傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
剣と剣がぶつかる音、建物が崩れる音、誰かと誰かが話す声。
水門都市プリステラで行われる戦闘は隣の路地裏で転がっていた近衛騎士団副団長──ハインケル・アストレアの意識を、徐ろに覚醒させた。
「……う、あ……が、はっ……っ!?」
割れるように痛む頭を片手で押さえ、泥水を跳ね上げながら路地裏から這い出てきたハインケル。彼が物陰から覗き見たのは、両腕と片足を切り落とされた金の髪と赤の眼を持つ少女を、実の息子であるラインハルトが冷徹に見下ろし、捕縛しようと歩み寄る光景だった。
あまりに一方的で、あまりに無慈悲な、絶対強者による蹂躙に。ハインケルはその凄惨な現実を成したのが
──まさに、その瞬間の出来事だった。
何の前触れもなく、視界の真ん中でラインハルトの上半身が、血飛沫と共に跡形もなく爆裂した。
「ひ……え……? なん……あ?」
ハインケルの両眼が捉えたのはこの世の終わりめいた絶望の光景だった。
真っ赤な血溜まり。そこに、ぽつんと取り残された、実の息子であるラインハルトの白の近衛騎士団制服をまとった下半身。
腰から上が跡形もなく木っ端微塵に消し飛んだその肉体は生の気配を失い、ドサリと無残に石畳へと倒れ込んでいく。
「あ、ああ……あ、あああぁぁぁッ!! ラインハルト!? 嘘だ、嘘だろォォッ!!」
現実を脳が拒絶し、ハインケルは自身の頭髪を死に物狂いで掻きむしった。鼻水と涙が顔中に溢れ、喉を狂ったように鳴らしながら、その場に膝をついてガタガタと震え出す。狂乱の極みに達した彼の精神は、ここにはいない、昏睡状態のまま十数年の時が流れている最愛の妻の顔を想起していた。
「ありえない……ありえないだろうが!! そんな馬鹿な……色欲だろ? なあ嘘だろ……ルアンナ……っ、ルアンナ、ごめん……っ! 俺が、俺が無能なせいで……ッ! 許してくれ、許してくれルアンナぁぁーッ!!」
身内の名を呼び、狂態を晒して許しを請う男の絶叫。
両腕を失い、右腿から下を綺麗に断裂された状態で地面に転がっていた私は、そんなハインケルの醜態を、酷く冷めきった、無感動な瞳で見つめていた。
「──『パキン』。……『パキン』」
私の肉体にまとわりついていた『死神の加護』の不条理な因果──癒えぬ傷という概念を、口内での噛み砕きによって力任せに破壊していく。
阻害要因をへし折るたびに、じゅうう、と熱い音を立てて両腕の肉が、右足の骨が、悍ましい速度で盛り上がり、超再生していく。激痛が全身を苛んでいたけれど、そんなもの、私の胸の奥を占める格別の満足感に比べればただの心地よいおまけに過ぎなかった。
世界最強は死んだ。劇のノイズは消え去った。
あとは、ヴィルヘルムとテレシアのエンドを見届けるだけ──。
──だが、世界はどこまでも理不尽で、神様はお気に入りの玩具を絶対に手放さない。
過去に類を見ない大金星に歓喜する暇すら、私には与えられなかった。
「……っ!?」
倒れたラインハルトの下半身、そして石畳を汚していたおびたただしい鮮血。それらから突如として、夜の闇を真昼の白光へと強制的に変貌させるほどの、神々しい熾光の奔流が溢れ出したのだ。
ハラハラと、夜空から幻視のように美しい、燃える不死鳥の羽が舞い散るエフェクト。
