歩くような速さで、一緒に歩いていきたいから


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 ・FGO二次創作小説です
 ・Fate知識にわかです
 ・二部終章本来の結末と異なる描写、設定があります






取り戻した日常を、君と

 

 

 京都の朝は、どこか水の底に似ている。

 

 夜の気配をまだ薄く残した空気は冷たく、街全体が静かに呼吸しているようだった。遠くで聞こえる車の走行音も、鳥の囀りも、どこか霞の向こう側から届いてくるように柔らかい。

 障子越しに差し込む朝日が、旅館風のホテルの室内を淡く照らしていた。

 

 藤丸立香は、ゆっくりと意識を浮上させた。

 

 最初に感じたのは温もりだった。

 全身を包み込むような柔らかさと、甘い香り。呼吸をするたび、花蜜にも似た香気が肺を満たしていく。

 

 そして、身動きが取れない。

 ぼんやりした頭のまま視線を下ろそうとして、顔が動かないことに気づく。

 自分が何に抱き込まれているのか理解した瞬間、立香は小さく息を呑んだ。

 

 柔らかな胸元に顔が埋まっている。

 細い腕が顔の後ろと背中へ回され、逃げ道を完全に塞がれていた。

 

 絹のようになめらかな肌が頬へ触れている。寝間着がはだけ、肌の柔らかな感触が現実感を奪ってくる。

 

 「……テノチ……」

 

 掠れた声で名前を呼ぶ。

 すると頭上から、くすぐるような笑みを含んだ声が落ちてきた。

 

 「おはようございます、私のトラマカスキ」

 

 耳に触れる吐息が熱い。

 顔を上げようとするが、抱きしめられているせいで動かせない。何とか目線だけを上げ、目を合わせる。

 テノチティトランはすでに起きていた。漆黒の双眸を細めながらこちらを見下ろしている。

 

 薄い朝日に照らされたその姿は、どこか幻想じみていた。

 

 長い黒髪がシーツの上へ流れ落ち、寝間着越しでも隠しきれない身体の曲線は、むしろ薄布によって強調されていた。

 神として崇められていた時代があったという事実を、無意識のうちに納得させる美貌。

 朝日を受けた彼女は、人間離れした美しさをさらに際立たせていた。神秘という言葉がそのまま形になったような存在。

 

 その“人外の美”とも言える表情をくしゃりと崩し、笑顔を見せる。

 肌よりも柔らかく優しい表情。彼女が心から幸福を噛み締めている事が伝わってくる。

 

 胸の中に自分を閉じ込めていることが、どうしようもなく嬉しいのだと隠そうともしない顔だった。

 

 「……起きてたなら、離してよ」

 「嫌です」

 

 返事は即答だった。

 

 しかも、その瞬間に抱き締める腕に力が籠もる。

 胸元へ更に引き寄せられ、視界が再び柔らかな谷間に埋もれた。

 

 彼女はその様子を見て、満足そうに目を細める。

 抱きしめられている間に、窓の外では京都の朝がゆっくりと色づき始めていた。

 

 古い瓦屋根に朝日が差し込み、細い路地を柔らかな光が満たしていく。

 

 穏やかな時間だった。

 戦いも使命もない。

 ただ好きな人と共にいるだけの朝。

 

 そんな当たり前を、自分はようやく掴むことができたのだと今さらのように思う。

 

 「ふふ。顔が赤いですよ。トラマカスキ」

 「……君のせいだからね」

 「好きな人を甘やかして何が悪いのです?」

 

 軽い抗議のつもりだったけれど、さらりと言われて言葉に詰まる。

 こういうところが、本当にずるい。

 真正面から隠さずに好意を向けてくるから、こちらの調子が狂ってしまう。

 

 テノチは髪を指先で梳きながら、楽しそうに目を細めた。

 彼女の瞳が、朝日を受けた水面みたいに揺れる。

 

 その温かさに、抱擁に身を委ねながら、朝の微睡みを享受した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白紙化した地球は救われた。

 

