傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
──だからこそ、その幕引きを邪魔するわけにはいかないんだ。邪魔させるわけにはいかないんだ。私は。
「テレシア──ッ!!」
おじいちゃんの魂の絶叫。
愛し、焦がれ、呪い続けた先代『剣聖』を、その手できちんと終わらせてあげるための猛攻。
あと、もう少し。
あとほんの数分で、あの『剣狂いのおにいちゃん』が命を懸けて手を伸ばしたお伽話は、一つの終わりを迎えるだろう。私の長年の戦闘勘が告げていた。
屋根の上で身を乗り出し、その歴史的瞬間にゾクゾクと身震いした、まさにその刹那だった。
バタバタバタバタと、通りの端の路地から、泥を跳ね上げる不躾な足音が響く。
吸血鬼の優れた聴覚が、その無粋極まりない男の接近を、ヴィルヘルム本人よりも早く捉えてしまった。いいや、捉えることができた。
「──あーあ。本当にお邪魔虫だ。分不相応な傲慢だよねぇ」
お預けを食らわされた子供のように、私の胸の奥で、どす黒いイライラと激怒が急速に膨れ上がっていく。
最高の劇に泥を塗ろうとするその無粋な男──ハインケル・アストレアが戦場へ躍り出ようとしたその背後へと、私は認識阻害のローブをパタパタと揺らしながら、音もなく自由落下した。
「ん? がっ──」
ハインケルが情けない声を上げる暇すら与えない。
後ろから彼の太い首根っこをガシッと鷲掴みにすると、吸血鬼の常軌を逸した怪力任せに、ヴィルヘルムたちの神聖な舞台から遠く離れた隣の区画の路地裏へと、その体を文字通り投げ飛ばした。
「ぶ、はっ!? がはっ……あ、頭があァッ!?」
建物の石壁に激しく叩きつけられ、ゴミのように地面を転がったハインケルは、何が起きたのかも分からず、恐怖と焦燥に顔を歪ませる。だが、彼が五体を痛みに震わせながら顔を上げた時には、すでに私は彼の眼前に先回りして、冷ややかに見下ろしていた。
「な、なんだお前はァッ! 賊か!? 大罪司教どもの配下かァッ!」
アストレアの名に縋るようなプライドと、生身の凡人ゆえの狂いそうな恐怖。それらを誤魔化すように、ハインケルは死に物狂いで腰の騎士剣を抜き放った。
「おお────!!」
王国近衛騎士団副団長という肩書きだけはある、凡人の全力。恐怖を打ち消すように吠えながら踏み込んできた彼は、両手で握った騎士剣を大きく上段に振りかぶり、自らの体重のすべてを乗せて、目の前の灰色の人影に向けて凶悪な一閃を振り下ろした。
まともな人間が喰らえば一撃で両断されるだけの鋭さと重さはあった──けれど。
私の網膜が捉える世界の中で、彼の剣筋は、あまりにも遅く、あまりにも止まって見えた。
私はレーヴァテインを抜きすらしない。
正面から白刃取りをするような退屈な真似もしない。
自分の真横を通り過ぎていく白刃の軌道に対し、私はすっと右腕を伸ばすと、手首を直角に、九十度カチリと上へ曲げてみせた。
そして、ハインケルの奔る剣身の背後から、その平らな剣身を、親指と人差し指の二本だけで、チッ、と虫を捕まえるように挟み込んだ。
「──ひ?」
ハインケルの口から、間抜けな裏返った声が漏れる。
男がどれだけ顔を真っ赤にして腕に力を込めようとも、己の全体重をかけて強引に引き抜こうと五体を震わせようとも、少女の指先に後ろからしっかりと捕らえられた騎士剣は、空間に溶接されたかのように一ミリたりとも微動だにしない。
あまりにも不条理な絶対の力。目の前の
「あ、ああ、嘘だろ? ありえねえだろうが!?」
「……鈍い、弱い、未熟」
手首を九十度曲げたまま、私は窓の外を見る子供のように冷徹な、無感動な熱の完全に引いた瞳で、ハインケルを見据えた。
