ぐだ男×ぐだ子
義理の兄妹設定
カルデアの夜には、音がない。
正確に言えば無音ではなくて、空調の低い唸りとか、遠くのサーバー室が規則正しく吐き出す電子音とか、そういうものはずっと鳴っている。
でもあれは、生き物の音じゃない。人の気配がしない音は、どれだけ重なっても夜の静寂さに覆われる。
私はベッドの中で、もう何度目かわからない寝返りを打った。
端末の時刻表示は、0時47分。
目を閉じるたびに思い出してしまうのは、昼間の砂漠へのレイシフト。
崩れかけた石壁。マシュが盾を構えるより一瞬だけ早く、敵の宝具の余波が掻い潜ってきた。あの時、彼が私の腕を掴んで、力任せに後ろへ引いた。
「立香ッ!」
……同じ名前だから、私を呼ぶ声はいつも、自分で自分を呼んでいるみたいに響く。
庇ってくれたのだと理解した時には、舞い上がった砂によって視界が見えなくなっていた。
結果として、誰も欠けなかった。マシュは無事だったし、彼だって頬に浅い擦り傷をひとつ作っただけだ。医務室でドクターに「かすり傷だね」と笑われて、本人も笑っていた。
なのに私は、あの一瞬のことばかり考えている。
腕を引かれ、その手が離れてしまった砂煙の向こうで、彼の背中が見えなくなった数秒間。
あのとき私は、たしかに世界の終わりを見た。人理焼却なんかよりずっと具体的で、私にだけ関係のある、小さな終わりを。
布団を頭までかぶってみる。だめだ。暗くしても意味がない。目を閉じても、瞼の裏で砂が舞う。
起き上がって、スリッパを履いた。
私はもう17で、人理を修復する任務を背負っている立場だ。だから『こんな』のは、良くない事だと自覚している。
……でも、止められない。こういう夜に、自分がどこへ行くのかを。3年前から、ずっと同じ場所だ。
カルデアの廊下は、夜になると照明が半分落ちる。足元だけを白く照らす非常灯の帯が、まっすぐ奥まで続いている。
スリッパの音を殺しながら歩く。角をふたつ曲がって、いくつ目かのドアの前で止まった。
プレートには、私の部屋のものと一文字も違わない名前が刻まれている。
『藤丸立香』
カルデアには、同じ名前の人間が二人いる。書類の上では〈藤丸立香(兄)〉と〈藤丸立香(妹)〉。管制室のオペレーターさんたちは最初の一週間、私たちを呼ぶたびに小さく混乱していた。
ダ・ヴィンチちゃんなんて面白がって、識別用のリストバンドを作ろうとしたくらいだ。
拳を上げて、二回。
迷いはしなかった。ノックは二回。それが昔から、私たちのあいだの合図だった。
返事より先に、ドアが開く。
「……立香?」
寝癖のついた髪のまま、目を擦りながら彼が顔を出す。パジャマ代わりのカルデア支給のシャツは、襟元がよれていた。
「起きてたの」
「ノックの音でわかる。二回だったし」
私が中に入り、背後でドアが自動的に閉まって、密閉音が小さく鳴る。外界の音が消える。誰の目も、誰の耳もない、四角い部屋。
その瞬間に、私の中の何かがほどけた。
「……お兄ちゃん」
声が、みっともないくらい情けなく震えた。
二人きりの時だけ呼び方。マシュの前でも、ダ・ヴィンチちゃんの前でも、サーヴァントたちの前でも、私は絶対にそう呼ばない。普段、彼のことは「立香」と呼んでいる。
でもドアが閉まった瞬間だけ、私は1人の妹に戻る。
「うん」
彼は困ったふうにも、嬉しそうにも見える顔で頷いて、ベッドの端に腰を下ろした。
「今日の、まだ引きずってる?」
図星すぎて答えられなかった。かわりに、こくんと頷く。
「わかった」
それだけだった。理由も、いつまでいるつもりかも、聞かれなかった。
……そういうところが、ずるいと思う。
私は、小さい頃からずっと父と二人で暮らしていた。
母のことは、正直あまり覚えていない。写真の中の顔と、たぶん記憶ではなく想像で作った、曖昧な手触りがあるだけだ。
父は、朝が早くて夜が遅い人だった。
私が起きる頃には、もう家にいない時がそこそこあった。テーブルの上にラップをかけた朝ごはんと、雑な字のメモが置いてある。「いってらっしゃい」「牛乳のむこと」「今日はちょっと遅い」。冷蔵庫にはいつも作り置きが入っていたし、洗濯物はいつのまにか畳まれていた。