 7つの異聞帯を超え、彼らの思いと対峙し、受け止め、……受け止めきれずに吐き出してしまった事もあった。

 血反吐を吐きながら、枯れかけた涙を流しながら、それでも前に進み続けた。

 

 最後の獣を打ち倒し、戻ってきた青空を見た瞬間の感情は、この先一生忘れることはないだろう。

 

 長かった戦いが終わったのだと実感した時に押し寄せたのは、2つの想いだった。

 

 胸から溢れるばかりの達成感。

 そして、同じ程に大きな喪失感。

 

 カルデアという場所は、短い人生の中で間違いなく第二の故郷だった。

 笑いも、喜びも、苦しみも、悲しみも、希望も、絶望も、ありとあらゆる記録、記憶がそこにあった。

 

 だからこそ、『終わり』は思った以上に静かだった。

 戦いが終われば、英雄はそれぞれの座へ還る。当然のことだ。

 

 新所長やスタッフが名誉を手に入れ、栄転されることは自分事のように嬉しかったけれど、二度と同じメンバーで旅は出来ない事を表していた。 

 別れは避けられない。その事実が重くのしかかっていた。

 

 けれど、その中で一つだけ特例が認められた。

 

 日常に戻る際に、一人だけサーヴァントを受肉させ、同行できること。

 それは、皆が俺に残してくれたご褒美だったのかもしれない。

 

 たくさんの出会いと別れを繰り返してきた。

 誰一人欠くことが出来ないほど、思い出でいっぱいだった。

 

 ……それでも、その特例を通達された瞬間から、選択肢は決まっていたのかもしれない。

 何故なら、自然と一人の英霊が……いや、一人のかけがえのない異性の顔が浮かんだのだから。

 

 テノチティトラン。

 

 都市であり、神であり、自分の恋人。

 

 彼女よりも交流が長いサーヴァント、人間は大勢いた。

 むしろ、召喚時期からして全体で見ても彼女と触れ合った時間は少ない部類に入る。

 

 それでも、隣に彼女がいない生活が、未来が、どうしても想像できなかっただけ。

 テノチティトランに想いを伝え、泣いて喜ぶ顔を見ながらその手を取った日。

  

 

 

 (……その日が、ひどく懐かしく感じてしまうな。)

 

 まだ1年も経っていないのに。と苦笑する。

  

 朝食を終え、ホテルを出る頃には、京都の街はすっかり目を覚ましていた。

 桜舞い散る春の京都は観光客で賑わっている。

 

 石畳を歩く下駄の音。

 軒先に吊るされた暖簾。

 川沿いを吹き抜ける風の匂い。

 

 鴨川の水面は朝日を反射してきらきらと光り、水鳥がゆったりと泳ぎ水面を揺らす。

 幸いの晴れ模様で観光日和。雲一つ無い青空が、俺と彼女の足取りをより軽やかにする。

 

 ……足取り以外の部分も軽やかにする。

 

 「……テノチ」

 「はい、私のトラマカスキ」

 「近いって」

 「恋人なのですから当たり前です……ね」

 

 当然である、と言わんばかりの想い人のドヤ顔を見て、こっそりとため息を飲み込んだ。

 

 テノチは、当然のように俺の腕へ自身の腕を絡めて、身体をピッタリと密着させてきている。細く滑らかな指先が逃がすまいとでも言うように絡め取り、全身で寄りかかりながら歩いている。

 まどろっこしく書いたけど、つまり何が言いたいかと言うと……。

 

 柔らかい。

 

 寝起き時、嫌というほど顔で体感した柔らかな感触が、今度は腕に押し付けられている。

 朝の京都はまだ涼しいというのに、押し当てられた部分だけ妙に熱を持っている気がして、何とも言えずに彼女から視線を逸らした。

 

 その反応が気に入ったのか、更に密着してくる。

 完全に確信犯であり、愉快に感じているのか笑顔にはからかいの色が垣間見えていた。

 

 もちろん嫌ではない。むしろ、こうして甘えてくる彼女は可愛いと思う。

 