数時間前、この都市で繰り広げられていた『強欲』の大罪司教レグルス・コルニアスとの戦いにおいて、ラインハルトは一度、自動蘇生の加護を消費していたはずだった。パンドラが私に無意味に過ぎる嘘を吐くとは思えない。
加護者は普通、二度同じ加護を授かることはない。観測した『不死鳥の加護』持ちはすべて、皆例外なく一度蘇り、それでも二度蘇ることはなかった。不死鳥の加護が
しかしながらいま目の前で発動しているこの不条理は、紛れもなくオド・ラグナが彼を死なせないためにラインハルトに与えた自動蘇生の加護──『不死鳥の加護』。
その光のシャワーの真ん中で、失われたはずの上半身が、肉の繊維が、衣服の繊維すらもが瞬時に編み上げられていく。肉体の欠損も、私が刻んだ傷跡も、精神の疲労すらもすべてを完全にリセットして、当代『剣聖』は何事もなかったかのように光のなかから立ち上がった。
そのあまりの衝撃に、内心致命的なタイムロスになるとわかっていても。
絶句したまま数秒間思考が固まってしまうのを避けられなかった。
「あ……はあ? っ、うわあああああぁぁぁッ!!」
先ほどまで息子の死に絶望していたはずのハインケルは、安堵と恐怖が入り混じった奇怪な相貌を見せる。奇跡の光景に今度は底知れない恐怖で顔を真っ青にして激しく尻餅をついた。石畳を這いずり、向けられるラインハルトの濁りのない視線から逃れるように頭を抱えて叫び散らす。
「化け物……っ! お前、なんなんだよお前はァ! 死にすらしないのか!? 生き返れるのか!? なら、ならどうしてあの時、ルアンナを、お前の……なんでなんだ」
どんな絶望的な戦況でも、愉悦の笑みを崩そうとしなかった私の顔から、完全に笑顔が消え失せる。
「……嘘、でしょ? 死んだじゃん、いま。完璧に、『目』を殺したのに……っ!」
全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、心底からの仰天と戦慄が私の体を縛り付けた。
一度完全に殺した化け物が、傷一つない完璧な状態で目の前に佇んでいる。その圧倒的な絶望感に、私の乾いた喉が小さく鳴った。
「……あは。ルールを破ったら、そのままゲームのシステムごと書き換えてコンティニューできちゃう人間がいるなんてね。本当に、本当にろくでもない世界だよ……っ!」
唇を噛み締め、緩みかけた心に薪をくべる。
「表層じゃダメ……オドを壊さないといけないってわけ?」
絶望に呑まれかけながらも、四百年を生き抜いた百戦錬磨の経験と本能が、私の肉体を強制的に駆動させた。生え揃ったばかりの左手を真正面へと突き出し、身体の『目』の奥、オド──魂の『目』を握りつぶそうと権能を起動する。
けれど──この日二度目の死を経験し血を流したことで、ラインハルト・ヴァン・アストレアの出力は先ほどまでとは文字通り次元が違っていた。
「──『流血の加護』」
ラインハルトの薄い唇から、ぽつりと冷徹な言葉が漏れ出た、まさにその刹那だった。
視界からラインハルトが消失する。
私が左手を握り込むよりも、思考がニューロンを伝達するよりも早く、ラインハルトの超神速が世界を置き去りにした。彼は『龍剣レイド』の鞘を、ただ無造作に、しかし一撃で都市を壊滅させるほどの圧倒的な威力をもって、私の胴体へと叩き込んできた。
ドガァァァァァァンッ!!