男手一つで、私をここまで育ててくれた。参観日にはなるべく顔を出そうとして、遅刻してきて、教室の後ろで肩で息をしていた。運動会の日は、朝の三時に起きて弁当を作っていたらしい。私は寝ていて知らなかったけれど、後で近所のおばさんに聞いた。
だから私は父のことが大好きだし、尊敬もしている。それは今でも変わらない。
……同時に、私はいつからか、玄関の物音で目を覚ますようになった。
午後十一時。日付が変わることも珍しくなかった。ドアが開く音、鞄を置く音、椅子を引く音。それから、少しの間何もしない時間。父はたぶん、暗いリビングで少しのあいだ動けずにいたんだと思う。
その音を聞きながら、私は布団の中で目を閉じて、寝たふりをした。
だって、起きていったら気を遣わせる。学校で嫌なことがあったなんて言ったら、明日はもっと無理をして早く帰ってこようとする。私が熱を出せば仕事を休む。休めば、たぶんどこかで無理が返ってくる。
子どもの理屈で、私はそういう計算をするのが上手くなった。
いい子でいるのは簡単だった。何も要求しなければ、誰も困らない。
欲しいものは聞かれてから半分だけ言う。寂しい時はテレビの音を大きくする。眠れない夜は朝まで天井を見て、朝になったら普通に「おはよう」と言う。
そうやって私は、甘え方を知らないまま大きくなった。
知らないというよりは、覚えないようにしていたんだと思う。一度覚えてしまったら、我慢できなくなる気がして。
だから父が子連れの女性と再婚すると言い出したとき、私は少しも反対しなかった。
あの日、父はやたらと畏まって、まるで悪いことをした人みたいに切り出した。「立香に相談があるんだが」なんて、前置きに数分もかけて。
それを聞きながら私が思ったのは、この人がこんなに嬉しそうな顔をするのを久しぶりに見た、ということだった。
勿論賛成し、自分の事のように喜んだ。これは全部、紛れもない本心である。
……そして、初対面の日。リビングで向かい合って、彼が先に頭を下げた。
「はじめまして。藤丸……えっと、これから藤丸になる、立香です」
「……え」
私はたしか、何秒か固まっていたと思う。
「わたしも、立香なんだけど」
彼が顔を上げた。目が真ん丸になっていた。たぶん私も同じ顔をしていた。
名字が同じになるのは知っていた。でも下の名前まで同じになるとは、大人たちも直前まで気づいていなかったらしい。父も、新しい母も大笑いして、「じゃあ運命だな」なんて笑っていた。
最初の数か月は、正直ぎこちなかった。同じ屋根の下で暮らす他人、みたいな距離感で、廊下ですれ違うたびに二人して立ち止まってしまう。名前を呼ばれても、どっちが呼ばれたのかわからないから、二人同時に「はい」と返事をして、そのたびに気まずく笑った。
新しい母は優しい人で、父は前より少しだけ早く帰るようになった。家の中の音、笑い声がたくさん増えた。
それでも私は、相変わらずいい子だった。むしろ前より念入りに。せっかくうまく回り始めた家で、私が余計な波を立てるわけにはいかない。
その堤防が最初に崩れたのは引っ越して半年後の、嵐の夜だった。
父は日を跨いでの仕事、新しい母は法事で家を空けていて、夜の家には私と彼だけだった。
窓を叩く雨と、時々遠くで鳴る雷。私は昔から、あの音がだめだった。理由は自分でもよくわからない。ただ、光ってから音が来るまでの数秒の空白が、どうしても耐えられない。
布団の中で耳を塞いでいたら、ふっと部屋の明かりが落ちた。
停電だった。
真っ暗になった瞬間、私は考えるより先にベッドから飛び出していた。廊下に出て、そこで何かにぶつかった。
「うわっ」
「ひぁっ!?」
懐中電灯の光が、下から彼の顔を照らした。お化けみたいだったし、たぶん私の顔も同じくらいひどかった。
「……ブレーカー見に行こうと思って。そのついでに、その、様子見に行こうかとも、思って」
「……うん」
答えた声が、みっともなく裏返った。
そのとき、窓の外が白く光った。
一。二。三……