 けれど問題は、周囲の視線だった。

 すれ違う方向に歩く人々が、やたらこちらを見るのだ。

 

 修学旅行だろうか、中学生たちが何度も振り返る。

 若い男性が思わず足を止める。女性ですら、感嘆したように目を奪われていた。

 

 とはいえ、その理由は決して“密着して歩いているから”だけではない。むしろ、その理由は少数派だろう。

 

 単純に、純粋に、テノチティトランが美しすぎる。

 

 単なる美人という領域ではない。人目を引く、なんてレベルではない。

 視界へ入った瞬間、無意識に、強制的に認識を奪われるような美貌だった。

 

 異国的でありながら不思議と調和した顔立ち。

 艶やかな黒髪は陽光を受けて淡く輝き、歩く度に絹糸のように揺れる。

 白磁めいた肌には一点の曇りもなく、顔立ちは化粧や装飾など必要としていない。その美貌に匹敵するほどの、モデル顔負けな美しい身体の線。

 

 『人外の美』という言葉が相応しいだろうか。

 まるで神話から抜け出してきた存在が、そのまま現代の街を歩いているようだった。

 ……いや実際、そうなのだけど。

 

 毎日彼女と顔を合わせている自分でさえ、未だに慣れることができないのだ。

 始めてみた人の感情は、押して図るべしである。

 

 でも、本人はまるで気にしていない。

 気づいていないわけではない。ただ、興味が無いわけでもない。今は、それ以上に関心を惹かれる者に目が向いているだけだ。

 

 彼女は歩きながら、静かに目を細めた。

 

 「都市には川が必要です」

 

 ぽつりと呟く。

 

 「水は命ですから。人を集め、文化を育て、街を生かす」

 「日本は、素晴らしいです……ね。治水に関しては世界有数と謳われているのも頷けます」

 

 その声音には、かつて都市そのものであった頃の記憶が滲んでいるようで。

 立香はそんな彼女の横顔を見つめる。

 

 彼女はもう神でも、都市でもない。けれど、その視線の奥には確かに“都市”として生きていた時間が存在している。

 人々の祈りを受け、文明を抱え、何万もの命を内包していた存在。それは、受肉して人という存在になったとしても変わることのない、確かな過去。

 

 そのスケールの大きさを思うと、こうして腕を組んで歩いていることが時々信じられなくなる。

 

 するとテノチがふと視線を向けてきた。

 

 「どうしました?」

 「いや……綺麗だなって」

 

 一瞬、彼女は目を瞬かせた。それから、花が咲くように笑う。

 

 「はい。私は美しいですよ、トラマカスキ」

 

 茶目っ気を覗かせたその表情に、思わず吹き出してしまった。

 

 

 

 

 

 

 観光名所の一つ、伏見稲荷大社の千本鳥居は、まるで異界へ続く回廊のようだった。

 

 どこまでも続く朱色は、くぐっていく度に非日常への行先を進んでいるような錯覚を覚える。

 幾重にも連なる鳥居が山道を覆い、木漏れ日さえ赤く染めている。石畳の上へ落ちる影もまた朱色を帯び、現実と幻想の境界が曖昧になっていくようだった。

 

 しかし、途切れないざわめきが、怖さすら感じてしまう静寂を打ち消している。

 

 途切れることのない観光客の足音。

 日本語、外国語のざわめき。シャッター音。

 京都でも1,2を争う観光地なのだ。人があふれるのは必然だろう。

 

 その喧騒の中テノチは立ち止まり、道から少し外れた位置でゆっくりと周囲を見回した。

 

 瞳へ映る無数の朱。風が吹き抜け、鳥居の隙間から木々が揺れる音が聞こえる。

 

 「……不思議です」

 

 彼女は静かに呟いた。

 

 「私は神でした」

 「人々に祈られ、崇められ、恐れられていた」

 

 細い指先が、鳥居の柱へ触れる。その声音は、独白に近かった。

 

 「私は都市でした」

 「人々の生活の基盤となり……街そのものとして存在していた」

 