無拍子でハインケルの手首をつかみ、へし折る。たまらずハインケルは剣を放し、悲鳴を上げてうずくまった。
「があっ……! い、痛え……ク、クソ」
完全に武器を失い、へし折られた衝撃にハインケルは恐怖に顔を歪めながら這這う這うの体でガチガチと歯を鳴らし、必死に後ずさった。彼の絶望した目が、ここからでは遠い、現在広場で繰り広げられている戦いの主役──自分の父親と母親の背中を捉える。
自らの無力さに押し潰されそうになりながら、ハインケルはその戦いへ助けを求めようと、その喉を大きく鳴らして叫ぼうとするが……。
「お、おや────」
「そんなものは、男ではないよ。おじさん」
彼が両親の名を呼び、神聖な逢瀬に無粋な叫び声を届かせるよりも早く、私の身体はすでに動いていた。ハインケルの首筋へと、私は容赦なく吸血鬼の強烈な手刀を叩き込んだ。
「あがっ──」
ハインケルは白目を剥き、今度こそ無様に地面へと崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。
やれやれ、と小さく溜息をついたその時、私の足元で、不自然に羽を揺らす気配があった。
転がったハインケルのすぐ側。首を奇妙な角度に傾げながら、赤い小さな瞳でじっとこちらを見つめている、一羽の不気味な白鳩。
「……君も、本当にお邪魔虫だよね。パンドラ」
私はイライラを隠さない笑みを浮かべ、しゃがみ込むと、鳩の小さな頭を指先でチクチクと不躾に突き回した。
虚飾の魔女パンドラの使役鳩。彼女はこのハインケルという駒を戦場に滑り込ませ、その『虚飾』の権能で、この美しいお伽話の幕引きを裏から書き換えようとしていたのか、いないのか。わからないけれど、彼女の行いはたいていの場合は野暮なのだ。
「これ、私の大好きな恋愛冒険譚のクライマックスなんだからさ。君の無粋な書き換えなんて、絶対に中に入れさせないよ?」
指先に、ほんの少しだけ権能の気配をピキッと灯す。
鳩を通してこちらを覗き込んでいるであろう『虚飾』の本尊へ向けて、私は魔女としての威嚇を突きつけた。
「次やったら、今度こそキュッとしてドカーンだからね」
ゾクりとするような瘴気の奔流に怯えたのか、白鳩は激しく羽ばたき、夜闇の奥へと逃げるように飛び去っていった。パンドラの視線が完全にシャットアウトされたのを確認し、私は再び、一番街の大きな水門制御塔へと続く通り──特等席の屋根の上へと跳んだ。
再び膝を抱えて特等席に腰下ろす。胸の奥を占めていたドス黒いイライラは、綺麗に整え直された舞台を前にして、一瞬で純粋な高揚感へと塗り替えられていった。
あらかじめ
眼下に広がる戦場は、いまや世界のすべてを置き去りにして、ただ三振りの鋼の手応えだけが支配する。
爆発的な剣圧が夜の空気を巻き込み、猛烈な突風となって通りを吹き抜ける。すぐ側を流れる運河の水面は、叩きつけられる衝撃波によって激しく不規則に爆ぜていた。雲一つない夜空から降り注ぐ冷徹な月光は、白髪の老剣鬼と赤髪の死神の輪郭をあまりにも鮮烈に、それゆえに酷く残酷なまでに浮き上がらせている。
ガガガガガガッ! と空間を埋め尽くす鋼の咆哮。途切れることなく爆ぜ続ける火花は、夜の闇をオレンジ色の血で汚していくようだ。吸うたびに喉が焼け、吐くたびに生臭い血の味がせり上がるおじいちゃんの肺は、きっととっくに悲鳴を上げている。肉体の限界なんて、とうの昔に踏み越えているはずなのに。その双剣は時間を重ねるほどにむしろ鋭さを増し、見惚れるような光の軌跡を描いて冴え渡っていた。
月の位置、二人の呼吸、剣の軌道。すべてが素晴らしい。完璧だ。これ以上ないほどに、極上の劇がそこにある。
──そして、私の胸を激しく焦がすのは、あの時の気迫の面影。
四十年前のあの夜、己の無力さに荒れ狂いながらも世界に噛み付こうとしていた、あのヴィルおにいちゃんの狂気じみた熱量。