叩きつけるような音が家中を揺らして、私は思わずしゃがみ込みそうになった。膝が笑っている。恥ずかしい。この人の前では、ちゃんとした義理の妹でいたかったのに。
次の瞬間、そっと手を握られた。
彼の手のひらは、少し冷たくて、指が骨ばっていて、私のよりずっと大きかった。
「……こうしてれば、ちょっとマシ?」
彼は私の方を見ていなかった。懐中電灯の光を天井に向けたまま、妙にぶっきらぼうな声で言った。今思えば、あれは照れ隠しだったんだと思う。
私は、返事ができなかった。かわりに、手を握り返した。
それが全部の始まりだった。
結局ブレーカーは直らなくて、私たちは廊下に座り込んだまま、朝まで手を繋いで話した。学校のこと、親たちのこと、名前がややこしいこと。雷が鳴るたびに私の指に力が入って、そのたび彼は話を止めずに続けてくれた。
握り返した手は、朝日が差すまで、一度も離れなかった。
それから、私たちの距離は少しずつ壊れていった。
次に眠れなかった夜、私は自分から彼の部屋をノックした。何も言えずに立っていたら、彼は黙って床に座って、手を出した。それだけで済んだ。
しばらくして、繋いだ手だけでは足りなくなった。
肩が触れる距離に座るようになった。彼が本を読んでいる横で、袖を摘まむようになった。ある夜、話しているうちに眠くなって、気づいたら彼の肩に頭を預けていた。
そのたびに私は、心のどこかで自分に言い訳をしていた。今日だけ。これで最後。明日からはちゃんとする。
……限界が来たのは、彼と顔を合わせて1年くらい経った頃だ。
その夜も彼の部屋にいて、私は膝を抱えたまま、ずっと考えていたことを言ってしまった。
「ねえ。私、迷惑じゃない?」
「え?」
「頻繁にこんな時間に来て。眠れないとか、そんなの自分でどうにかするべきで。お父さんにも、そういうの、言ったことなかったし」
言いながら、声が震えるのがわかった。
「私、いい子でいた方が、みんな楽でしょ」
彼はしばらく黙っていた。それから、はっきり言った。
「迷惑って言われる方が困る」
「え」
「立香さ。俺の前でくらい、もっと図々しくていいよ」
……堤防が、決壊した。
私はその場で、みっともないくらい泣いた。何を泣いているのか自分でもわからないまま、しゃくり上げて、鼻をすすって、彼のシャツを掴んで、そのまま抱きついた。
彼は驚いていたけど、振りほどかなかった。ぎこちない手つきで、背中を撫でてくれた。
その夜、私は生まれて初めて、我慢しないで眠った。
そして……ここからが、たぶん私の悪いところなんだけど。
一度覚えてしまったら、本当に、止まらなかった。
翌週も、その次の週も、私は彼の部屋のドアを叩いた。理由が要らなくなるまで、そう時間はかからなかった。試験の前の夜。うまく笑えなかった日。なんとなく不安な日。何もない日。
いつのまにか、ルールみたいなものができていた。ノックは二回。2人きりのときだけ、お兄ちゃんと呼んでいい。
長年かけて覚えた我慢を、私は1年とちょっとで全部忘れた。
自覚はある。私はこの人に、依存している。
やめ方は、たぶんもう、知らない。
カルデアに来ることになったきっかけも、しょうもないものだった。
駅前の献血ルーム。無料でジュースが飲めてお菓子まで貰えるらしい、という話をどこかで聞きつけて、私が「行こう」と言い出したのだ。彼は呆れた顔をしながら、結局ついてきてくれた。
二人並んでベッドに横になって、天井を見ながら、どうでもいい話をした。お菓子もジュースも貰った帰り道、私たちは声をかけられた。
スーツ姿の職員が、妙に真剣な顔で「少しだけ、お話を聞かせてもらえませんか」と言った。マスター適性がどうとか、人類最後の砦がどうとか、そのときはまるでピンとこなかった。ただ、二人揃って呼ばれたことだけが妙に嬉しくて、私は彼の袖を引いて「行ってみようよ」と言った。
……だから、私たちがここにいるのは、たぶん私のせいだ。
あの日、私がジュース目当てで献血に行こうと言わなければ。彼だけは、普通の高校生のままでいられたかもしれない。
カルデアに来て、すべてが壊れたあの日の夜も、私は同じことをした。