 朱塗りの木肌を確かめるように、ゆっくりと撫でていた。慈しむような仕草は、国こそ違えど同じく神であった存在を想うように優しかった。

 

 「ですが、この国の信仰は少し違います。何故なの……でしょうか?」

 

 彼女の隣へ並ぶ。鳥居を潜っていく人々の表情は穏やかだった。

 

 友人同士で笑いながら歩く学生がいれば、恋人と写真を撮る観光客もいる。

 そこには厳粛さだけではない、人の生活の延長としての信仰があった。

 

 「海外だと、神様ってもっと“上”にいる感じなんだと思う」

 

 付け焼き刃の知識だけどね、と鳥居の奥を見ながら言う。

 

 「絶対的で、人を裁いて、導く存在」

 

 天上に座し、人々を高みから導く神。キリスト教圏に多い価値観だったと記憶している。

 唯一にして絶対の神。運命を背負った神の子。その名は、キリスト教に疎い自分でも当然知っていると言えるほどに有名な存在だ。

 

 それに比べ、日本の神は曖昧だ。山にも、川にも、木にも風にも宿る。

 

 「八百万、ってよく言ったもんだね。日本って、神様がもっと近いんだよ。……上、じゃない。隣にいる感じかな」

 

 説明を聞いたテノチは目を細める。俺が発した言葉を理解し、その意味をより詳しく咀嚼するようにつぶやく。

 

 「隣……」

 

 「そ。怖い存在っていうより、ずっと身近にいる存在かな」

 

 風が吹く。

 

 鳥居の隙間から差し込む陽光が揺れ、色づいた影が二人の身体を撫でていった。

 

 彼女はしばらく何も言わなかった。ただ静かに、どこまでも続く朱の回廊を見つめている。

 その横顔は真剣で、まるで長い時間をかけて何かを理解しようとしているように見えた。

 

 やがて再び歩き出す。

 

 鳥居を潜る度、光と影が入れ替わる。朱色の世界の中を進んでいると、現実感が薄れていくようだった。

 

 時折、観光客がテノチへ視線を向ける。

 

 それも当然だった。朱の回廊の中に立つ彼女は、この世の存在とは思えないほど美しい。

 

 しかし当の本人は、ただ静かに自分の隣を歩き、この国の空気を感じ取っていた。

 

 伏見稲荷を下りる頃には、空は茜色へ染まり始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕暮れの京都は、昼とは違う顔を見せる。

 西日を受けた町家の壁は飴色に輝き、石畳には長い影が伸びている。

 

 観光客の喧騒も少し落ち着き、街全体が柔らかな静けさへ包まれていた。

 

 世界に誇る観光地、京都。

 金閣寺、清水寺、伏見稲荷大社をはじめとする観光名所。

 

 きっと明日以降も、海を超えて訪れた数多の観光客を魅了していくのだろう。

 

 自分たちも今後の予定はない。宿泊場所に向かう道を、ゆっくり歩く。

 

 彼女は相変わらず自分の腕へ身体を預けていた。

 けれど、朝よりもずっと静かだった。

 

 何かを考えている。言葉にせずとも、そのことが自然と伝わってきた。

 何も言わず、促さず。彼女が自分の意思で口を開いてくれることを待つ。

 

 10分ほど、そのまま歩いただろうか。やがて、静かな呟きが聞こえた。

 

 「神様は、人の隣にいる……」

 

 夕風が、黒と青で彩られた長髪を揺らす。

 

 「私は長い間、人々の上に立っていました」

 

 穏やかな声だった。だが、その響きには長い年月を生きた存在だけが持つ重みがあった。

 

 「都市として、人々を守り、支配し、繁栄を与える存在として」

 

 歩調はゆっくりだった。一歩一歩、言葉を噛み締めながら進むように。

 

 「祈られることは当然でした。崇められることも。畏れられることも」

 

 夕陽が、彼女の横顔を赤く染める。

 その姿は、今もなお人外じみて美しかった。

 

 都市神。

 

 かつて一つの文明そのものであった存在。

 人々の営みを見下ろし、支え、時には支配していた神性。

 けれど今、彼女はその神々しさを纏いながらも、どこか寂しそうだった。

 