「が、はっ……あ、ぶ……っ!?」
大砲の直撃を受けたかのように、私の身体は一番街の石畳を何十メートルも削りながら吹き飛んだ。内臓が破裂し、胃液と血反吐が混ざり合ったものを豪快にぶちまけながら、激しく地面を転がる。
えずき、視界を血に染めながらも、死に物狂いでレーヴァテインを掴んで立ち上がる──しかし、そこからはただの『蹂躙』だった。
「悪いけれど、君に遠慮はもうできない。痛めつけさせてもらうよ」
出力を上げたラインハルトの暴威の前には、レイドの剣の模倣すら意味を為さない。防戦一方どころか、彼の鋭い手刀が奔るたびに、私の手首が、足が、腕が、生生しい肉飛沫を上げて次々と宙を舞った。口で『目』を壊して治しても、手で『目』を壊して治しても、瞬時に四肢を削り取られる狂気的な、一方的な肉の削り合い。
このままでは、一分どころか十秒も持たずにすり潰される。
生存への本能と、傲慢の魔女としてのプライドが、私の魂への禁忌をこじ開けた。
「──舐めるな化け物ォッ! このまま終われるかッ!!」
肉体のオドに直接働きかけるシノビの秘術と、傲慢の権能の歪んだ合わせ技。存在の位相を力任せに四等分に引き裂いた、私の最大にして最後の切り札。
──『フォーオブアカインド』。
血煙の中から、全く同じ姿形をした四人の私が一斉に飛び出した。
それはシノビの分身ではない。完全に本体と同等の身体能力と耐久性を持った本物の四人のフランドール。破壊の権能を四分した内の三体と、権能こそ持たないがそれ以外は遜色のない一体。
「「「「あははははははははッ!!」」」」
四つの狂気的な笑い声が一番街にこだまする。
東、西、南、北。完全にラインハルトの包囲網を形成した四人の私は石畳にひびが入るほどの超跳躍で、四方向から同時に肉薄した。繰り出すのは、歴代の剣聖たちの頂点、初代剣聖レイドの至高の剣撃。四つの絶望的な直線が、ラインハルトという一つの中心に向けて、同時に、多角的に突き立てられる。
「また分身かい? ……いや、これは、全員本物なのか……?!」
ラインハルトには、分裂や増殖といった都合の良い加護は存在しない。
しかし、世界最強の『武』は、動揺も、多角的な同時奇襲すらも力任せに両断した。
「──はっ!」
ラインハルトは龍剣の鞘を無造作に円状に薙ぎ払い、凄まじいマナの衝撃波で正面の二体を強引に弾き飛ばす。さらに、空いた左手の手刀でもって、背後から肉薄した私の右腕を、横から迫った分身の左足を、人間の領域をとうに置き去りにした超人的な反応速度で正確に、冷徹に切り飛ばしていった。
四対一の凄惨極まりない乱舞。
権能を持つ個体がラインハルトの四肢の『目』を狙って片手を握り込もうとすれば、ラインハルトはその指向性を野生の直感で見抜き、即座に死角から別の個体を投げ飛ばして射線を遮らせる。『目』の引き寄せに失敗する隙に、私の肉体が肉飛沫を上げて消し飛ぶ。その血煙を裂いて、権能を持たない一体が剥き出しの殺意で彼の喉元へと『忌剣レーヴァテイン』の刃を滑り込ませる。
だが、どれほど手数を増やそうとも、波状攻撃を仕掛けようとも、ラインハルトの『流血の加護』が乗った身体能力は、時間が経つほどにむしろ手が付けられないほどに加速していく。
龍剣の鞘による打撃、あるいは鋭い手刀。ラインハルトの一振りが奔るたびに、私の個体が一つ、また一つと肉塊に変えられてすり潰されていく。……分割したオドと権能が分身が壊れるたびに戻ってくるのを感じる。『フォーオブアカインド』の欠点として、オドが分割されている関係上、この身にかけられた不死の呪いもまた分割される。その呪いの効力も単純に四分割されるのでなく、単純な再生速度では十分の一程度にまで下がってしまう。そのため、四肢を割かれた時点でオドを戻さなければならなかった。
「ぎ、ぃあ……ぐ……」
オドが戻ってくる衝撃と、魂にまで鈍痛が響く。
本体の身体も骨を砕かれ、内臓を潰されているが、体がぼろぼろになるのは慣れていた。鈍る身体とは対照的に、私の冷徹な戦術眼だけは濁流のような思考の底で計算を終えていた。