管制室が吹き飛んで、たくさんの人がいなくなって初めてのレイシフトを終え、部屋で震えていた夜。私は毛布を引きずって彼の部屋まで歩いて、二回ノックした。
世界を救うため、幾度とない修羅場を潜り抜けてきた。それでもこの合図だけは、変えられなかった。
「……今日、私を庇ったでしょ」
ベッドに並んで座ったまま、ようやくそれだけ言えた。
「庇ったっていうか、近くにいたから引っぱっただけ」
「同じことだよ」
膝の上で握った手が、白くなっている。
「もし、もう少し運が悪かったら、お兄ちゃんがあそこで……」
言葉が続かなかった。喉の奥が詰まって、代わりに息だけが震える。
カルデアに来てから、私はたくさんの終わりを見てきた。炎に沈む都市、消えていくサーヴァント、名前も知らないまま失われた人たち。世界を救うというのは、そういうものを積み上げていくことなんだと、頭ではわかっている。
でも、お兄ちゃんだけは無理だ。
絶対に、無理だ。
その事実が、暗い部屋の中で急に手触りを持って、私の首を絞めてくる。だから眠れない。
「立香。おいで」
軽く広げられた腕に、私は迷わず飛び込んだ。
顔を胸元に押しつける。洗剤の匂いと、体温と、心臓の音。とん、とん、と規則正しく打つそれが、耳から入って全身に染みていく。
生きてる。ここにいる。
当たり前のことを確かめるだけで、目の奥が熱くなった。
「怖かった」
やっと言えた。
「うん」
「すごく、怖かった」
「うん」
お兄ちゃんは否定も、慰めも、大丈夫だよの一言もくれなかった。ただ、うん、と受け取ってくれる。それが何よりありがたかった。
背中に回された手が、ゆっくり上下する。子どもをあやすみたいな、雑で優しい撫で方。
それから、大きな手が私の頭にのった。髪をくしゃりと崩して、後頭部から首筋のあたりまで、何度も何度も撫でていく。
その一回ごとに、体の中に張り詰めていた糸が、一本ずつ切れて落ちていくのがわかった。
……と、同時に。
自分の心臓が、さっきよりずっと速くなっていることにも、気づいてしまう。
おかしな話だ。こんなに安心しているのに、脈だけが勝手に走っている。お兄ちゃんの鼓動を数えているつもりが、いつのまにか自分の鼓動の方がうるさくなっている。
理由なら知っている。一緒に寝るようになって少し経ったあたりから。
いつからだろう。『お兄ちゃん』以外の呼び方で彼を呼びたくなる瞬間がある。他の女性職員や女性サーヴァントと親しげに話しているのを見て、胸の奥がざらつく夜がある。この腕の中にいる意味を、妹という言葉では説明しきれないと、自分でわかっている。
でも――今それを口にしたら。
この合図も、この腕の中も、この温もりも、全部なくなってしまうかもしれない。
私はずるい。臆病で、欲深い。
頭や背中を撫でるだけじゃ足りない。もっと、もっと……ダメな所まで、触って、弄ってほしい。
庇ってくれて、迷惑をかけて、更にはダメな事まで望んでしまう、本当に酷い妹だ。だから、これ以上関係を進もうとするたびに足を止めてしまう。
妹として甘えて、妹として抱きついて、妹として眠る。それが今の私にできる、いちばん贅沢な嘘だ。
瞼が重い。さっきまであんなに冴えていた頭が、砂糖菓子みたいに溶けていく。ぎゅ、と両腕を彼の背中に回して、力を込めた。皺になるけど、許してほしい。
「お兄ちゃん……ずっと、一緒にいてね」
子どもみたいな、卑怯なお願いだ。マスターとしては失格の台詞だ。でも、お兄ちゃんはいつも私が望んでいるセリフを言ってくれる。
「勿論いるよ。おやすみ、立香」
頭を撫でる手は止まらない。優しいその声が、自分の名前で自分を包んでくれる。
私はもう、返事の形にならない声を出すのが精いっぱいで――抱きしめたまま、落ちるように眠った。
腕の中で、妹の呼吸が深く、規則正しいものに変わった。
俺はしばらく手を止めずに、その髪を撫で続けていた。
寝顔は、昼間の顔とはまるで違う。管制室で無茶な作戦を提案するときの目も、サーヴァントたちを笑わせるときの得意げな顔も、今はどこにもない。あるのはただ、俺の背中に腕を回したまま眠っている、ひとりの女の子だ。