あの時、私は傷だらけで血を吐いていた彼に、すっと熱の引いた言葉を告げたはずだ。
道を極めた者が辿り着く場所は、いつも同じなんだよ、と。
時代が変わろうとも、そこに至るまでの道のりが違おうとも、必ず、みんな同じ場所に行き着くの。
あの時の言葉は、私にとってはあっちの世界の遠い記憶と、四百年を生きてきた魔女としての、ただの退屈しのぎの『お話』に過ぎなかった。世界の理不尽に噛み付こうとする哀れな人間への、ちょっとしたおまけの賛辞のつもりだったんだ。
だけど、おじいちゃんは、ヴィルヘルムは違った。彼はあの言葉を、呪いのように自身の魂に突き立て続け、本当に信じて、『剣鬼恋歌』として結実した。そして愛する妻の仇討ちのためただ一途に刃を研ぎ続けてきたんだ。
いま、私のお気に入りの特等席から見えるおじいちゃんの双剣は、まさにあの時の宣誓通り、彼が自らの足で一歩ずつ泥をすすりながら歩み、辿り着いてみせた約束の境地そのものだった。
「ヴィルおにいちゃん。ビターエンド、メリーバッドエンドかもしれないけどさ」
さっきのハインケルみたいに、ただアストレアの血筋や肩書きという不相応な傲慢に縋り、溺れるだけの未熟者とはワケが違う。加護なんていう世界のオモチャに頼ることなく、ただ一途な人間の意地だけで到達した、至高の美しさ。
自分で蒔いた種が──蒔いた、なんて言ってしまったら失礼か。せいぜい肥料を注いだくらい──四十年の時を経て、こんなにもおぞましく、こんなにも綺麗な愛の華を咲かせたのだ。その事実に、私の背筋を甘美な鳥肌が駆け抜けていく。魔女としての底なしの愉悦と、一人の観客としての観客としての尽きない名残惜しさが混ざり合い、胸の奥が狂おしいほどに跳ねてしまう。
世界のシステムが与えた『剣聖の加護』なんていう出来レースを、ただの人間の執念が、再び完全に凌駕していく。
「うんうん、これでよし。おじいちゃん、いっけー!」
満足げに劇の続きを見守ろうとした、まさにその刹那だった。
──世界が、音を立ててひっくり返る。
都市全体の空気が、一瞬にして鉛のように重く、常軌を逸したプレッシャーへと変貌する。ううん、それは錯覚。私の直観が、肌が、背筋が感じたこの世界最上位の脅威、それがこちらに向かっている。
この400年間、これほどの悪寒は数度しか味わったことがない。私の優れた本能が、冷や汗が流れるほどの、最悪の危険信号を察知してゾクッと総毛立った。
何かが、来る。
ハインケルの異変か、あるいは『剣聖の加護』のシステム的な異変を察知したのか、戦闘音に導かれたのか。
夜空の向こうから、どんな存在でも平伏させるような、神罰めいた質量を伴った『何か』が、超高速でこちらへ向かって跳んできている。
「パンドラが腹いせにやった……わけじゃ、ないっぽいか」
当代『剣聖』、ラインハルト・ヴァン・アストレア。
「……あ、は。あはははは!」
久方ぶりに味わう、本物の化け物の気配。
背筋を駆け上がる圧倒的な戦慄を置き去りにして、私の胸の奥で、魔女としての『傲慢』と底なしの高揚感が一気に点火した。退くなんて選択肢は、私の辞書には最初から存在しない。
「楽しいねえ……ッ! あはは、最ッ高だよ!!」
私は屋根の上から夜空へと跳び上がりながら、手元で『忌剣レーヴァテイン』を最大出力で解放した。
傲慢の魔女の膨大なマナを際限なく吸い上げ、刀身から噴き出したのはあのヴィルおにいちゃんがかつて斬ってみせた火炎など遥かに超越する、プリステラの夜空を真っ赤に焼き尽くさんばかりの、凶悪で禍々しい焔の暴風。
上空から全てを蹂躙するように降臨する、当代最強の剣聖。
それに向けて、私は最大出力の焔の刃を限界まで振り上げ、真っ正面から迎撃すべく激突した──。