ボロボロになり、最後に残ったオリジナル個体である私が、意地だけでステップを踏み、遮二無二に自身の位置をスライドさせる。ラインハルトの遠く右後ろ、地面に座り込んでガタガタと震えているハインケルを照準に。
「剣聖のあなたは見捨てられないでしょ?!」
「ひっ、あ、あああ……っ!」
私は生え変わったばかりの手でレーヴァテインを握り締め、その刀身の残光を極限まで練り上げた。切っ先から放つのは、炎の最上位魔法──
突如として自分に向けられたレーヴァテインの凶悪な残光に、ハインケルは死の恐怖で顔を歪ませ、無様に絶叫した。
「ラインハルト! 助けろ! 俺を見捨てる気か! お前が最強なら、早くその化け物を殺せ!!」
──『アル・ゴーア』
一番街の通りを丸ごと飲み込むほどの猛烈な劫火が、ハインケルの肉体を完全に巻き込む軌道で、爆音と共に解き放たれる。
ラインハルトの澄んだ青い瞳が、その炎の海が実の父親を灰に帰す未来を写し出していた。
どれほど目の前の魔女を即座に制圧したくとも、騎士の中の騎士である彼には、それを無視することは絶対にできない。
「──っ!」
ラインハルトはフランへの攻撃の手を一瞬で緩め、驚異的な踏み込みで直線上へと割り込むと、その頑強な身を楯にしてハインケルを庇わざるを得なくなった。
ハインケルを片腕で背後に庇いながら、ラインハルトは迫り来る『アル・ゴーア』の猛烈な焔を、龍剣の鞘の一振りで無造作に吹き飛ばしてみせた。爆風のなか、一歩も退くことなく、正確に私の退路を塞ぎながら、冷徹なまでの完璧さでこちらを追い詰めてくる。
「キュッとして────ゴフッ」
どれほど知略を尽くしても。
どれほど傲慢な権能で、一度はその命を確かに奪い去っても。
世界そのものに愛され守られている最強のバグには、一介の魔女の意地など決して届かない。
「『矢当ての加護』──授かった」
お腹を見下ろすと、石畳の破片が突き刺さっていた。あの一瞬で、ハインケルを庇いながら蹴り上げたのか。
骨を砕かれ、全身から血反吐を吐き散らしながら地面に膝をつく。完璧に傲慢をへし折られた魔女の口から、悲痛で悍ましい呪詛の叫びが漏れ出した。
「お願いだから、もう死んでよ……っ! 君みたいな化け物、生まれてこなければよかったんだ……っ!! 君がそこにいるだけで、この世界のルールが、全部めちゃくちゃになっちゃうじゃないか、ラインハルト──!!」
それは世界の理不尽そのものに対する、一人の観客としての、魔女としての、魂の底からの絶望の叫びであった。
満身創痍の私の身体は、もはや限界を迎えていた。最低限動けるよう再生するため『死神の加護』を破壊するも、超再生は間に合わない。ラインハルトの容赦のない手刀が私の喉元へと迫る──。
万事休す。敗北を確信しかけたまさにその瞬間だった。
──キィィィン。
背後の一番街の広場から、夜の静寂を、プリステラの空気を震わせて、あまりにも澄んだ鋼の激突音が鳴り響いた。
それは、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアが、自身の四十年の人生のすべてを懸けて研ぎ澄ませてきた、先代『剣聖』テレシア・ヴァン・アストレアへ引導を渡すための、約束の一振り。
「……っ、あ」
私の優れた吸血鬼の聴覚が、広場の様子を克明に聞き届けていた。
呪縛から解放され、最愛の夫の腕のなかで、静かに
息子に母を斬らせるという最悪の悲劇を回避し、老剣鬼がその意地だけで最愛の妻に終幕を届けたのだ。
完璧なハッピーエンド。後味の悪いビターエンドなんかじゃない。英雄譚の幕は、これ以上ないほどに美しく下ろされた。
その事実を理解した瞬間、満身創痍で崩れ落ちかけていた私の目から、ボロボロと大きな涙が零れ落ちた。
それは魔女としての極上の愉悦の涙であり、一人の観客としての感動の涙。そして、あの四十年前の夜に出会った傷だらけのヴィルおにいちゃんが、ついにその長い旅路の本懐を果たしたことへの、純粋な祝福の感涙だった。
「ッ……!?」
剣聖の手刀の勢いが僅か鈍り、かろうじて中空からレーヴァテインを割り込ませることに成功する。