この家に来た日のことを、たまに思い出す。
あのとき、この子は驚くほど手がかからなかった。荷ほどきも自分でやったし、飯の好き嫌いも言わなかったし、俺と母さんに気を遣って先に風呂を譲った。14歳が、だ。
最初はそれを、しっかりした子だな、くらいに思っていた。
間違いだと気づいたのは、停電した夜だ。
真っ暗な廊下で、光の中に転がり込んできたこの子は、膝が笑うほど怯えているくせに、笑ってごまかそうとしていた。迷惑をかけまいとする顔。あれは、慣れた顔だった。ずっとそうやってきた人間の顔だ。
だから手を掴んだ。深い考えなんてなかった。ただ、この手を離したら、この子はまた一人で朝まで天井を見るんだろうと思ったら、勝手に体が動いていた。
握り返してきた力が、思っていたよりずっと強かったのを覚えている。
……血は繋がっていない。三年と少し前まで、俺たちは赤の他人だった。名字も、それから偶然にも下の名前まで揃ってしまったけれど、それだけだ。
それでもあの夜、俺はこの子の兄になった。大事な妹だ。世界で一番、と言ってもいい。
だから、最近の自分が、いよいよ度し難い。
いつからだろう……こうして抱きつかれるたびに、俺の心には妹に向けてはいけない感情が湧き出るようになった。
シャツ越しに伝わる体温。首筋にかかる寝息の熱。腕の中に収まってしまう肩の細さ。撫でるたびに指の間を流れていく髪から、シャンプーの香りがすること。
妹だ、と頭の中で唱える。三年前からずっとかけがえのない妹だ。何ひとつ変わっていない。なのに、心臓が勝手に速くなる。
最悪だと思う。この子は俺のことを、安心して眠れる場所だと信じて、何の警戒もせずに全体重を預けている。それを利用するようなことは、口が裂けても、指一本ぶんですらしていない。していないが――考えてしまう時点で、もう同じことだ。
抱き返す腕の力加減を、毎回計算している自分にも嫌気が差す。強すぎれば怪しまれる。弱すぎればこの子が不安がる。撫でる手を止めるタイミングまで測っている。三年前は、そんなもの何ひとつ考えなかったのに。
一度だけ、距離を置こうとしたことがある。
ノックの音に気づかないふりをしようと決めて、目を閉じた。しかし5分後、静かに入ってきた。
立香は半分泣きそうな顔で立っていた。
その顔を見た瞬間に理解した。俺の抱えているものがどれだけ厄介でも、それを理由にこのドアを開けないのは絶対に違う。
十数年かけて、この子は我慢することばかり上手くなった。そんな子がやっと、たった一人にだけ、我慢しないでいられる場所を見つけた。
その場所を、俺の都合で壊すわけにはいかない。
……時々、この子の心拍が妙に速いことにも、気づいている。
安心して眠るはずの腕の中で、どうしてそんなに速いのか。都合のいい想像が頭をよぎって、そのたびに叩き潰す。寝ぼけた男の願望だ。妹がそんなことを考えているはずがない。考えていたとして、それを確かめる資格が俺にあるとは思えない。
だから、蓋をする。
この胸の内側は、朝が来るまでに全部しまっておく。明日になれば、俺はまた無害な兄の顔をして「おはよう」と言う。
同じ名前の人間が二人いるというのは、ときどき厄介で、たいていは笑い話で、そして今夜みたいな瞬間には、少しだけ都合がいい。この子の名前を呼ぶたび、自分自身に誓いを立てているような気分になるからだ。
やることは、初めて手を握った日から何ひとつ変わっていない。
雷の音からも、真っ暗な廊下からも。特異点の砂塵からも。人理を焼く炎からも。
守る。何があっても……この、どうしようもない俺自身からも。
腕の中の重みは、思っていたよりずっと軽くて、そのことに少し胸が痛んだ。
明日になれば、この子は微睡の中で「おはよう……お兄ちゃん」と言うのだろう。俺も笑顔で「おはよう」と返すのだろう。
それでいい。甘えん坊の妹の居場所を、誰からも奪わせない。
最後にもう一度だけ、寝癖のついた頭を撫でる。
「おやすみ、立香」
同じ名前を、そっと夜に落とす。腕の中にある確かな温もりを感じながら、俺も静かに目を閉じた。