 「ですが……今の私は違う。あの日には生まれてすらいなかった貴方に惹かれ、食事をして、眠って、同じ景色を見て……隣を歩いている」

 

 腕へ伝わる体温が、心なしかじんわりと上がる。 

 その声音には、微かな戸惑いが滲んでいた。

 神だった存在が、人として幸福を知っていくことへの戸惑い。

 

 けれど同時に、その全てを愛おしいと思っている感情もまた、確かに宿っている。

 

 自分は何も言わなかった。

 彼女の言葉を遮りたくなかった。

 

 今の彼女はきっと、『神』としてではなく『一人の人間』として、自分の想いを整理している。

 この整理は、人の手を借りずに一人でやり切るからこそ意味がある。

 

 長い睫毛を伏せ、漆黒の瞳をしずかに夕空に向ける。

 茜色へ染まった空が、その双眸に静かに映り込んでいた。

 

 「人は……限りがあるからこそ、一つ一つを大切にするのですね」

 

 そう呟いた彼女の表情は、どこか柔らかかった。

 かつて都市だった存在。永続に近い時間を生き、人々を見守ってきた神。そんな彼女が今、自分の隣で、人としての幸福を知ろうとしている。

 

 その事実が、立香の胸を熱くした。

 

 「私は、神でした」

 

 静かな声。

 

 「都市でした」

 

 続く言葉は、まるで過去を整理するようだった。

 

 「多くの人々に必要とされ、多くの命の上に在り続けていました」

 

 けれど、と。

 

 彼女は小さく息を吐く。

 

 「今の私は……それよりも」

 

 そこで言葉が止まる。

 

 少しだけ迷うように伏せられた睫毛。

 そして、ゆっくりと立ち止まった。

 

 優しい輝きを宿した瞳が、真っ直ぐに自分を見上げる。

 夕陽を映したその瞳には、かつて都市を統べていた神性の輝きと、一人の女性としての柔らかな熱が同時に宿っていた。

 

 「あなたの隣にいたい」

 

 それは、祈りにも似た声だった。

 

 「神としてではなく」

 

 夕風が吹く。

 遠くで風鈴の音が鳴った。

 

 「都市としてでもなく」

 

 黒髪が揺れる。

 細い指先が、服の袖を少しだけ掴んだ。

 

 「一人の人間として」

 

 はにかむ笑顔で告げられた言葉。その言葉を聞いて、彼女の微笑みを見て。

 

 (……綺麗だな)

 

 と思った。

 

 何の変哲もない感想。単純すぎる褒め言葉。

 でも、この感情を今後何回も、何十回も、何百回も抱くことになるんだろうなという確信があった。

 

 小さく笑い、返事を返す。

 一人の女性として隣に立つ彼女への、嘘偽りのない想いを。

 

 「これからも、一緒に歩いていこう。テノチティトラン」

 

 その瞬間。

 彼女は少しだけ目を細め、柔らかく微笑んだ。

 

 「はい――立香」

  

 名前で呼ばれる。

 

 たったそれだけで、心臓が強く跳ねた。

 いつもは“トラマカスキ”としか呼ばない彼女が、不意に名前を口にした。

 

 夕暮れの景色が、一瞬だけ遠くなる。熱を持った鼓動が、妙にはっきり聞こえた。

 そんな自分の反応を見て、彼女はどこか悪戯っぽく笑う。

 

 「ふふ。そんな顔をするのですね、私のトラマカスキ」

 

 「……誰のせいだと」

 

 からかうような声音なのに、そこには確かな愛情が滲んでいた。

 誤魔化すように視線を逸らすも、顔の熱は収まらない。熱くなった耳も、きっと隠せていない。

 

 京都の夕暮れは穏やかだった。

 

 人々が行き交う街の中を、君と一緒に歩いていく。

 

 神ではなく。

 英雄でもなく。

 

 ただ、一人の人間として。

 

 これから先の人生を、隣り合いながら生きていくために。

 

 

 

 


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