受け身も取ることもままならず、プリステラの石畳をただただ転がっていく。
それでも、私は笑っていた。
「──あは。劇は、終わり。私の、勝ちだ」
目的を完遂した私は、認識阻害のローブもとっくに破れ散った血まみれの体で、最後の力を振り絞って傲慢の権能を発動させた。眼球と臓腑がキュッと締め付けられるような感覚に陥る。これほどの無茶をしたのはいつ以来だろう。
それでも。無茶をする価値はある。
狙うはラインハルトの肉体ではない。私たちが対峙している、この空間のすべて──。
大気から、酸素そのものを力任せに破壊し、圧殺する。
一瞬にして作り出された、完全なる
どれほど加護の恩寵やけた外れの身体能力があろうとも、呼吸すべき空気そのものが消失するという初めての不意打ちに、ラインハルトは対応しきれず肉体は拒絶反応を起こした。顔をこわばらせ、口元を抑えるのが見えた。さらに、背後にいるハインケルを急激な窒息から庇うため、彼はその歩みを止め、一歩、二歩と大きく後退せざるを得なくなる。
その隙を見逃さず、私は夜闇の中へと煙のように逃走を図った。
本来のラインハルトのスペックであれば、どれほど無酸素空間を作られようとも、一足で逃げるフランの速度を凌駕し、確実にその身柄を捕縛できていたはずだった。
だが──逃げ去る直前、ラインハルトの網膜に、鮮烈に焼き付いてしまったものがあった。
血まみれになり、四肢をボロボロに崩壊させながらも、まるで一人の無垢な少女のようにただ純粋な涙を流し、心の底から他人の幸せを祝福するように笑っていた、フランの姿。
そして、走りながらフランの口元から零れ落ちた、最後の呟き。
「……ヴィルおにいちゃん。……よかった、ね……っ」
悪逆非道の大罪司教か、あるいは世界を脅かす邪悪な魔女として彼女を処理しようとしていたラインハルトの精神に、そのあまりにも純粋な子供の涙と祖父への祝福が、特大の精神的ノイズとして突き刺さる。
彼の高潔すぎる人間性と優しさが、その絶対の最適解の行動のなかに、ほんのわずかに、コンマ数秒だけ足が止まるという致命的なラグを生み出してしまった。
「──っ」
ラインハルトが我に返り、逃走するフランの背に向けて跳躍し鋭く振り抜いた手刀の一撃。
しかし、その一瞬の躊躇いの代償は、鋭く奔った刃の軌道をわずかに狂わせ──夜闇へ消えていく私の片手を鮮やかに切り落とすだけに留まった。
それでもなお、ラインハルトは止まらない。偶然がフランの身を救ったが、二度目は微笑まない。
きしむ魂を奮い立たせて辛うじて傲慢の権能が発動する。狙いは付けられず、いったいどこの『目』を握りつぶしたのかもわからない。
ラインハルトの右肩から血飛沫が舞い、激痛が走る。だが、ラインハルトの身体能力はそれすらも前提として、即座に次の恐るべき追撃に移ろうと地を蹴る体勢に入る。逃げ切れない。
詰み。
そう、理解した刹那──。
私は、近くの民家の屋根にぽつんと止まり、こちらを覗き込んでいた不自然な一羽の鳩へ、血まみれの視線を向けた。
「……ドラちゃん!」
この呼びかけに応じるように。
空間の隙間から鳩の愛らしい喉を震わせて、鈴を転がすような少女の甘い吐息が、嬉々として、狂おしいほどの恍惚を孕んで街頭に染み渡った。
『──ええ、もちろんです。なんと喜ばしいのでしょうか、フランドール。あなたが私を頼って、その可愛い口元で私を求めてくださるなんて。──あなたの望むままに、世界を書き換えましょう』
四百年来の付き合いとなる、最悪の腐れ縁。私は単なる厄介な変質者だと思っているが、向こうの歪んだ距離感はいつだって私の理解を置き去りにする。
かつて、私が彼女の『虚飾』を真っ向から破壊し、その因果の書き換えを力任せにねじ伏せたあの日。あの魔女は怒るどころか、子供のように頬を染めて、うっとりと恍惚に満ちた笑顔を私に向けたのだ。
『まあ、素敵。あなただけは私を嘘にしない。本当に綺麗だったころの私を、そのまま憶えて、愛してくださる──ねえ、私たちは現世でただ一人の、対等な親友ですよね?』
