからあ!』

 

 スバルは何も言い返せず、ただ粉っぽくなったパンを、機械みたいに噛み砕き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜。

 

 監視塔全体が、不気味な静寂に包まれていた。

 

 石造りの壁の奥から、ときおり「ギギ……」と重い軋み音が聞こえてくる。まるで、この塔全体が巨大な生き物で、闇の中で静かに息をしているみたいだ。

 

 スバルはそっと目を開けた。

 

 もちろん、一秒だって眠れてなんかいない。隣で眠るベアトリスの警戒が緩むのを、寝息のふりをしながらじっと待っていたのだ。

 

『メィリィも足踏みなんて望んでない、かあ。くすくす、本当にいい度胸してるわあ』

 

(……黙れよ)

 

『怒らないでよお。皮肉じゃなくて、本当に感心してるんだからあ』

 

 脳内に直接響く、メィリィの声。

 

 あの本を読んでから、この幻聴は一向に消えてくれない。俺の頭がおかしくなったのか、それともメィリィという少女の残留思念みたいなものが、俺の中に居座ってしまったのか。

 

『ねえ、今夜はあの青い髪のお姉さんの首は絞めに行かないの?』

 

(行くわけねぇだろ……ふざけんな……)

 

 部屋の隅のベッドには、横たわったまま動かないレムがいる。

 

 彼女の穏やかな寝顔を見ても、今のスバルの胸は驚くほど冷めていた。その感情のなさが、逆に怖かった。

 

「今はまだあの子の番じゃない……」

 

 ぼそりと漏れた自分の声があまりに冷酷で、自分で自分に引いた。

 

 ふと視線を感じて横を見ると、闇の中でパトラッシュの黄色い瞳がじっとこちらを射抜いていた。スバルは唇に指を当てて、「しーっ」とジェスチャーを作る。

 

「……すぐ戻る」

 

 口の動きだけで伝えると、パトラッシュは静かに目を閉じた。

 

『ねえ、わたしの死体、お掃除しに行くんでしょお?』

 

(……後味が悪いから、確認しに行くだけだ)

 

『ふふ、悪いお兄さん。自分の保身のためなのにぃ』

 

「……黙れ」

 

 スバルは足音を完全に殺して、部屋を滑り出た。

 

 夜の廊下は寒いくらいに冷え込んでいる。死体を隠したあの小部屋へのルートは、嫌になるくらい身体が覚えていた。角を曲がった瞬間、通路の先をふわりと白い影が横切ったように見えた。続いて、鳥の羽音らしきものが耳を掠めたが、今のスバルにそれを確かめる余裕はない。

 

 冷たい石扉の前に立ち、ゆっくりと押し開ける。

 

 部屋の中は、昼間と何も変わっていない。殺風景な石床、打ち捨てられた調度品、そして中央に転がる巨大な石塊。

 

 あの石の裏に、メィリィの冷たくなった身体が隠してあるはずだ。

 

「……ごめん」

 

 声にならない呟きを漏らしながら、スバルは石塊の裏側へ回り込んだ。

 

 そして──絶句した。

 

「──は?」

 

 そこには、何もなかった。

 

 血の跡も、服の切れ端も、あの小さくて冷たい身体も。

 

「な、なんで……? ここに、絶対……」

 

 隠したはずだ。

 

 間違いなく、この手で引きずって、この石の裏に押し込んだんだ。冷え切った彼女の額に触れて、心の中で謝り倒した記憶がはっきりとある。

 

 なのに、影も形もない。

 

『あらあ?』

 

 頭の奥で、メィリィが呑気に首を傾げる気配がした。

 

『わたし、どこに行っちゃったのかしらあ?』

 

「やめろ……冗談だろ……」

 

 膝ががたがたと震え出す。

 

 部屋中を必死で探した。石塊の周り、壁の窪み、部屋の隅っこ。だけど、どこをどう探してもメィリィの死体なんて見当たらない。

 

 誰かが運んだ?

 誰かがこの部屋で起きたことを知っていて、死体を回収したってことか?

 そして、俺が今夜ここに戻ってくることまで計算して──。

 

「──こんな夜更けにこそこそと、探し物でもしているの、バルス」

 

「──っ!?」

 

 背後から突き刺さる、氷のように冷たい声音。

 

 心臓が止まるかと思った。

 

 錆びついた機械みたいに首を巡らせると、部屋の入り口に、桃色の髪を揺らしたラムが立っていた。

 

 薄紅の瞳。その奥には怒りすらなく、ただ研ぎ澄まされた確信だけが宿っている。

 

「あ、いや……これは……」

 

 言い訳を探せ。

 

 トイレに行こうとしたとか、迷子になったとか、眠れなくて散歩してたとか。

 何でもいいから、言うべきだろう。

 

 だけど、喉が固まって声が出ない。ラムは一歩も動かず、逃げ場を失ったスバルを冷酷に見下ろしていた。

 

「それとも、偽物と呼ぶべきかしら。バルスの──ナツキ・スバルの出来損ない」

 

 その言葉が叩きつけられた瞬間、スバルの頭の中で溜まりに溜まった破滅の泡が一斉に弾け飛んだ。

 

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