他の大罪司教たちを都合の良い捨て駒としか見ていないくせに、私にだけは事あるごとに一方的なクソデカ感情を向け、拒絶されてもなお愛おしそうに付き纏ってくる。だからこそ、今回のように私が頼ってあげた瞬間、彼女は文字通り最高潮の喜びを以て、世界を書き変えにやってくるのだ。
このように。
「『ラインハルトはフランダースを斬ることができない。亜獣を相手しなくてはならない』のだから」
白金の魔女──『虚飾の権能』。
「な──」
ラインハルトの青い瞳が、この夜で何度目かの驚愕に大きく見開かれる。
彼が次の一歩を踏み出すはずだった一番街の石畳。そこに、いるはずのなかった狂暴な複数体の『亜獣』が、最初からそこに存在して牙を剥いていたという事象として、突如として出現し、彼の進路を力任せに塞いだのだ。
当代『剣聖』にとって、そんな権能の産物など、手刀の一振り、あるいは鞘の風圧だけで瞬殺できるただの肉塊に過ぎない。実際、ラインハルトは波状攻撃を仕掛けてきた亜獣たちを瞬く間に肉塊へと変えて屠ってみせた。
だが、最強の剣聖を以てしても、その亜獣の大群をすり潰すために数秒の時間を稼がれることは回避できなかった。
そのわずかな、されど絶対的な数秒の猶予。
ギリギリ発動した『傲慢の権能』で『死神の加護』を破壊し、即座に撤退する。
「あはは! バイバイ、お利口な剣聖様!!」
これ以上の追撃の可能性を完全に断ち切り、私はプリステラの深い夜闇の奥へと、今度こそ煙のように鮮やかに撤退し、完全なる逃亡を遂げたのだった。
ボタボタと、石畳に残された夥しい血痕だけが、そこに魔女がいた証明だった。
「ごほっ、がはっ……っ、はぁ、はぁ……!」
急激な窒息から解放され、魔女の血溜まりの上で地面を這いながら激しく咳き込むハインケルが、怒りと惨めさを爆発させて息子の背中に向けて吠え散らした。
「なぜ逃がした……! 剣聖、お前が本気を出せば、あんな小娘、すぐに殺せたはずだろう! なぜ俺を巻き込んだ! お前が完璧じゃないなら、俺たちは何のために……っ!」
あとに残されたのは、戦いが終わり、静まり返った一番街の通り。
遠くの広場で最愛の妻を看取り、その遺灰に涙を流す老剣鬼の気配。
そして、自らの手刀を見つめたまま、届かなかった少女の涙の意味を思って静かに立ち尽くす、当代『剣聖』の姿だけだった。
「情けない、顔……」
ゆっくりと持ち上げた瞼の先に、涙で酷く歪んだ夫の顔が映った。
すっかり白一色に染まった髪も、刻まれた深い皺も、歳月を経てなおひどく格好良く見えるのは、きっと妻の欲目に違いない。
見間違えるはずもなかった。世界でたった一人の、私の愛しい夫だ。あの別れの夜から、かなりの時間が過ぎてしまっているようではあるけれど。
「────」
そっと、掠れた吐息を漏らす。
少し離れた場所から、不器用な息子と、優しすぎる孫の気配が微かに伝わってくる。アストレアの男たちが総出で、自分の最期を迎えに、あるいは見送りにきてくれたのかもしれない。誰も彼も、本当に心の温かい、優しい子たちだ。
「テレシア、私は……」
皺の刻まれた顔をさらにくしゃくしゃにして、ヴィルヘルムが声を詰まらせている。
かつて世界に名を馳せた『剣鬼』の威厳も凛々しさも、一体どこへ置き忘れてきてしまったのか。でも、思い返せばこの人は、私の前ではいつもこうして、脆くて愛おしい部分を隠せない人だった。
「ね、ヴィルヘルム……」
自分の口から出た声はひどく掠れていたが、妙に若々しい響きを帯びていた。
もうすっかりお婆ちゃんになってしまったはずなのに、まるで、あの廃墟の広場で初めて恋に落ちた時のようになってしまう自分が、少しだけ面映ゆい。
「────」
初めて恋をした頃の感覚に、胸の奥がこそばゆくなる。
残された時間はもうほとんどないというのに、ただ見つめ合うだけに時間を浪費してしまった。
でも、それでもいい。
テレシアから伝えるべき心のすべては、もう十分に手渡した。ヴィルヘルムもそれは分かってくれているはずだ。だからこそ、今この瞬間に時間と、機会と、言葉を必要としているのは、彼の方。
テレシアは静かに、その言葉を待てばいい。待たせはするけれど、必ず期待には応えてくれる。そういう不器用な男だから、ヴィルヘルム・トリアスは。そんな愛おしい夫だから、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアは。
「お前に、言わなくてはならないことが……ある」
「────」
「わ、私は口下手で……自分の考えも、相手にうまく伝えきれず、お前にも苦労を……だから二十年以上も、お前に一度も……不安にさせたかもしれん。だが、私は……」
「──馬鹿な人」
上手に言葉を紡げないまま、どうにか想いを形にしようとする不器用な姿を見ていて、堪えきれなくなった。
愛しさが込み上げて、笑ってしまう。本当にこの男は、何を言っているのだろう。
「本当に、気付いていなかったの?」
今にも泣き出しそうな顔で、懸命に心を砕こうとする彼の頬に手を伸ばす。
ひどく体は重く、もう力なんてほとんど残っていなかったけれど、残された命のすべてを指先に注ぎ込んで、その頬を伝う涙をそっと拭った。
「あなたはずっと、言ってくれていたわ」
「────」
隠していたつもりだったのだろうか。言葉にしていないだけで、隠し通せているつもりだったのだろうか。
「あなたの目が、あなたの声が、あなたの態度が、あなたの行いが、ずっと」
テレシアに、ヴィルヘルムの向けるそのすべてが、この人の心を何よりもはっきりと伝えてくれていて──。
「私は、お前を──」
「あなたは、私を──」
だから、それだけで十分だったのに。
「──愛してる」
お互いの魂が完全に溶け合った、至上の瞬間。
ほんのちょっと、欲が出ちゃったのかも。
崩れかけ、光る灰となって夜空に消えゆくテレシアの唇が、最期の、本当に最期の、ヴィルヘルムへの甘いワガママを形にして紡いだ。
「……ねえ、ヴィルヘルム。最初から最後まで、きっと私は恵まれた人生だったわ。仲のいい兄弟がいて、親身になってくれる同性の友人がいて、たくさんの人たちに助けられて、あなたと出会って。……きっと色々、まだまだ問題はあるけれど、それはきっと、あなたたちなら大丈夫だって信じているから。……でもね、実は一つだけ。最後に一つだけ、あなたに聞けなくて心残りなことがあったの」
「……何、だ。何でも言ってくれ、テレシア。私は、お前の言葉なら……っ」
消えゆく妻の体を死に物狂いで抱きしめながら、ヴィルヘルムが涙ながらに乞う。
テレシアは愛おしい夫の胸の中で、少女のような悪戯っぽい笑みを浮かべて、囁いた。
「──実は一目惚れだったんですなんて知ったら、あなたはどのぐらい驚いてくれますか?」
「ッ……!?」
その思いがけない愛の告白に、ヴィルヘルムは涙に濡れた目を大きく見開いた。
約四十年前、あの廃墟の花畑で出会ったあの時。自分がただ一方的に恋い焦がれ、見とれていたものだと思い込んでいた、あの始まり。照れ隠しに剣気をぶつけてしまった若かりし頃の自分。恋心に、蓋をしてしまった自分。それが、彼女にとっても最初から同じ『運命の一目惚れ』であったのだと、最期の瞬間に。
「お前、が……私に、最初から……?」
ヴィルヘルムは驚きに声を震わせ、しかしすぐに、どうしようもないほどの愛おしさと切なさに胸を締め付けられた。ボロボロと溢れ落ちる涙を拭うこともせず、最初からこれ以上ないほど相思相愛だった幸福の重みを噛み締めるように、彼は彼女の体をさらに強く、優しく抱きしめ返した。
「驚いた、とも……! 驚きすぎて、今すぐ四十年前の自分を殴りに行きたいくらいだ。……ああ、本当に、私はどこまでも愚かで、救えない男だな、テレシア」
「ふふ、やっぱり。……驚いて、くれた……」
愛しい夫の驚いた顔と、泣き笑いのような優しい抱擁に心から満足したように、テレシアははにかんだ。
そして先代『剣聖』の優しい魂は、最愛の夫の腕の中で静謐に夜風の中に溶けて消えていったのだった。
web版 第五章73 『テレシア・ヴァン・アストレア』 より
書籍版 20巻第五章 『テレシア・ヴァン・アストレア』